MBTIと偉人達調査 科学者編 ~精神疾患、発達障害は創造性をもたらすのか?~

MBTI

はじめに

心理学者は以前から精神疾患、発達障害と創造性のつながりを研究してきました。
初期の基礎的な調査においては、文学者や画家を含む著名人が研究対象となり、こういった研究では創造的な人は気分障害の発症率が高いといった結果がなされてきています。
一方で、このように精神疾患と創造性を関連づける研究には、傑出した特定の人物だけを対象にしている、あるいは、証拠とされるのも過去の逸話にすぎないといった批判もあります。
本調査では、そういった偏見的な見方を改めながら偉人と精神疾患、発達障害との関連性について見て行きたいと思います。(対象は随時追加)

MBTI性格診断については

向精神薬、マインドフルネス、瞑想のはるか上をいくヒーリング力

悩み、ネガティブな気分を瞬時に無意識から変える
大うつ病克服経験から考案した
冥想・催眠技術を利用した自然治癒力発動型ヒーリング。
精神医療・心理療法を凌駕する大うつ病、パニック障害速攻解決技術

おすすめHSPタイプ(IPタイプ)

1位30% ISFP
2位15% ISFJ
3位15% INFP
大うつ病、不安障害になりやすいMBTIタイプ
  Janowsky,Hong & Morter,1998による研究報告
(%は大うつ病に対する比率)

物理学者

アイザック・ニュートン:INTJ 古典物理学の父 里子育ち、いじめられっこ、メランコリック 多才 正義感強い

  • 出身地:イギリス・ウールスソープ
  • 生年月日:1642年12月25日
  • 死亡年月日:1727年3月20日(享年84才)
  • 物理学者、政治家。光学理論、運動の第2・第3法則の発見、万有引力の法則や微積分法などを発見し、古典物理学の基礎を築いた。

1643年1月4日生まれ。
イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者。
父親は農民と貴族との間の位置づけの身分で、母は農家の娘。
ニュートンが生まれる前に父親は他界し未熟児として誕生した。あまりにひ弱に見え、周りには「すぐ亡くなるだろう」とすら思われていたが、84歳という長寿を全うする。
3歳のときに母は養育費を得るため近隣の牧師と再婚して、ニュートンは祖母に養育されることになったため、両親の愛情を知らない子となった。
自省的な生活を送り、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、いじめの対象となっていたが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信を持つようになったとされる。母の再婚相手が死去すると、母と再婚相手との間にできた3人の子どもとともに暮らすようになった。母は農家を継がせようとしたが、ニュートンは羊番をしながら本に読みふけるほどだったので農家向きではないと見抜き大学へ進学させた。
大学在学中にペストが流行したため大学は閉鎖。ペスト禍を逃れて故郷の田舎に戻り一人で考える時間ができた1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされた。
(万有引力の法則、光学、微積法など)生まれつきとても物静かで、繊細で、傷つきやすいメランコリックな性格。それでいてプライドはかなり高いので、ライプニッツやフックなどといったほかの同時代を代表する科学者たちとはもめることがあった。

後に下院議員に大学より選出され、政治活動に積極的にかかわってゆくようになる。
この頃、名誉革命が起こり、王党側が自分に都合の悪い人たちを大量に強引な裁判にかけ、罪をかぶせていたが、議員ニュートンはこの暴挙にしっかり反抗をつづけていた。やがて精神状態に変調をきたし、不眠や食欲減退も引き起こし、被害妄想にも悩まされ、2年ほど自宅に引きこもるような状態となったこともあった。精神的錯乱は水銀中毒の可能性も指摘されている。
造幣局長官となり、贋金(にせがね)作りの積極的な摘発、錬金術師、神学者となり預言研究にもはげんでいた。
研究や実験に超人的な集中力を発揮する反面、食事には無頓着で、我が強く気難しくて偏屈な一面もあった。愛猫家としても知られている。

二コラ・テスラ :INTJ 強迫観念、潔癖症、多才、神童

  • 出身地:オーストリア帝国(現クロアチア)
  • 生年月日:1856年7月10日
  • 死亡年月日:1943年1月7日(享年86歳)
  • 電気技師、発明家。交流電流システムラジオ、リモコンの生みの親。

