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関西に移り住んで、もう十数年が経ちます。 しかし振り返ってみると、大阪の南部にはほとんど足を運んだことがありませんでした。 そこで、どこか良い観光地はないかと大阪南部の名所を探していたとき、ふと目に留まったのが 「応神天皇陵」 でした。
当時の私は、応神天皇陵について 「日本で二番目に大きい天皇陵」 という程度の知識しか持っていませんでした。 巨大な前方後円墳として有名である、という表面的な理解だけだったのです。
ところが、神社や古代史について学びを深めていくほどに、応神天皇がどれほど重要な存在であるかが見えてきました。 応神天皇は、全国に最も多く存在する 八幡神社 の中心となる神格であり、武運・国家守護の象徴として古代から広く信仰されてきた神です。
そしてさらに驚いたのは、応神天皇が 宇佐八幡宮 と深く結びついていることを知ったときでした。
宇佐八幡宮は、私の先祖にもつながっていく 宇佐八幡神官家(大神氏) と縁の深い神社であり、まさに八幡信仰の総本社です。
そして、大神氏は奈良大神神社の分家に相当する家柄でもあり、大神氏(三輪氏)ー八幡神社といった奇妙なつながりがあることを知ることになります。
大阪南部の観光地を探して見つけた応神天皇陵が、 やがてご自身のルーツへとつながっていく―― その流れは、まるで導かれるような不思議さを感じさせます。
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応神天皇陵は大阪府藤井寺市にあります。
なんば駅から近鉄南大阪線に乗って「道明寺駅」で下車し、徒歩数分で応神天皇陵に着きます。
応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)は、大阪府羽曳野市に位置する巨大な前方後円墳で、正式には 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん) と呼ばれています。全長はおよそ425メートルに達し、仁徳天皇陵に次いで日本で二番目の規模を誇る古墳です。その壮大な姿は、古代大和政権の力と威厳を今に伝えています。
応神天皇は第15代天皇で、八幡神として全国に広く祀られる神格の中心となった人物です。武運・国家守護の象徴として信仰され、後世には武家からも厚く崇敬されました。全国に約4万社ある八幡神社の総本社である宇佐八幡宮とも深い関わりを持ち、八幡信仰の源流に位置する重要な存在です。
陵墓は深い森に包まれ、周囲には濠がめぐらされており、古代の静けさをそのまま残しています。宮内庁によって厳重に管理されているため内部に立ち入ることはできませんが、外周から眺めるだけでも圧倒的なスケールを感じることができます。また、周辺には応神天皇を祀る誉田八幡宮があり、古代の信仰と地域の歴史が今も息づいています。
応神天皇陵は、単なる巨大古墳ではなく、日本の神話・信仰・王権の歴史が重層的に刻まれた特別な場所です。訪れると、古代の大王の存在感と、八幡信仰へとつながる長い歴史の流れを静かに感じることができます。
応神天皇陵はとにかく規模が大きく、周囲をぐるりと取り囲む深い木々のせいで、まるで一つの森のように感じられます。古墳というより、自然の中に巨大な島がぽっかりと浮かんでいるような印象で、歩いていると静かな気配に包まれ、古代の空気がそのまま残っているように思えます。

羽曳野市から藤井寺市にかけて広がる一帯は、まさに古墳の密集地帯で、歩けば古墳に当たると言っても大げさではありません。大小さまざまな前方後円墳が点在し、地図を眺めるだけでも古代の権力がこの地域に集中していたことがよく分かります。現在は 古市古墳群 として世界遺産に登録され、古代大和政権の中心地であった歴史を今へ伝えています。
この地域を歩いていると、日常のすぐそばに古代の時間が折り重なって存在しているように感じられます。住宅街の向こうに突然こんもりとした森が現れ、それが実は巨大な古墳だったりする――そんな光景が当たり前のように広がっています。
これだけ大きな古墳であっても、不思議なくらいに観光客が見当たりません。

実は、この近くには応神天皇の父である 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) の古墳もあります。しかし、このときはまだ詳しい知識がなく、存在に気づかずに通り過ぎてしまいました。後になって「あの時見ておけばよかった」と思うほど、この地域には多くの古墳が点在しています。
応神天皇陵から少し歩くと道明寺へたどり着きます。
道明寺は、大阪府藤井寺市にある古い寺院で、菅原道真公の伯母にあたる 覚寿尼(かくじゅに) が住んでいたことから、その名が広く知られるようになりました。寺の起源は飛鳥時代にまでさかのぼるとされ、古市古墳群の中心地に位置することからも、古代からこの地域が文化と信仰の要地であったことがうかがえます。
道明寺は、道真公ゆかりの寺として平安時代以降に大きく発展し、後世には「道明寺天満宮」とともに天神信仰の重要な拠点となりました。境内には静かな佇まいが残り、古代から続く土地の気配と、天神信仰の歴史が重なり合う独特の雰囲気があります。
また、寺の名を冠した「道明寺粉」でも知られ、桜餅に使われることで全国的に親しまれています。寺院としての歴史だけでなく、生活文化にも深く根づいている点が道明寺の魅力です。

