葦原中国が平定された後、天津国が高天原から葦原中国へ降り立つまでの創作物語版です。
古事記の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は、 饒速日命(にぎはやひのみこと)に十種の神宝(とくさのかんだから)を授け、 「この宝を携え、天磐船(あまのいわふね)に乗って地上へ降り、国を治めなさい」 と命じられました。
饒速日命はその勅命を深く受け止め、 天磐船に乗って高天原(たかまのはら)を離れ、 雲を押し分けながら天降りの道を進まれます。 やがて、河内国(かわちのくに)の河上哮ヶ峯(かわかみのたけるがみね)に、 まばゆい光とともに天降られました。 その姿は、天つ神の威光をそのまま地上に映したようであったと伝えられます。
哮ヶ峯に降り立った饒速日命は、 さらに大和国(やまとのくに)へと移り、 鳥見の白庭山(しらにわやま)に拠点を構えられました。 その地は、山々が連なり、霊気が満ちる大和の中心であり、 天つ神の御子が居すべき場所としてふさわしい地勢を備えていました。
このとき、大和を治めていた長髄彦(ながすねひこ)は、 天から降り立った饒速日命の威容を仰ぎ見て、
「まさしく天神の御子であられる」
と深く敬い、 妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻として差し出しました。 饒速日命はこれを受け入れ、 長髄彦の一族と結びつくことで、大和の地に勢力を築かれていきます。
饒速日命が白庭山に住まわれたことで、 大和には天つ神の系統による新たな秩序が芽生え、 地上の統治は、天の意志を帯びた存在によって形づくられるようになりました。 十種の神宝は、饒速日命の周囲に霊威をもたらし、 その力は大和の人々にとって、 天と地をつなぐ象徴として崇められたと語られます。
こうして饒速日命は、 天照大神の命を受けて大和へ降り立ち、 長髄彦の一族と結び、 大和の統治に深く関わる存在となりました。 のちに神武天皇(じんむてんのう)が東征して大和へ入るとき、 饒速日命は天つ神の御子として神武の正統性を認め、 長髄彦を離れて帰順することになりますが、 それはまた別の物語として語り継がれます。
饒速日命の天降りは、 邇邇芸命(ににぎのみこと)とは別系統の「もう一つの天孫降臨」として、 大和の神話に深い影を落とし、 天つ神の統治が二重に重なるという、 日本神話の大きな謎を形づくっています。
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神武前紀(ニギハヤヒの降臨は天孫降臨より後に書かれている)
【甲寅年】
天照大神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)に十種の神宝(とくさのかんだから)を授け、
天磐船(あまのいわふね)に乗って天下に降るよう命じられました。
饒速日命はその命に従い、天磐船に乗って河内国・河上哮ヶ峯(かわかみのたけるがみね)に天降られました。
その後、大和国鳥見の白庭山(しらにわやま)へ移られました。
長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命を天神の御子として敬い、
妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻として差し出しました。
饒速日命はこの地で勢力を持ち、大和の統治に関わるようになりました。
【戊午年】
神武天皇が大和へ向かわれたとき、長髄彦はこれを拒み、戦いとなりました。
長髄彦は「自分は天神の御子である饒速日命に仕えている」と主張し、
天皇の天孫としての正統性を疑いました。
しかし、饒速日命は天皇が天つ神の御子であることを知り、
長髄彦の不順を「道に背くもの」と判断されました。
そこで饒速日命は長髄彦を誅し、
自らの軍勢を率いて天皇のもとに参上し、申し上げました。
「私は天つ神の御子にお従いするため、この地に降りました。
今、天皇こそが天つ神の御子であると明らかになりましたので、
私はその御前に帰順いたします。」
こうして饒速日命は天皇に帰服し、
その子・宇摩志麻遅命は物部氏の祖として重んじられることになります。