龍神の記憶と目覚め  日本神話ー㉓神武東征記 1―日の御子、大和を開く―

日本神話ー㉓神武東征記 1―日の御子、大和を開く―

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創作物語版

神武天皇の神武東征を物語として章立てまとめています。
古事記の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

第一章 東へ向かう決意

高千穂宮(たかちほのみや)に、二人の兄弟がおられました。

兄は、五瀬命(いつせのみこと)。
弟は、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)です。

ある日のこと、二柱は天下を治めるため、どこに都を置くべきかを相談されました。

「どこか、天下を安らかに治めることのできる土地を探さなければなりません」

二人は考えました。

そして、東の方角を見つめながら、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が言いました。

「東へ進みましょう。きっと、天下を治めるにふさわしい土地があるはずです」

五瀬命(いつせのみこと)も頷きました。

こうして二柱は、東へ向かう長い旅に出発しました。

日向(ひむか)を出発し、筑紫国(つくしのくに)へと進んでいきます。

それは、後に「神武東征(じんむとうせい)」と呼ばれることになる、長い戦いと苦難の旅の始まりでした。

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第二章 宇沙から吉備へ

旅の途中、二柱は豊国(とよくに)の宇沙(うさ)に到着しました。

すると、宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比売(うさつひめ)という二人が、一行を迎えました。

二人は、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)という宮を造り、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)たちに、心を込めて御食膳(みけつもの)を奉りました。

「長旅でお疲れのことでしょう。どうぞお召し上がりください」

一行はそこで力を養い、再び東へ向かいました。

次に到着したのは、筑紫(つくし)の岡田宮(おかだのみや)です。

そこに一年間滞在しました。

さらに進んで、安芸国(あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)へ入りました。

ここでは、なんと七年間も過ごしました。

そして、さらに東へ進み、吉備(きび)の高島宮(たかしまのみや)へ移りました。

そこでは八年間を過ごしました。

長い年月をかけながら、一行は少しずつ東へ進んでいきました。

しかし、その先には、これまで以上に厳しい戦いが待ち受けていました。

第三章 海から現れた国つ神

吉備を出発し、さらに海を進んでいたときのことです。

遠くから、亀の甲に乗って釣りをしながら、両袖を振って近づいてくる男がいました。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、その男を呼び寄せました。

「あなたは誰ですか」

男は答えました。

「私は国つ神(くにつかみ)です」

「海の道をよく知っていますか」

「はい。よく知っております」

「それなら、私たちに従って仕えてくれますか」

男は、すぐに答えました。

「喜んでお仕えいたします」

そこで、男は船へ引き上げられました。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、その男に新しい名を与えました。

その名は、槁根津日子(さおねつひこ)です。

槁根津日子(さおねつひこ)は、その後も一行を助けることになります。

こうして新たな仲間を得た一行は、さらに海を進みました。

第四章 那賀須泥毘古との戦い

一行は浪速渡(なみはやのわたり)を越え、白肩津(しらかたのつ)に船を停めました。

しかし、そこにはすでに敵が待ち構えていました。

登美(とみ)の那賀須泥毘古(ながすねびこ)です。

那賀須泥毘古(ながすねびこ)は軍勢を率いて、一行を迎え撃とうとしていました。

「敵が来ます!」

兵士たちの声が響きます。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)たちは、船に積んであった楯(たて)を取り出しました。

そして、船から下りて戦いの場に立ちました。

そのため、この場所は楯津(たてつ)と呼ばれるようになったと伝えられています。

戦いが始まりました。

矢が飛び交い、武器が激しくぶつかり合います。

その中で、五瀬命(いつせのみこと)の手に、那賀須泥毘古(ながすねびこ)の放った矢が突き刺さりました。

「兄上!」

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が駆け寄ります。

五瀬命(いつせのみこと)は傷を押さえながら、空を見上げました。

そして、静かに言いました。

「私は日の神の御子です。それなのに、太陽に向かって敵と戦ってしまいました」

五瀬命(いつせのみこと)は、自らの戦い方を振り返りました。

「だからこそ、私は賤しい者の矢に傷つけられたのでしょう」

そして、強い決意を込めて言いました。

「これからは、太陽を背にして戦いましょう。南へ回り、日を背負って敵を討つのです」

一行は、進む方向を変えました。

第五章 血沼海と五瀬命の最期

一行は南へ回りながら進みました。

やがて、血沼海(ちぬのうみ)に到着しました。

五瀬命(いつせのみこと)は、傷ついた手を海に入れて洗いました。

赤い血が海へ流れていきます。

そのため、この海を血沼海(ちぬのうみ)と呼ぶようになったと伝えられています。

しかし、五瀬命(いつせのみこと)の傷は深く、体は次第に弱っていきました。

それでも五瀬命(いつせのみこと)は、決して弱音を吐きませんでした。

一行はさらに進み、紀伊国(きいのくに)の男之水門(おのみなと)へ到着しました。

五瀬命(いつせのみこと)は、静かに海を見つめました。

「賤しい者のために手傷を負って、私は死ぬのでしょうか……」

それが、五瀬命(いつせのみこと)の最後の言葉となりました。

そして、五瀬命(いつせのみこと)は、この地でお亡くなりになりました。

兄を失った悲しみを胸に、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、さらに東へ進むことを決意しました。

五瀬命(いつせのみこと)の御陵(みはか)は、紀伊国(きいのくに)の竈山(かまやま)にあると伝えられています。

第六章 熊野の荒ぶる神

兄を失った一行は、さらに南へ回って進みました。

そして、熊野村(くまののむら)に到着します。

そのときでした。

山の奥から、大きな熊が姿を現しました。

「熊だ!」

熊は一瞬だけ姿を見せると、すぐに山の中へ消えていきました。

しかし、その直後――。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、突然、意識を失ってしまいました。

兵士たちも次々と倒れていきます。

誰一人として動くことができません。

一行は、荒ぶる神の力によって打ち倒されてしまったのです。

そのとき、一人の男が現れました。

熊野(くまの)の高倉下(たかくらじ)です。

高倉下(たかくらじ)は、一振りの太刀を大切に抱えていました。

そして、その太刀を神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の前に差し出しました。

「この太刀をお受けください」

すると、不思議なことが起こりました。

太刀を受け取った瞬間、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、突然、目を覚ましました。

「私は……長い間、眠っていたのでしょうか」

そして、立ち上がりました。

すると同時に、熊野の山々にいた荒ぶる神々が、次々と切り倒されたかのように倒れていきました。

倒れていた兵士たちも、次々に目を覚ましました。

第七章 布都御魂の神秘

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、高倉下(たかくらじ)に尋ねました。

「この太刀は、いったいどこから来たのですか」

高倉下(たかくらじ)は答えました。

「夢のお告げがあったのです」

高倉下(たかくらじ)は、自分が見た夢について語り始めました。

夢の中で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神(たかぎのかみ)が、建御雷神(たけみかづちのかみ)に命じていました。

「葦原中国(あしはらのなかつくに)は、ひどく騒がしくなっています。天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)たちも苦しんでいるようです。国を平定するため、あなたが降りなさい」

