葦原中国が平定された後、天津国が高天原から葦原中国へ降り立つまでの創作物語版です。
古事記の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

高千穂(たかちほ)で暮らしていた邇邇芸命(ににぎのみこと)は、やがて笠沙(かささ)の御崎(みさき)へ向かいました。
そこで、一人の美しい少女に出会いました。
海から吹く風が、少女の髪を静かになびかせています。
邇邇芸命(ににぎのみこと)は尋ねました。
「あなたは、どなたですか?」
少女は答えます。
「私は大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘です。
名を神阿多都比売(かむあたつひめ)。
またの名を、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)と申します」
その美しさに心を惹かれた邇邇芸命(ににぎのみこと)は、求婚しました。
「あなたを妻に迎えたいと思います」
木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)は静かに答えました。
「そのことについては、私の父がお答えするでしょう」
こうして、邇邇芸命(ににぎのみこと)は大山津見神(おおやまつみのかみ)へ使いを送りました。

大山津見神(おおやまつみのかみ)は、天つ神の御子から求婚されたと聞き、大変喜びました。
「なんという喜ばしいことでしょう!」
そこで大山津見神(おおやまつみのかみ)は、二人の娘を差し出しました。
妹の木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)。
そして、姉の石長比売(いわながひめ)です。
しかし、邇邇芸命(ににぎのみこと)は石長比売(いわながひめ)を返し、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)だけを妻として迎えました。
その知らせを聞いた大山津見神(おおやまつみのかみ)は、深く嘆きました。
「私は二人の娘を差し出したのです。
石長比売(いわながひめ)をともに妻とすれば、天つ神の御子の命は岩のように永遠になったでしょう。
しかし、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)だけを迎えたのなら、その命は木の花のように儚くなるでしょう」
こうして、人の命には限りがあるものとなったのだと語られています。

やがて、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)は身ごもりました。
しかし、邇邇芸命(ににぎのみこと)は驚きました。
「一夜の契りで、もう身ごもったというのですか?」
そして、疑いの言葉を口にしました。
「もしかすると、その子は私の子ではなく、国つ神の子なのではありませんか?」
木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)は、悲しみました。
しかし、逃げることなく、はっきりと言いました。
「もし、この子が国つ神の子なら、無事には生まれないでしょう。
けれども、天つ神の御子ならば、どのようなことがあっても無事に生まれるはずです」
そして、自分の潔白を証明するため、恐ろしい決意をします。

木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)は、一つの産殿を造りました。
その産殿には、戸口がありません。
入口を土で塞ぎました。
そして、火を放ちます。
炎が燃え上がります。
赤い炎が産殿を包みます。
神々は息をのみました。
「佐久夜毘売命(さくやびめのみこと)様……!」
しかし、炎の中から声が響きました。
「私は負けません。
この子が天つ神の御子なら、必ず無事に生まれるでしょう」
そして――。
炎の中から、一人の御子が生まれました。
さらに、二人目。
そして、三人目。
三柱の御子が誕生したのです。

最初に生まれた御子は、火照命(ほでりのみこと)でした。
火のような力強さを持つ御子です。
火照命(ほでりのみこと)は、後に隼人(はやと)の阿多君(あたのきみ)の祖となったと伝えられています。
次に生まれたのは、火須勢理命(ほすせりのみこと)。
そして最後に生まれたのが、火遠理命(ほおりのみこと)です。
火遠理命(ほおりのみこと)は、またの名を天津日子穂穂手見命(あまつひこほほでみのみこと)といいます。
炎に包まれた産殿から生まれた三柱の御子。
その誕生は、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)が語った言葉を証明する、神聖な出来事となりました。

こうして、邇邇芸命(ににぎのみこと)と木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)の物語から、新たな世代が始まりました。
火照命(ほでりのみこと)。
火須勢理命(ほすせりのみこと)。
火遠理命(ほおりのみこと)。
そして、この三柱の物語は、やがて日向三代へと受け継がれていきます。
その中心となるのが、火遠理命(ほおりのみこと)です。
火遠理命(ほおりのみこと)の物語は、海神(わたつみ)の宮へと続き、そこで新たな神々との出会いが待っています。
さらに、その血統は次の世代へ、そしてまた次の世代へと受け継がれていきます。
高天原(たかまのはら)から地上へ。
天つ神の御子から、その子へ。
日向(ひむか)から、やがて大和(やまと)へ。
そして、その遥かな道の先に、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)の物語が待っています。
邇邇芸命(ににぎのみこと)が高千穂(たかちほ)の峰に降り立ったその日。
それは、一人の神が地上へ降りた日であるだけではありませんでした。
天つ神の系譜が地上に根を下ろし、やがて日本の王統へとつながっていく――その長い物語の始まりだったのです。
