- はじめに
- 小説家の偉人伝
- 夏目漱石 INTJ 毒親育ち DV親 神経衰弱、醜形恐怖、
- 正岡子規 ENFP (ESFP?) 父親との死別 いじめられっ子
- 太宰治 INFP 文豪三大クズ 境界性パーソナリティー 自殺未遂・睡眠薬中毒・不倫
- 芥川龍之介(小説家) INFP里子育ち、自殺未遂、睡眠薬中毒、神経衰弱
- 種田山頭火(俳人) ISFP母の死、道楽親父育ち、神経衰弱、自殺未遂、一人旅が好き
- 谷崎潤一郎 ESFP(ISFP?)神童 官能小説家
- 宮沢賢治 INFJ
- 森鴎外 ENTJ (INTJ?)神童 潔癖症 社交的
- 石川啄木 ISTP 文豪三大クズ 神童 どうしようもない
- 中原中也 ISTP 文豪三大クズ 過保護育ち 子供を溺愛 精神衰弱 強迫観念、幻聴
- 川端康成 ISFP 家庭と縁が薄い、借金王、ガス自殺
- 司馬遼太郎 ENFP(ESFJ?) 陽気な人気者
- 関連
はじめに
心理学者は以前から精神疾患、発達障害と創造性のつながりを研究してきました。
初期の基礎的な調査においては、文学者や画家を含む著名人が研究対象となり、こういった研究では創造的な人は気分障害の発症率が高いといった結果がなされてきています。
一方で、このように精神疾患と創造性を関連づける研究には、傑出した特定の人物だけを対象にしている、あるいは、証拠とされるのも過去の逸話にすぎないといった批判もあります。
また、伝記は英雄が悪い印象にならないようにウソを書いてもおかしくないように書かれるもの。あまり知られていない裏側を知ると英雄も悪人、反対に悪人が英雄と逆転してしまう場合も少なくありません。
本調査では、そういった偏見的な見方を改めながらMBTI性格診断を用いて偉人と精神疾患、発達障害との関連性について見て行きたいと思います。(対象は随時追加)
MBTI性格診断については
向精神薬、マインドフルネス、瞑想のはるか上をいくヒーリング力
悩み、ネガティブな気分を瞬時に無意識から変える
大うつ病克服経験から考案した
冥想・催眠技術を利用した自然治癒力発動型ヒーリング。
精神医療・心理療法を凌駕する大うつ病、パニック障害速攻解決技術
おすすめHSPタイプ(IPタイプ)
1位30% ISFP
2位15% ISFJ
3位15% INFP
大うつ病、不安障害になりやすいMBTIタイプ
Janowsky,Hong & Morter,1998による研究報告
(%は大うつ病に対する比率)
小説家の偉人伝
夏目漱石 INTJ 毒親育ち DV親 神経衰弱、醜形恐怖、
- 出身地:江戸・牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)
- 生年月日:1867年2月9日
- 死亡年月日:1916年12月9日(享年50歳)
- 教職を経て明治時代を代表する作家となった人物。
漱石の母は高齢で、出産後「面目ない」と恥じ望まれない子として産まれる。
家庭は裕福な名士であったものの、幕末混乱期に巻き込まれて凋落傾向にあり、生まれてすぐ里子にだされた。養父母の離婚により、9歳のとき生家に戻るも、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れることになる。幼少時は波乱に満ち、この養父には、朝日新聞社に入社してから金の無心をされる。
創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。この頃、恋心を抱いていたと言われる三男の妻の死別に心に深い傷を受け、神経衰弱に陥り始めたとも言われている。
それから2年後に大学を卒業。英語教師となるものの、極度の強迫性障害と神経衰弱に見舞われ、辞職して休養のため愛媛松山へ。結婚後、華族出身である妻が生活環境に慣れず、ヒステリー症が激しくなり、投身自殺を図るなど順風満帆な夫婦生活はおくれていなかったようだ。
イギリスへ留学して1年後、神経衰弱が悪化し帰国。帰国後は、東京帝大の教師となるも文学論は学生から人気がなく授業をボイコットされることもあり、また神経衰弱に陥った。やる気のなさを漱石に叱責された生徒が入水自殺、神経衰弱が増すなど妻とも約2か月別居する。その後、胃病、胃潰瘍、痔、糖尿病にも苦しめられ体内出血で死去。
妻である夏目鏡子が著した『漱石の思い出』には、3~4歳の娘にいきなりビンタしたり、息子をステッキで殴ったりと幼児虐待を行っていたことが記されている。また、気が弱いところがあったようで、怪談ばなしをされると「もうよしてくれ、ねられないから」と怖がった。また、アイデアに詰まると原稿用紙に鼻毛を抜いて並べていたというエピソードもある。
正岡子規 ENFP (ESFP?) 父親との死別 いじめられっ子
- 出身地:愛媛県松山市
- 生年月日:1867年10月14日
- 死亡年月日:1902年9月19日(享年34歳)
