はじめに
心理学者は以前から精神疾患、発達障害と創造性のつながりを研究してきました。
初期の基礎的な調査においては、文学者や画家を含む著名人が研究対象となり、こういった研究では創造的な人は気分障害の発症率が高いといった結果がなされてきています。
一方で、このように精神疾患と創造性を関連づける研究には、傑出した特定の人物だけを対象にしている、あるいは、証拠とされるのも過去の逸話にすぎないといった批判もあります。
また、伝記は英雄が悪い印象にならないようにウソを書いてもおかしくないように書かれるもの。あまり知られていない裏側を知ると英雄も悪人、反対に悪人が英雄と逆転してしまう場合も少なくありません。
本調査では、そういった偏見的な見方を改めながらMBTI性格診断を用いて偉人と精神疾患、発達障害との関連性について見て行きたいと思います。(対象は随時追加
MBTI性格診断については
向精神薬、マインドフルネス、瞑想のはるか上をいくヒーリング力
悩み、ネガティブな気分を瞬時に無意識から変える
大うつ病克服経験から考案した
冥想・催眠技術を利用した自然治癒力発動型ヒーリング。
精神医療・心理療法を凌駕する大うつ病、パニック障害速攻解決技術
おすすめHSPタイプ(IPタイプ)
1位30% ISFP
2位15% ISFJ
3位15% INFP
大うつ病、不安障害になりやすいMBTIタイプ
Janowsky,Hong & Morter,1998による研究報告
(%は大うつ病に対する比率)
音楽関係の偉人伝
ベートー・ヴェン INTJ 強迫性障害 毒親育ち アル中
- 出身地:神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボン
- 生年月日:1770年12月16日頃
- 死亡年月日:1827年3月26日(享年56歳)
- 古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆者。音楽の大作家
1770年12月16日頃、ドイツのウィーン作曲家、ピアニスト。
音楽史においては「楽聖」とも呼ばれる。
父親は、宮廷歌手であるいっぽう、ひどいアルコール依存症で、ベートヴェンは「ピアノ弾け!」と寝ている中でも無理矢理起こされて、ピアノの練習をさせられることもあった。その間、父親は常に「モーツァルトのように」が口癖で常にモーツァルトを意識していた。
そんな虐待とも言える音楽のスパルタ教育を受け、音楽そのものに対して強い嫌悪感を抱いていた時期があったが、8歳のときにケルンでの演奏会に出演し、デビューを果たし脚光を浴びる。
17歳のとき、モーツァルトに出会い弟子入りを希望するも、母親マリアの死亡と重なり故郷へ帰ることになったため弟子入りすることはなかったが、この出会いにより、音楽家として歩む決心をしたとも言われている。
若いころは着飾っていたものの、年齢を重ねてからは服装には無頓着。
髪の毛はもじゃもじゃと逆立ち、作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されたこともあったが、表情豊かで多くの崇拝者がいて大変なプレイボーイだった。
伯爵邸での演奏で出会ったジュリエッタとベートーヴェンは恋に落ち、美しい光の中で愛を語った曲、が「月光」。しかし、ベートーヴェンの耳は次第に聞こえなくなり、ジュリエッタは決められた人と結婚し破局を迎えた。
別の女性、4人の子供を抱えた未亡人に恋したベートーヴェンは、「熱情」という曲をつくり、いくつもの名曲を書き上げ、彼女にプロポーズするも「失恋」。耳も聞こえず失恋もするうまくいかない人生を曲にしたのが「運命」だった。
母親から甥のカールの親権を譲り受け、甥を自分がされてきたように、音楽の英才教育をはじめましたるも上手くいかず、これが「交響曲第9番」ができるきっかけとなった。カールは後に、自殺をはかる。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。
人付きあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、癇癪もちで厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。
部屋の中は乱雑である一方、入浴と洗濯を好み潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返し、コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたことも知られている。(数唱障害 強迫性障害の一種)
慢性的な腹痛や下痢(IBS)は終生悩みの種であったという。
アルコール依存症であった父と似て、大のワイン好きで晩年は
「昼食時に1リットル以上のワインを毎日飲んでいた」
と言われている。
死因は毛髪から検出された鉛成分から「鉛中毒説」が有力であったが、近年の調査では毛髪は他人のもので、実はアルコールの大量摂取によるB型肝炎が原因という説が浮上している。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 精神疾患なし ISFP 陽気な天才
- 出身地:神聖ローマ帝国・ザルツブルク(現在はオーストリア中北部)
- 生年月日:1756年1月27日