1856年7月10日生まれ。
セルビア系アメリカ人の発明家、電気技師、機械技師。
「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。
5歳の頃に兄を失ったのをきっかけに幻覚症状、恐怖症が頻発。
「神童」と呼ばれた兄を超えるために勉学に励み、特に数学で突出した才能があったと伝わる。
また子供ながらに8か国語を習得。詩作や音楽、そして哲学的な才能も持ち合わせていた。

大学での勉強が物足りなくなり中退した後、いくつかの職場に属しながら画期的な送電方法の開発に向け研究し26歳で交流電源装置の原型の開発に成功すると、28歳のときに渡米。この新たな送電方法を世に広げるために、尊敬していたエジソンのいる会社に就職した。「直流電流」で動いていた工場内の機械類に、「交流電流」を取り入れてもらおうとしたが、自身の発明に誇りを持っていたエジソンは認めず対立。給料未払いなどもあり退社し確執を深めていく。
エジソンは交流の危険性を広めるためのキャンペーンとして有名な電気椅子処刑を発案するなど妨害している。
電磁波による送電装置や高周波兵器の開発に取り組んだことエキセントリックな性格などが理由だろうが、研究熱心で真面目な性格だったようだ。母国セルビアにはベオグラード・ニコラ・テスラ空港や、同国最大のニコラ・テスラ火力発電所があり、磁束密度の単位はテスラ、米国電気電子学会(IEEE)にはニコラ・テスラ賞がある。さらに二コラ・テスラは、少し現実離れした物の発明にも取り組み、霊界交信機器といったオカルト的なことや、「全世界的な無線送信システム」は、Wi-Fiの原型となった考えられている。
マッドサイエンティストと称されるほど天才肌の発明家で、おまけに長身で美男であったため女性から人気があったものの、生涯を通じて、幻覚以外にも潔癖症、強迫観念に囚われさまざまな精神障害に悩まされていたこともあって独身を通した。他人とかかわらず鳩を友人として過ごす中、ニューヨークのホテルで孤独死する。独自の細かなルールを幾つも持っており、その気難しさゆえに、せっかく得たパトロンとも良好な関係が築けず、たびたび資金面でも苦しむこととなり、亡くなったときは無一文も同然だったと言う。

トーマス・エジソン:ENTP ショートスリーパー、不登校、過集中、愛情を受け育つ、二コラいじめ

  • 出身地:アメリカ オハイオ州 ミラン
  • 生年月日:1847年2月11日
  • 死亡年月日:1931年10月18日(享年84歳)
  • 発明によって、世の中を便利で明るい社会にした人物。「発明王」

1847年2月11日生まれ
実業家、蓄音機,白熱電球,キネトスコープ(映写機)などを発明。
常識の枠にとらわれず、物事を柔軟に思考する実践派の研究者であり、
耳が不自由になったにもかかわらず、それに負けず、努力を積み重ね成功し
「努力の人」「非常な努力家」「不屈の人」
などとして知られている。

父サミュエルと母ナンシーの7番目の末っ子として誕生。
子供の頃は知りたがりで、「なぜ物は燃えるのか」を知りたくて、藁を燃やしていたら納屋を延焼させてしまうなど、教師から「腐れ脳ミソ」と罵倒され小学校入学から3ヶ月で放校処分となる。

大人たちにどうして?なぜ?と聞き回り、変わった子供という印象を持たれていた。
父サミュエルからも見放されたが、元教師であった母ナンシーがエジソンの個人教師となり、エジソンが理解するまで徹底的に教えた。

新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め、16歳の頃には電信技士として働くようになり、各地を放浪しつつも、自力で科学雑誌を読破して学び続けた。エジソンが後に「母が私の最大の理解者であった。母が居なければ私は発明家になっていなかっただろう」と語るほど、ナンシーはエジソンへの愛情を惜しみなく注いでいた。

エジソンは9歳にして需要と供給のバランスの大切さを学び、野菜の宅配ビジネスを成功させ、その後、列車の中での新聞売りの仕事に就いた。しかし、列車の最後部に造らせてもらった実験室で火災を起こし、新聞売りの仕事は首になった。さらに、実験をしながら電信の仕事をしていたエジソンは、仕事中も居眠りをすることが多く、それがばれてこの仕事も首になる。

