神武天皇の神武東征を物語として章立てまとめています。
古事記の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)がまだ日向(ひむか)にいたころ、阿多(あた)の小椅君(おばしのきみ)の妹、阿比良比売(あひらひめ)と結婚していました。
二人の間には、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)が生まれていました。
しかし、天下を治める立場となった伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、新たに皇后となる女性を探していました。
そのとき、大久米(おおくめ)が申し上げました。
「よい少女がおります。その方は神の御子(みこ)と伝えられています」
その少女こそ、伊須気余理比売(いすけよりひめ)/媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)でした。
大久米(おおくめ)は、彼女の母である勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)と、大物主神(おおものぬしのかみ)の不思議な出会いについて語りました。
大物主神(おおものぬしのかみ)は丹塗りの矢に姿を変え、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)のもとへ現れました。
そして、やがて一人の男性の姿となったといいます。
二人の間に生まれたのが、伊須気余理比売(いすけよりひめ)でした。
だからこそ、彼女は「神の御子(みこ)」と呼ばれていたのです。
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ある日、七人の少女たちが高佐士野(たかさじの)で野遊びをしていました。
その中に、伊須気余理比売(いすけよりひめ)もいました。
大久米(おおくめ)は、七人の少女を見つけると、その中にいる伊須気余理比売(いすけよりひめ)を見定めました。
そして、歌を詠みました。
「大和(やまと)の高佐士野(たかさじの)を、七人の少女たちが歩いています。その中の誰を妻としましょうか」
少女たちは並んで歩いていました。
その中で、伊須気余理比売(いすけよりひめ)は先頭に立っていました。
伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、その姿をご覧になりました。
「一番先に立っている少女を妻としましょう」
大久米(おおくめ)は、その言葉を伊須気余理比売(いすけよりひめ)へ伝えました。
すると姫は、大久米(おおくめ)の鋭い目を見て、不思議に思いました。
そして歌いました。
「どうしてあなたは、目じりに入墨をして、そんなに鋭い目をしているのですか」
大久米(おおくめ)は答えました。
「あなたに直接お逢いしたいと思ったからこそ、私はこのような目をしているのです」
伊須気余理比売(いすけよりひめ)は、その言葉を聞き、やがて伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)に仕えることを承知しました。
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伊須気余理比売(いすけよりひめ)の家は、狭井河(さいかわ)のほとりにありました。
伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、姫のもとへお出かけになり、その夜をともに過ごされました。
その河には山百合(やまゆり)がたくさん咲いていました。
山百合の古い名を佐韋(さい)といったことから、その河は佐韋河(さいかわ)と呼ばれるようになったと伝えられています。
やがて、伊須気余理比売(いすけよりひめ)は宮中へ入りました。
そのとき、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、二人が過ごした夜を思い出しながら歌を詠みました。
葦原(あしはら)の中の粗末な小屋。
そこに菅(すが)の畳を清らかに敷き、二人で過ごした夜。
その思い出は、二人の心に深く残りました。
やがて、伊須気余理比売(いすけよりひめ)は三人の御子(みこ)を産みました。
日子八井命(ひこやいのみこと)。
そして、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと 後の綏靖天皇)です。
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やがて、神武天皇(じんむてんのう)が亡くなられました。
すると、異母兄の当芸志美美命(たぎしみみのみこと)が、皇后であった伊須気余理比売(いすけよりひめ)を妻としました。
しかし、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)の心には、恐ろしい企みがありました。
「三人の弟たちを殺してしまおう」
この計画を知った伊須気余理比売(いすけよりひめ)は、深く悲しみました。
しかし、直接知らせることはできません。
そこで、歌に思いを託しました。
「狭井河(さいかわ)の方から雲が立ち上がり、畝傍山(うねびやま)では木の葉が騒いでいます。大風が吹こうとしています」
さらに歌いました。
「昼には雲が揺れ、夕方には木の葉がざわめいています。これは大風の前触れです」
三人の御子たちは、その歌を聞きました。
そして悟りました。
「母上は、私たちに危険を知らせているのだ」
当芸志美美命(たぎしみみのみこと)の陰謀が明らかになったのです。
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御子たちは、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)を討つことを決意しました。
神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)が兄に言いました。
「兄上、武器を持って中へ入り、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)を討ってください」
神八井耳命(かむやいみみのみこと)は武器を手にしました。
