12代景行(けいぎょう)天皇の時代を物語としてまとめています。
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。
大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、纒向(まきむく)の**日代宮(ひしろのみや)**に都を置き、天下をお治めになりました。
天皇には多くの后妃がおられ、その御子たちは大勢にのぼりました。
記録に残されているだけでも、二十一王。
さらに、記録に残されていない御子たちまで合わせれば、なんと八十王にも及んだと伝えられています。
その多くの御子たちの中でも、後世まで特に名高く語り継がれた皇子がいました。
その名は――
小碓命(おうすのみこと)。
のちに、**倭建命(やまとたけるのみこと)**と呼ばれる英雄です。
しかし、その英雄の物語は、輝かしい勝利だけから始まったのではありませんでした。
むしろ、その始まりには、恐ろしい出来事が待っていたのです。
倭建命(やまとたけるのみこと)は、幼いころから周囲の空気を変える子でした。
走れば風が揺れ、跳べば影が遅れてついてくるほどの俊敏さ。
しかし、その身体能力以上に、人々の心をざわつかせたのは――彼の「静けさ」でした。
ある日、庭で遊ぶ皇子たちを見守っていた侍女たちは、ふと小碓命の姿に気づきました。
彼は一人、木陰に立ち、兄たちの遊びをじっと見つめていました。
「小碓命さま、今日もあの場所に……」
「ええ。でも、あのお目を見ましたか? まるで……」
「まるで心の奥を覗かれているようで、息が止まりそうでした」
侍女の一人が胸に手を当て、震える声で続けました。
「泣きもせず、怒りもせず、笑いもせず……。あの静けさは、幼子のものではありません」
そのとき、兄の五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)が近づきました。
「小碓、なぜ一緒に来ない? 走れば気持ちがいいぞ」
小碓命はゆっくりと兄を見上げました。
その瞳は、幼いのに、どこか遠い場所を見ているようでした。
「兄上……人は、どうして争うのですか」
「え……?」
「さっき、兄上たちは石を投げ合っていました。あれは、なぜですか」
五百城入彦皇子は言葉に詰まり、苦笑しました。
「あれは遊びだよ。争っているわけではない」
「遊び……。争いと遊びは、どう違うのですか」
「どうって……うーん……」
兄は答えられず、ただ小碓命の頭を撫でました。
その手つきには、幼い弟への愛情と、どこか説明できない不安が混じっていました。
夕暮れ、宮の廊にて。
母・弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、小碓命の手を取り、そっと問いかけました。
「小碓。今日はどんな一日でしたか?」
「……わかりません」
「わからない?」
「人の心が、よくわからないのです。
嘘をつく理由も、怒る理由も、愛する理由も……」
弟橘比売命は微笑みましたが、その目には深い憂いが宿っていました。
「心は形がありません。だから、見えにくいのです。
でも、小碓。あなたはきっと……誰よりも心を見ようとしているのでしょう」
小碓命は少しだけ目を伏せました。
「見ようとしても、見えません。
だから……胸が、少しだけ痛いのです」
母はそっと彼を抱き寄せました。
「その痛みは、優しさの証ですよ。
あなたは、まだ幼いのです。焦らなくていいのですよ」
小碓命は母の胸に顔を埋め、静かに息を吸いました。
その温もりだけが、彼にとって“理解できる世界”でした。
夜、寝所に戻った小碓命は、天井を見つめながら呟きました。
「どうして……皆は笑えるのだろう。
どうして……皆は泣けるのだろう」
答えは返ってきません。
ただ、幼い胸の奥に、静かで深い孤独が、ゆっくりと根を張っていきました。

大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、
玉座に座りながら、庭を駆ける小碓命の姿を静かに見つめていました。
その動きは、まるで風のように軽く、獣のように鋭い。
「……あの子は、やはり尋常ではない」
天皇は独り言のように呟きました。
傍らに控えていた老臣・武内宿禰が、そっと声をかけます。
「陛下。小碓命さまは、神の御子のような才をお持ちです。
その御姿は、まさしく未来の英雄にふさわしきものかと」
天皇は眉をひそめ、静かに首を振りました。
「才があることは、誇らしい。だが……」
彼は目を細め、過去の記憶に沈みました。
ある日、小碓命がまだ七つの頃。
天皇は偶然、彼が庭の林で小鹿を狩る姿を目にしました。
「……あの子は、獣の息遣いを読み、逃げ道を見抜き、
何のためらいもなく、仕留めた」
その姿は、まるで神の意志に導かれているかのようでした。
美しく、そして――恐ろしかった。
その夜、天皇は小碓命を呼び寄せました。
月明かりの差す広間で、二人は向かい合いました。
「小碓。今日、鹿を狩ったそうだな」
「はい。逃げる方向が見えました。だから、仕留めました」
「……怖くはなかったか?」
「怖い、とは……?」
小碓命は首をかしげました。
その瞳には、純粋な疑問が浮かんでいました。
「命を奪うことに、痛みは感じぬのか?」
「……痛みは、ありました。
でも、それは鹿のものです。
私の中には、ただ……静けさがありました」
天皇は言葉を失いました。
その静けさこそが、彼の胸に恐れを呼び起こしたのです。
天皇は夜更けまで、玉座に座り続けました。
武内宿禰が再び声をかけます。
「陛下。ご心配は……小碓命さまが、何かを誤るのではと?」
「そうだ。あの子は、心の揺らぎを見抜き、
迷いなく行動する。だが、人の世には“迷い”が必要な時もある」
「迷いが、人を守ることもある……と?」
「そうだ。迷いが、優しさとなることもある。
だがあの子は、迷いを知らぬ。
それが、英雄となるか――禍となるか……」
天皇は深く息を吐き、空を見上げました。
「私は、父として……あの子を、愛している。
だが、父として……あの子が怖いのだ」
その言葉は、玉座の間に静かに響き、
誰にも答えられぬ問いとして、夜の闇に溶けていきました。

あるとき、天皇は美濃国(みののくに)に、美しい姉妹がいることをお聞きになりました。
天皇は二人の姉妹を宮中に召そうとされ、御子の**大碓命(おおうすのみこと)**を使いとして遣わしました。
「二人の姉妹を、私のもとへ連れてまいりなさい」
大碓命は命を受け、美濃へ向かいました。
ところが――。
大碓命は、その美しい姉妹を見ると、心を奪われてしまいました。
「この二人を、父上にお渡しすることはできない」
そう考えた大碓命は、二人を自分の妻としてしまいました。
そして、天皇には別の女性を差し出したのです。
やがて、そのことを知った天皇は深く嘆かれました。
「なんということを……」
しかし、大碓命を厳しく問いただすことはありませんでした。
代わりに、弟の小碓命を呼びました。
「そなたが兄を諭し、正しい道へ戻すのだ」
小碓命は静かに答えました。
「承知いたしました」
五日が過ぎました。
しかし、大碓命は一向に宮へ姿を現しません。
天皇は不思議に思われ、小碓命に尋ねました。
「兄はどうしたのだ。
なぜ、いつまでたっても姿を見せぬのか」
すると、小碓命は静かに答えました。
「兄上は、もう参ることはできません」
「それは、どういうことだ?」
小碓命は淡々と語りました。
「夜明けごろ、兄上が厠(かわや)へ入ったところを捕らえました。
そして、手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで捨てました」
天皇は、その言葉を聞いて驚かれました。
弟が兄を諭すどころか、これほどまでに激しく処置したとは――。
小碓命の強さ。
そして、その心に秘められた恐ろしいほどの激しさ。
天皇は、その性質を深く恐れられました。
「この皇子を、このまま宮に置いておくわけにはいかぬ……」
そして、天皇は小碓命に新たな命令を下されます。
「西の国にいる熊襲(くまそ)の者たちを討ち、平定せよ」
こうして小碓命は、遠く西国へ向かうことになりました。
しかし、この旅こそが――
小碓命を倭建命という名の英雄へと変えていくことになるのです。

小碓命は、熊襲建(くまそたける)を討つため、西へ進みました。
やがて熊襲建の館に近づくと、そこでは大きな宴が開かれることを知ります。
熊襲建は、強大な力を持つ者でした。
まともに戦えば、簡単には近づけません。
そこで小碓命は、一つの策を考えました。
伊勢にいる叔母、**倭比売命(やまとひめのみこと)**のもとを訪ね、衣を借りたのです。
そして――。