しかし、建御雷神(たけみかづちのかみ)は答えました。

「私自身が降らなくても、この国を平定した太刀があります。この太刀を降しましょう」

その太刀こそが、佐士布都(さじふつ)、甕布都(みかふつ)、そして布都御魂(ふつのみたま)と呼ばれる太刀でした。

建御雷神(たけみかづちのかみ)は、その太刀を高倉下(たかくらじ)の倉へ送り届けることを告げました。

そして翌朝。

高倉下(たかくらじ)が目を覚ますと、夢で告げられた通り、倉の中に一本の太刀が置かれていました。

「これが、夢のお告げにあった太刀なのです」

高倉下(たかくらじ)は、その太刀を神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)へ献上したのでした。

こうして、布都御魂(ふつのみたま)は天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)の手に渡ったのです。

第八章 八咫烏の道案内

すると、高木神(たかぎのかみ)から、さらにお告げがありました。

「ここから先には、荒ぶる神が数多くいます。これ以上、道を知らずに進んではなりません」

そして、天上から一羽の烏が遣わされました。

その名は、八咫烏(やたがらす)です。

「八咫烏(やたがらす)の飛んでいく後について進みなさい」

一行は、八咫烏(やたがらす)の後を追いました。

険しい山道を越え、深い森を抜け、やがて吉野川(よしのがわ)の川下へたどり着きました。

そこで、一人の男が魚を捕っていました。

「あなたは誰ですか」

「私は国つ神(くにつかみ)です。贄持之子(にえもつのこ)と申します」

彼は、阿陀(あだ)の鵜飼部(うかいべ)の祖先と伝えられています。

さらに進むと、井戸の中から尾の生えた人物が現れました。

井戸の中は、不思議な光に照らされていました。

「あなたは誰ですか」

「私は国つ神(くにつかみ)、井氷鹿(いひか)です」

井氷鹿(いひか)は吉野首(よしののおびと)の祖先と伝えられています。

さらに山へ進むと、岩を押し分けて、また尾の生えた人物が現れました。

「私は国つ神(くにつかみ)、石押分之子(いわおしわくのこ)です。天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞き、お迎えに参りました」

彼は吉野(よしの)の国栖(くず)の祖先と伝えられています。

こうして一行は、土地の神々と出会いながら、さらに山を越えていきました。

そして、ついに宇陀(うだ)へ進みました。

第九章 兄宇迦斯の罠

しかし、宇陀(うだ)には、兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいました。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、八咫烏(やたがらす)を使いとして送りました。

「天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになりました。あなたたちはお仕えしますか」

ところが、兄宇迦斯(えうかし)は、八咫烏(やたがらす)に向かって鳴鏑(なりかぶら)の矢を放ちました。

八咫烏(やたがらす)は飛び去っていきます。

兄宇迦斯(えうかし)は、敵を倒そうと考えました。

しかし、味方となる軍勢を集めることができませんでした。

そこで、兄宇迦斯(えうかし)は別の計略を考えます。

「仕えるふりをして、罠を仕掛けよう」

そして立派な御殿を造り、その中に押罠(おしわな)を仕掛けました。

天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)を、その罠で殺そうとしたのです。

しかし、その計画を知った弟宇迦斯(おとうかし)は、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)のもとへ走りました。

「兄はあなたを殺そうとしています。御殿の中には罠が仕掛けられています」

すべてを打ち明けたのです。

第十章 兄宇迦斯、自らの罠に落ちる

兄宇迦斯(えうかし)の企みを知った道臣命(みちのおみのみこと)と大久米(おおくめ)は、兄宇迦斯(えうかし)を呼び出しました。

「おまえが天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)に仕えるために造った御殿なのだろう?」

兄宇迦斯(えうかし)は黙っています。

「それなら、まずおまえ自身が中へ入って、その忠誠を見せなさい」

二人は太刀の柄を握り、矛を構え、矢をつがえました。

逃げ場を失った兄宇迦斯(えうかし)は、ついに自分が仕掛けた押罠(おしわな)の中へ追い込まれてしまいました。

そして――。

兄宇迦斯(えうかし)は、自分自身が仕掛けた罠によって命を落としました。

その遺体は引き出され、斬り散らされました。

そのため、この地は宇陀の血原(うだのちはら)と呼ばれるようになったと伝えられています。

一方、弟宇迦斯(おとうかし)が献上した御馳走は、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)の軍勢に与えられました。

第十一章 久米歌と土雲の討伐

さらに進んだ一行は、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)へ到着しました。

そこには、尾の生えた土雲(つちぐも)の八十建(やそたける)たちが待ち構えていました。

彼らは岩屋(いわや)の中に大勢で集まり、恐ろしい唸り声をあげています。

しかし、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、ある作戦を考えました。

「御馳走を用意しましょう」

料理人たちに武器を隠し持たせ、一人一人に太刀を佩(は)かせました。

そして命じます。

「私が歌を詠んだら、一斉に斬りかかりなさい」

やがて宴が始まりました。

兵士たちは歌を詠みました。

久米部(くめべ)の勇ましい兵士たちが、太刀を構えて敵を討つ――。

その歌が合図でした。

「今です!」

料理人たちは一斉に太刀を抜きました。

そして、土雲(つちぐも)の八十建(やそたける)を討ち取りました。

こうして、一行はまた一つ、東への道を切り開いたのです。

第十二章 敵を討つ久米歌

さらに、登美毘古(とみびこ)を討とうとしたときにも、久米部(くめべ)は歌を詠みました。

粟畑(あわばたけ)に生えた韮(ひる)の根と芽を、一緒に引き抜くように、敵を次々と捕らえて討ち取ろう。

また、山椒(さんしょう)の実のように、敵から受けた痛みは忘れない。

そして、伊勢(いせ)の海の石に這う細螺(しただみ)のように、敵の周囲を這い回り、ついには討ち滅ぼそう。

それは、戦いの苦しさを力に変える歌でした。

久米部(くめべ)の兵士たちは、その歌声とともに戦いました。

第十三章 邇芸速日命の降伏(古事記版)

しかし、戦いは決して楽なものではありませんでした。

兄師木(えしき)と弟師木(おとしき)との戦いでは、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)の軍勢も疲れ果てました。

そこで、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は歌を詠みました。

「伊那佐(いなざ)の山の木々の間を進みながら、敵を見守って戦ったため、私たちは腹を空かせています。鵜養部(うかいべ)の者たちよ、どうか助けに来てください」

そのときです。

一人の人物が姿を現しました。

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)です。

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)は、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)の前に進み出ました。

「天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)が、この地へ天降ってこられたと聞きました。そこで、私もあなたの後を追って天降って参りました」

そして、瑞(しるし)の宝物を差し出し、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)に仕えることを誓いました。

こうして、強力な味方がまた一人加わったのです。

第十三章 邇芸速日命の帰順(日本書紀版) ― 金鵄の光、天つ神の御子を照らす

兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)との戦いは長く続き、 伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)の軍勢は疲れ果てていました。 伊那佐(いなざ)の山の木々の間を進みながら敵を見張り続けたため、 兵たちの腹は空き、士気も揺らぎはじめていました。