道明寺は、もとは「土師寺(はじでら)」と呼ばれていました。 大宰府に左遷されることになった菅原道真が、この寺に住んでいた伯母・覚寿尼を訪ねた際、別れを惜しんで
「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな」
と一首を詠んだことが伝えられています。 この歌には、鶏が鳴くことで夜明けが訪れ、別れの時が来てしまうことへの切なさが込められています。
道真の死後、彼を偲んで寺は「道明寺」と改められました。 「道明」とは道真の号であり、寺の名にそのまま彼の存在が刻まれています。 こうして道明寺は、道真ゆかりの地として天神信仰の重要な拠点となり、後世には道明寺天満宮とともに多くの人々の崇敬を集めるようになりました。

道明寺には、菅原道真の作と伝えられる 国宝・十一面観音立像 も安置されています。 この観音像は、道真が自ら刻んだとされる伝承を持ち、天神信仰と仏教が重なり合う道明寺ならではの貴重な文化財です。柔らかな表情と静かな気配をたたえた姿は、平安期の信仰の深さを今に伝えています。
この十一面観音は常時公開されているわけではなく、毎月18日と25日のみ 拝観することができます。

大師堂

境内

道明寺近くは平野が広がり大和川が流れています。
大阪夏の陣の際、この道明寺周辺では、決戦ともいえる激しい戦いが繰り広げられました。
いわゆる 「道明寺の戦い」 です。 このとき幕府軍は、松平忠輝や伊達政宗をはじめとする総勢 34,300 の大軍で南河内へ進軍しました。一方、豊臣方は後藤基次(又兵衛)らが率いる前隊 6,400人、さらに毛利勝永や真田信繁(幸村)らの後隊 12,000人 が控える布陣でした。

しかし、豊臣方の後隊が戦場に大きく遅参したことが戦況を左右します。孤立した前隊は圧倒的な兵力差の中で奮戦したものの、やがて包囲され、豊臣軍全体が後退を余儀なくされました。この遅れが決定的となり、豊臣方は道明寺の地で敗走することになります。


「太子」の名から察する通り、聖徳太子と関係ある場所へ。
「道明寺駅」から電車に乗って、羽曳野市の「上ノ太子駅」下車。
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府太子町にある真言宗の古寺で、聖徳太子の御廟(叡福寺北古墳)を守る寺院として知られています。山号は磯長山(しながさん)。太子信仰の中心地として、四天王寺・法隆寺と並ぶ重要な霊場です。
寺の起源は推古天皇の時代にさかのぼると伝えられ、太子の母・穴穂部間人皇女、妃・膳部菩岐々美郎女とともに太子が葬られたことから「三骨一廟」と呼ばれています。境内には円墳である御廟が静かに佇み、古代の気配を今に伝えています。
叡福寺は中世以降、空海・親鸞・日蓮など多くの名僧が参籠したことで太子信仰の聖地としてさらに栄えました。戦国時代には兵火で焼失しましたが、江戸時代に豊臣秀頼や歴代天皇の庇護を受けて伽藍が再建され、現在の聖霊殿や多宝塔は重要文化財に指定されています。
境内は桜や紅葉が美しく、静かな参道と古墳の森が調和する独特の雰囲気があります。毎年4月11・12日に営まれる「大乗会式」は太子の遺徳を偲ぶ大法要で、多くの参拝者で賑わいます。古代から続く信仰と歴史が息づく、河内を代表する霊域です。

ベンガラ塗りの南大門をくぐると白砂の境内が広がり、奥に見える原生林の森が聖徳太子の御廟になります。

聖徳太子の御廟
聖徳太子、母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)、妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)が葬られている陵墓(三骨一廟)。


聖徳太子の実在をめぐっては長く議論がありますが、現在の歴史学では、「聖徳太子という理想化された人物像には後世の創作が多いが、厩戸皇子という実在の皇族は確かに存在した」 という見解が主流です。太子の事績の多くは、死後100年以上経って編纂された『日本書紀』に記されており、神格化された描写が多いことから、1990年代以降には「太子虚構説」も提唱されました。しかし、斑鳩宮跡や法隆寺の創建伝承、推古朝の政治構造など複数の史料・遺構から、厩戸皇子が実在したことは確実視されています。
ただし、十七条憲法や冠位十二階の制定を太子一人の功績とする伝統的な理解は、現在では再検討が進んでいます。これらの制度は推古朝の政治改革の一環であり、複数の王族や官僚が関わった可能性が高いと考えられています。つまり、聖徳太子像は後世の信仰や政治的意図によって大きく膨らまされたものでありながら、その核となる人物・厩戸皇子は確かに存在し、飛鳥時代の重要な皇族として歴史に位置づけられています。


