清寧天皇(せいねいてんのう)は、第22代天皇とされ、『古事記』では白髪大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)と記されています。雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の皇子で、母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)です。名前に「白髪」を含むことから、幼いころから髪が白かったという伝承があります。
雄略天皇の死後、皇位を継いだ清寧天皇ですが、大きな問題となったのが皇太子、つまり自分の後継者がいないことでした。清寧天皇には子がなかったとされており、皇位継承の問題が発生します。
この時代、皇位継承において重要な意味を持つ人物として登場するのが、億計王(おけのみこ)と弘計王(をけのみこ)です。二人は市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)の子でした。市辺押磐皇子は允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇子で、雄略天皇とは皇位を争う可能性のある皇族でした。そのため、雄略天皇によって殺害されたと『日本書紀』は記しています。
父を失った億計王と弘計王は、播磨国(はりまのくに)へ逃れ、身分を隠して暮らしていました。しかし清寧天皇の時代、二人が皇族であることが明らかになります。二人を発見したのは、播磨国の人物である志自牟(しじむ)でした。
清寧天皇は二人を都へ迎え入れ、皇族として認めました。これによって、後継者不在という問題は大きく変化します。ところが、億計王と弘計王は互いに皇位を譲り合い、すぐには即位しませんでした。
『古事記』『日本書紀』に描かれる清寧天皇の時代は、華々しい征討や外交よりも、皇統の断絶を避けるために新たな皇位継承者が発見される時代として重要です。清寧天皇自身には子がなかったため、その死後には億計王と弘計王によって皇位が引き継がれていきます。
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『古事記』では袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)、『日本書紀』では弘計天皇(をけのすめらみこと)と記されています。父は市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)、母は荑媛(はえひめ)です。
顕宗天皇の物語で特に重要なのは、父である市辺押磐皇子が雄略天皇によって殺害されたという伝承です。市辺押磐皇子は允恭天皇の皇子で、皇位継承をめぐる有力な皇族でした。しかし雄略天皇は、市辺押磐皇子を狩りに誘い出し、殺害したと『日本書紀』は伝えています。
父を失った億計王と弘計王は、播磨国へ逃亡します。二人は自らの身分を隠し、一般の人々と同じように暮らしていました。しかし、清寧天皇の時代に二人の身分が明らかになります。清寧天皇には子がいなかったため、二人は皇位継承者として迎えられることになります。
清寧天皇の死後、兄の億計王と弟の弘計王は互いに皇位を譲り合いました。最終的に弘計王が先に即位し、顕宗天皇となります。兄の億計王は後に仁賢天皇として即位します。
顕宗天皇の物語で特徴的なのは、父の仇をどう扱うかという問題です。顕宗天皇は、父を殺害した雄略天皇への強い憤りを抱いていたとされます。そして父の遺骨を探し出し、改めて弔いたいと願います。
さらに『日本書紀』には、雄略天皇の陵を破壊して父の仇を報いようとしたという話もあります。しかし兄の億計王がこれを諫め、最終的に陵の破壊は行われませんでした。
顕宗天皇の治世は長くありませんが、記紀では非常に印象的な天皇として描かれています。それは、単なる皇位継承者ではなく、父を殺された皇族が、長い逃亡生活を経て皇位に復帰するという劇的な物語を背負っているからです。
『古事記』では大脚別王(おおしべわけのみこ)、『日本書紀』では億計天皇(おけのすめらみこと)と記されています。父は市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)、母は荑媛(はえひめ)です。
仁賢天皇の人生は、弟である顕宗天皇(けんぞうてんのう)とほぼ一体となった物語として記紀に描かれています。二人は幼いころに父を失い、雄略天皇から身を避けるため播磨国へ逃れました。そこで身分を隠して暮らしていましたが、清寧天皇の時代に皇族であることが判明しました。