そのとき、伊波礼毘古命は歌を詠みました。

「伊那佐の山の木々の間を進みながら敵を見守って戦ったため、 我らは腹を空かせている。鵜養部(うかいべ)の者たちよ、どうか助けに来てほしい」

歌声が山風に乗って消えゆくころ、 空の彼方から、ひときわ強い光が差し込みました。

黄金の鳥――金鵄(きんし)です。

金鵄は天から舞い降り、 伊波礼毘古命の弓の先にふわりと止まりました。 その羽は陽光のように輝き、 周囲の空気までも震わせるほどの光を放ちました。

敵軍はその光に目をくらまし、 伊波礼毘古命の軍勢は一瞬にして息を吹き返しました。 兵たちはその光を「天つ神の御子に与えられた瑞兆」と感じ、 再び前へ進む力を得たのです。

その光の中、 陣の前に一人の人物が姿を現しました。

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)です。 彼は長髄彦(ながすねひこ)に伴われていました。 長髄彦は、邇芸速日命こそ天つ神の御子であると信じ、 深く敬って主君として迎えていたのです。

しかし、金鵄の光に照らされた邇芸速日命は、 静かに伊波礼毘古命の前へ進み出ました。

「天つ神の御子が、この地へ天降られたと聞きました。 その御子こそ、まさにこの方である。 私は天つ神の命を受け、天磐船に乗って天降りましたが、 今ここに、真の天つ神の御子を見ました。」

邇芸速日命はそう言い、 天つ神から授かった瑞(しるし)の宝物――十種神宝(とくさのかんだから)を差し出しました。 金鵄の光はその宝物を照らし、 まるで天が二人の天孫の出会いを祝福しているかのようでした。

長髄彦は驚愕しました。 自らが主君として仰いできた邇芸速日命が、 目の前で伊波礼毘古命こそ天つ神の御子であると宣言したからです。

しかし、長髄彦はなおも従おうとはしませんでした。 邇芸速日命が諫めても耳を貸さず、 ついには邇芸速日命自身によって討たれることになります。

こうして、邇芸速日命は伊波礼毘古命の軍に加わり、 金鵄の光に導かれながら、 大和の地を開く戦いは新たな段階へと進んでいきました。

第十四章 大和を平定する

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)は、登美毘古(とみびこ)の妹、登美夜毘売(とみやびめ)と結婚しました。

二人の間に生まれた子が、宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)です。

宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)は、後に物部連(もののべのむらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)らの祖先になったと伝えられています。

こうして伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、荒ぶる神々を平定し、従わない人々を次々と退けていきました。

長い旅。

数々の戦い。

そして、多くの犠牲。

そのすべてを乗り越えて、一行はついに大和の地へ入りました。

そして、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)において、天下を治めることになったのです。

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古事記現代語訳

東征と五瀬命(いつせのみこと)の戦死

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、兄の五瀬命(いつせのみこと)と二柱で、高千穂宮(たかちほのみや)にいました。

そして、二柱は天下を治めるため、どこに都を置くべきか相談しました。
「どこの地にいたならば、安らかに天下の政治を行うことができるでしょうか。やはり、東の方に都の地を求めて進んでいこうと思います」
そう決意されると、ただちに日向(ひむか)から出発して、筑紫国(つくしのくに)へ向かいました。

豊国(とよくに)の宇沙(うさ)に到着されたとき、その国の住民である宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比売(うさつひめ)という二人が、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を造り、御食膳(みけつもの)を奉りました。
そこからさらに移動し、筑紫(つくし)の岡田宮(おかだのみや)に一年間滞在しました。

またそこから移動して、安芸国(あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に七年間滞在しました。
さらにそこから移動し、吉備(きび)の高島宮(たかしまのみや)に八年間滞在しました。
そして、その国からさらに進んだときのことです。
亀の甲に乗って釣りをしながら、両袖を振ってやって来る者がいました。その人物と、速吸門(はやすいのと)で出会いました。

そこで、その者を呼び寄せて尋ねました。
「あなたは誰ですか」
すると、その者は答えました。
「私は国つ神(くにつかみ)です」
「あなたは海路を知っていますか」
「よく存じています」
「それなら、私に従ってお仕えしますか」
「お仕えいたしましょう」

そこで、竿(さお)を差し渡して船に引き入れ、槁根津日子(さおねつひこ)という名を与えました。
この人物は、大和国造(やまとのくにのみやつこ)らの祖先であると伝えられています。
その国からさらに進み、浪速渡(なみはやのわたり)を経て、白肩津(しらかたのつ)に船を停めました。
このとき、登美(とみ)の那賀須泥毘古(ながすねびこ)が軍勢を起こし、待ち受けていました。
そこで、船に入れてあった楯(たて)を取り出し、船から下りて立たれました。
そのため、その地を楯津(たてつ)と呼ぶようになりました。現在も日下(くさか)の蓼津(たでつ)と呼ばれていると伝えられています。

こうして登美毘古(とみびこ)、すなわち那賀須泥毘古(ながすねびこ)と戦ったとき、五瀬命(いつせのみこと)は、手に登美毘古(とみびこ)の放った矢を受けました。

そこで五瀬命(いつせのみこと)は言いました。
「私は日の神の御子です。その私が、日に向かって戦うのはよくありませんでした。そのため、賤しい者の矢によって重傷を負ったのでしょう。これからは遠回りをして、日を背に負って敵を討ちましょう」
そう誓われると、一行は南の方から回って進みました。

そして、血沼海(ちぬのうみ)に到着すると、五瀬命(いつせのみこと)は傷ついた手の血を海で洗いました。
そのため、その海を血沼海(ちぬのうみ)と呼ぶようになったと伝えられています。

そこからさらに回って進み、紀伊国(きいのくに)の男之水門(おのみなと)に到着しました。
五瀬命(いつせのみこと)は、
「賤しい者のために手傷を負って、私は死ぬのでしょうか」
と、最後まで雄々しく振る舞いました。
しかし、そこで五瀬命(いつせのみこと)はお亡くなりになりました。
そのため、その水門を男之水門(おのみなと)と名づけたと伝えられています。
五瀬命(いつせのみこと)の御陵(みはか)は、紀伊国(きいのくに)の竈山(かまやま)にあるとされています。


布都御魂(ふつのみたま)と八咫烏(やたがらす)

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、そこから南へ回って進み、熊野村(くまののむら)に到着しました。
そのとき、大きな熊がちらりと姿を現したかと思うと、やがて姿を消しました。
すると、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、突然正気を失われました。また、兵士たちも皆、気を失って倒れてしまいました。
このとき、熊野(くまの)の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持って、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)が倒れているところへやって来ました。
そして、その太刀を奉りました。
すると、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)は、ただちに正気を取り戻して起き上がりました。
「私は長い間、眠っていたのでしょうか」
そう言われました。
そして、その太刀をお受け取りになると同時に、熊野(くまの)の山の荒ぶる神々は、自然に皆、切り倒されてしまいました。
また、気を失って倒れていた兵士たちも、皆、正気を取り戻して起き上がりました。
そこで、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)が、その太刀を手に入れた理由を尋ねると、高倉下(たかくらじ)は答えました。