そして、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)のところへ向かいます。
しかし――。
手足が震えました。
恐ろしさのため、どうしても敵を討つことができません。
それを見た神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、兄の武器を受け取りました。
「兄上、私が行きます」
そして、自ら中へ入りました。
神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)を討ちました。
その勇敢な行動から、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)とも呼ばれるようになりました。
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戦いが終わると、神八井耳命(かむやいみみのみこと)は弟に言いました。
「私は敵を殺すことができませんでした。しかし、あなたは敵を討つことができました」
「私は兄ですが、天下を治める者には、あなたの方がふさわしいでしょう」
そして、皇位を弟へ譲ることを決めました。
「あなたが天皇となって、天下を治めてください。私はあなたを助け、祭事を司る者としてお仕えします」
こうして、兄は弟に皇位を譲りました。
神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、天下を治めることとなります。
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日子八井命(ひこやいのみこと)は、茨田連(まむたのむらじ)や手島連(てしまのむらじ)らの祖先と伝えられています。
神八井耳命(かむやいみみのみこと)もまた、多くの氏族の祖先となりました。
意富臣(おおのおみ)、小子部連(ちいさこべのむらじ)、坂合部連(さかいべのむらじ)、火君(ひのきみ)、大分君(おおきたのきみ)、阿蘇君(あそのきみ)をはじめ、各地の国造や氏族の祖先として、その名が伝えられています。
そして、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、2代綏靖天皇として天下を治めました。
長い年月にわたる東征。
五瀬命(いつせのみこと)との別れ。
布都御魂(ふつのみたま)との出会い。
八咫烏(やたがらす)の導き。
数々の国つ神(くにつかみ)との出会い。
そして、幾度もの戦い。
そのすべてを乗り越えた神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、後に神武天皇(じんむてんのう)と呼ばれることになります。
神武天皇(じんむてんのう)は、百三十七歳で崩御されたと伝えられています。
その御陵(みはか)は、畝火山(うねびやま)の北、白檮尾(かしのお)のあたりにあるとされています。
こうして、神武天皇(じんむてんのう)の東征の物語は、次の世代へと受け継がれていったのです。
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伊須気余理比売(いすけよりひめ)
伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)が日向(ひむか)にいたとき、阿多(あた)の小椅君(おばしのきみ)の妹である阿比良比売(あひらひめ)という女性と結婚していました。
その女性との間に生まれた子に、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)の二柱がいました。
けれども、さらに皇后とする少女を探し求められたとき、大久米(おおくめ)が申し上げました
「ここに、よい少女がおります。この少女は神の御子(みこ)と伝えられています。
神の御子(みこ)という理由は、三島(みしま)の湟咋(みぞくい)の娘に、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という名の、たいへん容姿の美しい少女がいたからです。
三輪(みわ)の大物主神(おおものぬしのかみ)が、この少女を見て気に入りました。
そこで、少女が大便をするとき、丹塗りの矢に姿を変え、その大便をする厠(かわや)の溝を流れ下って、その少女の陰部を突きました。
少女は驚いて、走り回り、慌てふためきました。
そして、その矢を持ってきて床のそばに置くと、矢はたちまち立派な男性に変わりました。
やがて、その少女と結婚して生んだ子の名が、富登多多良須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)といい、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といいます。
これは、『ほと』という言葉を嫌って、後に改めた名です。
このような理由から、神の御子(みこ)と申し上げるのです」
大久米(おおくめ)は、このように申し上げました。
あるとき、七人の少女が高佐士野(たかさじの)に出て、野遊びをしていました。
伊須気余理比売(いすけよりひめ)も、その中に加わっていました。
すると大久米(おおくめ)は、伊須気余理比売(いすけよりひめ)の姿を見て、歌によって天皇に申し上げました。
大和(やまと)の高佐士野(たかさじの)を七人行く少女たちよ、
その中の誰を妻としましょうか。
このとき、伊須気余理比売(いすけよりひめ)は、その少女たちの先頭に立っていました。
そこで天皇は少女たちをご覧になり、伊須気余理比売(いすけよりひめ)が一番前に立っていることをお知りになました。
そして、歌を詠んでお答えになりました。
ともかくも一番先に立っている、
年上の少女を妻としましょう。
そこで大久米(おおくめ)が、天皇のお言葉を伊須気余理比売(いすけよりひめ)に伝えました。
姫は、大久米(おおくめ)の入墨をした鋭い目を見て、不思議に思い、歌を詠みました。
あま鳥、つつ、千鳥、しととのように、
どうして目じりに入墨をして、
鋭い目をしているのですか。
すると大久米(おおくめ)が答えて歌いました。
お嬢さんにじかにお逢いしたいと思って、
私は入墨をして、こんなに鋭い目をしているのです。
こうして、その少女は天皇に、
「お仕えいたしましょう」
と申し上げました。
