龍神の記憶と目覚め  旅行記録17:岐阜 関ケ原合戦場探訪 | 龍神の記憶と目覚め 

旅行記録17:岐阜 関ケ原合戦場探訪

いざ、関ケ原へ

福井から戻る途中、電車の中でふと戦国時代巡りを思い立ちました。 神社や仏閣、古墳巡りも続けているうちに、どこか似た風景に見えてきてしまい、少し飽きてきたのかもしれません。

その点、歴史の中でも戦国時代はやはり一番面白いですね。 人間の思惑や裏切り、戦略や情が渦巻く、物語としての濃さが段違いです。

そして「戦国といえばどこだろう」と考えたとき、真っ先に浮かんだのが―― 関ケ原合戦場でした。

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関ヶ原合戦戦へのアクセス

大阪駅」から新快速に乗って滋賀の「JR米原駅」で東海道本線に乗り換え。
米原から20分程度で「関ケ原駅」に到着します。

関ヶ原合戦場

大阪駅から新快速に乗り込み、琵琶湖のほとりをかすめるようにして北東へ向かうと、やがて滋賀県のJR米原駅に到着します。
米原から関ケ原まではおよそ20分ほどの道のりですが、電車は山の谷間を縫うように進んでいきます。 両側から迫る山々の間を抜けていくと、自然の地形がそのまま“関所”のように感じられ、思わず歴史の気配を想像してしまいます。

この細い谷間を、馬も兵も武具も揃えた大軍勢が、この地形を越えて動いたというだけで、関ケ原という場所の特伝わってきます。

関ケ原の合戦場に立つと、まず目に入るのは、東西に長く伸びる盆地と、それを取り囲む山々です。 この地形の中で、西軍の石田三成は北西の笹尾山麓に本陣を置き、小早川秀秋は南東の松尾山麓に陣を構えました。 両者の位置関係は、まるで大きな鳥が翼を広げたような「鶴翼の陣」を形成しており、包囲する形で東軍を見下ろす配置でした。

一方、東軍の徳川家康は、関ケ原の東側にある桃配山麓に本陣を据え、中央突破に強い「魚鱗の陣」を敷きました。 配置図だけを見ると、家康の軍勢は西軍に包まれるような形となり、明らかに不利な状況に置かれていたことがわかります。

しかし、この時点ですでに戦の行方は静かに傾き始めていました。 西軍の総大将である毛利輝元は大阪城に留まり、実質的に戦場を指揮していませんでした。 さらに、小早川秀秋は黒田長政の巧みな調略によって家康と内通しており、松尾山の陣は“西軍の一翼”でありながら、実際には東軍側に傾いていたのです。

こうして、表向きの布陣図とは裏腹に、西軍は内部から崩れ始めていました。 関ケ原の静かな山々に囲まれたこの地で、陣形の美しさよりも“心の向き”が戦局を決めていったことを思うと、歴史の深さを感じずにはいられません。

ルートは駅から北西の三成陣へ向かい、西軍側を南下する反時計回りで巡ってみました。


東軍 松平忠吉・井伊直政陣跡

JR関ケ原駅から最も近い史跡に位置しているのがこの陣地跡です。
松平忠吉は家康の四男であり、井伊直政は忠吉の舅にあたります。直政は徳川四天王の一人として知られ、甲斐武田家が滅亡した後には、山県昌景が率いていた精鋭の赤備えを引き継ぎました。その部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、直政自身も「井伊の赤鬼」と恐れられていました。
彦根城の「ひこにゃん」や大河ドラマの「女城主直虎」などでも知られるようになりましたね。

このとき忠吉は初陣で、直政は手柄を立てさせようと考え、開戦前から三十騎ほどを率いて最前線へと進み出ていきました。本来の先鋒を任されていたのは、賤ヶ岳七本槍の一人として知られる福島正則でした。

しかし、実際に最初の発砲を行ったのは直政と忠吉の部隊で、西軍の主力を担っていた宇喜多秀家の部隊に向けて銃撃を加えました。これが関ヶ原合戦の開戦のきっかけとなったと伝えられています。 その後、家康は直政に対して破格の加増を与えています。

