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愛媛・新居浜での面接は無事に合格しました。 結果が出るまでには、だいたい一週間ほど時間がかかるようです。 ただ、その前にもう一度、社長面接があるとのことでした。 中途採用の面接は本当にしんどいものです。
三十五歳を過ぎると転職が厳しくなるという話は聞いていましたが、 実際に体験してみると、その現実を痛いほど実感します。 この国は年齢を重視する会社が多く、 年齢を重ねるほど選択肢が狭まっていく仕組みになっています。 年齢を重ねたら不利になるという、この“糞みたいなシステム”は いったい何なのだろうと思ってしまいます。 学歴偏重の教育といい、どうにも自分には合わないと感じます。
退職してから一年近くが経ち、 うつ病も完治しないまま、だんだんと辞めたことを後悔しはじめていました。 「どうして自分は、こんなにしんどい人生を歩まなければいけないのか」 そんな思いが頭をよぎります。
機能不全家庭で育った子どもは、生きるだけで必死です。 世の中は理不尽で、不平等なことばかりだと痛感します。
それでも、時間があるうちにできるだけ遊んでおこうと思い、 面接までの空いた日を使って、滋賀の姉川合戦のあたりへ足を運びました。
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「大阪駅」から新快速米原行きで「米原駅」で下車。
そこから北陸本線に乗り換え「虎姫駅(とらひめえき)」下車。
「虎姫駅」を北へ歩いていくと、戦国大名・浅井氏の本拠であった「小谷城跡」へと続く道に入ります。 駅名の「とらひめ」という響きがなんとも可愛らしく、関西圏に住んでいると、どうしても阪神タイガースを連想してしまいます。 タイガースファンにとっては、名前だけでテンションが上がりそうな駅です。
関西に暮らしてみると、「タイガース嫌い」と口にするのが命がけに思えるほど、周囲の熱気がすごい。 電車でも、商店街でも、居酒屋でも、どこかしらに虎の気配が漂っていて、まさに“関西の宗教”といっても過言ではありません。 そんな土地で「虎姫駅」という名前を見ると、なんだか妙に納得してしまいます。
駅から北へ向かう道は、やがて浅井氏の居城「小谷城跡」へと続きます。 浅井長政が最後まで織田信長に抗い、壮絶な最期を遂げたあの山城です。 山の稜線に沿って続く道を歩いていると、戦国の気配が少しずつ濃くなっていくような気がします。
一方、駅から南へ向かうと、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した「姉川合戦場跡」へと至ります。 1570年、両軍が激しくぶつかり合い、戦国史に名を残す大合戦となった場所です。 川沿いの静かな風景を眺めていると、とても戦場だったとは思えませんが、かつては血煙が立ちこめた激戦地でした。
今回はまず、小谷城跡方面へ向かうことにしました。 山の上に築かれた浅井氏の居城を目指しながら、歴史の残り香をたどるように歩みを進めます。

東の方向へ目を向けると、遠くに堂々とそびえる「伊吹山」が見えます。 古くから霊峰として崇められてきた山で、その姿はどこか神々しく、山肌にかかる雲さえも神話の一部のように見えてきます。
伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では“牛のように大きな白猪”、 『日本書紀』では“巨大な大蛇”として描かれています。 同じ神が、文献によってまったく異なる姿で語られているところに、この山の神秘性がにじみ出ています。
『日本書紀』では龍蛇体とされる伊吹山の神ですが、山麓の伊夫岐神社では八岐大蛇を祭神とする説もあり、さらに民間伝承では、あの酒吞童子を“伊吹山の八岐大蛇の子”とする物語まで残されています。 山そのものが、古代から中世にかけて多くの神話・伝説を吸い込み、重層的な霊性をまとってきたことがよくわかります。
奈良時代には、白山を開山した僧・泰澄がこの山に分け入り、白山信仰を伊吹山にも伝えました。 その後、密教と結びつき、修験者たちが山に籠もって修行を行う“修験の場”としても栄えました。 霊峰としての歴史は、単なる伝説ではなく、実際に人々が信仰を寄せてきた証でもあります。
戦国時代になると、織田信長が山頂に菜園を開き、ポルトガル人が持ち込んだ約3,000種ものハーブを移植したという逸話も残っています。 霊峰でありながら、異国文化の香りも漂う——伊吹山は、時代ごとに異なる顔を見せてきた不思議な山です。
そして驚いたことに、まだ12月にもなっていないというのに、山頂付近にはすでに雪が積もっていました。 白く染まった山の姿は、まるで神話の世界からそのまま現れたようで、冷たい空気の中に静かな神々しさが漂っていました。