- 明治を代表する俳人・歌人・国語研究家。廃れていた俳句や短歌を再び普及させ、後進の著名な俳人・歌人の育成も行った。
松山藩士の父常尚の長男として誕生。
父は大酒飲みがたたり、子規が5歳の頃に体を悪くし亡くなったため、
母の実家大原家の援助を受けた。
祖母の久が可愛がりすぎたため、すごく気弱な性格に育ちほかの子どもたちからいじめられることも多かったという。
しかし、後に子規はリーダー気質の少年へと成長を遂げていった。
小学校高学年になると、漢詩などを自作し仲間内で回覧雑誌制作など活動を展開。
私塾の先生に読み聞かせをしてもらった中国の軍談に惹かれ、物語を一字一句書き写していく写本にも夢中になり素養を高めていった。松山中学へ入学した際は、当時盛んになっていた自由民権運動に興味を持ち始め、同級生の前で演説するなど政治家を志すようになった。
16歳のころには松山中学を中退して上京し、受験勉強のために共立学校→東大予備門への入学を決めた。東大予備門にいた時代に夏目漱石と出会い、親友として生涯付き合っていく仲となる。また、当時、アメリカからやってきたばかりのベースボールにも夢中になり、ルールを解説するための手引き書の作成を行い「野球」と名付け広めた。
その後、東京帝国大学哲学科へ進学し、国文科へと進み、同時に患っていた結核の悪化もあり政治家を諦め、文学への道に傾倒していく。25歳の時に大学を中退し、叔父拓川の紹介で新聞『日本』の記者となり、文芸活動、俳句の革新活動を広めていくことになった。小説も書いていたものの、評判はよくなく、幸田露伴から「俳句のほうが向いている」と指示を受けた。
日清戦争の時は従軍記者として戦地に赴き、このとき軍医部長を務めていた森鴎外も交流を交わし、後に俳句会にも招くことになる。このころから、結核で何度も血を吐く自分を揶揄し、「子規(ホトトギス)」という俳号(ペンネーム)を名乗るようになる。30歳には自身の俳号にちなんだ俳句雑誌『ホトトギス』を創刊。病床に伏すなかでも作品を作り続け、自身の暮らす子規庵に弟子を招いての俳句会・短歌会も開くなど後進指導を続けた。多くの弟子に囲まれ、母、妹の看病を受けながら暮らしていたが34歳の若さで亡くなった。
太宰治 INFP 文豪三大クズ 境界性パーソナリティー 自殺未遂・睡眠薬中毒・不倫
- 出身地:青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)
- 生年月日:1909年6月19日
- 死亡年月日:1948年6月13日(享年38歳)
- 明治~昭和初期の小説家。幾たびにも渡る自殺未遂・薬物中毒・不倫など、堕落した自身の姿を投影した作品が注目を集めた。
県下有数の大地主、貴族院でもあった津島源右衛門11人兄弟の10番目の子(本名は津島修治)として生まれる。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、生まれてすぐ乳母、叔母、女中に育てられた。津島家の息子は裕福な坊ちゃん育ちであったが、庶民の子らと遊ぶ機会が多く、兄弟とはまた違った価値観に育ったという。
小学校時代、津島家の者は権力者の家系だった故に出来不出来に関係なく全甲(今でいうオール5)の成績を与えられていたが、太宰だけは「学校始まって以来の秀才」と呼ばれ級長を任されていた。
両親からのネグレクトと使用人から性的虐待を受けていたともされる。(明らかではない)
芥川龍之介の熱狂的ファンで、中学時代から講演会へ足を運んだり、ノートに何度も名前を書いたり、格好を真似して写真を撮るなどしていた。
17歳のとき、友人らと同人誌『蜃気楼』を発行。自ら作品を発表するようになり、このころから小説家を志すようになる。18歳のとき、弘前中学校を148名中4番目の成績で卒業。弘前高等学校文科甲類に入学。この時期に芥川龍之介の自殺を知って衝撃を受け自室に閉じこもるようになった。
翌年には同人誌『細胞文芸』を発行し、大地主である実家への批判とも取れる『無限奈落』などの作品を発表。一方、芸者遊びや、公金を無断流用した校長を辞職させるためのストライキに参加し、逮捕されることを恐れて一度目の自殺未遂を図るなど芥川の死から大きな変貌を遂げていった。
フランス語を知らぬままフランス文学に憧れ東京帝国大学文学部仏文学科に入学。
芸者の初代との結婚を巡って実家からは縁を切られ、かと思えばその直後に銀座のバーで知り合った女性と浮気をし心中未遂をする。また初代との結婚生活にしてもバビルツール中毒(睡眠薬)になり、初代の着物を売ったり、借金をしてでも服用しようとする始末であった。奇行が目立ち強制入院させられるが、その間に初代が不倫をしたことを知った太宰は、またしても心中未遂を図る。
一方、大学生活は授業についていけず、授業料が払えなかったために除籍された。
26歳のとき、就職も上手くいかずに3度目の自殺未遂。