- 死亡年月日:1791年12月5日(享年35歳)
- クラシック・ウィーン古典派の代表的な音楽家。幼少より神童と呼ばれ、『トルコ行進曲』『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など、数々の名曲を作り上げた。
現在のオーストリア中北部にあたる、神聖ローマ帝国のザルツブルクにて、宮廷音楽家を務めていた父・レオポルトの元に7番目の末っ子として生まれた。(ほかの5人は幼児期に死亡)
父は息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。
3歳でチェンバロの演奏を始め、5歳で作曲活動を開始。その才能を確信した父は息子が天才であることを見出し、幼少より厳しい音楽教育を与えた。自身の幼少期を振り返って、「目隠しをして演奏させられた」「音楽の試験も数多く受けさせられた」と回顧している。14歳のころにはローマ教皇から黄金拍車勲章を授与される快挙も残している。
21歳のころにモーツァルトは、故郷のザルツブルクを離れ、現在のドイツ北部にあたるマンハイムに住居を移し、従姉妹のベーズレ、歌手のアロイジア・ヴェーバーなどとそれぞれ恋仲になった。特にアロイジアはオペラでプリマドンナの座を手にして態度が横柄になるといった側面を、父が嫌い、モーツァルトをパリへ引っ越させる形で二人の仲を引き裂いてしまう。パリへ移ったモーツァルトは、音楽家としての報酬にも恵まれず、その地で母親を亡くしてしまう。このころの著名な作品としては『交響曲第31番ニ長調「パリ」』がある。
25歳になったモーツァルトはザルツブルク大司教との衝突で宮廷音楽家を辞し、ウィーンにてフリーの音楽家として活動をし始める。この頃にアロイジアの妹コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。夫婦仲は良く、コンスタンツェはモーツァルトの作曲活動を献身的に支え、結婚を機にモーツァルトは多くの名作を連発していく。
20代後半、名曲を数多く残し、全盛期を迎えたモーツァルトも、30代になると収入が減り、晩年は借金を抱えていたとされています。そして病魔に侵され、35歳の若さにして息をひきとった。
天才ピアニストとして人気があったが、冗談好き、猥談を好み品行が悪かったことで知られる。
モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、駄洒落(トイレのユーモア)にあふれた手紙を送ったことがあり、「あなたの鼻に糞をします」「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!僕のおしりが火事になった!どういうこと!知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ?ウンコが出たがってる?そう、そうだウンコだ。俺は変態だ!」などの記述がある。舞踏会に出席したら女性のスカートをめくったり、猫の真似をしてぴょんぴょん跳ねるなど「20代、30代になっても子供っぽい性格をしていた」行動もみられた。
モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったこともあり、多くの借金を抱えていた。「サヴァン症候群」だったからではないか、という説もある。伝記を書いたニーメチェクによると「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何ひとつ、その大きな才能を示すものはなかった」と評されている。
フランツ・シューベルト INFJ
- 出身地:オーストリア ウィーン郊外
- 生年月日:1797年1月31日
- 死亡年月日:1828年11月19日(享年31歳)
- ウィーンの作曲家。「ドイツ歌曲の王」として有名。
1797年オーストリアの作曲家。
現在においては「歌曲の王」として広く知られている作曲家の1人であるが、当時はとても有名な音楽家というものではなかった。
6歳のころ、アマチュア音楽家だった父親から音楽の手ほどきを受け、その才能を感じた父親は教会の聖歌隊に入れた。そこでは周囲もシューベルトの才能を感じ、シューベルトが自由に楽器の練習ができるような環境にしてくれていたため、その才能を高めることができた。現存する作品として最初のものと言われているのが、13歳の時に作曲したピアノの連弾曲『幻想曲』だった。シューベルトは生涯においてモーツァルトの音楽を好み、同時代の先輩的な存在であるベートーベンを尊敬していたという。
学生時代の友人の家を訪れたシューベルトは、その友人から教師を辞めないかという話をされました。この時の友人の援助は大きく、シューベルトは作曲活動に専念するきっかけを得たようです。
父親の学校で教師として作曲も兼ねながら働き始めたが、学生時代からの友人から教師を辞めないかという話をされたのを機に作曲活動に専念するようになった。
貧しい音楽家ではありながらも、周りの人に支えられながら生活を送るも、時々鬱っぽくなることもあったといい、最晩年に向けて沈んでいく様子も友人たちとのエピソードとして残されている。