戦国時代の末期、織田信長の焼き討ちによって全焼し、古い伽藍の多くが失われました。 しかし、慶長8年(1603年)になると、豊臣秀頼が再興に乗り出し、まず 「聖霊殿」 を再建します。これをきっかけに寺は再び息を吹き返し、のちに 多宝塔 や金堂なども整えられていきました。

多宝塔

境内の中には古墳も見つかっています。
尼ヶ谷古墳は、古墳時代後期(6世紀後半頃)の円墳で、聖徳太子ゆかりの地を取り囲むように点在する古墳群の一つです。直径は約30メートルと中規模ながら、太子町の丘陵地に静かに佇み、周囲の自然と調和した落ち着いた雰囲気を持っています。
この古墳は、磯長谷(しながだに)古墳群の一部を構成しており、同じ谷筋には推古天皇陵や用明天皇陵、孝徳天皇陵など、飛鳥時代の王族墓が集中しています。尼ヶ谷古墳も、当時の有力豪族あるいは太子に近い人物の墓であった可能性が高いと考えられています。

近くに、八幡太郎義家で有名な源義家の墓もあったので行ってみることにしました。
なぜ、源義家の墓がここにあるのかというと、この地は河内源氏の本拠地であり、義家が生まれ育ったゆかりの土地だからそうです。
墓は通法寺跡の奥に位置し、父・源頼義、祖父・源頼信の墓と並んで「源氏三代の墓」と呼ばれています。いずれも小さな円墳状の墓所で、周囲を木々に囲まれた静かな環境にある静かな空気を感じます。
義家は前九年・後三年の役で活躍し、武士の名声を全国に広めた人物で、後世には「武家の棟梁」「武士の鑑」と称えられました。晩年は京都で亡くなりましたが、遺骸は故郷である河内に戻され、この地に葬られたと伝えられています。
近くには義家が元服したとされる壺井八幡宮があり、墓所と合わせて巡ることで、河内源氏の歴史が立体的に感じられます。華やかな史書の世界とは対照的に、人通りもほとんどみかけない場所にある墓はひっそりと佇んでいます。

11世紀の東北地方では、出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という二大豪族が強大な勢力を誇っていました。まず安倍氏は、前九年の役で源頼義・義家父子に敗れ、続いて清原氏も後三年の役で頼義の子である源義家、そしてその弟・源義光(新羅三郎義光)によって滅ぼされます。この二つの戦いは、武士の時代が本格的に幕を開ける契機となりました。
その後、義家の四男・義国の系統からは、足利氏、新田氏、山名氏、里見氏、吉良氏、今川氏、細川氏、畠山氏、斯波氏、一色氏といった中世から戦国期にかけての有力武家が多数生まれます。一方、義光の子孫からは、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏など、戦国時代を代表する大名家が輩出されました。
こうして源義家・義光兄弟の子孫は全国に広がり、日本の武家社会の中心を担う存在となっていきます。

高校の歴史の授業で源義家が八幡太郎義家と呼ばれていたということが頭の中に残っていたので、その所以を調べてみました。
源義家が「八幡太郎義家」と呼ばれるのは、源氏の氏神である八幡大菩薩への深い信仰と、義家が源頼義の嫡男として生まれたことに由来します。源氏一族は古くから宇佐八幡宮を守護神と仰ぎ、武運の神として篤く信奉していました。特に河内源氏は八幡信仰が強く、戦に臨む際には必ず八幡大菩薩に祈願したと伝えられます。義家はその信仰を象徴する存在として、八幡大菩薩の加護を受ける武士の代表とみなされ、「八幡」の名を冠して呼ばれるようになりました。
また「太郎」は当時の武士社会で嫡男を示す呼称であり、義家が頼義の長男であったことを表しています。前九年・後三年の役での勇猛な戦いぶりから、義家は「武士の鑑」と称えられ、その名声とともに「八幡太郎義家」という呼び名は後世に広く定着しました。この名は、源氏の武威と八幡信仰を象徴する尊称として、武家社会に特別な響きを持ち続けています。
この地に八幡信仰が根付いていたのは、八幡神である応神天皇陵が近くにあるのも影響しているのかもしれません。

この近くを歩いてみると、遠くに何やら不思議な高い塔が建っていました。
行ってみたいと思いましたが、距離がありそうなのでやめましたが、後になって調べてみるとPL学園の所有している「PLの塔」というものでした。

かつては高校野球で一世風靡したPL学園がこんな場所(富田林)にあったのかと少し感激しました。
富田林といえば、大学時代の友人の出身高校が富田林高校だったことを思い出します。彼はよく愛媛のことを田舎だとからかっていましたが、実際にこうして歩いてみると、「いやいや、こっちのほうがよっぽど田舎じゃないか」と思わず心の中で突っ込んでしまうのでした。