清寧天皇には子がいなかったため、二人は皇位継承者として迎えられます。しかし、清寧天皇の死後、二人は皇位を譲り合います。最終的には弟の弘計王が顕宗天皇として即位し、億計王は兄として弟を支えました。
顕宗天皇の死後、億計王が即位し、仁賢天皇となります。ここには、兄弟の間で皇位を争うのではなく、互いに譲り合うという記紀独特の理想的な皇族像が表れています。
仁賢天皇の后として重要なのが春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのみこ)です。彼女は雄略天皇の皇女とされ、仁賢天皇との婚姻によって、過去に対立した皇統同士が結びつく形になります。この婚姻は、皇統の再統合という意味でも注目されます。
二人の間には小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)が生まれ、後の武烈天皇となります。また、手白香皇女(たしらかのひめみこ)も生まれ、彼女は後の継体天皇の皇后となります。
そのため仁賢天皇は、直接的な政治的事績だけでなく、後の武烈天皇、そして継体天皇へとつながる皇統を生み出した天皇として重要です。
仁賢天皇(にんけんてんのう)の皇子で、母は春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのみこ)です。諱(いみな)は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)です。
武烈天皇については、『日本書紀』が非常に特徴的な人物像を描いています。即位後、天皇は残虐な行為を繰り返したとされ、妊婦の腹を割いて胎児を見ようとした、木に登らせた人を木ごと切り倒したなど、極端な逸話が数多く記されています。
こうした記事は、武烈天皇が歴代天皇の中でも特に「悪徳の天皇」として描かれていることを示しています。一方で、『古事記』ではこのような残虐な逸話は比較的少なく、記紀の間には描写の差があります。
武烈天皇には皇子がなく、在位後に皇統を直接継ぐ後継者が存在しなかったとされます。これが、次の継体天皇の即位につながる重要な要因となります。
武烈天皇の死後、皇位継承者を探すことになります。そこで登場するのが、応神天皇(おうじんてんのう)の五世孫とされる男大迹王(おおどのおおきみ)です。男大迹王は越前方面を基盤としていた皇族で、後に継体天皇として即位します。
武烈天皇の記事は、単なる一人の天皇の人物評だけではなく、武烈天皇の死と継体天皇の即位を対比させる構成になっています。つまり、悪徳な天皇の後に、正統な血統を持つ新しい天皇が現れるという物語です。
そのため、武烈天皇は古代日本の王統を考える際に非常に重要です。特に、継体天皇の即位がどのような意味を持つのかを考えるうえで、武烈天皇の存在は欠かせません。
『日本書紀』では男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)などの名で記されます。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は振媛(ふりひめ)です。
武烈天皇(ぶれつてんのう)に皇子がなかったため、皇位継承者として迎えられたのが男大迹王でした。『日本書紀』では、応神天皇の五世孫にあたる人物とされています。
しかし、継体天皇の即位は非常に特徴的です。男大迹王は、すぐに大和の中心部へ入ったわけではありません。最初に樟葉宮(くずはのみや)で即位し、その後、筒城宮(つつきのみや)、弟国宮(おとくにのみや)を経て、最終的に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)へ移ったとされます。
このことから、継体天皇の即位には、既存の大和の勢力との調整が必要だったと考えられています。
継体天皇の時代で最大の事件が、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の反乱です。『日本書紀』によれば、朝鮮半島への軍事行動を進めようとした朝廷に対して、筑紫君磐井が反抗し、527年に磐井の乱が起こりました。朝廷は物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を派遣し、翌年に磐井を討ったとされています。
また、百済・新羅・任那など朝鮮半島諸国との外交も重要な問題でした。継体朝では、朝鮮半島情勢と九州支配が密接に結びついています。