美しい少女の姿に身を変えました。
「この姿なら、宴の中へ入ることができる」
小碓命は女の姿で熊襲建の宴へ忍び込みました。
宴は次第に盛り上がり、酒が振る舞われます。
熊襲建たちも酒に酔い、警戒を緩めていきました。
その瞬間を、小碓命は待っていたのです。
宴が最高潮に達したとき――。
小碓命は懐から剣を取り出しました。
そして、熊襲建の胸へ深く突き立てたのです。
「な、なんだ――!」
熊襲建は驚き、倒れました。
弟の熊襲建は逃げ出しました。
しかし、小碓命は追いかけます。
そして、ついに弟も討ち取りました。
死を目前にした熊襲建は、小碓命を見上げました。
「お前はいったい……何者なのだ」
小碓命は答えません。
熊襲建は続けました。
「大和には、我らよりも強い男がいたのか……」
そして、最後の力を振り絞って言いました。
「これほど強き男子は、我らの名を超えている。
その名を――倭建命と称えるがよい」
こうして小碓命は、熊襲建からその名を贈られました。
倭建命。
その名は、やがて東国へ、西国へ、そして遠い後世にまで響き渡ることになります。

熊襲を平定した倭建命は、さらに出雲へ向かいました。
そこには、強き者として知られる**出雲建(いずもたける)**がいました。
倭建命は出雲建と親しく付き合うようになりました。
二人はともに歩き、語り合いました。
しかし――。
それは倭建命の策略でした。
ある日、二人が沐浴しているとき、倭建命は出雲建の太刀をこっそり取り替えました。
出雲建には偽物の太刀を。
そして自分は、本物の太刀を持ったのです。
やがて倭建命は言いました。
「太刀合わせをしてみようではないか」
「よかろう!」
二人は太刀を抜きました。
ところが――。
出雲建の太刀は偽物です。
「抜けぬ!」
その隙を逃さず、倭建命は本物の太刀で出雲建を討ちました。
そして倭建命は、歌を詠みました。
出雲建が腰につけた太刀は
葛を巻いて立派に見えるけれど、
中身のない偽物の太刀であったことよ。
こうして倭建命は、出雲も平定したのです。
西国を平定した倭建命でしたが、休むことは許されませんでした。
天皇はさらに命じられました。
「東方十二国には、荒ぶる神々や、従わぬ人々がいる。
そなたはそこへ赴き、これらを平定せよ」
倭建命は命を受け、東国へ向かうことになりました。
しかし、この旅はこれまでの戦いとは違っていました。
険しい山々。
荒々しい海。
そして、倭建命を待ち受ける数々の罠。
その旅の途中で、彼は再び倭比売命を訪ねました。
伊勢にいる叔母、倭比売命のもとへやって来た倭建命。
その姿を見た倭比売命は、深い慈しみをもって迎えました。
倭建命は、これから始まる東国への旅について語りました。
「私は、これから東へ向かいます」
倭比売命は、倭建命に一振りの剣を授けました。
それは――
草薙剣(くさなぎのつるぎ)。
そして、もう一つ、不思議な袋も渡しました。
「この袋は、決して忘れてはなりません。
もし、どうにもならぬほどの危機が訪れたなら――
そのときに開けなさい」
倭建命は、その言葉を胸に刻みました。
「ありがとうございます、叔母上」
こうして倭建命は、草薙剣を携えて東国へ旅立ったのです。
相模国(さがみのくに)へ入った倭建命は、国造(くにのみやつこ)から言葉巧みに騙されました。
「この野には、荒ぶる神がおります。
どうか、あちらへお渡りください」
倭建命が野へ入ると――。
突然、周囲から火が放たれました。
「しまった!」
炎はたちまち広がり、四方から倭建命を包み込みました。
逃げ道はありません。
そのとき、倭比売命から授かった袋を思い出しました。
「そうだ……あの袋を!」
袋を開けると、そこには火打石が入っていました。
倭建命は草薙剣を抜きました。
そして、周囲の草を薙ぎ払い、火打石で火を起こします。
「こちらから火を返すのだ!」
向かい火を放つと、炎は次第に勢いを失っていきました。
倭建命は、燃え盛る野を切り抜けて脱出しました。
その地は後に――
焼津(やきつ)
と呼ばれるようになったと伝えられています。
東へ進んだ倭建命は、走水(はしりみず)の海へたどり着きました。
しかし、海は荒れ狂っていました。
大波が船を揺さぶります。
「この海を、どうして渡ればよいのか……」
倭建命が困っていると、后の**弟橘比売(おとたちばなひめ)**が進み出ました。
「皇子様。
この海の神は、皇子様を通そうとしていないのでしょう」
倭建命は黙って海を見つめました。
すると弟橘比売は、静かに言いました。
「私が身代わりとなりましょう。
皇子様は使命を果たしてください。
そして、天皇に東国を平定したことをお伝えください」
「弟橘よ……」
倭建命は、彼女を止めようとしました。
しかし、弟橘比売の決意は変わりません。
彼女は海へ向かい、八重の畳を海上に敷きました。
その上に立つと、最後に倭建命を振り返りました。
「どうか、使命をお果たしください」
そして――
弟橘比売は荒れ狂う海へ身を沈めました。
その瞬間。
激しかった波が、静かになりました。
倭建命は、ただ海を見つめるしかありませんでした。
七日ほど経ったころ――。
海岸に、一つの櫛が流れ着きました。
それは弟橘比売の櫛でした。
倭建命はその櫛を拾い、深い悲しみの中で彼女を葬りました。

弟橘比売を失った悲しみを胸に、倭建命はさらに東へ進みました。
荒ぶる者たちを平定し、東国を次々と従えていきました。
そして、足柄山(あしがらやま)へ差しかかったときのことです。
白い鹿が現れました。
倭建命は、その鹿を討ち取りました。
しかし、その旅の中で倭建命の心には、故郷への思いが強くなっていました。
山頂に立ち、遠く大和の方角を見つめます。
そして、三度、深いため息をつきました。
「ああ……」
「我が妻よ……」
弟橘比売のことが、胸に蘇ります。
「あづまはや……」
――我が妻よ。
この言葉から、東国を**吾妻(あずま)**と呼ぶようになったと伝えられています。

長い東国平定の旅を終え、倭建命は尾張へ戻ってきました。
そこで待っていたのが、かねてから約束していた**美夜受比売(みやずひめ)**でした。
久しぶりの再会です。
二人は互いの無事を喜びました。
しかし、倭建命の旅は、まだ終わっていませんでした。
美夜受比売との間には、月の障りがありました。
倭建命は、そのことを歌に詠みました。
天香具山を渡る白鳥よ。
その白鳥の首のように細い腕を、
私は枕にしたい。
けれど、あなたの裾には月が現れている。
すると、美夜受比売も歌を返しました。
二人は互いの心を確かめ合いました。
そして、二人は結ばれたのです。
しかし――。
倭建命の胸には、まだ一つの使命が残っていました。
伊吹山の神を討つこと。

倭建命は、美夜受比売のもとを離れ、伊吹山へ向かうことにしました。
このとき、倭建命は草薙剣を美夜受比売のもとに置いていきました。
「この剣は、ここに置いていこう」
そして、伊吹山へ向かいます。
しかし、それは倭建命にとって、大きな過ちとなりました。
山へ入ると、白い猪が現れました。
倭建命は、その姿を見て言いました。
「これは神の使いであろう。
今は討たず、帰るときに討てばよい」
しかし――。
その白い猪こそ、伊吹山の神そのものだったのです。
倭建命がその場を去ると、突然、空が暗くなりました。
激しい雹(ひょう)が降り始めます。
「な、なんだ……!」
大粒の雹が倭建命の身体を打ちつけます。
山の神の力は、倭建命の身体を激しく蝕んでいきました。
そして――。
倭建命は重い病に倒れてしまったのです。

倭建命は、伊吹山から帰ることになりました。
しかし、その身体は日に日に弱っていきます。
それでも彼は歩き続けました。
「まだ……大和へ帰らなければならない」
一歩。
また一歩。
足を引きずりながら進みます。
その旅の途中で、いくつもの場所に倭建命の足跡が残されました。
苦しみながら歩いた当芸(たぎ)。
杖をついて坂を越えた杖衝坂(つえつきざか)。
そして、身体が三重にも重く感じられたという三重(みえ)。
地名の一つ一つに、弱りゆく英雄の姿が重なっていきました。
やがて倭建命は、能煩野(のぼの)へたどり着きました。
そこで彼は、遠い大和を思いました。
能煩野の野に立ち、倭建命は大和の方角を見つめました。
もう、自分の故郷へ帰ることはできない。
そう感じていたのでしょう。
そして、静かに歌いました。
大和は
青い垣のように山々が取り囲む、
美しい国だ。私の故郷――
大和は、なんと美しい国なのだろう。
倭建命の心には、父である景行天皇のこと。
大和の山々。
そして、これまでの長い旅が浮かんでいました。
熊襲。
出雲。
東国。
焼津。
走水。
そして、海に消えた弟橘比売。
倭建命は、遠い大和を思いながら、最後の歌を詠みました。