「私が夢に見たことを申し上げます。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神(たかぎのかみ)の二柱の神のお命令によって、建御雷神(たけみかづちのかみ)を呼び寄せました。
そして、二柱の神は建御雷神(たけみかづちのかみ)に、
『葦原中国(あしはらのなかつくに)は、ひどく騒然としているようです。我が御子たちは病み悩んでいるらしいのです。その葦原中国(あしはらのなかつくに)は、もっぱら、あなたが服従させた国です。だから、建御雷神(たけみかづちのかみ)が降って行きなさい』
と仰せになりました。

すると建御雷神(たけみかづちのかみ)は、
『私が降らなくても、もっぱらその国を平定した太刀がありますので、この太刀を降しましょう』
と申しました。
その太刀の名は、佐士布都(さじふつ)といい、またの名を甕布都(みかふつ)、またの名を布都御魂(ふつのみたま)といいます。
この太刀は、石上神宮(いそのかみじんぐう)に鎮座している太刀です。

そして建御雷神(たけみかづちのかみ)は、
『この太刀を降す方法は、高倉下(たかくらじ)の倉(くら)の棟(むね)を穿(うが)って、その穴から落とし入れることにしましょう。だから、おまえは朝、目覚めたなら、縁起のよい太刀を見つけ、それを天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)に献上しなさい』
と仰せになりました。

そこで、夢のお告げのとおり、翌朝に倉の中を見ると、やはりこの太刀がありました。
それで、この太刀を献上する次第です」
高倉下(たかくらじ)は、このように申し上げました。

すると、高木神(たかぎのかみ)の指示によって、さらに次のようなことが伝えられました。
「天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)を、ここから奥へ進ませてはいけません。荒ぶる神が非常にたくさんいるからです。
今、天上から八咫烏(やたがらす)を遣わしましょう。そして、その八咫烏(やたがらす)が先導します。
その烏(からす)の飛び立つあとについて行って、お進みなさい」
そこで、指示に従って八咫烏(やたがらす)の後について進むと、吉野川(よしのがわ)の川下に到着しました。
そのとき、筌(うえ)を作って魚を取っている人がいました。

そこで、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)が尋ねました。
「あなたは誰ですか」
すると、その人物は、
「私は国つ神(くにつかみ)で、名は贄持之子(にえもつのこ)と申します」
と答えました。

これは、阿陀(あだ)の鵜飼部(うかいべ)の祖先であると伝えられています。
そこからさらに進むと、尾の生えた人が井戸から出てきました。
その井戸の中は光っていました。

そこで、
「あなたは誰ですか」
と尋ねると、
「私は国つ神(くにつかみ)で、名は井氷鹿(いひか)です」
と答えました。
これは吉野首(よしののおびと)の祖先であると伝えられています。
さらに、その山に入ると、また尾の生えた人に出会いました。
その人は、岩を押し分けて出てきました。

そこで、
「あなたは誰ですか」
と尋ねると、
「私は国つ神(くにつかみ)で、名は石押分之子(いわおしわくのこ)と申します。今、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞きましたので、お迎えに参ったのです」
と答えました。
これは、吉野(よしの)の国栖(くず)の祖先であると伝えられています。

さらにそこから山坂を踏み分けて越え、宇陀(うだ)へ進みました。
そして、その場所を宇陀の穿(うだのうかち)と呼ぶようになったと伝えられています。


兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)

ところが、この宇陀(うだ)には、兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)の二人がいました。
そこで、まず八咫烏(やたがらす)を遣わして、二人に尋ねさせました。
「今、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになりました。あなたたちはお仕え申し上げますか」
すると兄宇迦斯(えうかし)は、鳴鏑(なりかぶら)の矢で八咫烏(やたがらす)を待ち受けて射て、追い返しました。
この鳴鏑(なりかぶら)の落ちたところを、訶夫羅前(かぶらさき)と呼ぶようになりました。
兄宇迦斯(えうかし)は、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)を待ち受けて攻撃しようと考え、軍勢を集めようとしました。

しかし、軍勢を集めることができませんでした。
そこで、仕えるふりをして偽り、御殿を造りました。
そして、その御殿の中に押罠(おしわな)を仕掛け、待ち受けていました。
そのとき、弟宇迦斯(おとうかし)が伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)をお迎えに行き、拝礼して申し上げました。

「私の兄、兄宇迦斯(えうかし)は、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)の使者を射返し、待ち受けて攻めようとして軍勢を集めました。しかし、軍勢を集めることができませんでした。
そこで、御殿を造り、その中に押罠(おしわな)を仕掛け、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)を待ち受けて殺そうとしています。
それで私はお迎えに参り、この計画をすべて申し上げています」
と告げました。
そこで、大伴連(おおとものむらじ)らの祖先である道臣命(みちのおみのみこと)と、久米直(くめのあたい)らの祖先である大久米(おおくめ)の二人が、兄宇迦斯(えうかし)を呼んで罵りました。

「おまえがお仕え申すために造った御殿の中には、まずおまえ自身が入って、お仕え申し上げようとする様子をはっきり見せなさい」
そう言って、太刀の柄を握り、矛をしごき、矢をつがえて追い込みました。
すると兄宇迦斯(えうかし)は、自分で仕掛けた押罠(おしわな)にかかって死んでしまいました。

さらに兄宇迦斯(えうかし)の遺体を引き出し、斬り散らしました。
そのため、その地を宇陀の血原(うだのちはら)と呼ぶようになったと伝えられています。
弟宇迦斯(おとうかし)が伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)に献上した御馳走は、すべてその軍勢に与えられました。

このとき、次の歌を詠みました。

宇陀(うだ)の高地の狩り場に、鴫罠(しぎわな)を張ります。
私が待っている鴫(しぎ)はかからず、思いもよらない鯨(くじら)がかかりました。
古妻がお菜を欲しがったなら、肉の少ないところをへぎ取ってやるとよいでしょう。
後で娶った妻がお菜を欲しがったなら、肉の多いところをたくさんへぎ取ってやるとよいでしょう。
エー、シヤコシヤ。アー、シヤコシヤ。
弟宇迦斯(おとうかし)は、宇陀水取(うだのもいとり)らの祖先であると伝えられています。


久米歌(くめうた)と橿原(かしはら)入り

そこからさらに進み、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に到着されたとき、尾の生えた土雲(つちぐも)という大勢の強者、八十建(やそたける)が、その岩屋(いわや)の中で待ち受け、唸り声をあげていました。
そこで、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)である伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)の命令によって、御馳走を大勢の強者たちに与えました。
このとき、多くの強者たちに対して、多くの料理人を用意しました。
そして、一人一人に太刀を佩(は)かせ、その料理人たちに、
「歌を聞いたら、一斉に斬りつけなさい」
と指示しました。
土雲(つちぐも)を討とうとすることを示した歌は、次のようなものでした。

