目次
この時期は東北大震災後から半年経過が経っていたころ。
なかなか求人もない中で
新卒入社時は氷河期で、リーマンショック、東北大震災時の転職活動と運がついていない世代です。
この年齢になると、どの業種も専門的な知識よりもマネジメントを求めるところばかりでやりたい職種もみつからない。
そんな中、就職支援の方から練習でとある企業を受けてみませんかと案件をもってきてくれました。
ちょうど、面接セミナーを受けたこともあり、学んだことを実践する機会にもと思い面接を受けることに。
受けたのは兵庫県にあるとあるアルミ製品を製造している工場。
面接官は社長含め役員3人。
社長は私と同年代の30代でした。
転職活動をすることで、親族系の会社は代々息子が継いでいる会社が多く、日本の中小企業はそういう会社が多いという印象を受けました。
役員はブラック企業に多そうなパラハラ系っぽい年齢は50代タイプ。
募集要項に「アットホームな感じの会社です」と書かれてあったのでブラックだろうと予想はしてたのですが、やはりそんな感じでしたね。
受かっても入社するつもりもなかったので、適当な感じで済ませていたのですが、相手からは好印象な感じで面接が終わった後は「これは受かってしまったな」と手ごたえを感じたのでした。
帰りは転職して太陽電池メーカーで働いていた元上司と阪急梅田駅で10年ぶりくらいに飲む約束になっていたので合流。元上司も副社長になっていたらしく、「面接したら採用してやるぞ」とは言ってくれてはいたのですが、やはりブラックらしくお断りしました。
元上司も「とっととやめちまえよ給料泥棒」と入社時はモラハラにあたるようなきつい言葉を浴びせられておりましたが、さすがにブラック企業社長の風格を漂わせておりました。別に嫌いではなかったんですけどね。
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JR難波駅から大和路線に乗って「郡山駅」下車。
大和郡山市は奈良盆地北部に位置し、「金魚の養殖地」として全国的に知られています。
また、明石家さんまさんの出身地としても有名です。
この地は大和郡山城を中心に、戦国時代から続く「環濠集落」の姿を今に残しています。
大和郡山市に残る環濠集落は、奈良盆地北部の佐保川流域に形成された中世の防御型集落です。環濠とは、村の周囲に濠を巡らせて外敵の侵入を防ぐ構造で、鎌倉〜室町時代の戦乱期に発達しました。当時の大和国は興福寺勢力が強く、守護職が存在しない特殊な地域で、武士や寺社勢力の争いが絶えず、農民が自衛のために環濠を築く必要がありました。
大和郡山市には、稗田・番条・若槻・中条・白土の五つの環濠集落が現存し、全国的にも貴重です。中でも稗田は規模が大きく、賣太神社を中心に発達し、十字路を避けた迷路状の道や鍵型の曲がり角など、防御性の高い構造を今に残しています。番条は佐保川と菩提仙川を天然の濠として利用し、中世の番条氏の居館跡があることで知られます。
江戸時代に入ると環濠は防衛よりも灌漑用水として利用され、近代以降は埋め立ても進みましたが、大和郡山市では中世の姿をよく残しており、当時の自治と防衛の知恵を伝える歴史遺産となっています。
戦国時代は筒井順慶、順慶の死後は羽柴(豊臣)秀長が治め、江戸時代には柳沢吉保で知られる柳沢家が明治まで統治しました。

ちょうどお昼時だったので、駅近くの店でピザを食べました。
これが驚くほど美味しく、旅の良いスタートになりました。
中心部の紺屋町周辺は、今も昔ながらの環濠の街並みが色濃く残り、歩き始めた瞬間からどこか時間の流れがゆっくりと変わるような感覚に包まれます。細い路地の両側には古い町家が並び、家々の間を縫うように水路が静かに流れています。水面には空の色が淡く映り、時折、風に揺れてきらりと光る様子がとても美しく、まるで中世の面影がそのまま息づいているようでした。
環濠の曲がり角をいくつも通り過ぎるたび、道はゆるやかに折れ曲がり、見通しが悪くなる構造がそのまま残っていることに気づきます。敵の侵入を防ぐための知恵が、現代の街並みに溶け込んでいます。