倭建命の心に、尾張で別れた美夜受比売の姿が浮かびました。
そして、彼女のもとに置いてきた太刀を思い出したのです。
「そうだ……」
「美夜受比売のもとに、太刀を置いてきた……」
その太刀。
それは、あの草薙の太刀でした。
倭建命は、最後の力を振り絞って歌います。
美夜受比売の床のそばに
私が置いてきた太刀よ。ああ――
草薙の太刀よ。
歌い終えた倭建命は、静かに目を閉じました。
こうして――
倭建命は、その生涯を終えたのです。
倭建命の死を知った人々は、深く悲しみました。
葬儀が行われ、陵が築かれました。
ところが――。
倭建命の魂は、そこに留まりませんでした。
突然、陵から一羽の白い鳥が飛び立ったのです。
「白鳥だ!」
人々は驚きました。
それは、倭建命の魂でした。
后たちや御子たちは、泣きながら白鳥を追いました。
「待ってください!」
「どうか、行かないでください!」
しかし白鳥は、空高く舞い上がっていきます。
そして伊勢から河内へ。
さらに志幾(しき)へと飛んでいきました。
白鳥が留まった場所には、**白鳥御陵(しらとりのみささぎ)**が築かれました。
しかし、それでも白鳥は留まりません。
再び大空へ舞い上がり――
やがて、その姿は天の彼方へ消えていったと伝えられています。
倭建命には、六柱の御子があったと伝えられています。
その中でも特に重要なのが、
帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)
です。
この御子は、のちに**仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)**となります。
こうして倭建命の血筋は、次の世代へと受け継がれていきました。
一人の英雄の生涯は終わりました。
しかし、その血統と物語は終わりません。
倭建命が残したものは、戦いの勝利だけではありませんでした。
父への思い。
故郷への思い。
愛する妻を失った悲しみ。
そして、命令を背負い続けた一人の皇子の孤独。
そのすべてが、後世の人々の心に残されたのです。
倭建命の物語の後も、景行天皇の治世は続きました。
大帯日子淤斯呂和気天皇――景行天皇は、長きにわたって天下を治められました。
そして、伝承によれば、百三十七歳で崩御されたとされています。
御陵は、山辺道(やまのべのみち)のほとりに築かれました。
こうして景行天皇の御代も終わりを迎えます。
しかし、その御代に生きた倭建命の名は、決して消えることはありませんでした。
熊襲を討ち、
出雲を平定し、
東国を駆け、
荒ぶる神々と戦い、
そして最後には白鳥となって天へ帰っていった英雄――。
その名は、
倭建命。
その物語は、今もなお日本神話の中で語り継がれています。
■ 后妃と御子たち
大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、
纒向の日代宮(まきむくのひしろのみや)にて天下をお治めになりました。
天皇は多くの后妃を迎えられ、
その御子は記録されているだけで 二十一王、
記録に残らぬ御子を含めると 八十王 にも及びました。
その中でも特に名高いのが――
倭建命(やまとたけるのみこと)。
幼名は 小碓命(おうすのみこと) と申します。
大碓命の過ちと、小碓命の恐るべき性質
天皇は、美濃国の美しい姉妹を宮中に召そうとされ、
御子の 大碓命(おおうすのみこと) を遣わされました。
しかし大碓命は姉妹を自分の妻としてしまい、
別の女を天皇に献じました。
これを知った天皇は深く嘆き、
小碓命に兄を諭すよう命じます。
五日後、兄はなお参内せず。
天皇が理由を問うと、小碓命は静かに答えました。
「夜明け、兄が厠に入ったところを捕え、
手足をもぎ取り、薦に包んで捨てました」
天皇はその恐るべき性質を恐れ、
小碓命を遠く 熊襲(くまそ) の討伐へと遣わされました。
倭建命、熊襲を討つ ― 英雄の誕生
小碓命は叔母・倭比売命(やまとひめのみこと)から衣を借り、
少女に変装して熊襲建の宴に忍び込みます。
酒宴が最高潮に達したとき、
胸元に忍ばせた剣で兄の熊襲建を刺し、
逃げる弟を追って討ち取りました。
死に際、熊襲建は言いました。
「大和より我らを超える強き男子が現れた。
その名を 倭建命(やまとたけるのみこと) と称えよ」
こうして小碓命は 倭建命 と呼ばれるようになりました。
出雲建を討つ ― 偽りの太刀
倭建命は出雲へ向かい、
出雲建(いずもたける)と友情を結んだふりをして、
沐浴の際に太刀をすり替えます。
太刀合わせを挑むと、
出雲建の太刀は偽物で抜けず、
倭建命は本物の太刀で彼を討ちました。
そのときの歌。
出雲建が腰につけた太刀は
葛を巻いて見かけは立派だが
刀身がなくて
東国征伐 ― 草薙剣と弟橘比売の愛
天皇はさらに倭建命に命じます。
「東方十二国の荒ぶる神、人々を平定せよ」
倭建命は伊勢神宮を参拝し、
叔母の倭比売命から 草薙剣(くさなぎのつるぎ) と
「火急の際に開けよ」と言われた袋を授かります。
■ 焼津の火攻め
相模の国造に騙され、
野に火を放たれた倭建命。
袋を開くと火打石があり、
草を刈り払って向かい火を放ち、
炎を制して脱出しました。
その地は 焼津(やきつ) と呼ばれます。
■ 走水の海と弟橘比売
走水の海で荒波に阻まれたとき、
后の 弟橘比売(おとたちばなひめ) は言いました。
「私が身代わりとなりましょう。
皇子は使命を果たし、天皇に報告なさってください」
八重の畳を海に敷き、その上に立ち、
弟橘比売は海へ身を沈めました。
波は静まり、倭建命は渡ることができました。
七日後、后の櫛が海岸に流れ着き、
倭建命は涙ながらに葬りました。
東国平定と “吾妻はや”
倭建命は蝦夷を平定し、
足柄山で白鹿を討ち、
山頂で三度嘆息して言いました。
「ああ、我が妻よ……」
これが 吾妻(あずま) の語源と伝えられます。
美夜受比売との再会と別れ
尾張に戻った倭建命は、
約束していた美夜受比売(みやずひめ)と再会します。
しかし、彼女の衣の裾に月の障りがあり、
倭建命は歌を詠みました。
天香具山を渡る白鳥よ
その白鳥の首のように
細い腕を枕にしたいが
裾に月が出てしまった
美夜受比売は静かに答えます。
天香具山を渡る白鳥よ
その白鳥の首のように
細い腕を枕にしたいが
裾に月が出てしまった
二人は結ばれましたが、
倭建命は草薙剣を置いたまま、
伊吹山の神を討つため旅立ちます。
伊吹山の神の祟りと、英雄の死
伊吹山で白い猪に出会い、
倭建命は言いました。
「これは神の使いだろう。帰りに討とう」
しかしそれは神そのものでした。
山は激しい雹を降らせ、
倭建命は重い病に倒れます。
帰路、彼は次々と地名を残しながら弱っていきました。
・当芸(たぎ)
・杖衝坂(つえつきざか)
・三重(みえ)
能煩野(のぼの)に至り、
故郷・大和を思って歌います。
大和は
青い垣のように山々が囲む
美しい国だそして最後の歌。
美夜受比売の床のそばに
置いてきた太刀よ
ああ、草薙の太刀よ
歌い終えると、倭建命は息を引き取りました。
白鳥となった倭建命
葬儀のとき、倭建命の魂は
白い千鳥となって空へ飛び立ちました。
后や御子たちは泣きながら追い、
その姿を歌に詠みました。
白鳥は伊勢から河内へ飛び、
志幾(しき)に留まりました。
そこに 白鳥御陵(しらとりのみささぎ) が築かれました。
しかし白鳥はさらに天へ翔け、
姿を消したと伝えられます。
倭建命の子孫と景行天皇の御終焉
倭建命には六柱の御子があり、
その中の 帯中津日子命(たらしなかつひこ) が
のちの 仲哀天皇 となります。
景行天皇は 137歳 で崩御され、
御陵は山辺道のほとりにあります。
天皇即位
大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、垂仁天皇(すいにんてんのう)の第三子であられます。
母は丹波道主王の娘である日葉洲媛命(ひはすひめのみこと)です。
垂仁天皇三十七年に皇太子となられました。
そのとき、御年二十一歳でした。
九十九年春二月、垂仁天皇が崩御されました。
元年秋七月十一日、皇太子は皇位につかれ、年号を改められました。
この年は太歳辛未(かのとひつじ)でした。
二年春三月三日、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后とされました。
皇后は二人の男子をお生みになりました。
第一は大碓皇子(おおうすのみこと)、第二は小碓尊(こうすのみこと)です。
この二人は同じ日に同じ胞(えな)に生まれた双生児でした。
天皇はこれを不審に思われ、碓(うす)に向かって叫び声をあげられました。
そこでこの二人を大碓(おおうす)・小碓(こうす)と名づけられました。