この年、『逆行』を発表し、第一回芥川賞候補に取り上げられるも川端康成から「私生活が乱れている」という理由で受賞することができなかった。太宰は「川端康成へ」というタイトルで、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。…」と抗議。
その後の芥川賞でも懲りずに賞を欲しがり続ける太宰は、今度は佐藤春夫に手紙を送りつけた。
その長さは全長4メートルにもおよび「芥川賞くださいお願いします! 先生お願いします! 私の命は先生にかかってます、お願いします!」とひたすら芥川賞を懇願する内容だったものの、むなしく候補にすら残らなかった。これに対して太宰は「佐藤春夫! 裏切者!」と、逆恨だという。
しかし、精神不安定であったそんな彼を元気付けたのが、井伏鱒二が紹介した2人目の妻、美智子だった。この結婚を機に「走れメロス」など数々の名作を連発。芥川賞候補になった際に異議を唱えた川端康成からも称賛された。
とはいえ、師匠と慕っていた井伏鱒二には、現代の「死にます詐欺メンヘラ」の先駆けともなる、こんな手紙がある。
私はまた井伏さんを怒らせたのじゃないかしらん。
言葉のままに信じて下さい。
井伏さんと気まずくなったら、私は生きていない。(中略)
井伏さん、私、死にます。
結婚したばかりの1941年には作家の太田静子と不倫関係になり、子供もいたという。さらに、6年後には美容師の山崎冨栄と不倫。最期は冨栄と2人で入水心中しこの世を去った。
芥川龍之介(小説家) INFP里子育ち、自殺未遂、睡眠薬中毒、神経衰弱
- 出身地:東京市京橋区(現在の東京都中央区)
- 生年月日:1892年3月1日
- 死亡年月日:1927年7月24日(享年35歳)
- 「芥川賞」で有名な大正時代屈指の短編作家。人間の闇を描いた作風が主流
牛乳屋を営む一家の長男として誕生。
生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、母の実家の芥川家に預けられ、伯母に養育されることになる。
11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父の養子となり芥川姓を名乗ることになった。
中学での成績が優秀であったため、無試験で第一高等学校(旧制一高)に入学。
東京帝国大学英文学科へ進学し、在学中に菊池寛、久米正雄らと同人誌『新思潮』を刊行。
大学を卒業後、海軍機関学校の英語の嘱託教官として教鞭を執ると同時に創作にも励む。
23歳の夏、才色兼備の吉田弥生と交際を始め、青山女学院を卒業した弥生は、文学を好み、英語も堪能であった。
英文科在籍の龍之介と相性はぴったりで、順調に進めば結婚に行き着くはずだった。
ところが、弥生に別の男性から縁談が舞い込んでくる。
龍之介はその時、どれだけ深く彼女を愛しているかと、弥生に求婚するも、養父母とフキに告げた途端、激しい反対にあってしまった。
相手の女性が「士族」でないことや、私生児だったこと、また、婚約者がいるのにプロポーズする龍之介の一途さなどが、反発を買ったといわれている。
伯母のフキは夜通し泣き、龍之介も泣いたが、結局、龍之介があきらめる形となった。
このときの苦しみを、芥川は友にこう打ち明けた。
私は随分苦しい目にあって来ました。 又現にあいつつあります。
如何に血族の関係が稀薄なものであるか……如何に相互の理解が不可能であるか。
イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない。
周囲は醜い。 自己も醜い。 そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。
悲しみを紛らせようと、龍之介は遊郭に足を踏み入れますが、官能は悲哀を与えるだけだった。
失恋直後に書いた『仙人』に、次のような言葉があります。
「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。 」
この問いは、終生、芥川から離れませんでした。
1921年、海外視察員として中国を訪問し、帰国後次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルを発症し、以後精神状態が悪化していきます。
義兄が、放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺し、芥川は、義兄の遺した借金や家族の面倒を見なければならなくなった。
1926年、病状が悪化し、湯河原で療養。
1927年、帝国ホテルで 秘書を勤めていた平松麻素子と心中未遂事件を起こし、「続西方の人」を書き上げた後、致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。
種田山頭火(俳人) ISFP母の死、道楽親父育ち、神経衰弱、自殺未遂、一人旅が好き
活動期:1882年~1940年 58歳没
症状:神経衰弱
発症期間: 22歳~58歳没まで 36年間
きっかけ:母親の死?