株式市場に関わる会社に勤めていた22歳の時に、株式相場表示機「ティッカー」を発明し、この特許の売却益を元にして研究所と工場を設立。発明のための研究に関しては昼も夜も関係なく、時間を忘れて没頭し、睡眠時間も30分ほどの仮眠を1日数回、合計3時間ほどしか取らず、ほぼ24時間体制と言ってよいスケジュールで仕事を続けていた。
一つの物事に熱中すると、他のことは完全に忘れてしまうことが度々あった。
彼が考えごとをしていたとき、話しかけてきた妻のミナに「君は誰だ?」と質問し、ミナを怒らせたことがあったという。

エジソンはメモを取ることがあり、頭に閃いたことを、絵でも文字でもメモに書きこみ、生涯で3500冊ものノートを残している。

発電機、送電システム、強化セメント、ベニヤ板、ゴムの絶縁体、ハイウェイと現在も人々の暮らしに役に立つ数限りない発明をし、その功績はたぐいまれなものがあるが、改良発明も多く、盗作疑惑のあるものや、誹謗中傷を受けたものも多い。生涯に2度結婚しており、それぞれ3人ずつ6人の子をもうけている。
二コラ・テスラと同じく超自然的、オカルト的なものに魅せられていたという一面もあった。

ポール・ディラック:ISFP(INTP) 機能不全育ち 精神疾患なし 極度な寡黙 目立つの嫌い

  • 出身地:イギリスのブリストル
  • 生年月日:1902年8月8日 –
  • 死亡年月日: 1984年10月20日(享年82歳)
  • 量子力学及び量子電磁気学の分野で多くの貢献をした。

量子力学及び量子電磁気学の分野で多くの貢献をし、ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者。
1902年8月8日 、スイス移民の父、イギリス生まれの母との間に生まれる。
子供も含めて、それまでのスイス国籍からイギリス国籍に変更した。
フランス語教師であり暴君であった父は、彼とフランス語だけで話す規則をつくり、フランス語で話すことができなかった彼は非常に寡黙で謙虚になり父親に愛情を伝えられなかった。
母親は偏愛と過剰な干渉で、二歳上の兄フェリックスと四歳下の妹ベティーがいたが、フェリックスは自殺。家庭環境に問題があったようだ。飲酒喫煙の悪癖に染まらず、紅茶珈琲さえも滅多に口にせぬ小食家で、唯一散歩だけを楽しむ群れないマイペースで「空気が読めない人間」だったらしい。

ブリストル大学で電気工学や数学を学んだディラックは、1923年にケンブリッジ大学に移って射影幾何学を勉強を学ぶ。理論物理学研究所やゲッティンゲン大学を訪れ、そこでボーアやハイゼンベルクら、当時発展途上の量子力学の指導的研究者たちに会い、彼らの研究に加わった。1927年、ディラックはケンブリッジ大学の教授になり、1928年に電子の相対性理論を定式化し、それに、もとづいて正の電荷をもつ電子、つまり陽電子の存在を予言。この理論の与えた衝撃は大きく、ディラックの名は一躍知られるようになった。ノーベル賞受賞が決まった際には、有名になることを恐れて受賞の辞退を考えていたと伝わる。

アルベルト・アインシュタイン INTP いじめられっこ 学校嫌い 毒親 精神疾患なし 平和主義 女好き

  • 出身地:ドイツ ウルム市
  • 生年月日:1879年3月14日
  • 死亡年月日:1955年4月18日(享年 76歳)
  • ユダヤ人の物理学者。光量子仮説、ブラウン運動の理論、相対性理論など様々な理論を生み出した天才。