忍坂(おさか)の大きな土室(つちむろ)に、人が数多く集まって入っています。
どんなに多くの人が入っていても、
勢い盛んな久米部(くめべ)の兵士が、
頭椎(くぶつつ)の太刀や石椎(いしつつ)の太刀でもって、撃ってしまいます。
勢い盛んな久米部(くめべ)の兵士たちが、
頭椎(くぶつつ)の太刀や石椎(いしつつ)の太刀でもって、
今、撃ったらよいのです。

このように歌うと、太刀を抜いて一斉に打ち殺しました。
その後、登美毘古(とみびこ)を討とうとされたときにも、歌を詠みました。
その歌は次のとおりです。

久米部(くめべ)の者たちが作っている粟畑(あわばたけ)には、
臭気の強い韮(ひる)が一本生えています。
その根と芽を一緒に引き抜くように、
数珠つなぎに敵を捕らえて、
撃ち取ってしまいましょう。

その他にも、次の歌を詠みました。
久米部(くめべ)の者たちが垣のほとりに植えた山椒(さんしょう)の実は辛く、
口がひりひりします。
私たちは、敵から受けた痛手を忘れません。
敵を撃ち取ってしまいましょう。
また、次の歌もあります。

伊勢(いせ)の海の生い立つ石に這いまつわっている細螺(しただみ)のように、
敵のまわりを這い回って、
撃ち滅ぼしてしまいましょう。

また、兄師木(えしき)と弟師木(おとしき)を討たれたとき、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)の軍勢はしばらく疲れました。

そこで、次の歌をお詠みになりました。
伊那佐(いなざ)の山の木の間を通って行きながら、
敵の様子を見守って戦ったので、
私たちは腹が減りました。
鵜養部(うかいべ)の者たちよ、
今すぐに助けに来てください。

そのとき、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)のもとに参上し、申し上げました。
「天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)が天降って来られたと聞きましたので、そのあとを追って、私も天降って参りました」
そう申し上げると、天つ神(あまつかみ)の御子(みこ)に、瑞(しるし)の宝物を奉って、お仕え申し上げました。

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)は、登美毘古(とみびこ)の妹である登美夜毘売(とみやびめ)と結婚しました。
そして、生まれた子が宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)といい、この人物は物部連(もののべのむらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)の祖先であると伝えられています。
さて、このようにして伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、荒ぶる神々を平定し、服従しない人々を撃退しました。
そして、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)において、天下をお治めになりました。


日本書紀現代語訳

東征への出発

日本磐余彦天皇(にほんやまといわれびこのすめらみこと)の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ひこほほでみ)と申します。
鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子でございます。
母は玉依姫(たまよりひめ)といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘でございます。

天皇は生まれながらに賢く、気性がしっかりしておられました。
十五歳で皇太子となられました。
成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶って妃とされ、手研耳命(たぎしみみのみこと)をお生みになりました。

東征を決意される

四十五歳になられたとき、天皇は兄弟や子どもたちに語られました。
「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神(あまてらすおおみかみ)が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。
そこで瓊瓊杵尊は天の戸を押し開き、路を押し分け、先払いを走らせてお出でになった。
代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。
しかし遠い国々ではまだ王の恵みが及ばず、村々は境を設けて争っている。
塩土(しおつつ)の翁が言うには、『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って飛び降った者がいる』という。
その者は饒速日(にぎはやひ)であろう。
そこに行って都をつくるべきである。」

諸皇子たちも賛同し、この年(甲寅)に東征を開始されました。

速吸之門(はやすいのと/豊予海峡)

速吸之門(はやすいのと)にお出でになると、一人の漁人(あま)が小舟で近づきました。
天皇が「お前は誰か」と問われると、漁人は答えました。
「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。
天つ神の御子がおいでになると聞き、お迎えに参りました。」
天皇は道案内を命じ、漁人を舟に引き入れ、椎根津彦(しいねつひこ)の名を賜りました。
これが倭直(やまとのあたい)の祖でございます。

宇佐(うさ)・宇佐神宮

筑紫国(ちくしのくに)の宇佐(うさ)に着かれると、宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)が川のほとりに宮を造ってもてなしました。
宇佐津姫は天種子命(あまのたねのみこと)に娶わせられました。
天種子命は中臣氏(なかとみのうじ)の祖でございます。

十一月九日、筑紫国の岡水門(おかのみなと)に着かれ、
十二月二十七日、安芸国(あきのくに)の埃宮(えのみや)にお出でになりました。

安芸(あき)・吉備(きび)・難波(なにわ)

翌年三月六日、吉備国(きびのくに)に移られ、高島宮(たかしまのみや)を造られました。
三年間、兵器・糧食を蓄え、天下平定の準備をされました。

戊午の年二月十一日、東へ向かわれました。
難波(なにわ)の岬に着くと潮流が速く、すぐに到着したため、浪速国(なみはやのくに)と名づけました。

三月十日、河内国草香村(かわちのくにくさかむら/日下村)白肩津(しらかたのつ)に着かれました。

五瀬命(いつせのみこと)の死

四月九日、竜田(たつた)へ向かう道は険しく、進めませんでした。
そこで生駒山(いこまやま)を越えて内つ国へ入ろうとされました。
長髄彦(ながすねひこ)はこれを聞き、
「天神の子が来るのは我が国を奪うためだ」
と言って孔舍衛坂(くさえのさか)で戦いました。
流れ矢が五瀬命(いつせのみこと)の肘脛に当たり、軍は進めませんでした。
天皇は、
「日神の子孫である私が、日に向かって戦うのは天道に逆らう。
一度退き、背に太陽を負って戦うべきだ。」
と述べ、草香津(くさかのつ)に退きました。
盾を立てて雄叫びしたため、その津を盾津(たてつ)と呼ぶようになりました。
五月八日、茅淳(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に着くころ、五瀬命の傷は悪化しました。
命は剣を撫でて雄叫びし、
「丈夫(ますらお)が賊に傷つけられ、報いずに死ぬとは無念だ」
と言われました。
その地を雄水門(おのみなと)と名づけました。
軍は紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に至り、五瀬命は亡くなり、同地に葬られました。

稲飯命(いなひのみこと)・三毛入野命(みけいりのみこと)の別れ

六月二十三日、名草邑(なくさむら)に着き、名草戸畔(なくさとべ)という女賊を誅しました。
佐野(さの)を越えて熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に至り、天磐盾(あまのいわたて)に登りました。

海を渡ろうとすると暴風に遭い、船は進みませんでした。
稲飯命(いなひのみこと)は嘆いて言われました。

「我が先祖は天つ神、母は海神であるのに、なぜ陸でも海でも我を苦しめるのか。」
そう言って海に入り、鋤持神(さびもちのかみ)となられました。

三毛入野命(みけいりのみこと)も恨んで言われました。

「母も姨も海神であるのに、なぜ波を立てて我らを溺れさせるのか。」

そう言って常世国(とこよのくに)へ行かれました。

八咫烏(やたがらす)

天皇はひとり、皇子である手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を率いて進み、熊野の荒坂の津(くまののあらさかのつ)に着かれました。
そこで丹敷戸畔(たきしとべ)という女賊を誅されました。

そのとき、神が毒気を吐いて人々を弱らせました。
このため皇軍は振るわず、進むことができませんでした。
するとそこに、熊野の高倉下(たかくらじ)という人がいました。