婚姻:離婚、子あり
育成期間:母の死、道楽親父
5人兄弟の長男として誕生。
10歳のとき、父の芸者遊びを苦にして母が井戸に投身自殺。
これが、山頭火の憂鬱な人生を決定づけた。
20歳で早稲田大学に入学するも、神経衰弱のため2年後に中退し、しばらく東京に滞在しても回復しないため実家に帰郷。
この頃父は、 種田酒造場を開業し、山頭火は結婚し子供を授かる。
しかし、酒造場の経営が危機に陥り、破産に追い込まれ、父は行方不明、山頭火は友人を頼って妻子と熊本へ移ることに。
熊本では、古書店、額縁店を開くも、 軌道にのらず、常に空虚感や欠落感が付き纏い、更にこの頃に起こった弟の自殺が山頭火をより一層酒に向かわせることになっていった。
妻子を熊本に残したまま、単身上京するも、関東大震災に遭遇し、再び熊本の妻子の家に戻り、本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に預けられ寺男となる。
その後、西日本を旅し、50歳のときに体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。
最後は、松山に建てた「一草庵」で脳出血により死去。
谷崎潤一郎 ESFP(ISFP?)神童 官能小説家
- 出身地:東京都中央区
- 生年月日:1886年7月24日
- 死亡年月日:1965年7月30日(享年79歳)
- 大正、昭和の日本を代表する小説家。風俗、マゾヒズムといった非現実を主題とし、流行と一線を画す作風で注目された。文体にこだわりぬいた芸術性の高さに定評がある。
1886年、東京生まれ。
谷崎倉五郎、関の長男として誕生する。
谷崎家は大変裕福で、潤一郎ひとりでは小学校へ通えない子供であったが、11歳の頃、回覧雑誌『学生倶楽部』で作品を発表するようになった潤一郎は、その完成度の高さから、学内で注目を集めるほどの類を見ない神童だった。
谷崎家は先代によって財を成した事業家であったが父・倉五郎には商才がなく15才のときに廃業に追い込まれるピンチに陥り進学を諦めざるを得ない状況に立たされた。
ここで潤一郎は住み込みの家庭教師として働きながら進学できることができた。
ただ、家庭教師をしていた家の女中と駆け落ちをする騒動も起こし女性遍歴もこの頃から始まっていた。
中学2学年に進むと、校長直々に3学年への飛び級を勧められ、飛び級した先でも首席で、学業ならなんでもこなせた。後に東京帝国大学国文科へと順調に進学し、文学の道へ進む。潤一郎の作品は、女性崇拝の思想が多岐に渡って反映されているが、その基礎が家庭環境だといわれている。
母関は、可愛がられて育ったせいか気が強く、一方父は気弱であったので家庭はかかあ天下だった。
そのため、潤一郎も気が強い女性が好みだった。
19~25歳ごろまでは多くの作品を発表しても評価されず、欧米の感覚をもつ永井荷風なら理解してもらえると読んだ潤一郎は荷風を訪ねる。感心した荷風は、潤一郎の作品を文芸誌『三田文学』にて絶賛。潤一郎は一躍、文壇での地位を確立するに至った。潤一郎は生涯を通し、実に3回の結婚をしている。押しの強い女性との刺激的な関係を求めることが、離婚のほとんどの原因。3人の妻との関係を通して女性崇拝の思想は作品にも強く反映されている。右手が動かなくなっても執筆を続け精力的な活動から、文化勲章、ノーベル賞候補に7回選ばれた。
宮沢賢治 INFJ
- 出身地:現在の岩手県花巻市
- 生年月日:1896年8月27日
- 死亡年月日:1933年9月21日(享年37歳)
岩手県稗貫郡川口村(現在の花巻市)にて、質・古着商を営む父政次郎と、母イチの長男として誕生。父は浄土真宗を深く信仰しており、賢治もまた幼少期から仏教に影響を受けていた。3歳のころには、父の姉であるヤギが唱えるお経を聞いて覚え、暗唱してしまったというエピソードもある。
尋常小学校時代は6年間を通して全科目甲(オール5)の成績を残して卒業。
この小学校時代の恩師、八木英三に読み聞かせしてもらった五来素川の『未だ見ぬ親』に大変感銘を受け彼の童話制作のルーツになった。また鉱石や植物、昆虫などの採集にも熱中していた。
中学時代は教師に反抗的になり、寮の舎監(管理人)に嫌がらせをして退寮させられ、成績も決して良いとはいえなかった。
しかし、19歳から通い始める盛岡高等農林学校に首席で入学。その後研究生となったあかつきには、教授から助教授にと推薦されるほどだった。この頃、持病の結核を患い、短命を悟る。卒業後、賢治は家業を継ぎ、宗教団体の国柱会に入信すると、宗教観の違いから父と衝突。家出をして上京し、国柱会本部のある東京で布教活動を行っていた。
この頃、妹のトシが結核を患い帰郷。トシはこの後の亡くなり号泣しトシの死が創作活動に火を点け、『注文の多い料理店』など生んだ。
その後、農学校の教師を30歳まで続けた後に依頼退職。
花巻市て、独居生活をしながら、農業を営みながら近所の青年たちとレコード鑑賞をたしなんだり、子どもたちに童話の読み聞かせをしたりと、自分のやりたいことに没頭していくようになった。
園芸学校設立の相談役として駆り出されている最中、高熱で倒れ37歳で息を引き取る。
森鴎外 ENTJ (INTJ?)神童 潔癖症 社交的