小碓尊はまたの名を日本童男(やまとおぐな)、または日本武尊(やまとたけるのみこと)といいます。
幼いころから雄々しい性格で、壮年になると容貌は溢れるばかりに逞しく、身の丈は一丈(約3m)、力は鼎(かなえ)を持ち上げるほどであったと伝えられます。
神祇の祭祀と武内宿禰の誕生
三年春二月一日、天皇は紀伊国(きいのくに)に行幸され、諸々の神祇をお祭りしようとされましたが、占うと吉と出ませんでした。
そこで行幸を中止され、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わして祭らせました。
武雄心命(たけおごころのみこと)は阿備の柏原(あびのかしわら)にいて神祇を祀り、そこに九年住まわれました。
紀直(きのあたい)の先祖である蒐道彦(うじひこ)の娘・影媛(かげひめ)を娶り、武内宿禰(たけのうちのすくね)を生ませました。
美濃の弟媛と八坂入媛
四年春二月十一日、天皇は美濃(みの)にお出でになりました。
側近が申し上げました。
「この国に美人がいます。弟媛(おとひめ)といい、容姿端麗な八坂入彦皇子(やさかのいりびこのみこと)の娘です。」
天皇は弟媛を妃にしたいと思われ、弟媛の家に行かれました。
弟媛は天皇が来られたと聞いて竹林に隠れました。
天皇は弟媛を引き出そうとお考えになり、泳宮(くくりのみや)におられ、鯉を池に放って朝夕ご覧になって遊ばれました。
あるとき弟媛は鯉の遊ぶ様子を見ようとこっそり池に来ました。
天皇はそれを引きとめて召されました。
弟媛は心の中で、夫婦の道は古も今も同じであるが、あれこれ問い質すこともできず困り、天皇に申し上げました。
「私は交接のことを望みません。恐れ多い仰せで大殿に参りましたが、心は快くありません。また私の顔も美しくなく、長く後宮に仕えることはできません。ただ、私の姉・八坂入媛(やさかのいりびめ)は顔も良く志も貞潔です。どうか後宮に召し入れてください。」
天皇はこれを聞き入れられ、八坂入媛を妃とされました。
八坂入媛は七男六女、合わせて十三人を生みました。
八坂入媛の十三皇子女
第一:稚足彦天皇(わかたらしひこ)(成務天皇)
第二:五百城入彦皇子(いおきいりひこ)
第三:忍之別皇子(おしのわけ)
第四:稚倭根子皇子(わかやまとねこ)
第五:大酢別皇子(おおすわけ)
第六:淳熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)
第七:淳名城皇女(ぬなきひめ)
第八:五百城入姫皇女(いおきいりびめ)
第九:籠依姫皇女(かごよりひめ)
第十:五十狭城入彦皇子(いさきいりびこ)
第十一:吉備兄彦皇子(きびのえひこ)
第十二:高城入姫皇女(たかきいりびめ)
第十三:弟姫皇女(おとひめ)
その他の妃と皇子女
三尾氏の磐城別(いわきわけ)の妹・水歯郎媛(みずはのいらつめ)は五百野皇女(いおのひめみこ)を生みました。
五十河媛(いかわひめ)は神櫛皇子(かみくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせのいりひこ)を生みました。
神櫛皇子は讃岐国造の先祖、稲背入彦皇子は播磨別の先祖です。
阿倍氏木事(あべのうじのこごと)の娘・高田媛(たかたひめ)は武国凝別皇子(たけくにこりわけ)を生みました。
これは伊予国御村別の先祖です。
日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこ)を生みました。
これは阿牟君(あむのきみ)の先祖です。
襲武媛(そのたけひめ)は国乳別皇子(くにちわけ)、国背別皇子(くにそわけ)、豊戸別皇子(とよとわけ)を生みました。
国乳別は水沼別の先祖、豊戸別は火国別の先祖です。
皇子女八十人と諸国の別
天皇の男女は全部で八十人おられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、五百城入彦皇子(いおきいりひこ)を除く七十余人は、すべて国や郡に封じられ、各地に赴かれました。
現在の諸国の「別(わけ)」は、これら別王の子孫です。
大碓命の失態と日代宮
この月、天皇は美濃国造・神骨(かむばね)の娘で、美人と聞こえた姉・兄遠子(えとおこ)と妹・弟遠子(おととおこ)を見せるため、大碓命(おおうすのみこと)を遣わされました。
しかし大碓命はこっそり女と通じ、復命しませんでした。
天皇はこれをお恨みになりました。
冬十一月一日、天皇は美濃から帰られ、纏向(まきむく)に都を造られました。
これを日代宮(ひしろのみや)といいます。
熊襲の反乱と土蜘蛛討伐
十二年秋七月、熊襲がそむいて貢物を奉りませんでした。
八月十五日、天皇は筑紫に向かわれました。
九月五日、周芳国(すわのくに)の娑麼(さば)(山口県佐波)に着かれ、南方に煙が多く立つのを見て、
「賊がいるのだろう」
とおっしゃいました。
武諸木(たけもろき)、菟名手(うなて)、夏花(なつはな)を遣わして様子を見させました。
そこには神夏磯媛(かむなつそひめ)という女がいて、一国の首長でした。
彼女は天皇に帰順し、四人の賊の存在を告げました。
鼻垂(はなたり)
耳垂(みみたり)
麻剝(あさはぎ)
土折猪折(つちおりいおり)
武諸木らは麻剝らを誘い出し、すべて捕えて殺しました。
天皇は筑紫に入り、豊前国長峡県(ながおのあがた)に行宮を建てられました。
これを京(みやこ)といいます。
冬十月、碩田国(おおきたのくに)に着かれ、地形が美しいので碩田と名づけました。
速見村(はやつむら)では速津媛(はやつひめ)が土蜘蛛の存在を告げました。
天皇は来田見邑(くたみむら)に留まり、軍議して討伐を決められました。
椿の木で椎(つち)を作り、兵に授け、土蜘蛛を討ちました。
血はくるぶしまで流れ、椿市・血田の地名が生まれました。
さらに禰疑山(ねぎのやま)で八田を討ち、打猿は降伏を願いましたが許されず、皆谷に身を投げました。
天皇は柏峡(かしわお)の大野で占いをし、石を蹴ると柏の葉のように舞い上がりました。
これを踏石(ほみし)と名づけました。
十一月、日向国に着き、高屋宮(たかやのみや)を建てられました。
熊襲討伐
十二月五日、熊襲(くまそ)を討つことを相談されました。
天皇は群卿(まちきみ)たちに詔して、
「聞くところによると、襲(その)国に厚鹿文(あつかや)、迮鹿文(さかや)という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十梟帥(やそたける)と言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし多勢の兵を動かせば百姓に害となる。兵の威力を借りず、ひとりでにその国を平定できないものか」
とおっしゃいました。
熊襲討伐
一人の臣が進み出て申し上げました。
「熊襲梟帥(くまそたける)に二人の娘があります。姉を市乾鹿文(いちふかや)、妹を市鹿文(いちかや)といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。多くの贈り物をして手下に入れるのがよいでしょう。梟帥の様子を探らせて不意を突けば、刃を血で汚さずとも敵を破ることができましょう。」
天皇は、
「良い考えだ」
とおっしゃいました。
そこで贈り物を見せて二人の女を欺き、味方につけました。
天皇は市乾鹿文(いちふかや)を召して、騙すために寵愛されました。
市乾鹿文は天皇に申し上げました。
「熊襲が従わないことをお気になさらないでください。私に良い案があります。一人か二人の兵をお付けください。」
家に帰って強い酒を多く用意し、父に飲ませました。
父は酔って寝てしまいました。
市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切っておきました。
そこへ従兵の一人が進み出て、熊襲臬帥(くまそたける)を殺しました。
天皇はその不孝の甚だしいことを憎まれ、市乾鹿文を殺させました。
妹の市鹿文(いちかや)は火国造(ひのくにのみやつこ)に賜わりました。
十三年夏五月、ついに襲(その)国を平定されました。
高屋宮(たかやのみや)にお出でになってすでに六年が経っていました。
その国に美人がいて、御刀媛(みはかしひめ)といいました。
これを召して妃とされ、豊国別皇子(とよくにわけのみこと)をお生みになりました。
これが日向国造(ひむかのくにのみやつこ)の先祖です。
日向国の命名と国偲び歌
十七年春三月十二日、天皇は子湯県(こゆのあがた)(宮崎県児湯)にお出でになり、丹裳小野(にものおの)に遊ばれました。
そのとき東方を望まれ、お側の者におっしゃいました。