1879年3月14日 、ドイツ生まれの理論物理学者。
生まれたときは頭が大きく、奇形児なのではないかと思われ、子供にしては太すぎる、と祖母に小言を言われ続けた。
幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題がなかったが、言葉を出すのには非常にゆっくりで時間を要した。両親は、いつも一人で遊ぶ内気な子供で、彼の言語の発達が遅れていることを非常に心配し、医師に相談するほどだったという。
9歳になっても、適切な言葉を使って文章をつくることができなかった。
学校へいくようになっても、教師から「頭の回転がにぶく、非社交的で、何らのとりえもない」と言われたという。
大人になってからもアルファベットのスペルをよく間違えたり、「R」を生涯反対にしか書けなかったりというように、実際に何らかの言語障害を抱えていた。
一方で数学に関しては傑出した才能を示す。9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。

数学や物理など、関心の高い分野では好成績を残す一方で、言語や歴史などの分野ではテストでほとんど点数を取れず、チューリッヒ工科大学を受験した際も、苦手分野が足を引っ張り不合格になった。しかし、数学や物理の点数で一位を取っていたため、一年間ギムナジウムに通うことを条件に、翌年の入学許可が下りた。

大学時代は教授に反抗したり、興味のない分野では最低評価を取っていたため大学卒業後、教授の助手になることは叶わず、友人の父親に特許庁での仕事を紹介されるまでは、アルバイト生活をしながらなんとか論文を書き続けていた。彼が26歳の頃になって長年温め続けていた理論を、この年に次々と発表しその名を世に轟かせるようになった。

おとなしく、生真面目で几帳面な性格である一方、ファッションに興味がなく、すり切れたジャケットとスリッパで過ごし、常に靴を素足のまま履いていたという。また、非常に面倒くさがり屋で、洗濯石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭き、灰皿食事を盛りつけるということもあった。
下宿の近くのレストランで食べることもあったが、パン屋でりんごパイやぶどうパイの一片を買い、自分の部屋で済ませてしまうこともたびたびだった。

小食ではあったが、女性好きだったとも言われている。
1日10時間の長時間睡眠(ロングスリーパー)だったという。
記憶することは苦手だったようで、光速度の数値を答えられずに記者からツッこまれると
本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」
と答えた。
2度結婚しているが、最初の妻だったミレヴァとの間では家庭内暴力があったとされ、統合失調症を患った次男に対して非常に冷淡な態度を取り続けたことなどが離婚の原因とされている。

ニールス・ボーア ENFJ(INFJ?) 社交的な行動家 平和主義 東洋思想系統

  • 出身地:デンマーク
  • 生年月日:1885年10月7日
  • 死亡年月日:  1962年11月18日(77歳没)
  •  量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した「量子力学の父」。量子力学の解釈をめぐるアインシュタインとボーアの論争は有名。

前期量子論の展開を指導し、量子力学の確立に偉大な貢献をし、量子論の育ての親として知られる。
20世紀初頭における物理学の進歩に対して様々な貢献を成しとげ、量子力学の確立において、相対性理論の確立者アインシュタインと双璧を成すと称される。

父親はコペンハーゲン大学の生理学教授で、祖父は中学校の校長という名門学者家庭の長男として育てられた。弟のハラルドと仲がよく、子供の頃、家には父親の友人たちが集まっては最新の科学について議論を闘わせていた環境で育ったこともあり、自然に科学者としての道を歩み始めた。 その後、ニールスは物理学、ハラルドは数学の道へと向かうものの、けっして二人は学問一辺倒の人間ではなく、大学時代は二人ともサッカーの選手として大活躍しているスポーツマンだった。

コペンハーゲン大学に入学。イギリスへ留学してキャヴェンディッシュ研究所にてジョゼフ・ジョン・トムソン下で研究を行った後、マンチェスター大学のアーネスト・ラザフォードの元で原子模型の研究に着手。ラザフォードの原子模型の欠点をマックス・プランクの量子仮説を用いて解消しボーアの原子模型を確立した。コペンハーゲンにニールス・ボーア研究所を開き、外国から多くの物理学者を招いてコペンハーゲン学派を形成し原子物理学への貢献によりノーベル物理学賞を受賞した。