その夜、高倉下の夢に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)に語られる声が聞こえました。

「葦原中国(あしはらのなかつくに)は、まだ乱れ騒がしい。お前が往って平げなさい。」

武甕雷神は答えました。

「私が行かなくても、国を平定したときの剣を差し向ければ、国は自ら安定するでしょう。」

天照大神は、
「もっともだ。」
とお答えになりました。

そこで武甕雷神は高倉下に語りました。
「私の剣は名を『布都御魂(ふつのみたま)』という。それをあなたの倉の中に置こう。
それを取って天孫に献上しなさい。」

高倉下が「承知しました」と答えると、夢から覚めました。
翌朝、倉を開いてみると、夢のとおり剣が庫の底板に逆さに突き刺さっていました。
高倉下はそれを取って天皇に献上しました。

そのとき天皇は深く眠っておられましたが、たちまち目覚め、
「自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう。」
と言われました。
すると毒気に当たっていた兵たちも皆、同時に目を覚ましました。

八咫烏(やたがらす)の出現

皇軍は内つ国へ向かおうとしましたが、山は険しく道もなく、進退に迷いました。
その夜、天皇は再び夢を見られました。

天照大神が語られました。
「吾は今、八咫烏(やたがらす)を遣わす。これを案内にせよ。」

すると八咫烏が大空から飛び降りてきました。
天皇は言われました。

「この烏の来たことは瑞夢にかなっている。偉大で栄誉あることだ。
天照大神が我々の事業を助けようとしてくださっている。」

このとき、大伴氏(おおとものうじ)の先祖である日臣命(ひのおみのみこと)は、大来目(おおくめ)を率いて大軍の監督者となり、山を越え、道を踏み分け、烏の導きに従って進みました。

そしてついに宇陀の下県(うだのしもつこおり)に着きました。
その場所を宇陀の穿邑(うだのうかちのむら)と名づけました。

天皇は日臣命をほめて言われました。

「お前は忠勇の士であり、軍をよく導いた。
名を改めて道臣(みちのおみ)としよう。」

兄猾(えうかし)と弟猾(おとがし)

秋八月二日、兄猾(えうかし)と弟猾(おとがし)を呼びました。
この二人は、宇陀の県(うだのこおり)の人々の頭でございました。

ところが、兄猾(えうかし)はこれに応じませんでしたが、弟猾(おとがし)はやってきて、軍門(みかど)を拝み、申し上げました。

「私の兄、兄猾(えうかし)は、天孫がお出でになると聞き、兵を率いてこれを襲おうとしております。
皇軍の軍勢を眺めると、戦いにくいことを恐れて、こっそり兵を隠し、仮の新宮(にいのみや)を造り、その御殿の中に仕掛けを設け、もてなすように見せかけて事を起こそうとしています。
どうかこの謀をお知りいただき、よく備えてください。」

天皇は道臣命(みちのおみ)を遣わして、その計略を調べさせました。
道臣命はこれを仔細に調べ、兄猾に暗殺の心があることを知り、大いに怒って叱責し、

「卑怯者だ。お前が造った部屋に、自分で入るがよい。」

と言って剣を構え、弓をつがえて中へ追い詰めました。
兄猾(えうかし)は天を欺いたため言い逃れできず、自ら仕掛けに落ちて圧死しました。

その屍を引き出して斬ると、流れる血はくるぶしを埋めるほどに溢れました。
それで、その場所を宇陀の血原(うだのちはら)と呼びました。

弟猾(おとがし)は、たくさんの肉と酒を用意して皇軍を労い、もてなしました。
天皇は酒肉を兵士たちに分け与え、歌を詠まれました。


来目歌(くめうた)

ウタノタカキニ、シギワナハル、ワガマツヤ、シギハサヤラズ、イスクハシ、クデラサヤリ、コナミガ、ナコハサバ、タチソバノミノ、ナケクヲ、コキシヒエネ、ウハナリガ、ナコハサバ、イチサカキミノ、オホケクヲ、コキタヒエネ。
(宇陀(うだ)の高城(たかき)に嶋をとるワナを張って私が待っていると、鴨はかからず鷹がかかりました。これは大漁です。
古女房が獲物をくれと言ったら、やせそばの実のないところをたくさんやりなさい。
若女房が獲物をくれと言ったら、斎賢木(いちさかき)のように実の多いところをたくさんやりなさい。)

これを来目歌(くめうた)といいます。
現在、楽府(おおうたどころ)でこの歌を歌うとき、手の広げ方の大小や声の太さ細さに違いがあるのは、古くからの遺法でございます。

吉野(よしの)での邂逅

この後、天皇は吉野(よしの)のあたりをご覧になりたいと思われ、宇陀の穿邑(うだのうかちのむら)から軽装の兵を連れて巡幸されました。
吉野に着かれたとき、そこに人がいて、井戸の中から出てきました。
その人は体が光り、尻尾がありました。

天皇が、
「お前は何者か。」
と問われると、
「手前は国つ神で、名は井光(いひか)と申します。」
と答えました。
これは吉野の首部(きびのおびと)の先祖でございます。

さらに少し進むと、また尾のある人が岩を押し分けて出てきました。
天皇が問われると、

「手前は石押分(いわおしわく)の子です。」
と答えました。
これは吉野の国栖(くず)の先祖でございます。

川に沿って西においでになると、また梁(やな)を設けて漁をする者がありました。
天皇が尋ねられると、その者は、
「手前は苞苴担(にえもつ)の子です。」
と言いました。
これは阿太(あだ)の養鵜部(うかいら)の先祖でございます。

八十梟帥(やそたける)の布陣

九月五日、天皇は宇陀の高倉山(うだのたかくらやま)の頂に登って、国の中を眺められました。
そのころ国見丘(くにみのたけ)の上には八十梟帥(やそたける)がいました。
女坂(めさか)には女軍(めのいくさ)を置き、男坂(おさか)には男軍(おのいくさ)を置き、墨坂(すみさか)にはおこし炭を置いていました。
女坂・男坂・墨坂の名はここから起こったものです。

また兄磯城(えしき)の軍は磐余邑(いわれのむら)に溢れていました。
敵の拠点はみな要害の地であり、このため道は絶え塞がれて通るべきところがありませんでした。
天皇はこれを憎まれました。

天つ神(あまつかみ)の夢告

その夜、天皇は神に祈ってお休みになりました。
すると夢に天つ神(あまつかみ)が現れ、こう言いました。

「天香具山(あまのかぐやま)の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、
お神酒(みき)を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。
また身を清めて呪詛を行え。
そうすれば敵は自然に降伏するだろう。」

天香具山(あまのかぐやま)の土を取る

天皇は夢のお告げを謹んで承り、実行しようとされました。
そのとき弟猾(おとがし)が申し上げました。
「倭の国の磯城邑(しきのむら)には磯城(しき)の八十梟帥(やそたける)がいます。
また葛城邑(かずらきのむら)には赤銅(あかがね)の八十梟帥がいます。
この者たちは皆、天皇にそむき戦おうとしています。
今、天香具山(あまのかぐやま)の赤土を取って平瓦をつくり、天神地祇をお祀りください。
そうすれば敵を討ち払いやすくなるでしょう。」