そのまま街の南へ向かい、金魚の養殖地を目指しました。道中は住宅街の静けさが続き、遠くから水の流れる音が聞こえ、やがて、ため池が広がるのどかな風景が現れます。水面には金魚がゆったりと泳ぎ、赤や白の色が陽光に照らされて揺らめいています。


近くには、羽柴(豊臣)秀長のお墓がありました。
大和郡山を歩いていると、ふと静かな林の中に白壁の土塀が現れ、その奥に五輪塔がひっそりと佇んでいます。観光地の喧騒から離れた場所にあり、まるで秀長の生涯そのものを象徴するような、控えめで落ち着いた雰囲気が漂っていました。

羽柴秀長は、豊臣秀吉の異父弟(実の弟ともいわれます)で、歴史の表舞台ではあまり目立たないものの、秀吉政権を支えた最重要人物の一人です。秀吉が天下統一へと駆け上がる過程で、秀長は常にその傍らにあり、時に副将として、時に総大将として軍を率いました。兄の激情を支えるように、秀長は温厚で調整力に優れ、家臣や諸大名からの信頼も厚かったと伝えられています。
四国の長曾我部攻めでは総大将を務め、その功績によって大和一国を与えられ、大和郡山を居城として統治しました。秀長が治めた大和は安定し、領民からの評判も良かったといいます。さらに九州の島津攻めでは先鋒を務め、戦の勝利に大きく貢献しました。その功により大納言に叙任され、「大和大納言」と呼ばれるようになります。

秀長の墓前に立つと、華やかな戦国の歴史の裏側で、静かに国を支えた人物の気配が感じられるようでした。兄・秀吉の影に隠れながらも、確かな実力で天下統一を支えた秀長の存在は、大和郡山の地に今も深く息づいているのだと実感しました。

江戸中期に整備されたという、白壁の土塀に囲まれた中にある五輪塔。
大納言塚から北へ向かって歩いていくと、やがて「大和郡山城跡」が姿を現します。現在は公園として整備されていますが、石垣の迫力や地形の起伏から、かつてここが戦国の要衝であったことが静かに伝わってきます。
戦国時代の大和国は、他国とは異なる独特の政治状況にありました。 「大和四家」と呼ばれる筒井氏・越智氏・箸尾氏・十市氏の国人勢力が割拠し、さらに興福寺の寺社勢力が強大で、守護職が存在しない“空白地帯”のような地域だったのです。武士と寺社勢力が入り乱れ、まさに群雄割拠の状態でした。
この混乱に乗じて畿内統一を目指した三好長慶の家臣・松永久秀が大和へ侵攻し、筒井氏との対立が激化します。久秀は多聞山城(奈良市)と信貴山城(生駒)を拠点とし、その中間に位置する郡山の地は、戦略上きわめて重要でした。

その後、大和郡山城は羽柴(豊臣)秀長によって大規模に拡張され、城下町の基盤が整えられます。秀長の治世は安定しており、領民からの評判も良かったと伝わります。江戸時代に入ると郡山藩の居城として柳沢氏が入り、城は政治と文化の中心として機能しました。

天守閣のあった石垣。
天守台へ向かって歩いていくと、その南側の斜面に、柳沢藩の開祖・柳沢吉保を祀る柳沢神社が静かに鎮座していました。城跡の石垣の力強さとは対照的に、神社の佇まいはどこか柔らかく、木々に囲まれた境内には落ち着いた空気が流れています。かつての藩主を偲ぶ場所として、訪れる人々を静かに迎えてくれるようでした。