実験が苦手で実験室の機材を壊すことで有名だった。そのため彼は実験によって証明するのではなく、頭の中で実験を行う思考実験の達人だった。
また、一人でじっくり考えるタイプではなく、必ず誰かを自分の研究に巻き込む独特の研究のスタイルがあり、世界各地からやって来る研究者たちの意見を聞き、彼らと対話しながら理論の再検証を行い、時には助言を与え、時には論文として発表するよう促す、宗教における導師のような存在だった。
エルヴィン・シュレーディンガーが波動力学を発表したときには、コペンハーゲンに招きよせ、討論に疲弊して倒れたシュレーディンガーの病床で議論を続けるなど議論好きだった。

また、第二次大戦中に原子爆弾製造計画を知ると、その脅威をいちはやく覚り、その情報を東側(ソ連)にも公開しておくことが戦後の核競争を防ぐための好機であると考え、ただちに自分の考えを伝え説得しようと指導的政治家、米英の両首脳、ローズベルトとチャーチルにまで、臆することなく会いに行く行動力もあった。

1962年6月に脳溢血に倒れ、その後一時的に回復したものの同年11月18日故郷のコペンハーゲンで静かに息を引き取った。

後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。
「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」と語っている。

 湯川秀樹 INTPーINFJ 非常な無口 平和主義者

  • 出身地:東京都港区
  • 生年月日:明治40年1月23日生まれ
  • 死亡年月日:  1981年(昭和56年)9月8日(74歳没)
  •  原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言。日本人として初めてノーベル賞を受賞した。

地質学者・小川琢治と小雪の三男として生まれ、のちに湯川スミに入婿し湯川秀樹と改姓する。
1歳の時に一家は京都府京都市に移住し、人生の大半は京都で過ごす。
5、6歳の頃、祖父・小川 駒橘より漢籍の素読を習った。
中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」。また、物心ついてからほとんど口を利かず、面倒なことは全て「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていた。この無口さが理由で父から「何考えているのやらわからん」と疎んじられ、他の兄弟に比べて能力を低く見られ、大学進学は諦めさせて専門学校へでもやろうかと考えられていた時期もあった。

京都帝国大学理学部物理学科卒業後は研究室の副手、京都帝国大学講師となる。
日本数学物理学会年会が開催された時に大阪帝国大学の八木秀次と知り合い、八木に頼んで大阪帝国大学講師を兼担することになる。全く成果が出ない湯川に八木から「本来なら朝永君(朝永振一郎)に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」と叱責された。また、教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。

1934年(昭和9年)に中間子理論構想を、翌1935年(昭和10年)に「素粒子の相互作用について」を発表し、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言。量子論の開拓者ニールス・ボーアからも批判されたが、後にカール・デイヴィッド・アンダーソンが中間子によく似た重さの新粒子(「ミュー粒子」)を宇宙線から発見したことで、中間子論は世界的に注目されるようになった。セシル・パウエル等が実際にπ中間子を発見したことでノーベル賞受賞につながった。

戦時中は、日本の原爆開発に関与したことが確認されているが、戦後は反核運動にも積極的に携わり、ノーベル平和賞の候補者にも推薦されていた。京都大学退官後の1975年(昭和50年)に前立腺癌を発症し、手術を受けその後は自宅で療養を続けながら学術活動を行っていた。1981年急性肺炎から心不全を併発し自宅で死去する。

ルートヴィッヒ・ボルツマン INTJ ,INTP (ENTP?) 革新的理論派

  • 出身地:オーストリア・ウィーン
  • 生年月日:1844年2月20日-
  • 死亡年月日: 1906年9月5日(62歳没)
  • 統計力学の端緒を開いた功績のほか、電磁気学、熱力学、数学の研究で知られる。