- 出身地:現在の島根県津和野町町田
- 生年月日:1862年2月17日
- 死亡年月日:1922年7月9日(享年60歳)
森鴎外(本名は森林太郎)は典医(医師)の家系に生まれ、
幼少よりオランダ語や儒教を教え込まれ、9歳にして15歳の学生に匹敵するほどの学力を有し神童だった。1873年、12歳のときに入試資格の14歳と偽り試験を受け、第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)に入学を決めた。
1881年、19歳で医学校を卒業した鴎外は、同期8名中8番目であったため希望の軍医になれなかったが、同期生の小池正道や、賀古鶴所などの推薦により軍医として東京陸軍病院へと勤務することができた。1883年にはプロイセン王国の陸軍衛生制度の調査において成果を出し、さらなる調査のためにドイツ留学を命じられた。そこから4年間、ラプツィヒ大学、ミュンヘン大学、細菌学者ロベルト・コッホの衛生試験所など、さまざまな機関にて勉学に励む。
しかし、衛生学、細菌学を学んだことをきっかけにして、生ものを警戒するようになり果物さえ煮たものしか口にせず、出張の時には卵と梅干し以外は食べなくなるほどの潔癖症となった。極度の潔癖症のくせに風呂嫌いで、その理由は「俺の身体に汚いところはない」ということだった。
また、このときベルリンで出会ったドイツ人女性エリーゼと恋に落ち結婚まで考えるようになった。鴎外帰国の命令が下るとエリーゼも日本に後追いで来ることになったが、鴎外は母親から結婚に反対されたためエリーゼを捨て追い返した。これが代表作でもある『舞姫』の題材となる。
帰国すると、陸軍軍医学舎及び、陸軍大学校の教官に就任。1894年の日清戦争には軍医部長として出征し、終戦後も半年ほどは、日本の領土となった台湾にて勤務。1904年には日露戦争にも出征する。
このとき、「脚気問題」が論争となっており、森は「脚気菌」による細菌感染症と主張。一方海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き兵食に麦飯を取り入れた。その結果、日清戦争では4000人以上、日露戦争では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡した。一方、海軍兵士の脚気による死亡は日清戦争でゼロ、日露戦争ではわずか三人で、森の主張が多くの犠牲者を出す結末に至った。
1907年からは軍医総監という、軍医のトップの地位に就いた鴎外は、それだけには留まらず、作家としてもより精力的な活動を展開。
森鴎外自身は文人と軍医の仕事をしっかりと分けて考え、文壇の友人が軍服姿の森鴎外に話しかけたら激怒したというエピソードもある。また、論争好きで、閉鎖的で縛られたような人間関係は好まず、西洋風の社交的な雰囲気を好むなど、同じ文豪の夏目漱石とは対照的だった。
1922年(大正11年)、腎萎縮、肺結核のために死去。
最期に死の床で「馬鹿馬鹿しい」とうわごとを言ったとされる。
石川啄木 ISTP 文豪三大クズ 神童 どうしようもない
- 出身地:盛岡市日戸
- 生年月日:1886年2月20日
- 死亡年月日:1912年4月13日(享年26歳)
- 『一握の砂』『悲しき玩具』などの歌集で知られる明治を代表する歌人。生活苦や人生に対する後悔を詠んだ歌は、多くの人の共感を呼んだ。
曹洞宗常光寺の住職をしていた父・一禎の長男として誕生。
5歳のころに渋民尋常小学校へ入学し、その後、母方の伯父のもとに下宿する形で盛岡高等小学校へと進学。このころの啄木は神童と呼ばれ首席で卒業、高等小学校でもかなり上位の成績を修めていた。
12歳になると盛岡尋常中学校に128人中10番目の成績で入学。
しかし、文学と出会いにめり込み、4年修了時に下から数えたほうが早いぐらいまで成績が落ち込んだ。
このころ啄木は4歳年上の金田一京助と親しくなり、金田一が文芸誌『明星』を勧めたことで与謝野晶子らの短歌の世界にハマり文学の道を夢見るようになる。
文学へと傾倒し、勉強はてんでおろそかになった結果、4年生のときには二度のカンニングがバレ、退学処分を食らうことになり、この退学を機に上京の決意を新たにした。
こうして16歳のころに上京した啄木は、愛読誌『明星』を出版する新詩社を訪ね、与謝野鉄幹・晶子夫妻との関係を築く。東京では友人宅に居候し、けっこうな迷惑もかけ就職活動はうまくいかず生活に困り帰郷。盛岡への帰郷後は新詩社同人として『明星』への寄稿をはじめ「愁調」という5編の歌によって歌人・石川啄木が世間に注目された。
父・一禎が宗費滞納により住職の資格をはく奪されて一家が路頭に迷っている中に、中学時代からの恋人・堀合節子と結婚することになる。このとき啄木は詩集『あこがれ』の刊行のため上京しており、結婚のため帰郷する際に家族の面倒を見る必要があると気づくと、列車を途中下車して仙台の旅館に滞在し結婚式をすっぽかす行動にでたという。
結局は父・一禎に代わって一家の大黒柱となり、20歳から1年ほど、渋民尋常小学校の代用教員を務める中、函館の苜蓿社が発刊する雑誌『紅苜蓿』への寄稿。生徒にストライキを指示して免職処分を受けたのを機に家族をおいて北海道へと移り住むことになった。