「この国はまっすぐに日の出る方に向いているなあ。」
そこでその国を日向(ひむか)と名づけられました。
この日、野中の大石に登って都を偲び、歌を詠まれました。
ハシキヨシ、ワギへのかたゆ、くもゐたちくも、やまとは、くにのまほらば、たたなづく、あをがきやま、こもれる、やまとし、うるはし、いのちの、またけむひとは、たたみこも、へぐりのやまの、しらがしがえを、うずにさせ、このこ。
(なつかしいなあ、我が家の方から雲が湧いて流れてくる。
大和は最も優れた国。青々とした山が重なり垣のように包んでいる。
大和の国は美しい。
命の満ちた人よ、平群の山の白橿の枝を髪飾りとして挿しなさい、この子よ。)
これを国偲び歌(くにしのびうた)といいます。
筑紫巡幸と諸国の平定
十八年春三月、天皇は京に向かおうとして筑紫国を巡幸されました。
最初に夷守(ひなもり)に着かれました。
岩瀬川のほとりに群衆が集まっていました。
天皇は遠くから眺め、お側の者に、
「あの集まっている人々は何だろう。賊だろうか」
とおっしゃいました。
兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)を遣わして見させました。
弟夷守が帰ってきて、
「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が帝に献上物を奉ろうとして、その仲間が集まっているのです。」
と申し上げました。
熊県の兄弟
夏四月三日、熊県(くまのあがた)に着かれました。
そこに熊津彦(くまつひこ)という兄弟がいました。
天皇はまず兄熊(えくま)を呼ばれ、彼は従って来ました。
次に弟熊(おとくま)を呼ばれましたが、来なかったため、兵を遣わして討たれました。
水島の泉
十一日、葦北(あしきた)の小島に泊まり、食事をされました。
山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖である小左(おひだり)を呼んで冷たい水を献上させました。
島には水がなかったため、天を仰いで天神地祇に祈ると、崖の傍から冷たい水が湧き出ました。
これを汲んで献上しました。
その島を水島(みずしま)と名づけました。
火国(ひのくに)の名の由来
五月一日、葦北から船出して火国に着きました。
暗くて岸に着けず、遠くに火の光が見えました。
天皇は船頭に、
「まっすぐ火のもとへ向かえ」
と命じられました。
火の光のもとに着き、
「何という邑か」
と尋ねられ、
「八代県の豊村です」
と答えました。
火の主を尋ねても分からず、人の火ではないため、その国を火国(ひのくに)と名づけました。
阿蘇国の神々
六月三日、高来県から玉杵名邑に着かれ、土蜘蛛の津頰(つつら)を討たれました。
十六日、阿蘇国に着かれました。
野が広く人家が見えず、
「この国には人がいるのか」
と問われると、阿蘇津彦・阿蘇津媛の二神が人の姿で現れ、
「私たちがおります」
と申し上げました。
そこでその国を阿蘇(あそ)と名づけられました。
御木国(みけのくに)
秋七月四日、筑紫後国の三毛(みけ)に着かれ、高田の行宮に入られました。
倒れた巨大な樹木があり、人々はそれを踏んで往来していました。
天皇が尋ねられると、老人が、
「これは歴木(くぬぎ)です。朝日を受ければ杵島山を隠し、夕日を受ければ阿蘇山を隠すほどでした。」
と申し上げました。
天皇は、
「この樹は神木である。この国を御木国(みけのくに)と呼ぼう」
とおっしゃいました。
八女国(やめのくに)
七日、八女県に着かれました。
藤山を越え、粟崎を望まれ、
「その山の峰は幾重にも重なり麗しい。きっと神がいるだろう」
とおっしゃいました。
水沼県主・猿大海(さるおおみ)が、
「女神・八女津媛(やめつひめ)がおられます」
と申し上げ、ここから八女国の名が始まりました。
浮羽(うきは)の名の由来
八月、的邑(いくは)で食事をされました。
食膳掛が盞(うき)を忘れたため、その地を浮羽(うきは)と名づけました。
大和への帰還と諸国視察
十九年秋九月二十日、天皇は日向から大和に帰られました。
二十年春二月四日、五百野皇女(いおののひめみこ)を遣わして天照大神を祭らせました。
二十五年春二月十二日、武内宿禰を遣わして北陸・東方の諸国を視察させました。
二十七年春二月十二日、武内宿禰は帰り、
「東国の田舎に日高見国(ひたかみのくに)があります。人々は髪を椎のように結い、入墨をして勇敢です。これらを蝦夷(えみし)といいます。土地は肥えて広大で、攻略するとよいでしょう。」
と申し上げました。
秋八月、熊襲が再び背き、辺境を侵しました。
日本武尊 出動
冬十月十三日、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして、熊襲(くまそ)を討たせました。
このとき、日本武尊の御年は十六歳でした。
日本武尊は、
「弓の上手な者を連れて行きたいと思います。どこかに名人はいないでしょうか」
とおっしゃいました。
ある人が申し上げました。
「美濃国(みののくに)に名人がいます。弟彦公(おとひこのきみ)といいます。」
そこで日本武尊は、葛城(かずらき)の人である宮戸彦(みやとひこ)を遣わして、弟彦公を召されました。
弟彦公は、石占横立(いしうらのよこたち)、尾張(おわり)の田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちぢかのいなき)を率いて参上し、日本武尊のお供をしました。
熊襲の地へ
十二月、日本武尊は熊襲の国に到着され、地形や人々の暮らしを視察されました。
そのとき、熊襲に魁帥(たける)という者がいて、名は取石鹿文(とろしかや)、または川上臬帥(かわかみのたける)といわれていました。
一族を残らず集めて、新築の祝いの宴を開こうとしていました。
日本武尊は童女(少女)のように髪を垂らし、臬帥の宴の時をうかがいました。
剣を衣の中に隠し、酒宴の室に入り、女たちの中に混じりました。
臬帥タケルは、その童女の容姿が良いのを褒め、手を取って同席させ、盃を与えて戯れました。
夜が更け、酒宴の人々もまばらになり、臬帥タケルも酔いが回りました。
そこで日本武尊は衣の中の剣を取り出し、臬帥タケルの胸を刺しました。
臬帥タケルの最期
臬帥タケルは死ぬ前に頭を下げて言いました。
「しばらくお待ちください。申し上げることがあります。」
日本武尊は剣を留めて待たれました。
臬帥タケルは尋ねました。
「あなたはどなたでいらっしゃいますか。」
日本武尊は答えられました。
「自分は景行天皇(けいこうてんのう)の子である。名は日本童男(やまとのおぐな)という。」
臬帥タケルは言いました。
「私は国中で最も強い者です。それで世の人は私の威力を恐れ、従わない者はありません。多くの武人に会いましたが、皇子のような方は初めてです。卑しい者の口からですが、尊号(そんごう)を差し上げたい。お許しいただけますか。」
日本武尊は、
「許そう」
とおっしゃいました。
そこで臬帥タケルは言いました。
「これ以後、皇子を日本武皇子(やまとたけるのみこ)と申し上げたい。」
言葉が終わると、日本武尊は胸を刺して臬帥タケルを殺されました。
これによって、今に至るまで日本武尊(やまとたけるのみこと)と称えるのは、この由来によるものです。
その後、日本武尊は弟彦らを遣わして、臬帥の仲間をすべて斬らせ、残る者はありませんでした。
西国からの帰途と悪神退治
さらに海路を倭(やまと)の方に向かわれ、吉備(きび)に行き、穴海(あなのうみ)を渡りました。
そこに悪い神がいたので、これを殺されました。
また難波(なにわ)に至る頃、柏渡(かしわのわたり)の悪神も殺されました。
熊襲平定の奏上
二十八年春二月一日、日本武尊は熊襲平定の様子を奏上されました。
「私は天皇の御霊力によって兵を挙げて戦い、熊襲の首領を討ち、その国を平らげました。西の国も鎮まり、人民は安らかになりました。吉備の穴渡の神と難波の柏渡の神は人を害し、悪人の巣となっていましたので、これを討ち、水陸の道を開きました。」
天皇は日本武尊の手柄を褒め、特に愛されました。
東国の乱と再征命令
四十年夏六月、東国の蝦夷(えみし)が背き、辺境が動揺しました。
秋七月十六日、天皇は群卿に詔して、
「今、東国に暴れる神が多く、蝦夷がすべて背いて人民を苦しめている。誰を遣わして乱を鎮めようか」
と問われました。
群臣は答えられませんでした。
日本武尊は申し上げました。
「私は先に西征に働かせていただきました。今度の役は大碓皇子(おおうすのみこ)がよいでしょう。」
大碓皇子は驚いて草の中に隠れましたが、連れ戻されました。
天皇は責めて言われました。
