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奈良市内の東大寺を見終わったあと、これといって他に見物するものもなく、どこか物足りなさが残りました。せっかく奈良市内まで来たのだから、このまま帰るのも惜しく感じて、思い切って桜井市の大神神社へ立ち寄ることにしました。
奈良駅から「万葉まほろば線(桜井線)」に乗り込み、南へと向かいます。
このまほろば線は明治時代から続く歴史ある路線で、難読駅名が並ぶことでも知られています。レトロな二両編成の車両が、夕暮れの田園地帯をゆっくりと走っていく様子は、まさに“まほろば”という言葉がぴったりでした。
窓の外には、黄金色に染まりつつある田んぼが広がり、遠くの山並みが柔らかい影を落としています。夕日が車内に差し込むたびに、どこか懐かしい温もりが胸の奥に広がっていきました。
景色に見入っていると、列車はゆっくりと「三輪駅」に近づいていきました。
ホームに降り立ったときには、すでに空は薄暗くなり始めていて、夜の気配が静かに辺りを包み込みつつありました。これから向かう大神神社の神域が、闇に溶け込むように静かに待っているように感じられました。

日スポ:今が旬!万葉まほろば線は難読駅だらけ(前編)より
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大神神社を始めて訪ねてから、もう1年。
それまでにも、何度が足を運んでいましたが、こんな夕暮れ時にくるのは初めてでした。
神社にはほとんど興味もなかったのですが、特別にこの神社には惹きつけられる特別感がありました。
夕暮れ時の大神神社の大鳥居に着くと、空はすでに群青色へと移り変わり、鳥居の輪郭だけがほのかに浮かび上がっていました。以前訪れたときもそうでしたが、なぜかここで写真を撮ると、オーブがよく映ります。

子どものころは心霊現象などに興味があったのですが、大人となった現在はこういったオカルト現象や非科学的な現象には疑いを持っていました。
大学も理系で、大手企業で研究開発をし数多くの実験なども行ってきたので、何等かも小さな誇が写りこんでいるのかと思っていました。
しかし、このあたりの空気は驚くほど澄んでいて、埃っぽさなどまったく感じません。
それなのに、なぜか写真には小さな光の粒が浮かぶように写るのです。
カメラの不具合かもしれないと思い、家では布団を叩いてわざと埃を舞わせ、同じ条件で写真を撮ってみたこともありました。ところが、そういうときにはオーブはまったく写らず、原因はよくわからないままでした。
ただ、大神神社の大鳥居の前に立つと、空気が静かに震えているような、見えない何かが満ちているような感覚があります。オーブが写る理由は説明できなくても、この場所にだけ漂う“気配”のようなものが、写真にそっと姿を見せているのかもしれません。

周囲には人影もなく、境内はすでに真っ暗闇に包まれていました。
大きくまっすぐに伸びる参道の両側には灯籠が並び、その柔らかな光が闇の中にぽつぽつと浮かび上がっています。まるで古い時代の物語の中に迷い込んだような、なんとも幻想的な光景でした。
誰もいない参道を、まるで貸し切りにしたかのように歩いていくと、どこか王様になったような気分になります。
歩みを進めていると、ふと身体がふわりと軽くなるような、不思議な感覚に包まれました。意識が少し浮き上がるような、トランス状態に近い感覚です。静寂と闇、灯籠の光、そして三輪山の気配が混ざり合い、現実と夢の境界が曖昧になっていくようでした。
そのとき、ふと空を見上げると、黒い影がすっと横切りました。よく目を凝らすと、それはムササビでした。滑空するように木々の間を飛び移っていく姿を見たのは初めてで、思わず息を呑みました。夜の神域で出会うムササビは、まるで森の精のように見えました。

拝殿の前に到達すると、そこには誰の気配もありませんでした。灯籠の光だけが静かに揺れ、闇の中に淡い輪郭をつくっています。あまりの静けさに、まるで時間そのものが止まってしまったかのようでした。
「誰もいないな……」
そう思った瞬間、胸の奥からふつふつと何かが湧き上がってきました。
ここまで来た記念に、あるいは自分自身への挑発のように、思い切って声を放ちました。
「神よいるのか! いるなら姿をあらわしてみよー!」
「いるなら俺のうつ病を治してみやがれ!」
夜の境内に声が吸い込まれていき、しばらくの間、何の反応もありませんでした。
ただ、空気だけがわずかに震えたような気がしました。
そのまま記念にと、拝殿に向けてパシャリと写真を撮りました。
――その瞬間。
バシーッ、と目の前が一瞬まぶしい光に包まれました。 フラッシュとは明らかに違う、白く鋭い光。
反射でもなく、灯籠の光でもない。 ほんの一瞬なのに、身体の奥まで響くような光でした。
驚きながら写真を確認すると、そこには見たことのない“何か”が写っていました。 説明のつかない形。 光とも影ともつかない、奇妙な存在感。
「……なんだ、これ。」
言葉が自然と漏れました。 ただの偶然と言えばそれまでですが、あの静けさと、あの光の強さを思い返すと、どうしても“偶然”だけでは片づけられない何かが残りました。