天皇は夢のお告げが吉兆であると感じておられ、弟猾の言葉を聞いて喜ばれました。

そこで椎根津彦(しいねつひこ)に着古した衣服と蓑笠を着せて老人の姿にし、
弟猾(おとがし)には箕(みの)を着せて老婆の姿にし、
「お前たち二人、香具山(かぐやま)に行って、こっそり頂の土を取ってきなさい。
大業の成否はお前たちで占おう。しっかりやってこい。」
と命じられました。

敵陣をすり抜ける

そのとき敵兵は道を覆い尽くしており、通ることは困難でした。
椎根津彦(しいねつひこ)は神意を占い、
「我が君がこの国を定められるなら、行く道は自然に開ける。
もしそうでなければ、敵が道を塞ぐだろう。」
と言って出発しました。

敵兵は二人の姿を見て大いに笑い、

「汚らしい老人どもだ。」

と言って道を開けました。
二人は無事に山に着き、土を取って帰りました。

平瓦・厳瓮(いつへ)を造り、天神地祇を祀る

天皇は大いに喜ばれ、その土で多くの平瓦や、
手抉(たくじり:土を丸めて指で窪ませた土器)、
厳瓮(いつへ:御神酒を入れる器)を造り、
丹生(にう)の川上に上って天神地祇を祀られました。

宇陀川(うだがわ)の朝原で、水沫のように固まり着く場所がありました。
天皇はまた神意を占われました。

「私は今、たくさんの平瓦で水なしに飴を造ろう。
もし飴ができれば、武器を使わずとも天下を平げるだろう。」

飴を造ると、たやすくできました。

さらに天皇は占われました。

「私は今、御神酒瓮(おみさかめ)を丹生(にう)の川に沈めよう。
もし魚が大小なく酔って流れ、槇の葉のように浮き流れるなら、
私はこの国を平定するだろう。
そうでなければ成し遂げられぬだろう。」

瓮を沈めると口が下を向き、しばらくすると魚が皆浮き上がって口をパクパクさせました。

椎根津彦(しいねつひこ)が報告すると、天皇は大いに喜び、
丹生の川上の榊を根こぎにして諸々の神を祀られました。
このときから祭儀には御神酒瓮(おみさかめ)が置かれるようになりました。

厳瓮(いつへ)と諸神の名付け

天皇は道臣命(みちのおみのみこと)に言われました。
「今、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を私が顕斎(うつしいわい)しよう。
お前を斎主(いわいのうし)として、女性らしく厳媛(いつひめ)と名づけよう。
そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、
火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)、
水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、
食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、
薪の名を厳山雷(いつのやまつち)、
草の名を厳野椎(いつののづち)とする。」

八十梟帥(やそたける)討伐

冬十月一日、天皇は厳瓮(いつへ)の供物を召し上がり、兵を整えて出発されました。
まず八十梟帥(やそたける)を国見丘(くにみのおか)で撃ち斬られました。

天皇は勝利を確信し、歌われました。
カムカゼノ、イセノウミノ、才ホイシニヤ、イハヒモトへル、シタダミノ、シタダミノ、アゴヨ、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモ卜ヘリ、ウチテシヤマム、ウチテシヤマム。
(伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ/キシャゴ)のように、
我が軍勢よ、我が軍勢よ。
細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう、という意味でございます。)

忍坂(おさか)の酒宴の計略

残党はなお多く、情勢は測りがたかったため、天皇は密かに道臣命に命じました。
「お前は大来目部(おおくらめべ)を率いて、大室(おおむろ)を忍坂邑(おさかのむら)に造り、
盛んに酒宴を催して敵を騙し討ちにせよ。」

道臣命は室を掘り、味方の強者を選んで敵と同居させ、
「酒宴がたけなわになったら自分が立って舞う。
その声を聞いたら一斉に敵を刺せ。」
と示し合わせました。

敵は陰謀を知らず酔いしれ、道臣命が歌うと、
味方は一斉に頭椎(くぶつつ)・石椎(いしつつ)の剣を抜いて敵を皆殺しにしました。

皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑い、歌われました。

イマハヨ、イマハヨ、アアシヤヲ、イマダニモアゴヨ、イマダニモアゴヨ。

また歌われました。

エミシヲ、ヒタリモモナヒト、ヒトハイヘドモ、タムカヒモセズ。

これらはすべて密旨を受けて歌われたもので、私意ではありません。
天皇は言われました。

「戦いに勝っておごらないのは良将である。
大きな敵は滅んだが、悪い者はまだ多い。
長く同じ所にいて難に遭うのはよくない。」

そこでその地を離れ、別の場所へ移られました。

兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)

十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦(しきひこ)を攻めようとしていました。
まず使者を送り兄磯城(えしき)を呼びましたが、兄磯城は応じませんでした。

八咫烏(やたのからす)を遣わして呼ぶと、烏は軍営に行って鳴き、
「天つ神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ。」
と言いました。

兄磯城(えしき)は怒り、

「天つ神が来たと聞いて憤っている時に、なぜ烏が悪く鳴くのか。」

と言って弓で射ました。烏は逃げました。

次に弟磯城(おとしき)の家に行って鳴くと、弟磯城はかしこまり、

「天つ神が来られたと聞いて朝夕畏れておりました。
烏よ、お前が鳴くのは良いことだ。」

と言い、皿八枚に食物を盛ってもてなし、烏に導かれて天皇のもとへ来て申し上げました。

「兄磯城(えしき)は八十梟帥(やそたける)を集め、武器を整えて決戦しようとしています。
速やかに準備すべきです。」

天皇は諸将と相談し、弟磯城を使者として諭しましたが、兄磯城は承伏しませんでした。

椎根津彦(しいねつひこ)は計略を立てました。

「まず女軍(めのいくさ)を忍坂(おさか)から進ませ、敵を引きつけ、
その隙に男軍(おのいくさ)が墨坂(すみさか)から回り込み、
宇陀川(うだがわ)の水で敵の炭火を消し、不意を突けば勝てる。」

天皇はこれを採用し、
女軍が敵を引きつけ、男軍が背後から襲い、
梟雄・兄磯城(たけるえしき)を斬りました。

長髄彦(ながすねひこ)と金鵄(きんし)

十二月四日、皇軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになりました。

戦いを重ねましたが、なかなか勝つことができませんでした。
そのとき急に空が暗くなり、雹が降ってきました。
そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天皇の弓の先にとまりました。
その鵄(とび)は光り輝き、まるで雷光のようでございました。
このため長髄彦(ながすねひこ)の軍勢は皆、眩惑されてしまい、力を発揮できませんでした。

長髄(ながすね)というのは、もとは邑(むら)の名であり、それを人名としたものです。

皇軍が鵄(とび)の瑞兆を得たことから、当時の人々はその地を鵄の邑(とびのむら)と名づけました。
現在の鳥見(とみ)という地名は、これが訛ったものです。
昔、孔舍衛(くさえ)の戦いで、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって亡くなられました。
天皇はこれを忘れず、常に恨みに思っておられ、この戦いで仇を討ちたいと願われました。
そして歌って言われました。