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■木花之佐久夜毘売との出会い
邇邇芸命は笠沙の御崎で美しい少女を見つけます。 少女は言います。 「私は大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で、 名は神阿多都比売(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)です。」
邇邇芸命が求婚すると、 「父が答えるでしょう」と述べます。
大山津見神は喜び、姉の石長比売(いわながひめ)を添えて娘を差し出しますが、 石長比売が醜かったため、邇邇芸命は姉を返し、 木花之佐久夜毘売だけを留めて一夜の契りを結びます。
大山津見神は嘆きます。 「石長比売を用いれば、天つ神の御子は岩のように永遠であったでしょう。 木花之佐久夜毘売だけを留めたゆえに、 御子の寿命は木の花のように儚くなるでしょう。」
これが天皇の寿命が永遠でなくなった由来とされます。
■火中出産と日向三代の誕生
木花之佐久夜毘売命は身重となり、 「この子は天つ神の御子です。私事として産むべきではありません」 と申し上げます。
邇邇芸命は疑います。 「一夜の契りで身籠ったというのか。国つ神の子ではないか。」
木花之佐久夜毘売命は言います。 「もし国つ神の子なら無事に生まれません。 天つ神の御子なら無事に生まれるでしょう。」
彼女は戸口のない産殿を造り、土で塞ぎ、 その産殿に火を放って出産します。
炎の中で生まれた子は三柱。
火照命(ほでりのみこと)――隼人の阿多君(あたのきみ)の祖。
火須勢理命(ほすせりのみこと)。
火遠理命(ほおりのみこと)――またの名を天津日子穂穂手見命(あまつひこほほでみのみこと)。
この三柱から日向三代へ続き、 やがて神武天皇へと至る皇統が始まります。
別の言い伝え(第二)
別の言い伝え(第二)によると、天つ神が経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかつちのかみ)を遣わし、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定させられました。
そのとき二柱の神は、
「天に悪い神がいます。名を天津甕星(あまつみかほし)といいます。またの名は天香香背男(あまのかかせお)です。どうかまずこの神を除き、それから降って葦原中国を平定させて頂きたい」
と言いました。
このとき、甕星(みかほし)を征する斎主を斎の大人(いわいのうし)といいました。
この神は今、東国の檝取(かとり)(香取)の地にお出でになります。
時に、二柱の神は出雲(いずも)の五十田狭(いたさ)の小汀(おばま)に降って、大己貴神(おおあなむちのみこと)に、
「お前はこの国を天つ神に奉るかどうか」
と問われました。
大己貴神(おおあなむちのみこと)は、
「あなた方二神の言われることはどうも怪しい。私が元から居るところへやって来たのではないか。許すことは出来ぬ」
と答えました。
そこで経津主神(ふつぬしのかみ)は帰り上って報告しました。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は二柱の神を再び遣わし、大己貴神(おおあなむちのみこと)に勅して言いました。
「今、お前の言うことを聞くと、深く理に叶っている。それで詳しく条件を揃えて申しましょう。
あなたが行う現世の政治は皇孫が致しましょう。あなたは幽界(ゆうかい)の神事を受け持ちなさい。
あなたの住むべき宮居(みやい)は、今からお造りしますが、千尋もある栲(たえ)の縄で結び固めて造りましょう。
柱は高く太く、板は広く厚く致しましょう。供田も作りましょう。
また、あなたが海に遊ばれるために、高い橋や水上に浮く橋、鳥のように速く走る船なども造りましょう。
さらに天上の安河(やすかわ)に掛け外しのできる橋を造りましょう。
また幾重にも革を縫い合わせた白楯(しらたて)を造りましょう。
あなたの祭祀を掌るのは、天穂日命(あめのほひのみこと)が致します。」
そこで大己貴神(おおあなむちのみこと)は、
「天つ神のおっしゃることは、こんなに行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。
私が治めるこの世のことは、皇孫がまさに治められるべきです。私は退いて幽界の神事を担当しましょう」
と答えました。
そこで岐神(ふなとのかみ)(猿田彦神)を二神に勧めて、
「これが私に代わってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します」
と言い、体に八坂瓊(やさかに)の大きな玉をつけて、永久にお隠れになりました。
その後、経津主神(ふつぬしのかみ)は岐神(ふなとのかみ)を先導役として方々を巡り歩き、平定しました。
従わない者は斬り殺し、帰順する者には褒美を与えました。
このとき帰順した首長は、大物主神(おおものぬしのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)でありました。
そこで八十万神(やそのかみ)を天高市(あめのたけち)に集め、この神々を率いて天に上り、その誠の心を披歴しました。
時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は大物主神(おおものぬしのかみ)に勅して言いました。「お前がもし国つ神を妻とするなら、私はお前がまだ心を許していないと考える。
そこで、これから我が娘の三穂津姫(みほつひめ)をお前に娶わせて妻とさせたい。
八十万神(やそのかみ)を引き連れて、永く皇孫のために守って欲しい。」
そして、紀国(きのくに)の忌部の遠祖である手置帆負神(たおきほおいのかみ)を笠作りの役目とし、
彦狭知神(ひこさちのかみ)を盾作りの役目とし、
天目一箇神(あまめひとつかのかみ)を鍛冶の役とし、
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を布作りの役とし、
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を玉作りの役としました。