北海道では、さまざまな職場を転々とし、特に記者としては一時、編集長を任されるほどの活躍ぶりだったが遅刻や無断欠勤がかさむなど、勤務態度はよくなかった。さらに、啄木の女遊びもひどく家族への仕送りは一切なしであったため妻・節子は自身の家財を売って家計を支えていた。
22歳のころに再び文学の道を志し、上京。
小説の分野に手を出すも森鴎外や与謝野鉄幹・晶子らのサポートを得て、文芸誌『スバル』を創刊。
これを履歴書代わりに、東京朝日新聞の校正係に就職し24歳のころには、代表作『一握の砂』を発表する。
この時期に北海道に置き去りにしてきた家族が上京し生活を共にするようになるも、妻・節子と母・カツの関係がうまくいかず、節子が家出する。このとき、節子を迎えに行ったのは啄木ではなく、親友の金田一京助だった。新聞社や詩集の収入があるといっても、一家を養っていくほどの儲けにはならなかったようで、この時期の生活は困窮し計63人の友人から借金していたという。
この時期に生まれた短歌が、
「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」だった。
25歳のころ、腹膜炎を患い入院し翌年に亡くなる。貧困のため医者にも診てもらえず、薬も買えないような状況だった。
中原中也 ISTP 文豪三大クズ 過保護育ち 子供を溺愛 精神衰弱 強迫観念、幻聴
- 出身地:山口市湯田温泉
- 生年月日:1907年4月29日
- 死亡年月日:1937年10月22日(享年30歳)
昭和期に一世を風靡した詩人。
フランス印象派に影響を受け、感情などの内面的なものを表現した作風が特徴。
中原中也は、医師の息子として裕福な家庭に生まれ過保護的に育てられた。
階層の違う子供と遊ぶことを禁じられ、溺れることがないよう水泳もさせてもらえなかった。
一方、教育熱心で、勉強のために中也を納屋に閉じ込めたり、時に煙草の火を押し当てて懲罰を与えることもあったため、神童と呼ばれるほど成績優勝な少年となった。
8歳の頃、弟が亡くなり、その悲しみを詩を歌ったことがきっかけとなり詩作に夢中になる。小学6年生の頃には短歌を作り始め、既に雑誌や新聞に掲載されるほど能力に秀でていた。中学には12番の成績で入学したが、不良となり酒と文学に夢中になった影響で、最下位の120番まで転落する。さらには、3年生への進級に落第する。父親はショックで数日間仕事に出られなかったが、中也は落第を万歳して答案を破いた。
落第をきっかけに、父は京都の中学に編入させ親元を離れることになるが、3歳年上の長谷川泰子と恋愛仲になり同棲生活が始まった。受験のために上京した中也は、書類不備や遅刻が原因で落第となる。予備校に通う条件で両親から仕送りを受け、そのまま東京で泰子と一緒に暮らすようになる。ところが泰子は、中也の親しい友人である小林秀雄に惹かれ、やがて中也の元を去ってしまう。
恋の裏切りを経験した中也は、その悲しみと悔しさで自己を見失い、彼の詩作に大きな影響を与えた。さらに、21歳の時に父が、24歳では弟が肺結核で死去するなど不運が続く。
25の時、初の詩集『山羊の歌』の自費出版を企てるが、ほとんど出資金が集まらなかったため、その頃からノイローゼになり、次第に強迫観念や幻聴に悩まされるようになる。
この頃、お見合い結婚をするも、詩作のみで生計を立てるのは厳しく、依然として母から仕送りをもらっていた。中也は生まれた息子のことを溺愛していたが、2歳の頃に結核で死亡したことで精神は目に見えて衰弱し幻聴が酷くなり、幼児退行したような言動が目立つようになる。
間もなく中也は体調を悪化させ、結核性の脳膜炎にかかり、30歳の若さでこの世を去った。
一方、酒癖が悪い、喧嘩を売りたがるエピソードが多くある。活動仲間たちと酒を飲んだ帰り道、中也は酔っぱらった勢いで、沿道の家の外灯を傘で叩き壊き、交番へ突き出され15日間も留置されたことがあった。
また、有名な美術評論家の青山次郎は、死別した夫人の弟にバーを出店させてやったが、常連の1人であった中也は、毎日のようにバーに訪れては、誰彼構わず喧嘩を吹っかけていたので、バーの評判は悪くなり1年足らずで閉店してしまった。
また、このバーで坂口安吾と知り合う。中也が気に入っていたバーの女給が、坂口安吾を好いていると知ると、「やいヘゲモニー」と嫉妬のあまり喧嘩をふっかけた。しかし、中也は小柄でひ弱、坂口安吾が大柄だったため、中也は距離をとった場所で拳を振り回すだけで、実際に殴りかかりはしなかった。中也の口先だけのシャドーボクシングを見て、坂口安吾は大笑いしたという。
川端康成 ISFP 家庭と縁が薄い、借金王、ガス自殺
- 出身地:大阪府大阪市
- 生年月日:1899年6月14日
- 死亡年月日:1972年4月16日(72歳)
- 大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人。(ノーベル賞受賞)
医師の父の長男として誕生。4歳上には姉・芳子がいた。
父・栄吉は自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱で軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月のとき結核で死去した(32歳没)。