31歳という若さで亡くなった約10年後、シューベルトの兄の所を訪れたシューマンが見つけた「大ハ長調の交響曲」を持ち帰り、メンデルスゾーンの指揮によって演奏が行われて大絶賛されたことから世に知られるようになった。シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。
フランツ・リスト ENFJ イケメンピアニスト
1811年、オーストリア系ハンガリー人の父と、オーストリア人の母の間に生まれた。
故郷で神童と称されていたリストは、息子の才能に賭けた父とともに、音楽修業でヨーロッパを遍歴。パリで音楽院への入学を断られるなど、大きな挫折を経験。やがて父を亡くし、自分の能力で人生を切り拓かざるをえなくなった、
青年期を迎えたリストは、当時ヴァイオリニストとして人気を博していたニコロ・パガニーニの超絶技巧を駆使した圧倒的な演奏に衝撃を受け、自らはピアノでそれを成すことを決意した。
天才的な技術で奏でる情熱的かつ繊細な演奏と天賦の美貌で、リストは一気にピアニストとしての名声を得、28歳になった1839年から実に約1,000回、8年にも及ぶコンサート・ツアーで、ヨーロッパ中の人々を魅了し、「ヨーロッパ人」と称された。
フレデリック・ショパン ISFP (ISTP?)神経質 病弱,人前に出るのが苦手
- 出身地:ポーランド ワルシャワ近郊、ジェラゾヴァ・ヴォラ
- 生年月日:1810年
- 死亡年月日:1849年10月17日(享年 39歳)
- ロマン派代表の作曲家。ピアニスト。ピアノの詩人
1810年、ショパンは2人目の子供としてワルシャワ公国で生まれた。父ニコラはフルートとヴァイオリン、母ユスティナはピアノに長けており、エリートの寮で寮生の少年たちに指導をしていたので、ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた。ショパンが本格的にピアノを習ったのは6歳のときで、指導者ヴォイチェフ・ジヴヌィをあっという間に超え、わずか7歳でト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲、公開演奏を行うようになり、瞬く間にモーツァルトやベートーヴェンと比較されるようになり「ワルシャワで最高のピアニスト」「モーツァルトの再来」と絶賛され幼い頃から貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていた。
知的好奇心旺盛で、早くから観察とスケッチ、鋭いウィットとユーモアの感性に能力を示し、ものまねにも才能を持っており、学校ではクラスの人気者だったという。パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た。高収入をえることができたことと、「僕は演奏会を開くのに向いていない。大勢の前にでるのが怖い。みんなの息づかいに胸が苦しくなり、好奇に満ちた目に体が硬直して、知らない人たちの前では物も言えなくなる。」と発言しているように、できるだけ公の場に出たくない性格だったため、生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという。
その優雅さや繊細さ、時に大胆さを含む豊かな表現力で人々を魅了し、ショパンは別名「ピアノの詩人」と呼ばれるようになった。
生まれつき体が強い方ではなく、長年喘息のような症状に苦しみ、インフルエンザにかかるたびに重症になるほどの繊細さで、生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家として有名である。繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、情熱的な作風の曲も多く見られる。
更に彼は生涯に4度恋をし、そのうちの3人とは恋仲になるなど人並みに幸せな経験をする。
病弱ゆえに行動に制限はあったものの、ショパンはいつも笑顔を忘れず多くの人に好かれる人だった。
一方、神経質で感受性が強く病気がちで苛立ちやすい人物であり、従順なへつらいに甘やかされた子どもの持つが如きかりそめの空想に安易に身をゆだね過ぎてしまう人だった。 それ故に警句の数々は時に残酷な様相を帯び、誠実で深い友情は心の奥底で傷つき、正しき感受性を宿した心は凍てつき、性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあった。
ピョートル・チャイコフスキー INFP(ESTP?) 繊細なホモセクシュアル
- 出身地:ロシア ウラル地方ヴォトキンスク
- 生年月日:1840年5月7日
- 死亡年月日:1893年11月6日(享年53歳)
- 19世紀後半ロシアの作曲家。
19世紀ロシアの音楽業界、「白鳥の湖」に始まるバレエ音楽盛り上げた功労者の一人。
ピョートルは、父44歳と母27歳の子として生まれた。
母アレクサンドリアは、父にとって二度目の妻で彼女は3、4歳の時母親に死なれ、孤児院で育った。豊かな教養とやさしさをもち、音楽についても歌やピアノの素養を身につけていたが、神経質で親ゆずりのてんかん症の持病があったとされる。
チャイコフスキーが4歳半のとき、家庭教師ファンニがつき、6歳でフランス語とドイツ語を完全に読むことができた。ファンニはチャイコフスキーの音楽的才能に関しては無関心で、文学的才能には一目おき、また傷つきやすい性質を見抜いて、“ガラスのような子供”とも称した。