太玉命(ふとたまのみこと)は、天孫の代理として大己貴神(おおあなむちのみこと)を祀る役を負いました。これが始まりです。
また天児屋命(あめのこやねのみこと)は神事の元締であり、太占(ふとまに)の占いを役目としました。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は勅して言いました。
「私は天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を造り、皇孫のために謹んで祭ろう。
天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとたまのみこと)は天津神籬をもって葦原中国に降り、皇孫のために謹んで祭りなさい。」
そして二神を遣わし、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に付き従わせて降らせました。
このとき天照大神(あまてらすおおみかみ)は宝鏡(ほうきょう)を手に持ち、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に授けて言いました。
「我が子がこの宝鏡を見るのは、私を見るのと同じであるべきだ。共に床を同じくし、部屋を一つにして慎み祭る鏡とせよ。」
また天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとたまのみこと)に勅して、
「お前たち二神は共に同じ建物に侍って、よく守りの役をせよ」
と言われました。
さらに、
「我が高天原(たかまがはら)の斎庭(ゆにわ)の稲穂を我が子に与えなさい」
と言われました。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡姫(よろずはたひめ)を天忍穂耳尊(あまのおしほみみこと)に娶わせ、妃として降らせました。
その途中の大空で生まれた子を天津彦火壤瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)といいます。
この皇孫を親の代理として降らせようと思われました。
天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとたまのみこと)以下の諸神をすべてお伴とし、前例のごとく装束を授けられました。
そののち天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)は天に帰られました。
天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)は日向の槵日(くしひ)の高千穂峯(たかちほのみね)に降られ、膂宍の胸副国(そししのむなそうくに)を丘続きに求め歩き、浮渚在平地(うきじまりたいら)に立たれ、国主である事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)を召して尋ねられました。事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)は、
「ここに国があります。勅のままにどうぞ御自由に」
と答えました。
皇孫は宮殿を建てて住まわれました。
後に浜辺で美人をご覧になり、
「お前は誰の娘か」
と尋ねられました。
美人は答えました。
「私は大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、名は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、またの名を木花開耶姫(このはなさくやひめ)といいます。姉に磐長姫(いわながひめ)がいます。」
皇孫は、
「お前を妻にしたい」
と言われました。
木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、
「父にお尋ね下さい」
と答えました。
大山祇神(おおやまつみのかみ)は二人の娘に多くの物を持たせて奉りました。
皇孫は姉を醜いと思われて返し、妹を召されました。
一夜で妊娠したため、磐長姫(いわながひめ)は恥じて呪い、
「もし私を退けなければ、御子は永遠に生きたでしょう。しかし妹だけを召されたので、その子は木の花のように散るでしょう」
と言いました。
これが人の命が短い理由とされます。
木花開耶姫(このはなさくやひめ)は恥じて塗籠を作り、
「もし他の神の子なら不幸になるでしょう。本当に天孫の子なら無事に生まれるでしょう」
と誓い、火をつけました。
炎が出始めたときに生まれた子を火酢芹命(ほのすせりのみこと)、
火の盛んなときに生まれた子を火明命(ほのあかりのみこと)、
次に生まれた子を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、またの名を火折尊(ほおりのみこと)といいます。
別の言い伝え(第三)
はじめに炎が明るくなったときに生まれた子を火明命(ほのあかりのみこと)といいます。
次に炎の盛んになったときに生まれた子を火進命(ほのすすみのみこと)、または火酢芹命(ほのすせりのみこと)といいます。
次に炎がなくなるときに生まれた子を火折彦火火出見尊(ほおりひこほほでみのみこと)といいます
この三人の御子は火でも損なわれることがありませんでした。
母親もまた少しも損なわれるところがありませんでした。
そのとき竹刀で御子の臍の緒を切りました。
その捨てた竹刀が後に竹林となり、その場所を竹屋(たけや)と名づけました。
時に、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)は、占いによって定めた神餞田を狭名田(さなだ)と名づけました。
その田の稲で天甜酒(あめのたむさけ)を嚙んで造り、お供えしました。
また沼田の稲を炊いて飯とし、お供えしました。
別の言い伝え(第四)