継体天皇は、古代日本の王統を考えるうえで特に重要な天皇です。記紀では正統な皇族として描かれていますが、その即位過程には政治的調整の痕跡が見られます。そのため、古代王権が大和を中心に再編されていく転換点として位置づけられています。
継体天皇(けいたいてんのう)の皇子で、諱は勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)です。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)とされています。
継体天皇の死後、安閑天皇が即位します。安閑天皇の時代は非常に短く、記紀に記される政治的事件も多くありません。しかし、この時代を特徴づけるのが屯倉(みやけ)の設置です。
屯倉とは、朝廷が直接管理する土地や収穫、倉庫などを中心とした支配拠点です。『日本書紀』には、安閑天皇の時代に各地で屯倉が設置された記事が数多く記されています。
これらの屯倉は、朝廷が地方豪族の支配だけに依存せず、土地や生産物を直接把握していく動きと関係しています。そのため安閑朝は、古代国家形成の過程を見るうえで重要です。
また、安閑天皇の皇后には春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)が立てられました。しかし、安閑天皇には皇子がなかったとされます。
安閑天皇の死後、弟の宣化天皇(せんかてんのう)が即位します。したがって安閑天皇から宣化天皇へ、そしてその後の欽明天皇へと皇位が移っていきます。
安閑天皇の時代は、個人的な英雄譚よりも、屯倉の設置を通じて朝廷の地方支配が強化されていく過程に特徴があります。
継体天皇の皇子で、安閑天皇(あんかんてんのう)の弟にあたります。諱は檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)です。
安閑天皇の死後、宣化天皇が即位します。宣化天皇の治世も短いものですが、『日本書紀』では九州、とりわけ筑紫地方に関する記事が目立ちます。
この時期、朝廷にとって重要だったのが朝鮮半島情勢です。百済・新羅・任那などをめぐる国際関係が緊張しており、朝廷は九州を重要な軍事・外交拠点として位置づけていました。
宣化天皇は、那津(なのつ)に官家(みやけ)を設置したとされます。那津は現在の福岡市周辺に比定されることが多く、筑紫地域における朝廷の物資・軍事・外交上の拠点として重要でした。
また、筑紫に穀物を集め、朝鮮半島への対応に備えるよう命じた記事もあります。これらの記事から、宣化朝では九州の拠点化と外交・軍事体制の整備が進められていたことが分かります。
宣化天皇の皇后は橘仲皇女(たちばなのなかつひめのみこ)です。二人の間には石姫皇女(いしひめのひめみこ)が生まれ、彼女は後に欽明天皇の皇后となります。
宣化天皇の死後、欽明天皇が即位します。したがって、宣化天皇は継体天皇から欽明天皇へと続く皇統の中継点としても重要です。
継体天皇(けいたいてんのう)の皇子で、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ)です。
欽明天皇の時代を特徴づける最大の出来事が、仏教の伝来です。『日本書紀』では552年、百済の聖明王から欽明天皇へ仏像や経典などが贈られたと記されています。一方、別の史料では538年とする説もあり、伝来年については異説があります。
仏教の受容をめぐって、朝廷内部では大きな対立が起こりました。蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を受け入れる立場を示したのに対し、物部尾輿(もののべのおこし)や中臣氏は反対したと『日本書紀』は伝えています。
この対立は、単なる宗教上の問題ではありませんでした。仏教を受け入れることは、百済など大陸諸国との外交関係や、新しい文化・技術を受け入れることにもつながっていました。そのため、仏教問題は豪族間の政治的対立とも結びついていきます。
また、欽明朝では朝鮮半島の情勢が重要でした。百済・新羅・任那との外交や軍事関係が盛んに記され、朝廷は任那の確保・復興を重要な課題としていました。
欽明天皇の皇后となった石姫皇女(いしひめのひめみこ)は、宣化天皇の皇女です。二人の間に生まれたのが敏達天皇(びだつてんのう)です。
欽明天皇の時代は、仏教、渡来文化、朝鮮半島外交、豪族政治が一体となって動き始めた時代です。その後の蘇我氏と物部氏の対立、そして飛鳥時代の政治改革へつながる重要な時代として位置づけられます。