ミツミツシ、クメノコラガ、「力キモトニ」アハフニハ、カミラヒトモト、ソノガモト、ソネメツナギテ、ウチテシヤマム。
(天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部(くめべ)の軍勢の家の垣の根元に粟が生え、その中に韮が一本まじっています。
その韮の根から芽までをつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう、という意味でございます。)

天皇はさらに歌われました。

ミツミツシ、クメノコラガ、力キモ卜ニ、ウエシハジカミ、クチビヒク、ワレハワスレズ、ウチテシヤマム。
(来目部(くめべ)の家の垣の元に植えた山椒は、口に入れるとヒリヒリします。
そのように敵の攻撃の手痛さは今も忘れない。
今度こそ必ず撃ち破ってやろう、という歌でございます。)

敵兵を放ってさらに急追しました。
これら諸々の御歌は、すべて来目歌(くめうた)と呼ばれます。
これは歌った人を指して名づけたものです。

長髄彦(ながすねひこ)の言上

そのとき、長髄彦(ながすねひこ)は使者を送り、天皇に言上しました。
「昔、天神の御子が天磐船(あめのいわふね)に乗って天降られました。
その名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)と申します。
この方が私の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って子が生まれました。
名を可美真手命(うましまてのみこと)と申します。
それで私は饒速日命(にぎはやひのみこと)を君として仕えております。
天つ神の子は二人おられるのですか?
どうしてまた天つ神の子と名乗って、人の土地を奪おうとされるのですか。
私が思うに、それは偽者でしょう。」

天皇は答えられました。
「天つ神の子は多くいる。
お前が君とする者が本当に天つ神の子ならば、必ず表(しるし)があるはずだ。
それを示しなさい。」
長髄彦(ながすねひこ)は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の天羽羽矢(あまのははや:蛇の呪力を負った矢)と歩靭(かちゆき:徒歩で弓を射るときのヤナグイ)を天皇に示しました。

天皇はこれをご覧になり、

「偽りではない。」
と言われ、天皇自身の所持する天羽羽矢(あまのははや)一本と歩靭(かちゆき)を長髄彦に示されました。

長髄彦はその天つ神の表(しるし)を見て、ますます恐れ畏まりました。

しかし、兵器の準備はすでに整っており、中途で止めることは難しく、
また誤った考えを捨てず、改心の気持ちもありませんでした。

饒速日命(にぎはやひのみこと)の帰順

饒速日命(にぎはやひのみこと)は、天つ神たちが深く心配されているのは天孫のことであると知っていました。
長髄彦(ながすねひこ)は性格が捻れており、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうになかったため、
饒速日命(にぎはやひのみこと)によって殺害されました。

そして饒速日命はその部下たちを率いて帰順しました。
天皇は饒速日命が天から下ってきたことを知り、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛されました。
これが物部氏(もののべのうじ)の先祖でございます。

土賊の討伐と土蜘蛛(つちぐも)

翌年、己未の春二月二十日、天皇は諸将に命じて士卒を選び、訓練されました。
このとき、添県(そほのあがた)の波哆の丘岬(はたのおかざき)に新城戸畔(にいきとべ)という女賊があり、
また和珥(わに:天理周辺)の坂下に居勢祝(こせのはふり)という者があり、
臍見(ほそみ)の長柄の丘岬(ながらのおかさき)に猪祝(いのはふり)という者がありました。
この三か所の土賊は力を誇示して帰順しませんでした。

そこで天皇は軍の一部を派兵して皆殺しにさせました。
また、高尾張邑(たかおわりのむら)に土蜘蛛(つちぐも)がいて、その人態は身丈が短く、手足が長く、侏儒(しゅじゅ)に似ていました。
皇軍は葛の網(かつらのあみ)を作って覆い捕え、これを殺しました。
そこでその邑を改めて葛城(かずらき)としました。

磐余(いわれ)の地の元の名は片居(かたい)または片立(かたたち)といいます。
皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余(いわれ)としました。
また、ある人は言います。
「天皇が昔、厳瓮(いつへ)の供物を召し上がり、出陣して西片を討たれた。
このとき磯城(しき)の八十梟帥(やそたける)がそこに屯聚(みいわみ:集兵)した。
天皇軍と大いに戦ったが、ついに滅ぼされた。
それで名づけて磐余邑(いわれのむら)という。」
また、皇軍が叫び声(たけびごえ)を立てたところを猛田(たけだ)と呼び、
城(き)を造った所を城田(きた)といい、
賊軍が戦って倒れた屍が臂(ひじ)を枕にしていたので頰枕田(つらまきた)と呼びました。
天皇は前年の秋九月、密かに天香山(あまのかぐやま)の埴土(はにつち)を取り、
沢山の平瓮を造り、自ら斎戒して諸神を祀られました。
そしてついに天下を平定することができました。
それで土を取ったところを埴安(はにやす)と呼びます。

宮殿造営

三月七日、天皇は令(のりごと)を下して言われました。
「東征を始めてから六年になった。
天つ神(あまつかみ)の勢威のお蔭で凶徒は討ち滅ぼされた。
しかし、周辺の地はまだ治まらない。
残りの災いはなお根強いが、内州(うちつくに)の地には騒ぐ者もいない。
皇都(みやこ)を開き広めて御殿を造ろう。

しかし今、世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。
人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。

そもそも大人(ひじり:聖人)が制(のり)を立てて、道理が正しく行われる。
人民の利益となるならば、どんなことであっても聖の行うわざとして間違いはない。

まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである。
上は、天つ神が国をお授け下さった御徳に答え、
下は、皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。
その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩って一つの家とすることは、また良いことではないか。

見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、思うに国の真中である。
ここに都を造るべきである。」
この月、天皇は役人に命じて都造りに着手されました。

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空海が育った善通寺の近くで生まれ、愛媛県で育ちました。 国立理系大学院を修了後は、大手半導体メーカーで研究開発エンジニアとして勤務し、CPU基盤材料や太陽電池材料の研究に携わっていました。 関西在住時、うつ病療養のために何度か訪れた奈良・大神神社(大物主神を祀る古社)で、不思議な体験をしたことが転機となります。 その出来事をきっかけに記紀を読み始め、十年後、自身の祖先が宇佐八幡初代神官・大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)へと連なる「蛇神族の神官系の血流」であることを突きとめました。 また、20年間どの療法でも改善しなかった難治性うつ病が、瞑想と催眠の研究を続ける中で奇跡的に解消し、人間に本来備わる自然治癒力の発動法を見出しました。 その後、独自のヒーリング法を確立し、5年間にわたり精神疾患を抱える方々への対面施術・指導を行いましたが、コロナ禍を機に現場を引退。現在はサイトを立ち上げ、HSP向けのセルフヒーリングをオンラインで提供しています。 自身の経験から、 「この世界では、時に説明のつかない出来事が起こり、奇跡が起こることがある」 というメッセージを蛇神の血筋として伝えていきたいと考えています。 なお、宗教団体とは一切関係ありません。
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