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は真床覆衾(まとこおうふすま)をもって、天津彦国光彦火瓊瓚杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと)にお着せになり、天磐戸(あまのいわと)を開き、天八重雲(あまのやえぐも)を押し分けて降ろされました。
そのとき、大伴連(おおとものむらじ)の遠祖である天忍日命(あまのおしひのみこと)、来目部(くめべ)の遠祖である天槵津大来目(あめくしつおおくめ)を率いて、背には天磐鞔(あまのいわゆき)を負い、臂には高鞆をつけ、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、八目の鏑矢を添え、柄頭が槌のような剣を帯び、天孫の前に立って降りました。
日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂(たかちほ)の扼日(くしび)の二上峯(ふたかみのたけ)の天浮橋(あまのうきはし)に至り、「うきじまのたいら」に立ち、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を丘続きに求め歩き、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の崎に着かれました。
そこに一人の神がいて、名を事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)といいました。
天孫が「ここに国があるか」と問うと、「あります。勅のままに奉ります」と答えました。
この事勝国勝長狭は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の子で、またの名を塩土老翁(しおつつのおじ)といいます。
別の言い伝え(第五)
天孫が大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘、吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)を召され、一夜で孕まれました。
そして四人の子を生みました。
吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)は子を抱いて言いました。
「天つ神の子を、どうしてこっそり養いましょうか。様子を申し上げます。」
天孫は子らを見て嘲笑し、
「何とまあ、私の皇子たち、こんなに生まれたとは嬉しい」
と言いました。
姫は怒り、
「どうして私を嘲るのですか」
と言いました。
天孫は、
「心に疑わしく思う。一夜で孕むはずがない。きっと我が子ではあるまい」
と言いました。
姫は恨み、無戸室(うつむろ)を作って籠もり、誓って言いました。
「もし天つ神の子でなければ焼け失せよ。もし天つ神の子なら損なわれることはない。」
火をつけると、炎が明るくなったとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、火明命(ほのあかりのみこと)。父はどこにおられるか。」
次に火の盛んなとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、火進命(ほのすすみのみこと)。父と兄弟はどこにおられるか。」
次に炎の衰えるとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、火折尊(ほおりのみこと)。父と兄弟はどこにおられるか。」
次に火熱が引けるとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。父と兄弟はどこにおられるか。」
母の吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)も燃え杭の中から出て、
「私も子らも火難に遭っても損なわれませんでした。天孫はご覧になりましたか」
と言いました。
天孫は、
「もとより我が子と知っていた。ただ一夜で孕んだことを疑う者があると思い、衆人に示したかったのだ。お前は不思議な力がある。この子らが人に勝れた気を持つことを示したかった。」
と言いました。
別の言い伝え(第六)
天忍穂根尊(あめのおしほねのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である栲幡千千姫・万幡姫命(たくはたちぢひめ・よろずはたひめのみこと)、または火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の子の千千姫命(ちぢひめのみこと)を娶られました。
そして天火明命(あまのほのあかりのみこと)を生み、次に天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)を生みました。
天火明命(あまのほのあかりのみこと)の子である天香山(あまのかぐやま)は尾張連(おわりのむらじ)の遠祖です。
皇孫・火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)を葦原中国(あしはらのなかつくに)に降すにあたり、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は八十神に勅して、
「葦原中国は岩根も木の株も草の葉も物を言う。夜は火の子のように騒ぎ、昼は蠅のように沸き立つ」
と言いました。
天稚彦(あめわかひこ)が帰らないため、無名雄雉(ななしおのきぎし)を遣わしましたが、粟や豆を見て帰らず、これが「雉の片道使い」の由来です。
次に無名雌雉(ななしおのきぎし)を遣わすと、天稚彦(あめわかひこ)に射られ、その矢に当たって天に戻り報告しました。
その後、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は真床覆衾(まどこおうふすま)をもって皇孫・天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)に着せ、天八重雲(あまのやえくも)を押し分けて降らせました。