欽明天皇(きんめいてんのう)と石姫皇女(いしひめのひめみこ)の皇子で、諱は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)です。
敏達天皇の時代には、欽明朝から続いていた仏教受容をめぐる対立がさらに深まります。朝廷では、仏教を支持する蘇我馬子(そがのうまこ)と、伝統的な祭祀を重視する物部守屋(もののべのもりや)らが対立するようになります。
敏達天皇自身については、仏教を全面的に推進する立場ではなかったと考えられています。『日本書紀』には、疫病の流行と仏教信仰を結びつける記事があり、物部氏らが仏教を停止するよう求める場面も描かれています。
一方で、蘇我氏は仏教を積極的に保護しました。この宗教的対立は、やがて朝廷内の政治権力をめぐる争いへ発展します。
敏達天皇の皇后として重要なのが額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)です。彼女は後に推古天皇(すいこてんのう)として即位する人物です。
敏達天皇の死後、皇位をめぐってさらに複雑な動きが起こります。用明天皇(ようめいてんのう)、崇峻天皇(すしゅんてんのう)、推古天皇へと皇位が移っていく過程で、蘇我氏の政治的影響力は急速に高まります。
敏達天皇の時代は、古墳時代から飛鳥時代へ向かう転換期に位置しています。特に重要なのは、仏教を受け入れるか否かという問題が、蘇我氏と物部氏の権力争いへ発展したことです。
欽明天皇の皇子で、敏達天皇(びだつてんのう)の弟にあたります。諱は橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)です。
用明天皇の母は、蘇我稲目(そがのいなめ)の娘である堅塩媛(きたしひめ)です。このため、用明天皇は母方を通じて蘇我氏と深い関係を持っていました。
用明天皇の時代には、仏教をめぐる政治的対立がさらに激しくなります。用明天皇自身は仏教を信仰する意思を示し、寺院建立などを進めようとします。
これに反対したのが物部守屋(もののべのもりや)らです。蘇我馬子(そがのうまこ)は仏教を支持し、物部守屋は伝統的な祭祀を重視しました。この対立は、ついに武力衝突へ発展することになります。
しかし、用明天皇は在位中に病気となり、十分な統治を行うことなく亡くなります。『日本書紀』では、天皇が仏法に帰依したいという意思を示したことが記されています。
用明天皇の死後、皇位をめぐる争いが起こります。蘇我馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を支持し、物部守屋と対立します。そして最終的には、蘇我氏側が物部氏を攻撃することになります。
この戦いで物部守屋が滅ぼされると、蘇我氏の政治的優位が決定的となります。
用明天皇自身の治世は短いものですが、その時代は日本の歴史における大きな転換点です。仏教受容をめぐる対立が、蘇我氏と物部氏の武力衝突へ発展し、古い豪族秩序が大きく変化した時代だからです。
用明天皇(ようめいてんのう)の皇子で、諱は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)です。
用明天皇の死後、物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)の対立が激しくなります。蘇我馬子は泊瀬部皇子を支持し、物部守屋と戦います。
この戦いで物部守屋が敗れ、殺害されると、崇峻天皇が即位します。これによって蘇我氏の政治的地位は非常に強くなりました。
崇峻天皇の時代には、蘇我氏による仏教政策が進められ、寺院建立なども行われました。一方で、天皇と蘇我馬子との間には次第に緊張関係が生じたと『日本書紀』は伝えています。
特に有名なのが、崇峻天皇暗殺事件です。『日本書紀』によれば、天皇は献上された猪を見て、「いつかこの猪のように自分が憎いと思う者を斬りたい」という趣旨の発言をしたとされます。蘇我馬子はこれを自分への敵意と受け取ったとされます。
そして592年、蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を暗殺したと『日本書紀』は記しています。
天皇が臣下によって殺害されたというこの事件は、記紀の中でも極めて重大な出来事です。崇峻天皇の死後、蘇我馬子は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を擁立します。これが推古天皇です。