5歳の頃には、ピアノをいじり始め、モーツァルト、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの音楽に熱中し、その旋律をすぐピアノで弾いていた。やがてピアノの先生としてマリア・マルコヴァナ・パリチコヴァが招かれ、大好きな家庭教師ファンニとも別れたいへんな悲しみを与えた。
父親の失職のため、当時の首都であったサンクトペテルブルクに移り、チャイコフスキーはここでフィリポフという有能なピアノの先生につき、めざましい進歩を見せ始めた。しかし、両親はチャイコフスキーの将来を考えて法律学校に入るための教育を受けることになる。
19歳で法律学校を立派な成績で卒業し法務省第一部(管理部)に配属、最終的に陸軍中佐に相当する地位になる。しかし、彼にとってこうした仕事自体は興味あるものではなく、本人は同性愛者でありホモセクシャルのグループとのつきあいが多かった。
当時のロシアではまだ職業音楽家の確立がなかったが、ロシアの音楽界にとって多大な貢献したアントン・グリゴーリエヴィチ・ルビンシテインがサンクトペルブルク音楽院を創立したのを機に、チャイコフスキーは音楽院に入学。ピアノにおいて優れていて、3ヶ月もしないうちに必修のピアノ課程を免除され音楽院のあらゆる科目に勤勉で、並外れた優秀さを示した。34歳の1874年4月から75年2月にかけて完成された。この時、彼はモスクワ音楽院教授であり、作曲家としてもかなり名を馳せ音楽家の道を歩むことになる。
しかし、作曲のプレッシャーで体調を崩すことや、音楽院卒業後初の作品を恩師に批判され、ショックで精神を病むなどメンタルは繊細で内向的な性格。同時代に活躍した「ロシア5人組」と呼ばれた作曲家たちとも距離を置いていた。外界から与えられるストレスに対してとことん弱く、度々うつ病の様な症状も発症していたといわれる。恋人(男)との破局後、37歳の時に結婚を強く迫ってきた妻と結婚するも6週間で生活は破綻しチャイコフスキーの精神を蝕んだ。この頃から転居を繰り返すが、これも彼女から逃れるためでもあったと言われ、4年後に離婚が成立する。
晩年最後の作品となった、交響曲第6番の『悲愴』初演の9日後に急死する。死因の原因はコレラ感染、自殺などあるが明らかになっていない。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ ISTP 喧嘩好きな愛妻家
- 出身地:ドイツ中部の田舎町 アイゼナッハ
- 生年月日:1685年
- 死亡年月日:1750年7月28日(享年 65歳)
- 音楽家。作曲家。宮廷楽師。演奏者。
17-18世紀ドイツの作曲家,オルガン奏者。17世紀~18世紀に流行したバロック音楽を集大成した人物であり「大バッハ」と呼ばれる。
テューリンゲン地方を中心に16世紀以来,約2世紀にわたり50人以上の音楽家を輩出した家系の出であり、8人の子供の末子。10歳足らずで両親を相次いで失い,長兄である教会オルガニストのヨハン・クリストフに引き取られ、当地の高等神学校で神学,歴史,古典,算術などを履修する。
教会の大オルガンの大規模な修復作業を手伝いつつ,オルガン構造の知識を得た。
青年期は、聖ヤコブ教会オルガニスト職に応募し合格するも変更され統治者筋として採用。
少年聖歌隊の指導なども行っていたが、学生との不和からその訓練を怠った点も聖職会議で指摘され,職務への意欲を失う。バッハの生活は決して楽なものではなく、短い曲を作曲してはそれを1曲3ターラー程度で売るという事もしていたが、契約した先々で様々な些細なトラブルも起こしていた。
1706年末に死亡したオルガニストの後任の応募に合格し新しい職に就任し、宮廷オルガニスト兼宮廷楽師となることで多くのオルガン曲をこの時期に作り、宮廷外でも確実に高い評価を得るようになった。
やがて、レーオポルト侯の宮廷楽長職に就任要望がありバッハは就任承諾書に署名した。
しかし、この辞任願いをめぐり領主との関係は最悪の事態となり拘置されたが釈放される。
レーオポルト侯の元では宮廷楽長の地位と恵まれた環境で音楽に没頭でき、レーポルト候はバッハを尊敬する友人としても対処し,給料は前任者の約2倍という異例の厚遇で、オルガン曲を除くバッハの器楽作品の大部分がこの時期に属する。
後にレーオポルト侯の元を去り、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任し、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。
1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れ回復はするものの、その治療の投薬などによる後遺症など重なり65歳でこの世を去った。
音楽以外には、まるで興味が無さそうなバッハだが、実は無類のコーヒー好きで、バッハの遺産リストの中には、5つのコーヒーポットやカップが入っていた。「勤勉が洋服を着て歩いているような人物」と表す人もいるように真面目で勉強家であったといわれる一方、喧嘩を売るなど周りとの対立が多かった。またコンサート会場までに450㎞歩くなどアクティブにであり、一途な愛妻家として知られる。
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