2人の幼子が預けられた母ゲンの実家・黒田家は、広壮な家を構える大地主であったが、ゲンも同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに引き取られた。その際、7歳の芳子は秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先に繋がる。
幼い頃の康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため生育の見込みがないほど病弱で食が細くかったため大事に育てられた。また、一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。
小学校の頃は人の中にでるのが嫌で学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し、しばらくは近所の百姓女が授業中も教室まで付き添っていた。小学校に上がる前から祖母から〈いろは〉を習っていたため、学校で教わることはほとんど知っていたため、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。しかし、小学校に入学した年に優しかった祖母・カネが死去し祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌年13歳で死去した。
小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「甲」となり、絵が得意であったため、祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった。
尋常小学校を卒業した康成は中学校に首席で入学。中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し虚弱体質が改善され「精勤賞」をもらった。
しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、友人の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。
康成は中学2年頃から作家になることを志し、本屋の目ぼしい文学書はほとんど買っていた。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる。
中学3年となった1914年、寝たきりとなっていた祖父が死去した(73歳没)。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障で盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている。康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られた。
他人の世話で生きなければならない身となってから遠慮しがちとなり、自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んじ、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる。
同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことをきっかけに『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。
高校の寄宿舎生活で、同室の下級生と同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)これを初恋だとしている。
東京帝国大学と進んだ帝大1年の21年(大正10)石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊。2号に載せた『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められた。この年、16歳の少女伊藤初代と婚約し、1か月後彼女の心変わりで破約になるという事件があった。身辺の多くの死、孤児の体験、失恋の痛手などは川端文学の根本的性格を形づくるうえで作用した。24年、国文科を卒業。この年10月、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、今東光らと『文芸時代』を創刊、斬新(ざんしん)な文学の出現として世の注目を浴びた。評論家千葉亀雄がこの派を新感覚派とよび、それは、当時やはりはっきりした姿を現してきたプロレタリア文学とともに、昭和初期の二大文学潮流を形づくることになった。
1948年(昭和23)日本ペンクラブ第4代会長に就任。1957年に国際ペンクラブ東京大会を主催。1961年文化勲章受章、1968年ノーベル文学賞受賞。しかし昭和47年4月16日、自らの名声に反逆するような形でガス自殺を遂げた。