ボルツマン(1844年)はオーストリア・ウィーン出身の物理学者。
統計力学の端緒を開いた功績のほか、電磁気学、熱力学、数学の研究で知られる。
幼いころ植物や昆虫に興味を持っており、特に蝶を集めることが好きだった。
父は税務官で裕福な家庭で、少年時代からピアノの手ほどきを受け生涯にわたりピアノ演奏を好んだ。
ベルリン大学のキルヒホッフとヘルムホルツを訪問してマックスウェルの電磁気学に関する議論と実験を行い、マックスウェルの気体運動論の成果を一般化してマックスウェル=ボルツマン分布を導出。1873年から76年にヴィーン大学数学教授を務めた後,1876年から90年はグラーツ大学一般および実験物理学教授として,もっとも生産的かつ幸福な時期を過ごす。1884年、ヨーゼフ・シュテファンが実験的に明らかにした黒体放射が温度の4乗に比例するという法則に、理論的な証明を与えた。(シュテファン=ボルツマンの法則)1885年から90年にかけては身内の不幸が続き,大学でも重責を担わされるなど,ボルツマンにとっては精神的な不調の続く重苦しい時期が続いた。
1894年にウィーン大学理論物理学教授、1900年にライプツィヒ大学教授、1902年に再びウィーン大学理論物理学教授の職に就く。
ジョン・ドルトンが提唱した原子論は当時の科学会では完全に受け入れられておらず、原子論の立場をとるボルツマンは、実証主義の立場から原子の存在を否定するエルンスト・マッハやヴィルヘルム・オストヴァルトらと対立し、激しい論争を繰り広げた。そのためもあって晩年は精神的に苦しみ、アドリア海に面した保養地ドゥイーノ(現在はイタリア・フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州)で静養中、家族が目を離したすきに自殺した。

チャールズ・ダーウィン ISFP (INTP?) 過干渉な父 パニック障害 愛情深い父 素直で従順な性格、慎重、争いを好まない性格

  • 出身地:イングランド シュルーズベリー
  • 生年月日:1809年2月12日
  • 死亡年月日:1882年4月19日(享年73歳)
  • イギリス人の自然科学者、地質学者、生物学者。生物進化論を提唱した『種の起源』の著者。

6人兄弟の次男として生まれ、幼少期から勉強はそっちのけで自然と戯れるのが大好きだったダーウィンは、昆虫や小動物に鉱物収集に夢中で、医者として成功していた父にとっては常に悩みの種だった。
9歳の頃に母親が病死すると、父の厳格さがさらに強まり、ダーウィンは落ちこぼれとしてレッテルを張られてしまう。しかし、息子の進路を何かと心配し、彼が科学者として徐々にキャリアを積む中、その資金援助を惜しまず提供したりなど、ダーウィンは父の厳しさのなかにも愛情を感じていた。

10歳になる頃には寄宿制の学校に入り、16歳になると狩猟に夢中になるあまり、学校での成績がどんどん落ち、「お前は狩りやネズミ捕りぐらいにしか興味が無いようだが、そんなことでは恥ずかしい思いをすることになるぞ。家族にとっても、自分自身にとってもな」と苦言を言われ最終的には父親によって学校を退学させられてしまった。
その後は医者だった父親によって医者になることを勧められ、エディンバラ大学に入学するも、その後中退。
学校での勉強よりも、自然や化学など実際に身近にある物事を観察し、疑問を抱いて考えたり実験することが大好きで、20歳を迎える頃、父親によって、今度は牧師になってはどうかと勧められる。

ダーウィンは、牧師になる気などなかったが、牧師になるための大学に入れば、空いた時間で自分の好きな自然観察や実験をすることは十分に可能だと考え、建前のもとケンブリッジ大学に入学した。
ここで、植物学者のヘンズローと出会い、ヘンズローとの交流を通して新たに植物採集に目覚める。
ヘンズローにも気に入られていた彼は、大学の単位も順調にとり成績は178人中10番で卒業。
ダーウィンは学生時代から著名な学者……ヘンズロウ教授、マッキントッシュ教授、ヒューウェル博士、地質学者ライエルなど……によくかわいがられていたという。
そして、イギリス海軍が保有していた南アメリカ大陸お調査することになっていた測量船「ビーグル号」の航海に同行しないかと誘われ同行するつもりだったが、父親に猛反対される。しかし最終的に叔父の助けを借りてなんとか父を説得し、無事にビーグル号に乗船することができた。

その後、5年にもわたる航海とそこでの調査をもとに後に誕生したのが、進化論であるダーウィンの代表的な著書『種の起源』だった。生物は全て神による創造物で変化などしないといったキリスト教の影響が強かった時代に、発表当初は批判が殺到していたこの進化論。ダーウィンは、自分にとって生涯をかけた仕事である「進化論」を、世間から批判されたり攻撃を受けたりすることをおそれ、発表するのを延ばしてきたという。