「おかしいな……」
そう思って写真を確認しながら、まず疑ったのはフラッシュでした。 しかし設定を見ても、フラッシュはオフのまま。 そもそもフラッシュはカメラの右側についているので、明らかに方向が違います。
「じゃあ、なんだったんだ……?」
半信半疑のまま、もう一度まったく同じ位置から撮影してみました。 今度は何の光も走らず、ただ静かにシャッター音だけが響きました。
撮れた写真を確認すると、そこには何も写っていませんでした。 さっきのような光も、あの“変なもの”も、跡形もなく消えていました。
まるで、あの一瞬だけ何かがこちらを覗き込んで、 そしてすぐに闇へ戻っていったかのようでした。

大神神社の祭神「大物主神」は崇神天皇の時代にパンデミックを引き起こしたため、別名「祟り神」ともいいます。
「これは……神に祟られたのかな。」
拝殿でのあの光と、写真に写った“変なもの”を思い返すと、胸の奥にじわりと不安が広がっていきました。誰もいない暗い参道を戻りながら、灯籠の光だけを頼りに歩くその時間は、妙に長く感じられました。
当時の私は、神仏などまったく信じていませんでした。 けれど、あの夜だけは違いました。
まるで、
「私についてよく調べてみるがいい」
と、どこかから静かに告げられたような気がしたのです。
その日を境に、記紀を読み始め、日本の歴史や神社仏閣に自然と興味が向くようになりました。
長い間、うつ病のせいで15年以上も本を読む気力やテレビも見る意欲もほとんどなかったのに、なぜかこの頃から少しずつ本が読めるようになっていました。
振り返れば、大神神社に来るたびに、どこか調子を取り戻していくような感覚がありました。
大神神社での不思議な夜から、ほぼ三年が経った頃のことです。 私は瞑想や催眠療法に詳しい指導者と出会い、その教えをもとに独自に研究を重ね、毎日のように実践を続けていました。長年うつ病に苦しみ、朝起きることすらつらかった私にとって、それは半ば藁にもすがる思いの試みでもありました。
そしてある日―― まるで何かが切り替わるように、突然“目覚めのいい朝”が訪れました。
あれほど重く沈んでいた感情が、嘘のように消えていたのです。 胸の奥に澄んだ空気が流れ込むような、体が軽くなるような感覚。 こんなに健やかで、すっきりとした朝を迎えたのは、小学生の頃以来でした。
その日を境に、私は毎朝自然と早く起きられるようになり、再発もなく、穏やかな生活を取り戻していきました。 まるで長いトンネルを抜けたような、そんな感覚でした。
正月のある日、姉が祖先の系譜や土地の歴史を調べていました。 そのとき、ふとこんなことを言ったのです。
「祖先は大分の大神氏。宇佐八幡宮の神官だったようよ。」
「大神氏……どこかで聞いたことがある名前だな……」
そう思いながら記憶をたどっていると、突然、胸の奥で何かがつながりました。
――ひょっとして、あのときよく通っていた大神神社と関係があるのでは?
そう思ってルーツを調べていくと、驚くべき事実に行き当たりました。
――大神神社は、私の氏神だった。
その瞬間、胸の奥がふっと温かくなるような、 しかし背筋がすうっと冷えるような、不思議な感覚に包まれました。
驚きよりも、むしろ「やっぱりそうだったのか」という静かな納得が先に来ました。
あの夜、拝殿の前で感じた気配。 写真に写った説明のつかない光。
なぜか何度も足が向いてしまった理由。 行くたびに少しずつ調子を取り戻していったこと。
それらがすべて、一本の線でつながっていくようでした。
まるで長い間、誰かが静かに見守ってくれていたことに、 ようやく気づいたような感覚です。
あの頃の私は神仏を信じていませんでしたし、 むしろ半ば挑発するように声を放ったことすらありました。 それでも、見捨てることなく、必要なときに必要な“気づき”を与えてくれていたのかもしれません。
どうりで、理由もなくあの神社に引き寄せられていたわけです。 知らないうちに、ずっと見守られていたのかもしれません。
後日、偶然この付近に住んでいたという女性と出会いました。 その人もまた、大神神社で不思議な体験をしたと言うのです。
気になってネットで調べてみると、 同じような体験を語る人が他にもいることがわかりました。
あの場所には、言葉では説明できない“何か”が確かにある。 そう思わずにはいられませんでした。
祟り神・・・
いや「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」
に照らし合わせれば、癒しの神なのでしょう。