家康最終陣地

井伊直政陣地跡の近くには家康の最終陣地跡があります。
開戦時には後方の桃配山に陣を敷いていた家康も、戦況の推移に合わせて前進し、最終的には井伊直政の陣地近くまで移動していました。
三成のいる陣地が近くに見える場所にあります。


決戦地

開戦時に細川忠興や黒田長政が陣取っていた一帯は、関ケ原合戦の中でも最大の激戦地であり、まさに決戦の中心となった場所です。
この地域は、石田三成が陣を敷いていた笹尾山の近くに位置しています。左手の高台に建てられている旗が、三成の陣跡を示しています。

東側の南宮山。

関ケ原の東側にそびえる南宮山は、標高約400メートルほどの独立した山で、関ケ原盆地を見下ろす位置にあります。合戦当日、この南宮山の裏側には、西軍の毛利秀元、安国寺恵瓊、そして吉川広家らが大軍を率いて陣を敷いていました。彼らは西軍の中でも重要な位置を占め、もし南宮山から一気に山を下って東軍側面を突けば、戦局を大きく揺るがす力を持っていたと考えられています。

しかし、実際には毛利勢はほとんど動きませんでした。その最大の理由とされるのが、吉川広家の内通です。広家は事前に徳川家康と密約を結んでおり、「毛利家を存続させる代わりに、関ケ原では積極的に戦わない」という立場を取っていました。そのため、毛利秀元や安国寺恵瓊が出陣を促しても、広家は軍勢を山の中腹に留め、道を塞ぐように布陣して動きを封じたと伝えられています。

この不動の毛利勢は、西軍にとって大きな誤算でした。もし南宮山の大軍が動いていれば、東軍の側面を突く形となり、家康本陣は大きな圧力を受けていたはずです。結果として、毛利勢が動かなかったことは、西軍敗北の決定的な要因のひとつとなりました。

また、南宮山の左手の裾野付近は、家康が最初に本陣を構えていた場所でもあります。家康は開戦当初、後方の桃配山に陣を敷いていましたが、戦況が動き始めると前進し、この南宮山の裾野近くまで本陣を移動させました。これは、戦場全体をより直接的に指揮するためであり、同時に東軍の士気を高める効果もあったと考えられています。


西軍大将 石田三成陣跡

西軍大将・石田三成が本陣を構えた笹尾山は、関ケ原盆地の西側に位置する小高い丘で、標高は約150メートルほどの緩やかな高台です。山頂からは関ケ原の中央部が一望でき、東軍の動きや戦況を俯瞰するには非常に適した場所でした。三成がこの地を本陣に選んだのは、地形的な優位性を最大限に活かすためだったと考えられています。

現在の笹尾山には、当時の陣構えを再現するために多くの旗指物が立てられ、馬防柵が設置されています。これらは三成が実際に布陣した位置を示しており、訪れる人が当時の雰囲気を感じ取れるよう工夫されています。山頂に立つと、三成が見下ろしていたであろう広大な戦場が眼前に広がり、東軍の布陣や戦いの推移をどのように見ていたのかを想像することができます。

また、笹尾山の位置は、西軍の左翼を守る役割も果たしていました。もし東軍がこの丘を奪取すれば、西軍の本陣は丸見えとなり、総崩れの危険がありました。そのため、三成はこの地を堅固に守るために馬防柵を設け、旗指物を多く掲げて軍勢の士気を高めていたと考えられています。

笹尾山の本陣は、西軍の中心としての象徴的な意味も持っていました。三成は武将としての実戦経験が多くはありませんでしたが、ここから全軍の指揮を執り、宇喜多秀家・小西行長・島津義弘らの諸将と連携しながら戦局を見守っていました。特に、宇喜多隊が東軍先鋒の井伊直政・松平忠吉隊と激突した際、三成はこの笹尾山から戦況を注視し、援軍の投入や全体の動きを判断していたとされています。