この神を天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと)といいます。
天降りの地を日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂(たかちほ)の添の山峯(そほりのたまのたけ)といいます。
その後、吾田(あた)の笠狭(かささ)の御崎に至り、長島(ながしま)の竹島(たけしま)に登られました。
そこに事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)がいて、
「ここは長狭(ながさ)の国ですが、今は天孫に奉ります」
と言いました。
天孫が「波の上の御殿で機を織る少女は誰か」と問うと、
「大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、姉が磐長姫(いわながひめ)、妹が木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、またの名を豊吾田津姫(とよあたつひめ)」
と答えました。
天孫は豊吾田津姫(とよあたつひめ)を召し、火酢芹命(ほのすせりのみこと)、火折尊(ほおりのみこと)を生みました。
またの名を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)といいます。
母の誓いにより、これが皇孫の胤であることは明らかでしたが、豊吾田津姫(とよあたつひめ)は恨んで口をきかず、天孫は悲しんで歌を詠みました。
オキツモハ、へニハヨレドモ、サネトコモ、アタハヌカモヨ、ハマツチトリヨ。
沖の藻は浜に寄るが、わが思う妻は寄らず、寝床も与えてくれない。浜千鳥よ、二人寄り添うお前たちが羨ましい。
別の言い伝え(第七)
別の言い伝え(第七)によると、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘として、天万栲幡千幡姫(あまよろずたくはたちはたひめ)がいました。
一説では、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子である万幡姫(よろずはたひめ)の子の玉依姫命(たまよりひめのみこと)であるともいいます。
この神が天忍骨命(あまのおしほねのみこと)の妃となり、天之杵火火置瀬尊(あまのぎほほおきせのみこと)を生みました。
あるいは、勝速日命(かちはやひのみこと)の子である天大耳尊(あまのおおしみみのみこと)が丹舄姫(にくつひめ)を娶って、火瓊璦杵尊(ほのににぎのみこと)を生んだともいいます。
または、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)が、その子として火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)を生んだともいいます。
また別の説では、天杵瀬尊(あまのきせのみこと)が吾田津姫(あたつひめ)を娶って、火明命(ほのあかりのみこと)を生み、次に火夜織命(ほのよおりのみこと)、次に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだとされます。
別の言い伝え(第八)
別の言い伝え(第八)によると、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちのはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である天万杵幡千幡姫(あまよろずたくはたちはたひめ)を娶り、子を生みました。
この子を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)と名づけました。
これが尾張連(おわりのむらじ)らの遠祖であります。
次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)を生みました。
この神は大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘である木花開耶姫(このはなさくやひめ)を娶り、子を生ませました。
これが火酢芹命(ほのすせりのみこと)と彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)であります。
神武前紀(ニギハヤヒの降臨は天孫降臨より後に書かれている)
【甲寅年】
天照大神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)に十種の神宝(とくさのかんだから)を授け、
天磐船(あまのいわふね)に乗って天下に降るよう命じられました。
饒速日命はその命に従い、天磐船に乗って河内国・河上哮ヶ峯(かわかみのたけるがみね)に天降られました。
その後、大和国鳥見の白庭山(しらにわやま)へ移られました。
長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命を天神の御子として敬い、
妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻として差し出しました。
饒速日命はこの地で勢力を持ち、大和の統治に関わるようになりました。
【戊午年】
神武天皇が大和へ向かわれたとき、長髄彦はこれを拒み、戦いとなりました。
長髄彦は「自分は天神の御子である饒速日命に仕えている」と主張し、
天皇の天孫としての正統性を疑いました。
しかし、饒速日命は天皇が天つ神の御子であることを知り、
長髄彦の不順を「道に背くもの」と判断されました。
そこで饒速日命は長髄彦を誅し、
自らの軍勢を率いて天皇のもとに参上し、申し上げました。
「私は天つ神の御子にお従いするため、この地に降りました。
今、天皇こそが天つ神の御子であると明らかになりましたので、
私はその御前に帰順いたします。」
こうして饒速日命は天皇に帰服し、
その子・宇摩志麻遅命は物部氏の祖として重んじられることになります。