その伊須気余理比売(いすけよりひめ)の家は、狭井河(さいかわ)のほとりにありました。
天皇は伊須気余理比売(いすけよりひめ)のもとへお出かけになり、一夜をお過ごしになりました。
その河を佐韋河(さいかわ)と呼ぶのは、その河のほとりに山百合(やまゆり)がたくさん生えていて、その山百合の草の名を取って、佐韋河(さいかわ)と名づけたからです。
山百合(やまゆり)の本来の名は佐韋(さい)といいます。
その後、伊須気余理比売(いすけよりひめ)が宮中に参内したとき、天皇は次の歌をお詠みになりました。
葦原(あしはら)の中の荒れたきたない小屋に、
菅(すが)の畳を清らかにすがすがしく敷きつめて、
私たちは二人で寝たことです。
そして、お生まれになった御子(みこ)の名は、日子八井命(ひこやいのみこと)、次に神八井耳命(かむやいみみのみこと)、次に神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)の三柱です。
当芸志美美命(たぎしみみのみこと)の反逆
神武天皇(じんむてんのう)が亡くなられた後、天皇の異母兄である当芸志美美命(たぎしみみのみこと)が、皇后の伊須気余理比売(いすけよりひめ)を妻としました。
そのとき、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)は、その三人の弟たちを殺そうと計画しました。
三人の母君である伊須気余理比売(いすけよりひめ)は心を痛め、苦しみました。
そして、歌によって御子たちに、この恐ろしい計画を知らせました。
歌われた歌は、次のようなものでした。
狭井河(さいかわ)の方から雲が立ち広がってきて、
畝傍山(うねびやま)では木の葉が鳴り騒いでいます。
大風が吹き出そうとしています。
また、さらに次の歌を詠みました。
畝傍山(うねびやま)では、
昼間は雲が揺れ動き、
夕方になると大風の吹く前ぶれとして、
木の葉がざわめいています。
そこで、御子たちはこの歌を聞いて陰謀を知り、驚きました。
そして、すぐに当芸志美美命(たぎしみみのみこと)を殺そうとしました。
そのとき、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)に言いました。
「兄上、あなたは武器を持って入って、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)を殺してください」
そこで神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、武器を持って中へ入り、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)を殺そうとしました。
しかし、手足が震えてしまい、殺すことができませんでした。
そこで、その弟である神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、兄の持っていた武器を受け取り、自ら中へ入っていきました。
そして、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)を殺しました。
そのため、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、またの名を建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)と称えられました。
こうして神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、弟の建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)に皇位を譲ることにしました。
そして、次のように申し上げました。
「私は敵を殺すことができませんでした。しかし、あなたは完全に敵を殺すことができました。
だから、私は兄ではありますが、上に立つべきではありません。
あなたが天皇となって、天下をお治めください。
私はあなたを助けて、祭事を司る者となり、お仕え申し上げましょう」
日子八井命(ひこやいのみこと)は、茨田連(まむたのむらじ)、手島連(てしまのむらじ)の祖先であると伝えられています。
神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、意富臣(おおのおみ)、小子部連(ちいさこべのむらじ)、坂合部連(さかいべのむらじ)、火君(ひのきみ)、大分君(おおきたのきみ)、阿蘇君(あそのきみ)、筑紫の三家連(つくしのみやけのむらじ)、雀部臣(さざきのおみ)、雀部造(さざきべのみやつこ)、小長谷造(おはつせのみやつこ)、都祁直(つけのあたい)、伊余国造(いよのくにのみやつこ)、科野国造(しなののくにのみやつこ)、道奥の石塊国造(みちおくのいわきのくにのみやつこ)、常道の仲国造(ひたちのなかのくにのみやつこ)、長狭国造(ながさのくにのみやつこ)、伊勢の船木直(いせのふなきのあたい)、尾張の丹波臣(おわりのにわのおみ)、島田臣(しまだのおみ)らの祖先であると伝えられています。
そして、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、天下をお治めになりました。
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、すなわち神武天皇(じんむてんのう)の年齢は、百三十七歳でした。
その御陵(みはか)は、畝火山(うねびやま)の北の方、白檮尾(かしのお)のあたりにあると伝えられています。
宮殿造営
三月七日、天皇は令(のりごと)を下して言われました。
「東征を始めてから六年になった。
天つ神(あまつかみ)の勢威のお蔭で凶徒は討ち滅ぼされた。
しかし、周辺の地はまだ治まらない。
残りの災いはなお根強いが、内州(うちつくに)の地には騒ぐ者もいない。
皇都(みやこ)を開き広めて御殿を造ろう。
しかし今、世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。
人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。
そもそも大人(ひじり:聖人)が制(のり)を立てて、道理が正しく行われる。
人民の利益となるならば、どんなことであっても聖の行うわざとして間違いはない。
まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである。
上は、天つ神が国をお授け下さった御徳に答え、
下は、皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。
その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩って一つの家とすることは、また良いことではないか。
見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、思うに国の真中である。
ここに都を造るべきである。」
この月、天皇は役人に命じて都造りに着手されました。
橿原宮(かしはらのみや)の造営と正妃の立后
庚申(かのえさる)の年、秋八月十六日、天皇は正妃を立てようと思われました。
改めて貴族の女子を探されました。
そのとき、ある人が奏して申し上げました。
「事代主神(ことしろぬしのかみ)が、三島溝橛耳神(みしまぞくいみみのかみ)の娘、玉櫛媛(たまくしひめ)と結婚され、その生まれた子を媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)といいます。
この方は容色に優れた人です。」
これを聞いて天皇は大いに喜ばれました。
九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめのみこと)を召して正妃とされました。
橿原即位(かしはらそくい)
辛酉(しんゆう)の年、春一月一日、天皇は橿原宮(かしはらのみや)にご即位になりました。
この年を天皇の元年といたします。
正妃を尊んで皇后とされました。
皇子の 神八井命(かむやいのみこと)、神淳名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと) をお生みになりました。
そのため、古語にもこれを称して次のようにいいます。
「畝傍(うねび)の橿原(かしはら)に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立て、
高天原(たかまがはら)に千木(ちぎ)高くそびえ、
初めて天下を治められた天皇」
名づけて 神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれびこほほでみのすめらみこと) といいます。
国政の開始と倒語(さかしまごと)の始まり
初めて天皇が国政を始められる日に、
大伴氏(おおとものうじ)の先祖である 道臣命(みちのおみのみこと) が、大来目部(おおくらめべ)を率いて密命を受け、
よく 諷歌(そえうた)(比喩的な歌)、倒語(さかしまごと)(合言葉・暗号)を用いて災いを払い除きました。
倒語(さかしまごと)が用いられるのは、このときが始まりでございます。
二年・論功行賞
二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われました。
道臣命(みちのおみのみこと) に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住まわせ、特に目をかけられました。
大来目(おおくめ) を畝傍山(うねびやま)の西、川辺の地に住まわせました。
現在の来目邑(くめのむら)はこれが由来です。
椎根津彦(しいねつひこ) を倭国造(やまとのくにのみやつこ)としました。
弟猾(おとがし) に猛田邑(たけだのむら)を与え、猛田の県主(たけだのむらのあがたぬし)としました。
これは宇陀(うだ)の主水部(もいとりべ)の先祖です。
弟磯城(おとしき)、名は黒速(くろはや)を磯城の県主(しきのあがたぬし)としました。
剣根(つるぎね) を葛城国造(かずらきのくにのみやつこ)としました。
八咫烏(やたがらす) も賞に加えられ、その子孫が葛野主殿県主(かずらののとのもりあがたぬし)です。
四年・天つ神の祭祀
四年春二月二十三日、天皇は詔して言われました。
「我が皇祖の霊が天から降り眺められ、我が身を助けて下さった。
今、多くの敵はすべて平げて、天下は何事もない。
そこで天つ神(あまつかみ)を祀って大孝を申し上げたい。」
神々の祀りの場を鳥見山(とみやま)の中に設け、
そこを 上小野の榛原(かみつおののはりはら)、下小野の榛原(しもつおののはりはら) といい、
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) を祀りました。
三十一年・秋津洲(あきつしま)の名の由来
三十一年夏四月一日、天皇は御巡幸されました。
腋上の嗛間(わきかみのほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見して言われました。
「なんと素晴らしい国を得たことだ。
狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ:トンボ)がトナメ(交尾)しているように、
山々が連なり囲んでいる国であるな。」
これによって、初めて 秋津洲(あきつしま) の名が生まれました。
かつて伊奘諾尊(いざなぎのみこと)はこの国を名づけて、
「日本(やまと)は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、優れて良く整った国」
と言われました。
また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は、
「玉牆(たまかき)の内つ国(なかつくに)」
と言われました。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は天磐船(あめのいわふね)に乗って大空を飛び、この国を見て降りられたので、
「空見つ日本(やまと)の国」
と呼ばれました。
四十二年・皇太子の立太子
四十二年春一月三日、皇子である 神淳名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと) を皇太子とされました。
七十六年・神武天皇の崩御
七十六年春三月十一日、天皇は橿原宮(かしはらのみや)で崩御されました。
御年 百二十七歳 でございました。
翌年秋九月十二日、畝傍山(うねびやま)の東北の陵(うしとらのすみのみささぎ)に葬られました。