頂上に上ってみると、意外に狭く大人数がいれるほどのスペースではありません。

前方が東向き(南宮山方向)

現在の笹尾山は、関ケ原合戦の中でも特に人気の高い史跡で、山頂に立つと三成の視点で戦場を見渡すことができます。旗が風に揺れる音や、馬防柵の並びを見ると、合戦当日の緊迫した空気が静かに蘇るような感覚を覚えます。

南側方向
関ケ原の南側方向に目を向けると、手前に見える小高い山のあたりに、大谷吉継が陣を敷いていました。大谷吉継は石田三成と深い友情で結ばれており、三成がもっとも信頼していた武将の一人です。吉継は病を抱えながらも三成のために参戦し、この南側の防衛線を固めていました。

その大谷隊のさらに奥、より高い位置にそびえる遠方の山が松尾山で、小早川秀秋が陣取っていた場所になります。松尾山は関ケ原全体を見下ろす要衝で、ここに布陣した秀秋の動きが戦局を大きく左右しました。秀秋は当初、西軍として配置されていましたが、家康からの圧力と誘いを受け、どちらに味方するか決めかねていたとされています。

大谷吉継の陣地は、松尾山の秀秋隊を正面に見上げる位置にありました。そのため、吉継は秀秋の裏切りを最も警戒しており、実際に秀秋が東軍に寝返った際には、真っ先にその攻撃を受けることになります。吉継の奮戦は有名で、秀秋の大軍を相手に善戦しましたが、最終的には押し切られてしまいました。


西軍 島津義弘陣跡

石田三成の陣跡である笹尾山を後にして、南西方向へ少し進むと、西軍の重鎮・島津義弘の陣跡に到着します。島津義弘は薩摩の名将として知られ、関ケ原合戦においても独自の判断と戦いぶりで強烈な存在感を示した武将です。

島津隊の陣地は、三成の本陣から比較的近い位置にありながら、やや後方寄りの場所に構えられていました。これは、島津隊が西軍の中でも独立性の強い軍勢であり、三成の直接指揮下に入らず、あくまで「協力」という立場で参戦していたためです。

三成の陣跡から数分歩くと、林に囲まれた静かな一角に島津義弘の陣跡があります。現在は木々に包まれた落ち着いた場所ですが、かつてここに薩摩の名将・島津義弘が陣を構えていました。

島津義弘は薩摩の名君・島津貴久の次男で、「鬼島津」の異名をとる戦国屈指の猛将です。朝鮮の役では、その激しい戦いぶりから朝鮮・明軍に「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、敵味方を問わず畏怖の対象となっていました。

関ケ原合戦に参陣した際の島津隊は、手勢が1500〜3000ほどと決して多くはありませんでした。そのためか、開戦しても義弘は兵を動かさず、戦場の推移を静かに見守っていたと伝えられています。

島津隊が動かなかった理由については諸説ありますが、よく語られるのが「三成の使者の無礼」です。三成が援軍を求めて使者を送った際、使者が下馬せずに命令口調で救援を要請したため、義弘が激怒し、出陣を拒んだという説があります。 ただし、これは後世の脚色の可能性もあり、実際には島津家が西軍の中心である三成に全面的な忠誠を誓っていなかったこと、また島津家独自の判断で戦況を見極めていたことも背景にあると考えられています。

小早川秀秋の裏切りによって西軍が総崩れとなったとき、島津義弘の手勢はすでに300人ほどにまで減っていました。島津隊は戦場の南西に位置していたため、退路は完全に遮断され、周囲を東軍に囲まれる孤立状態に陥っていました。

この絶望的な状況の中で、義弘は常識では考えられない決断を下します。 「敵中突破による退却」 です。 しかも突破する相手は、東軍の中心である家康本陣の方向でした。

義弘はまず、旗指物や合印(軍勢識別の印)をすべて捨て、死を覚悟した「裸武者」の状態で突破戦に臨みます。これは、敵に狙われやすい目印を消すと同時に、隊全体が死を覚悟したことを示す行動でした。