「望まぬ者を無理に遣わすことはない。何事だ。まだ敵にも会わないのに、なぜ怖がるのか。」
こうして大碓皇子は美濃国を任され、任地に赴きました。
これが身毛津君(むげつのきみ)・守君(もりのきみ)の先祖です。
日本武尊、東征を請け負う
日本武尊は雄々しく言われました。
「熊襲が平定されて間もないのに、また東国の夷が反乱した。いつになったら安定するのか。大変ですが、急いで平らげましょう。」
天皇は日本武尊を征夷将軍に任じ、東国の状況を詳しく述べられました。
「かの東夷(あずまえびす)は性狂暴で、凌辱も恥じず、村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷(あずまえびす)の中でも、蝦夷(えみし)は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず報いるという。矢は髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯(お)びている。あるいは、仲間を集めて辺境を犯し、実りの時期を狙って作物をかすめ取る。攻めれば草に隠れ、追えば山に入る。昔から一度も王化に従ったことがない。今、お前の人と成りを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電のようで、向うところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが、本当は神人(かみ)である。これは誠に自分が至らず、国が乱れるのを天が哀れんで、天業を整え、祖先のお祭りを絶えさせないようにして下さっているのだろう。天下も位もお前のもの同然である。どうか深謀遠慮をもって、良くない者は懲らしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わず、自ずから従うようにさせよ。言葉を考えて暴ぶる神を静まらせ、あるいは、武を振って姦鬼を打払え」
日本武尊は将軍の位を賜わり、
「西征のときは皇威を頼り、短い剣で熊襲を討ちました。今度も皇威をお借りし、徳を示し、それでも従わぬ者は討ちましょう。」
と申し上げました。
天皇は吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)を従わせ、七掏脛(ななつかはぎ)を膳夫(かしわで)とされました。
伊勢参拝と草薙剣
冬十月二日、日本武尊は出発されました。
七日、伊勢神宮を拝まれました。
倭媛命(やまとひめのみこと)に別れを告げ、
「今、天皇の命を受けて東国に向かいます。ご挨拶に参りました。」
と申し上げました。
倭媛命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授け、
「よく気をつけ、決して油断してはなりません。」
とおっしゃいました。
駿河の火攻めと草薙の由来
日本武尊は駿河(するが)に行かれました。
賊は従うふりをして、
「この野には大鹿が多く、狩りをなさるとよいでしょう。」
と欺きました。
日本武尊が野に入ると、賊は火を放ちました。
日本武尊は火打石で迎え火をつくり、難を逃れました。
また一説には、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が自ら抜けて草をなぎ払い、皇子を救ったといいます。
これによってその剣を草薙(くさなぎ)と名づけたとされます。
日本武尊は、
「危うく欺かれるところであった。」
とおっしゃり、賊を焼き滅ぼしました。
その地を焼津(やきづ)(静岡県焼津)と名づけました。
弟橘媛(おとたちばなひめ)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、さらに相模(さがみ)にお出でになって、上総(かみつふさ)に渡ろうとなさいました。
海を望んで大言壮語して、
「こんな小さい海、飛び上がってでも渡ることができよう」
とおっしゃいました。
ところが、海の中ほどに至ると暴風が起こり、御船は漂流して進みませんでした。
そのとき、皇子に付き従ってきた妾があり、名を弟橘媛(おとたちばなひめ)と申しました。
穂積氏(ほづみうじ)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘でございます。
弟橘媛(おとたちばなひめ)は皇子に申し上げました。
「今、風が起こり、波が荒れて御船は沈みそうでございます。これはきっと海神の仕業でございましょう。賤しい私めが皇子の身代わりに海に入りましょう。」
そう申し終えると、すぐに波を押し分けて海にお入りになりました。
すると暴風はたちまち止み、船は無事に岸へ着くことができました。
当時の人々は、この海を馳水(はしるみず)と名づけました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、上総(かみつふさ)から移って陸奥国(みちのくのくに)にお入りになりました。
そのとき、大きな鏡を船に掲げて海路から葦浦(あしうら)に回り、玉浦(たまのうら)を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られました。
蝦夷(えみし)の首領である島津神(しまつかみ)、国津神(くにつかみ)たちは、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしました。
しかし、遥かに王船を見てその威勢に恐れ、
「これは勝てそうにない」
と心中で思い、すべての弓矢を捨てて仰ぎ拝み、
「君のお顔を拝すると、人に優れておられます。神様でいらっしゃいますか。お名前を承りたい」
と申し上げました。
皇子は答えておっしゃいました。
「我は現人神(あらひとがみ)、すなわち天皇の皇子である。」
蝦夷(えみし)らはすっかり畏まり、着物をつまみ上げて波を分け、王船を助けて岸に着けました。
そして自ら縛についた形で服従しました。
そのため、皇子は彼らの罪をお許しになりました。
首領たちは捕虜として従者に加えられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は蝦夷(えみし)を平定して日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮(さかおりのみや)にお出でになりました。
明かりを灯してお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになりました。
ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル。
「新治(にいばり)や筑波(つくば)を過ぎて、いったい幾夜寝ただろうか。」
従者たちは答えられませんでした。
御火焚(みひたき)の者が、皇子の歌の後を続けて歌いました。
カガナヘテ、ヨニハココノヨ、ヒニハトヲカヲ。
「日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日でございます。」
日本武尊(やまとたけるのみこと)は御火焚(みひたき)の賢さを褒め、厚く褒美をお与えになりました。
この宮にお出でになった際、較部(ゆけいのとものお)を大伴連(おおとものむらじ)の先祖である武日(たけひ)に賜わりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)はおっしゃいました。
「蝦夷(えみし)の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ、信濃国(しなののくに)と越国(こしのくに)だけが、まだ少し王化に服していない。」
甲斐(かい)から北方の武蔵(むさし)、上野(こうずけ)を巡って、西の碓日坂(うすひのさか)にお着きになりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は常に弟橘媛(おとたちばなひめ)を思い出されるお気持ちがあり、碓日の峯(うすひのみね)に登り、東南の方を望んで三度嘆いて、
「吾嬬(あずま)はや(我が妻よ)」
とおっしゃいました。
それで碓日嶺(うすひのみね)より東の諸国を、吾嬬国(あずまのくに)と申すようになりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、上総(かみつふさ)から移って陸奥国(みちのくのくに)にお入りになりました。
そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回られました。