柳沢吉保は、第5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受け、御側用人として幕政の中心に深く関わった人物です。綱吉の側近として政治の実務を担い、大老格にまで上り詰めたことで知られています。いわゆる「元禄政治」を支えた立役者の一人であり、当時の幕府の政策や文化の発展に大きな影響を与えました。

柳沢氏は、河内源氏から甲斐武田氏へと続く名門の流れをくむ一族とされ、その血筋の重みが郡山藩の格式にも反映されています。そのため、神社の入口に立つ社号標には「旧川越甲府城主 柳澤美濃守吉保公」と刻まれており、吉保がかつて川越藩主・甲府藩主を歴任した名将であることを静かに伝えています。


天守跡の展望台に立つと、奈良盆地の広がりが一望できます。
遠くには、復元された平城京大極殿の朱色の大屋根が堂々と姿を見せ、かつての都の中心が今も静かに息づいていることを感じさせます。その右手には薬師寺の東塔・西塔がすらりと立ち、白壁と瓦屋根が陽光を受けて柔らかく輝き、奈良らしい落ち着いた景観を形づくっていました。
さらに視線を左へ移すと、若草山のなだらかな稜線が広がり、山肌の一部が明るく開けた“はげた部分”もはっきりと見えます。あのあたりが奈良市内で、春には山焼きが行われ、夜空を赤く染めるあの行事の舞台でもあります。

明治維新後、大和郡山城の多くの建物は廃城令によって取り壊され、かつての壮麗な城郭は一時ほとんど姿を消してしまいました。天守や櫓、門などの主要な建築物は解体され、石垣だけが往時の面影をわずかに伝える状態となりました。しかし近年になって、城跡の歴史的価値が見直され、追手門や櫓、天守台などが次々と修復・整備され、城下町の風景に再び命が吹き込まれています。
下に見える建物群は、復元された櫓や門で、城下町の歴史を現代に伝える貴重な存在となっています。


追手門周辺は、江戸時代の城郭建築の雰囲気を感じられるよう丁寧に復元されており、白壁と木組みのコントラストが美しく、城跡の景観に自然に溶け込んでいます。天守台も整備され、石垣の上に立つと、かつてここに天守がそびえていた時代の気配が静かに蘇るようでした。

追手向櫓と追手門

街並みにしっくりと溶け込んでいるのが、郡山の火見櫓です。城下町の一角にひっそりと立つこの櫓は、周囲の町家や石垣と調和し、まるで江戸時代からそのまま時を重ねてきたかのような佇まいを見せています。観光地として派手に飾られているわけではなく、日常の風景の中に自然に存在しているところが、郡山らしい落ち着きを感じさせました。

この火見櫓が建てられた背景には、1680年に起きた大規模な火災があります。この火事では町家670軒が焼失し、城下町は壊滅的な被害を受けました。当時の町は木造家屋が密集していたため、一度火が出ると瞬く間に広がり、住民たちは大きな恐怖と損失を経験したといいます。
その教訓から、1686年に城下町の防火体制を強化するため、この火見櫓が建てられました。高い位置から町を見渡し、煙や火の手をいち早く発見して知らせるための施設で、まさに城下町の安全を守る“見張り台”の役割を果たしていました。今も残る櫓を見上げると、当時の人々が火災と向き合いながら暮らしていた緊張感や、町を守ろうとする思いが静かに伝わってくるようでした。

帰ろうと駅へ向かって歩いていると、ふと視界の端に、見慣れない独特の風景が飛び込んできました。小高い丘のような場所に、墓石がびっしりと密集して立ち並んでいるのです。まるで石が波のように重なり合い、斜面を覆い尽くしているかのようで、その迫力に思わず足が止まりました。
近づいてみると、一つひとつの墓石は年代も形もさまざまで、古いものは風雨にさらされて文字が薄れ、苔むしているものもありました。これほど密集した墓地は今まで見たことがなく、まるで石の森のような、不思議な静けさと重みが漂っていました。城下町として栄えた郡山の歴史の深さを、思いがけない形で感じさせられた瞬間でした。