義弘陣跡の背後

最初に立ちはだかったのは、東軍先鋒の福島正則隊です。島津隊はこれを正面から突破し、さらにその奥に控えていた井伊直政、松平忠吉、本多忠勝らの追撃を受けることになります。

このとき島津隊が用いたのが、薩摩独自の戦法である 「捨て奸(すてがまり)」 です。 捨て奸とは、少数の兵が殿(しんがり)として敵を引きつけ、時間を稼ぐためにその場で討ち死にする覚悟で戦う戦法です。仲間を逃がすために命を投げ出す、極めて苛烈な戦い方でした。

島津隊はこの捨て奸を繰り返しながら、福島隊・井伊隊・松平隊・本多隊といった東軍の精鋭をかわし、ついに敵中を突破して伊勢方面へと落ち延びていきました。

この壮絶な撤退戦は後世に「島津の退き口」と呼ばれ、日本戦史上でも屈指の武勇として語り継がれています。
わずか300人の兵で東軍の中心を突き破り、家康本陣の目前を通過して退却した例は、他に類を見ません。


関ケ原合戦開戦地

島津義弘の陣跡からさらに数分ほど進むと、関ケ原合戦の開戦地に到着します。ここは、先ほど述べた井伊直政隊・松平忠吉隊と、西軍の主力である宇喜多秀家隊が最初に激突した場所です。

この地域は関ケ原盆地の中央部に位置し、東軍と西軍が最も近い距離で向かい合っていたため、緊張が高まっていた地点でもあります。本来の先鋒は福島正則でしたが、実際に最初の発砲を行ったのは井伊直政と松平忠吉の部隊でした。直政は忠吉に手柄を立てさせるため、わずか三十騎を率いて前へ進み出ており、その行動が開戦の引き金となったと伝えられています。

一方、宇喜多秀家隊は西軍の中核を担う大軍で、この開戦地で東軍先鋒と激しく衝突しました。宇喜多隊は若き秀家が率いる精鋭で、関ケ原合戦の中でも最も激しい戦闘が展開された場所のひとつです。

現在の開戦地には案内板が設置され、当時の布陣や戦いの様子がわかりやすく説明されています。周囲を歩くと、東軍・西軍の陣跡が互いに見える距離にあり、ここで最初の一撃が放たれた緊迫感を感じ取ることができます。

西軍 小西行長陣跡

小西行長の陣跡は、宇喜多秀家や大谷吉継の陣地に近い位置にあり、西軍の中央部を支える重要な場所にありました。行長はもともと宇喜多家の家臣でしたが、その才覚を豊臣秀吉に見いだされ、やがて秀吉の直臣として重用されるようになった人物です。宇喜多家への恩義も深く、また豊臣政権への忠誠心も強かったため、関ケ原合戦では迷うことなく西軍として参陣しました。

行長の陣地は、大谷吉継の陣のすぐ近くに位置しており、両者は戦場で互いに支え合う形となっていました。しかし、小早川秀秋の裏切りによって大谷隊が崩れると、その余波は小西隊にも及びます。大谷隊の崩壊は西軍左翼の瓦解を意味し、小西隊も宇喜多隊とともに持ちこたえることができず、伊吹山方面へと敗走しました。

敗走後、行長は山中に逃れましたが、やがて捕らえられ、石田三成・安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で斬首されました。三成・恵瓊と並んで処刑されたことは、行長が西軍の中心人物として見なされていた証でもあります。

行長は熱心なキリシタン大名としても知られ、処刑の際には信仰を捨てず、毅然とした態度で臨んだと伝えられています。その死は遠くローマにも伝わり、教皇クレメンス8世が行長の最期を惜しんだという逸話が残されています。


西軍 宇喜多秀家陣跡

宇喜多秀家は、下剋上で大名となった宇喜多直家の子として生まれました。父・直家の死後は幼少ながら家督を継ぎ、豊臣秀吉にその才覚と素直さを気に入られて重用されました。秀吉の養子のように扱われ、若くして五大老の一角を担うほどの地位に上りつめた人物です。