玉浦(たまのうら)を横切って、蝦夷(えみし)の支配地にお入りになりました。
蝦夷(えみし)の首領である島津神(しまつかみ)、国津神(くにつかみ)たちは、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしました。
しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れ、心の中で「これは勝てそうにない」と思い、すべての弓矢を捨てて仰ぎ拝み、
「君のお顔を拝すると、人に優れておられます。神様でいらっしゃいますか。お名前を承りたい」
と申し上げました。
皇子は答えておっしゃいました。
「我は現人神(あらひとがみ)、すなわち天皇の皇子である。」
蝦夷(えみし)らはすっかり畏まり、着物をつまみ上げて波を分け、王船を助けて岸に着けました。
そして自ら縛についた形で服従しました。
皇子はその罪をお許しになり、首領たちを捕虜として従者に加えられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は蝦夷(えみし)を平定して日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮(さかおりのみや)にお出でになりました。
明かりを灯してお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになりました。
ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル。
「新治(にいばり)や筑波(つくば)を過ぎて、いったい幾夜寝ただろうか。」
従者たちは答えられませんでした。
御火焚(みひたき)の者が、皇子の歌の後を続けて歌いました。
カガナヘテ、ヨニハココノヨ、ヒニハトヲカヲ。
「日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日でございます。」
日本武尊(やまとたけるのみこと)は御火焚(みひたき)の賢さを褒め、厚く褒美をお与えになりました。
この宮にお出でになった際、較部(ゆけいのとものお)を大伴連(おおとものむらじ)の先祖である武日(たけひ)に賜わりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)はおっしゃいました。
「蝦夷(えみし)の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ、信濃国(しなののくに)と越国(こしのくに)だけが、まだ少し王化に服していない。」
甲斐(かい)から北方の武蔵(むさし)、上野(こうずけ)を巡って、西の碓日坂(うすひのさか)にお着きになりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は常に弟橘媛(おとたちばなひめ)を思い出されるお気持ちがあり、碓日の峯(うすひのみね)に登り、東南の方を望んで三度嘆いて、
「吾嬬(あずま)はや(我が妻よ)」
とおっしゃいました。
それで碓日嶺(うすひのみね)より東の諸国を、吾嬬国(あずまのくに)と申すようになりました。
ここで道を分けて、吉備武彦(きびのたけひこ)を越(こし)の国に遣わし、その地形や人民の順逆を見させられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は信濃(しなの)に進まれました。
この国は山が高く、谷は深く、青い嶽が幾重にも重なり、人は杖をついても登るのが難しいほどでした。
岩は険しく坂道は長く、高峯は数千に及び、馬は行き悩んで進みませんでした。
しかし、日本武尊(やまとたけるのみこと)は霞を分け、霧を凌いで大山を渡り歩かれました。
嶺に着かれて、空腹のため山中で食事をされました。
山の神は皇子を苦しめようとして白い鹿になり、皇子の前に立ちふさがりました。
皇子は怪しんで、一箇蒜(ひとつひる/にんにく)を投げて白い鹿をはじかれました。
それが鹿の眼に当たり、鹿は死にました。
ところが皇子は急に道を失い、出るべき道が分からなくなりました。
そのとき白い犬がやってきて、皇子を導くように歩きました。
そのおかげで皇子は美濃(みの)に出ることができました。
吉備武彦(きびのたけひこ)は越(こし)からやってきて皇子にお会いしました。
これより先、信濃坂(しなのさか)を越える者は神気を受けて病み臥す者が多かったのですが、白い鹿を殺されてからは、この山を越える者は蒜(ひる/にんにく)を噛んで人や牛馬に塗ると、神気にあたらなくなりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の病没
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、さらに尾張(おわり)に帰られ、尾張氏(おわりのうじ)の娘である宮簀媛(みやすひめ)を娶って、しばらくその地に留まってお過ごしになりました。
そのとき、近江(おうみ)の五十葺山(いぶきやま/伊吹山)に荒ぶる神がいるとお聞きになり、剣を外して宮簀媛(みやすひめ)の家に置き、徒歩で山へ向かわれました。
胆吹山(いぶきやま)に至ると、山の神は大蛇(おろち)となって道を塞ぎました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、その大蛇が主神(かむざね/神の正体)であるとは知らず、
「この大蛇(おろち)はきっと神の使いであろう。主神を討つことができれば、この使いは問題ではない。」
とおっしゃいました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は大蛇を踏み越えて進まれました。
すると山の神は雲を起こし、雹を降らせました。
霧は峯にかかり、谷は暗く、進むべき道が見えなくなりました。
皇子はさまよい歩き、ようやく山を抜けることができましたが、正気を失い、酔ったような状態になりました。
山の下の泉にたどり着き、その水を飲むと気持ちがようやく醒めました。
それでその泉を居醒井(いさめがい)と申します。
ここで日本武尊(やまとたけるのみこと)は初めて病気になられました。
ようやく起き上がって尾張(おわり)に戻られましたが、宮簀媛(みやすひめ)の家には入らず、伊勢(いせ)へ移って尾津(おづ)に着かれました。
かつて日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国へ向かわれたとき、尾津浜(おづのはま)にとどまって食事をされた際、一つの剣を松の根元に置かれました。
それを忘れて行かれたのですが、今ここに来ると、その剣はそのまま残っていました。
宮簀媛(みやすひめ)はその剣を見て歌を詠まれました。
ヲハリニ、タダニムカヘル、ヒトツマツアハレ、
ヒトツマツ、ヒトニアリセバ、キヌキセマシヲ、タチハケマシヲ。
(尾張の国にまっすぐ向かって立つ尾津の崎の一本松よ。
もしその一本松が人であったなら、衣を着せてあげようものを。
太刀を佩かせてあげようものを。)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は能褒野(のぼの/鈴鹿)に至るころ、病がひどくなりました。
捕虜として従えていた蝦夷(えみし)たちを伊勢神宮(いせじんぐう)に献上されました。
吉備武彦(きびのたけひこ)を遣わして天皇に奏上させました。
「私は勅命を受けて遠く東夷(あずまえびす)を討ちました。
神恩をいただき、皇威に頼って、叛く者は罪に服し、荒ぶる神も自ら従いました。
それで鎧を巻き、矛を納め、心安らかに帰りました。
いずれの日か天朝に復命しようと思っておりましたのに、天命が急に至り、余命は幾ばくもありません。
荒野に臥し、語る相手もありません。
自分の身が亡ぶことは惜しみませんが、ただ、御前にお仕えできなくなることが残念でございます。」
こうして日本武尊(やまとたけるのみこと)は能褒野(のぼの/鈴鹿)でお亡くなりになりました。
そのとき御年三十でございました。
白鳥伝説
天皇はこの訃報をお聞きになり、安らかに眠ることもできず、
食べても味がせず、昼夜むせび泣き、胸を打って悲しまれました。
「我が子、小碓皇子(おうすのみこ/日本武尊)は、熊襲(くまそ)が背いたとき、まだ総角(あげまき)も結わぬ幼さでありながら、長く戦いに出て、いつも私を助けてくれた。
東夷(あずまえびす)が騒いだとき、他に適当な者がなく、やむなく賊の地に入らせた。
一日も忘れたことはなかった。
朝夕、帰る日を待ち続けた。
何の禍か、何の罪か、思いもかけず我が子を失うことになった。