その功績ばかりが取り上げられるダーウィンだが、実は成人になってからの人生は、絶え間ない病気との戦いの人生でもあった。特に、「ビーグル号」で航海した後は、科学者として身を立てるため執筆活動に励むも、締め切りのプレッシャーなどから様々な症状 ─ 嘔吐、動悸、頭痛、息切れ、極度の疲労感、不眠、躁鬱など ─ に苦しんだという。

興奮すると激しい震えや嘔吐に襲われるため、パーティーなどは欠席せざるを得ず、たまに親戚の家や海辺に行く以外は、ほとんど自宅にこもりきりの隠遁生活だった。20人もの専門医にかかり、ホメオパシー療法や電気ショック療法など数々の方法を試したが、その病名と原因すら定かにならなかった。ダーウィンは後に、彼にとっての人生の楽しみは研究であり「研究に没頭することで日常的な病気の不快感を忘れたり、気を紛らわせたりすることができた」と回顧している。

ダーウィンとパニック障害

ビーグル号で5年に及ぶ航海を終えて帰国したダーウィンは、30歳のときにいとこのエマ・ウェッジウッドと結婚。結婚前にはいろいろと自問自答したようだ。プロポーズする前には、学者らしく「結婚した場合、しなかった場合」と題したリストまで作成している。エマは活動的な良家のお嬢様で、6人の求婚者を断わっていたためダーウィンも「ブサイクすぎる」から断られると思っていたそうだ。エマにとって彼は「今まで出会った中で、いちばん表裏のない人、そしてとても愛情深い人」 だったのだとか。病気がちで神経質な学者ダーウィンの心に、常に温かい灯りをかざしてくれた唯一絶対の存在が、愛妻のエマだった。ダーウィンは妻に向け、こう手紙を残している。「最愛のマミー 、具合が悪い時に君がいないと、心細くてしょうがなくなってしまう。おおマミー、君が一緒にいて僕を守ってくれてこそ、僕の心は休まるんだ。」

その後10人もの子宝に恵まれるが、そのうちの3人を幼い頃に亡くしている。子供たちにとって愛情深い父親で、夫婦仲もいい温かい家庭を築いた。

数学者

ジョン・ナッシュ  INTJ 統合失調症、 わがまま自己愛

  • 出身地: アメリカ合衆国 ウェスト・バージニア州 ブルーフィールド
  • 生年月日:1928年6月13日
  • 死亡年月日: 2015年5月23日(62歳没)
  • アメリカ人の数学者。ゲーム理論、微分幾何学、偏微分方程式で著名な業績を残す。ノーベル経済学賞

1928年6月13日アメリカ生まれの数学者。
ゲーム理論に関して大きな貢献をしたとして1994年にノーベル経済学賞を受賞。
電気技術者の父と、英語及びラテン語の教師であった母の間に生まれた。幼い頃から共同作業を好まず独りでいることを好み、何事も自分の考えた方法で行うことを好む少年で12歳の時、自室で科学実験を始める。知的聡明さゆえに友人からは拒絶され、また彼自身も交友関係は、自分の実験や勉強に対して悪影響を及ぼすものであると信じていたようである。
性格は傲慢(ごうまん)で、マサチューセッツ工科大学 (MIT) に教員として勤めていた頃、あんまり他の数学者をバカにするので、「Gナッシュ」(「歯ぎしり(gnasy)野郎」)とあだ名が付いた。
しかし、「Gはもちろん天才 (Genius) のGさ。実際、このごろのMITには天才がほとんどいないからな。そりゃ、まず、ぼくさ」と言い返した。自己中心的(自己愛パーソナリティー)で、結婚しても息子の養育費、生活費は負担しなかったと言われる。

岡潔 INFJ 情緒型変人数学者 過集中タイプ

  • 出身地 : 大阪府大阪市
  • 生年月日:1901年〈明治34年〉4月19日
  • 死亡年月日: 1978年〈昭和53年〉3月1日)(76歳没)
  • 日本の数学者。理学博士、多変数複素関数論において大きな業績を残した。