そのため、関ケ原合戦では豊臣家への恩義から迷うことなく西軍として参陣し、西軍の主力として中央に大軍を構えていました。秀家の軍勢は西軍の中でも最大規模で、開戦直後には井伊直政・松平忠吉ら東軍先鋒と激しい戦闘を繰り広げ、東軍を押し返す場面もあったと伝えられています。

しかし、戦況が大きく動いたのは小早川秀秋の裏切りでした。松尾山からの突然の攻撃により大谷吉継隊が崩れ、その余波は宇喜多隊にも及びます。善戦していた宇喜多隊も次第に包囲され、やがて壊滅状態となりました。

敗走した秀家は伊吹山方面へ逃れ、その後も各地を転々としながら落ち延びました。最終的には薩摩の島津家に匿われ、しばらく保護を受けていましたが、やがて幕府に発覚し、秀家は八丈島へ流されることになります。

八丈島での生活は長く、なんと第四代将軍・家綱の時代まで生き延び、流人として静かに余生を送りました。武将としての華やかな若年期とは対照的な、長い流刑生活でしたが、島民からは温厚な人物として慕われていたと伝えられています。

現在の宇喜多秀家陣跡は、杉並木の中にひっそりと残されており、静かな木立の中に立つと、かつてここに西軍の主力が陣を構え、若き秀家が戦場を見つめていた姿が思い浮かびます。


西軍 大谷吉継陣跡

ここから、しばらく細い山道を歩き、大谷吉継の陣地へと向かいます。

大谷吉継は越前敦賀を治めた大名で、豊臣秀吉に仕えた有能な武将です。吉継は若い頃から秀吉に重用され、石田三成とは深い友情で結ばれていました。しかし、晩年にはハンセン病を患い、顔を覆うために頭巾をかぶり、輿に乗って戦場に向かったと伝えられています。

関ケ原合戦に参陣する前、吉継は三成に対して三度にわたり「この戦は無謀であり、勝機はない」と説得したといわれています。それでもなお西軍についたのは、三成への友情と、豊臣家への義を貫くためでした。

参陣した吉継は白装束をまとい、死を覚悟した姿で戦場に現れました。大谷隊は戸田勝成・平塚為広らの諸隊と合わせて約5,700人の兵力で布陣し、午前中は藤堂高虎・京極高知ら東軍の精鋭を相手に奮戦します。

陣地跡は細い道を上った山の中にあり、周囲は木々の茂みに覆われていました。

正午になると、ついに戦局を大きく揺るがす出来事が起こります。 松尾山に陣取っていた小早川秀秋が東軍に寝返り、1万5千の大軍で大谷隊に襲いかかったのです。

しかし吉継はこの裏切りを事前に予測しており、迎撃の準備を整えていました。大谷隊は小早川軍を山へ押し返すほどの善戦を見せ、秀秋は一時退却を余儀なくされます。

ところが、ここでさらに悲劇が重なります。 脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の4隊、合わせて4,200人が次々と東軍に寝返り、大谷隊の側面と背後を突いたのです。

四方から包囲された大谷隊はついに壊滅し、吉継は最期を悟って自害しました。 その首は家臣・湯浅五助が持ち去り、敵に渡らぬよう隠したと伝えられています。

吉継の墓も近くにある。


西軍 平塚為広陣跡

平塚為広の陣跡は、大谷吉継の陣から少し離れた場所に位置しています。為広はもともと豊臣秀吉に仕えた武将で、後に大谷吉継の与力として行動を共にするようになりました。吉継とは主従関係でありながら、互いに信頼を寄せる間柄だったと伝えられています。

関ケ原合戦において、為広は吉継から極めて重要な密命を受けていました。 それは 「小早川秀秋の動向を探り、裏切りの兆しがあれば暗殺せよ」 というものです。

吉継は秀秋の裏切りを早くから予測しており、その危険性を最も理解していた武将でした。そのため、為広に密かに秀秋の監視と排除を命じたのです。

しかし、この暗殺計画は何らかの形で秀秋側に察知されてしまいます。 その結果、為広は秀秋軍の攻撃を許すことになり、計画は失敗に終わりました。

やがて正午、小早川秀秋が東軍に寝返り、松尾山から大谷隊に襲いかかります。為広は吉継とともに迎撃し、一時は秀秋軍を押し返すほどの奮戦を見せました。しかし、脇坂・朽木・小川・赤座の四将が次々と東軍に寝返ったことで、大谷隊は四方から包囲され、壊滅的な状況に追い込まれます。