今後、誰とともに鴻業(あまつひつぎ)を治めようか。」
天皇は群卿(まちきみ)たちに詔し、百僚(もものつかさ)に命じて、伊勢国(いせのくに)の能褒野(のぼの)の陵(みささぎ)に葬らせました。
そのとき、日本武尊(やまとたけるのみこと)は白鳥となって、陵(みささぎ)から飛び立ち、倭国(やまとのくに)へ向かって飛んでいかれました。
家来たちが柩(ひつぎ)を開いてみると、衣だけが残り、屍はありませんでした。
そこで使者を遣わして白鳥を追わせました。
白鳥は倭の琴弾原(ことひきのはら/奈良県御所)にとどまりました。
そこで陵(みささぎ)を造りました。
白鳥はさらに飛んで河内(かわち)に行き、古市邑(ふるいちのむら/大阪府羽曳野)にとどまりました。
そこにも陵(みささぎ)を造りました。
当時の人々は、この三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と申しました。
白鳥はその後、高く飛んで天に昇りました。
そこで衣冠だけを葬りました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の功績を伝えるため、武部(たけるべ)が定められました。
景行天皇(けいこうてんのう)の晩年と崩御
五十一年春一月七日、天皇は群卿(まちきみ)たちを召されて大宴会を催され、何日も続けて楽しまれました。
しかし、皇子である稚足彦尊(わかたらしひこのみこと/成務天皇)と、武内宿禰(たけのうちのすくね)はその宴に出席しませんでした。
天皇は二人を呼んで、その理由をお尋ねになりました。
二人は申し上げました。
「宴楽の日には、群卿(まちきみ)や百寮(もものつかさ)がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えておりません。
もし狂った者があって警衛のすきを窺ったらと心配でございます。
それで垣の外に控えて、非常時に備えておりました。」
天皇は、
「立派なものである。」
とおっしゃり、特に目をかけられました。
稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)の立太子
秋八月四日、天皇は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)を皇太子に立てられました。
同じ日に、武内宿禰(たけのうちのすくね)を棟梁之臣(むねはりのまえつきみ/重要な大臣)に任じられました。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)と蝦夷(えみし)の処遇
かつて日本武尊(やまとたけるのみこと)が差しておられた草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、現在、尾張国(おわりのくに)年魚市郡(あゆちのこおり)の熱田神宮(あつたじんぐう)にあります。
尊が神宮に献上した蝦夷(えみし)たちは、昼夜騒がしく、出入りにも礼儀がありませんでした。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、
「この蝦夷(えみし)らを神宮に近づけてはなりません。」
とおっしゃり、朝廷に進上されました。
そこで蝦夷(えみし)たちは三輪山(みわやま)の辺りに置かれることになりました。
しかし、ほどなくして三輪山の木を伐ったり、里で大声をあげたりして、村人をおびやかしました。
天皇はこれを聞かれ、群卿(まちきみ)たちに詔しておっしゃいました。
「三輪山のほとりに置かれている蝦夷(えみし)は、人並みではない心を持つ者どもである。
中央には住ませ難い。
その希望に従って、それぞれ畿外(そとつくに)に置くがよい。」
これが播磨(はりま)、讃岐(さぬき)、伊予(いよ)、安芸(あき)、阿波(あわ)の五つの国に置かれた佐伯部(さえきべ)の先祖でございます。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子ら
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、両道入姫皇女(ふたじのいりびめのみこ)を妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)をお生みになりました。
次に、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと/仲哀天皇)、
次に、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、
次に、稚武王(わかたけのみこ)をお生みになりました。
稲依別王(いなよりわけのみこ)は、犬上君(いぬかみのきみ)と武部君(たけるべのきみ)の先祖でございます。
また、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘である吉備穴戸武媛(きびあなとのたけひめ)は妃となり、武卵王(たけかいごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)をお生みになりました。
武卵王(たけかいごのみこ)は讃岐綾君(さぬきあやのきみ)の先祖であり、
十城別王(とおきわけのみこ)は伊予別君(いよのわけのきみ)の先祖でございます。
さらに、穂積氏(ほづみうじ)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、稚武彦王(わかたけひこのみこ)をお生みになりました。
皇后の交代
五十二年夏五月四日、皇后である播磨大郎姫(はりまのおおいらつめ)が亡くなられました。
秋七月七日、八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)を皇后に立てられました。
景行天皇の巡幸と晩年
五十三年秋八月一日、天皇は群卿(まちきみ)たちに詔しておっしゃいました。
「自分の愛した子を思い偲ぶことは、いつの日に止むであろうか。
小碓王(おうすのみこ/日本武尊)が平定した国々を巡幸したい。」
この月、天皇は伊勢(いせ)にお出でになり、そこから東海道にお入りになりました。
冬十月、上総国(かみつふさのくに)に行き、海路で安房(あわ)の水門(みなと)にお出でになりました。
そのとき、覚賀鳥(かくかのとり/カクカクと鳴き姿を見せにくい鳥)の声が聞こえました。
天皇はその鳥の姿を見たいと思われ、海の中までお出でになり、大きな蛤(はまぐり)を得られました。
膳臣(かしわでのおみ)の先祖である磐鹿六雁(いわかむつかり)が蒲の葉をたすきにかけ、蛤を膾(なます)にして奉りました。
天皇は六雁臣(むつかりのおみ)の功を賞め、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の役を賜わりました。
十二月、東国から帰り伊勢にお住まいになりました。
これを綺宮(かにはたのみや)と申します。
五十四年秋九月十九日、伊勢から倭(やまと)に帰り、纏向宮(まきむくのみや)にお住まいになりました。
景行天皇の崩御
五十五年春二月五日、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道十五国の都督(かみ)に任じられました。
しかし、王は春日の穴咋邑(あなくいのむら)で病に臥し、亡くなられました。
東国の人民は王が来られなかったことを悲しみ、密かに屍を盗み出して上野国(こうずけのくに)に葬りました。
五十六年秋八月、天皇は御諸別王(みもろわけのみこ)に詔しておっしゃいました。
「お前の父の彦狭島王(ひこさしまのみこ)は、任地に行けずに早く死んだ。
だからお前は専ら東国を治めよ。」
御諸別王(みもろわけのみこ)は命を受けて東国に赴き、善政を施しました。
蝦夷(えみし)が騒いだので兵を送り討ちました。
首領の足振辺(あしふりべ)、大羽振辺(おおはふりべ)、遠津闇男辺(とおつくらおべ)らは頭を下げて服従し、領地を献上しました。
降伏する者は許し、従わぬ者は討たれました。
こうして東国は長く安定しました。
五十七年秋九月、坂手池(さかてのいけ)を造り、堤に竹を植えました。
冬十月、諸国に命じて田部(たべ)と屯倉(みやけ)を設けさせました。
五十八年春二月十一日、天皇は近江国(おうみのくに)にお出でになり、志賀(しが/滋賀県大津)の地に三年間お住まいになりました。
これを高穴穂宮(たかあなほのみや)と申します。
六十年冬十一月七日、天皇は高穴穂宮(たかあなほのみや)でお亡くなりになりました。
御年百六歳でございました。