田舎を歩いていると、都会ではまず見かけないような立て看板が、ふと視界に入ってきます。 道路脇や畑の端、古い集会所の前など、思いがけない場所に立っていて、読むたびに思わず足を止めてしまいます。
たとえば——
「お墓掃除します」 という、あまりにもストレートな宣伝文句。 必要なサービスではあるのですが、あまりに素朴で、どこか生活の匂いが漂っています。
さらに、公共トイレの前にはこんな看板もあります。
「勇気を出して一歩前進。」
「あなたは後ろから見られていますよ。」
……いや、そんなプレッシャーをかけなくても、と思いながらも、妙に説得力があるのが田舎の看板の不思議なところです。 誰が書いたのか、どういう経緯で設置されたのか、想像するだけでちょっと楽しくなってきます。

小谷城跡までの道のりは、道路の両脇には田畑や民家が点在し、ところどころに昔ながらの石垣が残っていて、浅井氏の城下町だった頃の面影がふっとよみがえるような景色が広がっています。

小谷城跡へ向かう途中、「虎御前山(とらごぜんやま)」の入口が見えてきます。 この山は、織田信長が浅井長政を攻めた際、最前線の拠点として築いた“虎御前山城”が置かれた場所です。 ここに柴田勝家の陣が構えられ、まさに小谷城攻略の“前線基地”となりました。

包囲が続く中、越前から朝倉義景の援軍2万が到着します。
しかし、朝倉軍は状況が不利と判断し、戦わずして退却。 その退却こそが、信長にとって絶好の好機となりました。
信長はすぐさま追撃に移り、逃げる朝倉軍を徹底的に叩きのめします。
その勢いのまま越前へ侵攻し、朝倉家の本拠・一乗谷まで攻め込み、ついに朝倉家を滅亡させました。
そして信長は引き返し、孤立した浅井長政の小谷城を包囲。 長政は最後まで抵抗しますが、ついに落城。 こうして信長は越前と北近江の二か国を一気に手中に収めるという大戦果を挙げました。

虎御前山の入口に立つと、 「ここから信長の北近江制圧が始まったのか」 と、歴史の流れが急に現実味を帯びて迫ってきます。
静かな山道の風景の中に、 かつての緊張と戦の気配が、うっすらと残っているように感じられました。標高230m。
とにかく登ってみます。


前方に見える大きな山が、小谷城の本丸があった「小谷山」です。
麓から見上げると、山頂ははるか遠く、まるで空に突き刺さるようにそびえています。 浅井長政が最後の拠点とした山城だけあって、その高さと険しさは一目で“ただ者ではない山”だとわかります。
とはいえ、山頂まではまだまだ距離があり、 「これは本気で登ると相当かかるぞ……」 と、自然と覚悟が必要になるような道のりです。
今回はそこそこ登ったところで、無理をせず引き返すことにしました。 それでも、途中から見える景色は十分に迫力があり、 浅井氏がこの山に城を構えた理由がなんとなく理解できるような気がしました。

激しい姉川の合戦があった場所も広い田園が広がっています。


下山して、さらに小谷城跡へと足を運びます。

小谷城跡へ向かう道を歩いていると、ふとした瞬間に、
「これは時代劇のロケにそのまま使えるのでは」
と思うような風景が広がります。
舗装路ではあるものの、手つかずの雑木林が続き、人工物の気配がほとんどありません。
江戸時代の旅人が歩いていた街道も、きっとこんな雰囲気だったのだろうと、 自然と想像が膨らんでいきます。

特に印象的なのは、電線や鉄塔がまったく見えないことです。 現代の日本で、これほど“電線ゼロ”の景色に出会える場所は本当に少なくなりました。 視界に余計なものが入らないだけで、風景は一気に昔の姿を取り戻し、 まるで時間がゆっくり巻き戻っていくような感覚になります。