四歳から父母の郷里・和歌山県の紀見村(現在の橋本市)に帰り、幼年期と少年期を過ごす。
1925年に、京都帝国大学理学部数学科を卒業し、同大学講師に就任。29年より3年間フランスに留学し、生涯の研究課題を世界的難問だった多変数函数論の分野に定める。

三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語り、仏教を学び、日本人として持っている「情緒」に基づいて、独自の数学的世界を創造したという。
「数学のもとになるのは頭ではない。情緒だ。数学は印象でやるもので、記憶はかえって邪魔になる。忘れるものはドンドン忘れて行く。これが極意です」と語っているように「数学の思考を情緒とする」という、きわめて独創性に富み、ユニークな発想があった。

一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験したが、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った。

奈良女子大学退官後、京都産業大学教授となり「日本民族」を講義した。晩年の主張は超高次元の理想である真善美妙を大切にせよというもので、岡は起床してすぐに精神分析を行い、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという。プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察するのだが、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」などと怒鳴っていた。

夜昼関係なく没頭した研究生活を送り、以後約20年を費やしてその理論の骨格を一人で完成させた。その業績により、60年に文化勲章を受章。

動物性に偏った教育(受験教育)は自らの首を絞める。
まさに今の日本はそうなってますな。

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン INFJ 不思議直観型天才数学者 

  • 出身地  : 南インド
  • 生年月日 :1887年12月22日
  • 死亡年月日: 1920年4月26日(32歳没)
  • インドの数学者。純粋数学の正式な教育をほとんど受けていないが、極めて直感的かつ天才的な閃きにより、数学的解析、整数論、無限級数、連分数などのほか、当時解決不可能とされていた数学的問題の解決にも貢献し、「インドの魔術師」の異名を取った

極貧の正統派バラモン階級の家庭に生まれ、幼少の頃より母親から徹底したヒンドゥー教の宗教教育を受ける。
高校では全科目で成績が悪く、高等数学の正式な教育は受けていなかった。
しかし15歳のとき、ジョージ・カーという数学教師が著した『純粋数学要覧』 という受験用の数学公式集に出会ったことで数学に没頭する。その書物は大学初年級までに習う6000もの公式が証明なしに並べられているただの学習参考書であり、学問的には無価値のもの。しかしラマヌジャンはこれに没頭し、そこに載っている公式を自力で証明していった。ラマヌジャンは数学における知識や公式を知らなかったが、多くを独学によって獲得し、このことがラマヌジャンの独創的かつ特殊な直観力と洞察力を育んでいった。

奨学金を得てマドラスのパッチャイヤッパル大学に入学したが、数学以外のことに全く興味を持てず、他科目の授業に出席しなくなったため、学位認定試験に落第し、次の年度にも再び落第したため、奨学金を打ち切られて学位を得ないまま中途退学する。
しばらく独学で数学の研究を続けていたが、やがて港湾事務所の事務員の職に就き、そこで上司の理解もあって、仕事を早めに終えて数学の研究に没頭していた。25歳のときにケンブリッジ大学の数学者ハーディにその才能を見出され渡英。そしてハーディとともに数学の研究に打ち込むも、やがて病魔に犯され、その短い人生を閉じた。ラマヌジャンが発見した公式は未だ多くの数学者を魅了し、彼は歴代の数学者の中でも稀有な存在として語り継がれている。その発想の源について、ラマヌジャン自身は「信じてもらえないだろうが、すべて毎日お祈りしているナーマギリ女神のおかげなんだ」と答えている。

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Natural-Spi研究所大神司

Natural-Spi研究所大神司

愛媛県松山市在住。 HSP気質によくみられる解離性障害(離人症)を受けやすく(MBTI診断ではISFP)、20代前半に大うつ病(定型うつ)発症。無意識からトラウマケア可能な自然治癒力法を発見し、精神医療でも治療できない20年近くに及ぶ大うつを克服。「Holistic Healing」と命名して提供しています。コロナ禍により家庭内でも実践できるパワーアップ版「Natural Selfcare Program」としてオンライン化。大うつ病以外に不安障害、摂食障害、睡眠障害、向精神薬の離脱症状抑制にも効果的です。             

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