極端に寡黙でギョロッとした大きな目で人をじろじろと見つめる癖があり、またその癖で多くの人から多くの金をださせたエピソードがある。
家賃の催促に来た家主のおばあちゃんを玄関先で黙ってじっと見続けて退散させたかと思うと、講演会を頼まれると「特にしゃべることはないので、時間いっぱい顔でも見ててください」と1時間一切しゃべらなかった。書籍の打ち合わせの時には、席で押し黙った川端から発せられる緊張感に耐えかねて、とうとう声を上げて泣き出す女性編集者を、さらにじっと見つめて、「どうしたのですか?」と言い、金を借りるために菊池寛の家に上がり込むと、一言もしゃべらずに「フクロウのような目」で菊池を凝視し金を出させた。また、いつもツケで飲み歩き、ツケがきかなくなると、編集者や作家仲間を呼び出して払わせていた。
欲しいものがあると、お金を持っている人に借りるかツケにして踏み倒すことも多く、『伊豆の踊子』を執筆する際に伊豆・湯ケ島の「湯本荘」滞在した時の宿代数カ月分に1円も払わなかった。また、ノーベル文学賞の受賞が決まった時には、7000万円もする富岡鉄斎の屛風(びょうぶ)をはじめ、合計で約1億円もの美術品を買い漁り「ノーベル賞の賞金で払うから大丈夫」と言っていた川端だったが、ノーベル文学賞の賞金は2000万円だった。川端が自殺したあとには、集めた国宝、重要文化財など、約200点を超える美術品が残されていたが、方々に借金やツケも残されていた。
司馬遼太郎 ENFP(ESFJ?) 陽気な人気者
- 出身地:大阪府大阪市
- 生年月日:1923年8月7日
- 死亡年月日:1996年2月12日(72歳没)
- ノンフィクション作家、評論家。位階は従三位。。『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆・紀行文などでも活発な文明批評を行った。
薬局を経営する父、母の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。
乳児脚気のために3歳まで母の実家に里子に出されていた。
尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)時代、性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。
中学校入学後の成績は300名中でビリに近く、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受けたのを機に大阪外国語学校卒業まであらゆるジャンルの本を乱読するようになる。阿倍野のデパートではいつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。
旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科)に入学。読書は依然として好み、当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。
学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業。軍隊内では「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。司馬は、軍隊生活になかなか馴染めず、訓練の動作にも遅れが目立ち、同期生のなかでも戦車の操縦はとびきり下手であったが、「俺は将来、戦車1個小隊をもらって蒙古の馬賊の大将になるつもりだ」などと冗談を言うなど、笑みを絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しになっていた。
終戦を迎え敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり小説執筆するようになり、復員後は直ちに図書館通いを再開する。
戦地からの復員後、新日本新聞京都本社に入社するも2年後に倒産。産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。
速読家として知られ、友人がコーヒーを1杯飲み終わるうちに、会話しながらであるにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を読み終わっていたというエピソードがある。また、資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集め、軽トラックで資料を集め始めていた。名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を当てるという特技があり、たびたび周囲の人を驚かせた。執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったようなものへの興味は生涯なく、バンダナ収集が唯一の趣味であった。話し上手・聞き上手として有名で「座談の名手」と呼ばれ、対談集を数多く出版した。
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