崇峻天皇の時代は、天皇と有力豪族との力関係が大きく変化した時代として重要です。そして、この暗殺事件を境に、推古天皇と厩戸皇子(うまやどのみこ)による新しい政治の時代へと進んでいきます。
推古天皇(すいこてんのう)は、第33代天皇であり、記紀上では日本で最初の女性天皇とされています。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)です。欽明天皇の皇女で、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・堅塩媛(きたしひめ)です。
推古天皇は敏達天皇(びだつてんのう)の皇后となった後、崇峻天皇(すしゅんてんのう)が暗殺されると即位します。
推古天皇の時代に特に重要なのが、厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子との政治です。『日本書紀』では、推古天皇が厩戸皇子を皇太子として政治を補佐させたと記されています。
この時代には、冠位十二階が制定され、従来の氏族的な身分秩序とは異なる、人材登用の制度が整えられたとされます。また、十七条憲法も制定され、役人が守るべき政治理念が示されたと記されています。
さらに、推古朝では隋への遣隋使が派遣されました。607年の遣隋使では、小野妹子(おののいもこ)が派遣され、隋の皇帝・煬帝(ようだい)との外交が行われます。これによって、日本は中国王朝との外交関係を積極的に構築していきます。
また、仏教の保護も推古朝の大きな特徴です。厩戸皇子や蘇我馬子(そがのうまこ)を中心として寺院建立が進み、法隆寺(ほうりゅうじ)などに代表される仏教文化が発展します。
ただし、推古天皇自身も単なる「聖徳太子の時代の女性天皇」ではありません。『日本書紀』には、推古天皇自身が政治的判断を行った記事もあり、皇族として強い政治的基盤を持っていたことがうかがえます。
推古天皇の時代は、蘇我氏の台頭、仏教の定着、中国外交、政治制度の整備が同時に進んだ時代です。古墳時代から飛鳥時代へと日本社会が大きく転換する中で、その中心に位置した天皇といえます。
年表を単純に並べるだけでなく、5つの段階に分けると非常に分かりやすくなります。
雄略 → 清寧 → 顕宗 → 仁賢 → 武烈
この時期は、皇族同士の対立や逃亡、皇位継承が大きなテーマです。
特に、
市辺押磐皇子
↓
億計王・弘計王
↓
仁賢・顕宗
↓
武烈
という系譜が重要です。
武烈天皇に後継者なし
↓
男大迹王(継体天皇)を迎える
↓
大和へ進出
↓
磐井の乱
ここが、この年表の最大の転換点です。
継体天皇は、記紀上では応神天皇の五世孫とされます。そのため、記紀の系譜上は「皇統の継承」と説明されています。
継体 → 安閑 → 宣化
この時代になると、
屯倉
筑紫
那津
朝鮮半島外交
百済・新羅・任那
などが重要になります。
特に磐井の乱は、ヤマト王権と九州北部の豪族との関係を考えるうえで重要です。
欽明 → 敏達 → 用明 → 崇峻
この時期には、
百済から仏教伝来
↓
蘇我氏が仏教を支持
↓
物部氏が反対
↓
蘇我氏と物部氏が武力衝突
↓
物部守屋が敗死
↓
蘇我氏が優勢
という流れが生まれます。
推古天皇即位(592年)
↓
厩戸皇子が政治を補佐
↓
冠位十二階(603年)
↓
十七条憲法(604年)
↓
遣隋使(607年など)
↓
仏教文化の発展
※年代は『日本書紀』の紀年を基本としています。
| 年代 | 天皇 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 478年頃 | ― | 『宋書』倭国伝に「倭王武」の遣使記事。雄略天皇に比定されることがあります |
| 479年頃 | 第22代 清寧天皇 | 雄略天皇の死後、白髪皇子が即位し清寧天皇となります |
| 480年代 | 第22代 清寧天皇 | 清寧天皇に皇子がなく、皇位継承者が問題となります |
| 480年代 | 第22代 清寧天皇 | 播磨で億計王・弘計王の身分が判明します |
| 480年代 | 第22代 清寧天皇 | 市辺押磐皇子の遺児である億計王・弘計王が都へ迎えられます |
| 484年頃 | 第23代 顕宗天皇 | 弘計王が即位し、顕宗天皇となります |
| 485年頃 | 第23代 顕宗天皇 | 父・市辺押磐皇子の遺骨を探し、弔います |
| 485年頃 | 第23代 顕宗天皇 | 雄略天皇への復讐をめぐる兄弟の物語が記されます |
| 489年頃 | 第24代 仁賢天皇 | 顕宗天皇の死後、兄の億計王が即位します |