のどかなあぜ道を抜けると、小さな集落へと到達し、このような案内版を目にします。

この道をまっすぐ進んでいくと、小谷城跡へと続きます。 車の通りも少なく、どこか時間の流れがゆっくりになるような静かな道です。
道の脇には、古い瓦屋根の古民家がぽつりぽつりと並び、 その庭先には、たわわに実った柿がオレンジ色に輝いていました。 晩秋の柔らかな光に照らされた柿の実は、まるで絵巻物の一場面のようで、 歩いているだけで風流な気分になります。
古民家の白壁と、枝に残る柿の色の対比がなんとも美しく、 「昔の旅人も、こんな風景を眺めながら歩いたのだろうか」 と、自然と江戸時代の旅人気分が湧いてきます。

この年は、ちょうど大河ドラマ「お江」が放送されていた年でした。 その影響もあって、小谷城跡の周辺には観光バスが次々とやって来て、 普段は静かな北近江の山里が、ちょっとした“お江フィーバー”に包まれていました。
浅井三姉妹ゆかりの地ということもあり、 小谷城跡へ向かう道にも、ドラマの影響で訪れた人たちの姿が多く見られます。 歴史好きとしては嬉しい反面、 「これは山頂まで行くと混んでいそうだな……」 という予感もしてきます。
そんなわけで、今回は無理に登らず、 『仁和寺にある法師』のように、途中で引き返すことにしました。

また、変な看板。

小谷山の全景を振り返ると、山肌に沿って広がる稜線がどこか寂しげで、 浅井氏の栄枯盛衰を静かに語っているように見えました。 その姿を胸に刻みながら、ゆっくりと山を離れていきます。
道を進むにつれ、小谷山は少しずつ遠ざかり、 代わりに視界の先には姉川方面の平野が広がってきます。 ここから先は、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した、 あの「姉川の戦い」の舞台です。

ハイホー ハイホー
伊吹山を見ながらあるく。

小谷城跡から姉川方面へ向かう途中に広がる、まっすぐな道。 左右には田んぼや畑が広がり、視界を遮る建物もほとんどなく、 伸びていく一本道が続いています。
滋賀は湖のイメージが強いですが、平野が広く、“素のままの日本の田園風景”が残っています。
その素朴さが、どこか北海道の農道や国道の雰囲気に似ていて、 「本州なのにスケール感が北海道」 という不思議な感覚を味わえます。
風が吹くと、遠くの畑の草が波のように揺れて、 空の広さも相まって、旅の気分が一気に開放的になります。

そして姉川へ到着しました。 川沿いには広い平野が広がり、いまは風が通り抜けるだけの静かな場所ですが、 まさにこのあたりで、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突したとされています。
川の流れは穏やかで、周囲には田んぼと畑が続き、 とても戦場だったとは思えないほどのどかな風景です。

戦国時代、鉄砲鍛冶といえば—— 堺、雑賀、そして国友。
この三つが日本の鉄砲生産の中心地として名を馳せていました。
姉川の近くには、そのひとつである「国友(くにとも)」の集落があります。 ここは織田信長の時代から鉄砲鍛冶の技術が高く評価され、 国友鍛冶は“天下一”と称されるほどの腕前を誇っていました。 信長が鉄砲を大量に導入できた背景にも、国友の存在が大きく関わっています。
明治の末期には、鉄砲鍛冶の伝統を受け継いだ職人たちがまだ多く、 町もそれなりに賑わいを見せていたようです。
しかし、いま訪れてみると、 その面影はほとんど残っておらず、 静かな住宅地の中に民家がぽつぽつと並んでいるだけでした。 かつての賑わいを知る人が見れば、 「ここがあの国友か」と驚くほどの静けさです。

国友の集落を歩いてみましたが、かつて鉄砲鍛冶で栄えた面影はほとんど残っておらず、 明治の頃には賑わっていたという町も、いまは静かな住宅がぽつりぽつりと並ぶだけでした。 観光スポットらしい場所もほとんど見当たらず、 「ここがあの国友か」と思うほどのんびりした空気が流れています。
せっかく来たのだからと周囲を歩き回ってみたものの、 特にこれといった見どころもなく、 結局、近くの神社でひと休みすることにしました。
境内には誰もおらず、 木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえてきます。 ベンチに腰を下ろすと、 旅の疲れがふっと抜けていくような静けさがありました。
こういう“何もない時間”が、旅の中では意外と贅沢で、 神社の静かな空気に包まれながら、 しばらくぼんやりと過ごしてしまいました。



このあたりには古民家がけっこう多く残っています。
滋賀や京都を歩いていると、どうしてこんなに古民家が多いのだろうかと不思議に思います。
四国ではこうした風景をあまり見かけないので、少しうらやましく感じます。