| 5世紀末 | 第24代 仁賢天皇 | 春日大娘皇女との婚姻。後の武烈天皇・手白香皇女らが生まれます |
| 498年頃 | 第25代 武烈天皇 | 小泊瀬稚鷦鷯尊が即位し、武烈天皇となります |
| 5世紀末~6世紀初頭 | 第25代 武烈天皇 | 『日本書紀』では残虐な逸話が多数記されます |
| 506年頃 | 第25代 武烈天皇 | 武烈天皇が死去。皇子がなく、皇位継承者が問題になります |
| 507年頃 | 第26代 継体天皇 | 男大迹王が樟葉宮で即位し、継体天皇となります |
| 507~518年頃 | 第26代 継体天皇 | 樟葉宮・筒城宮・弟国宮などを経て宮を移します |
| 518年頃 | 第26代 継体天皇 | 磐余玉穂宮に入り、大和方面の王権との結びつきを強めます |
| 527年 | 第26代 継体天皇 | 磐井の乱が発生。筑紫君磐井が朝廷軍と対立します |
| 528年頃 | 第26代 継体天皇 | 物部麁鹿火が磐井を討ち、乱が鎮圧されたとされます |
| 6世紀前半 | 第26代 継体天皇 | 百済・新羅・任那など朝鮮半島との外交が活発化します |
| 531年頃 | 第27代 安閑天皇 | 継体天皇の後を継ぎ、安閑天皇が即位します |
| 531~535年頃 | 第27代 安閑天皇 | 各地に**屯倉(みやけ)**が設置されたと記されます |
| 535年頃 | 第28代 宣化天皇 | 安閑天皇の死後、弟の宣化天皇が即位します |
| 535~539年頃 | 第28代 宣化天皇 | 那津に官家を設置し、筑紫方面の支配を強化します |
| 539年頃 | 第29代 欽明天皇 | 欽明天皇が即位します |
| 538年 | 第29代 欽明天皇 | 百済から仏像・経典が伝来したとする異伝があります |
| 552年 | 第29代 欽明天皇 | 『日本書紀』では百済の聖明王から仏像・経典などが伝来します |
| 6世紀中頃 | 第29代 欽明天皇 | 仏教受容をめぐり、蘇我稲目と物部氏・中臣氏らが対立します |
| 6世紀中頃 | 第29代 欽明天皇 | 百済・新羅・任那をめぐる外交問題が続きます |
| 572年頃 | 第30代 敏達天皇 | 欽明天皇の後を継ぎ、敏達天皇が即位します |
| 570年代 | 第30代 敏達天皇 | 蘇我氏と物部氏の対立が深まります |
| 585年頃 | 第31代 用明天皇 | 敏達天皇の死後、用明天皇が即位します |
| 585~587年頃 | 第31代 用明天皇 | 用明天皇が仏教への帰依を表明したとされます |
| 587年頃 | 第31代 用明天皇 | 用明天皇が死去します |
| 587年 | 第32代 崇峻天皇 | 蘇我馬子と物部守屋が武力衝突します |
| 587年 | 第32代 崇峻天皇 | 物部守屋が敗死し、蘇我氏の勢力が急速に強まります |
| 587年頃 | 第32代 崇峻天皇 | 泊瀬部皇子が即位し、崇峻天皇となります |
| 588年頃 | 第32代 崇峻天皇 | 蘇我氏を中心に仏教寺院の建立が進みます |
| 592年 | 第32代 崇峻天皇 | 『日本書紀』では崇峻天皇が蘇我馬子の意を受けた東漢直駒によって暗殺されたとされます |
| 592年 | 第33代 推古天皇 | 額田部皇女が即位し、推古天皇となります |
| 593年 | 第33代 推古天皇 | 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子となり、政治を補佐します |
| 593年 | 第33代 推古天皇 | 四天王寺建立の伝承があります |
| 603年 | 第33代 推古天皇 | 冠位十二階が制定されたとされます |
| 604年 | 第33代 推古天皇 | 十七条憲法が制定されたと『日本書紀』は記します |
| 607年 | 第33代 推古天皇 | 小野妹子を遣隋使として隋へ派遣します |
| 607年頃 | 第33代 推古天皇 | 法隆寺建立・再建につながる仏教文化が発展します |
| 608年 | 第33代 推古天皇 | 裴世清が隋から来日します |
| 614年 | 第33代 推古天皇 | 犬上御田鍬らが遣隋使として派遣されます |
| 618年 | 第33代 推古天皇 | 中国で隋が滅び、唐が成立します |
| 628年 | 第33代 推古天皇 | 推古天皇が崩御します |
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