平塚為広もこの激戦の中で討ち死にし、吉継とともに西軍左翼を支えた忠義の武将として名を残しました。

現在の陣跡は静かな田園地帯の中にあり、ここに立つと、為広が密命を胸に秘め、迫り来る裏切りの影と戦っていた緊迫した空気が静かに感じられます。

松尾山

関ケ原合戦の勝敗を決定づけた小早川秀秋の陣が置かれていたのが、南側にそびえる松尾山です。標高は約293メートルで、関ケ原盆地を見下ろす位置にあり、ここからの一挙手一投足が戦局を左右するほどの要衝でした。

しかし、松尾山は合戦場の中心から見ると意外に離れており、実際に歩いて登るとなるとかなりの時間と体力を要します。関ケ原の史跡巡りでは“目玉”の一つでありながら、時間が限られていると訪問を断念せざるを得ない場所でもあります。

秀秋はこの松尾山に1万5千の大軍を率いて布陣していましたが、午前中は動かず、東軍・西軍の双方がその動向を固唾を飲んで見守っていました。 そして正午、家康の号砲を合図に秀秋はついに東軍へ寝返り、松尾山から大谷吉継隊へと襲いかかります。この裏切りが西軍崩壊の決定打となり、関ケ原合戦の勝敗は一気に東軍へと傾きました。

松尾山の陣跡には現在、石碑や説明板が整備されており、山頂からは関ケ原の戦場全体を見渡すことができます。


不破の関

不破の関(ふわのせき)は、鈴鹿関・逢坂関と並んで「三関(さんげん)」と呼ばれ、古代日本の交通と軍事の要衝として重要な役割を果たしていました。これら三つの関所より東側は「東国」と呼ばれ、畿内と東国を分ける境界として機能していました。

不破の関が設置されたのは、壬申の乱の翌年である673年です。壬申の乱で勝利した天武天皇が、国家体制を整える中で治安維持と交通統制を強化するために設けたとされています。ここでは通行者の監視が行われ、軍事的にも政治的にも重要な地点でした。

関ケ原は古代から東西交通の要衝であり、不破の関はその中心に位置していました。 そのため、後の時代にも軍事的な意味を持ち続け、関ケ原合戦の舞台となった背景にも、この「交通の結節点」という地理的特性が深く関わっています。

現在の不破の関跡には石碑や説明板が整備され、古代の関所跡として静かに佇んでいます。ここに立つと、古代から中世、そして関ケ原合戦に至るまで、この地がいかに日本史の要となってきたかを感じ取ることができます。


東軍 福島正則陣地跡

東軍先鋒を務めた福島正則の陣跡は、関ケ原の東側に位置し、開戦の最初の衝突が起きた場所に近い地点です。正則は尾張の桶屋の息子として生まれ、決して武家の出ではありませんでした。しかし、母の縁から豊臣秀吉に仕えるようになり、小姓として側近くに仕えたことで頭角を現していきます。

賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳七本槍」の一人として勇名を馳せ、若くして武功を挙げたことで大名へと出世しました。秀吉の子飼いの武将として、豊臣政権の中でも重要な地位を占めるようになります。

しかし、朝鮮出兵を契機として、石田三成との関係が急速に悪化します。 三成は文治派の官僚型武将であり、武断派の正則とは性格も価値観も大きく異なっていました。朝鮮での補給問題や軍務の扱いをめぐって対立が深まり、両者の仲は決定的に険悪になります。

そのため、関ケ原合戦では豊臣家の重臣でありながら、正則は三成に強い不信感を抱き、徳川家康側につくことを選びました。東軍先鋒として布陣した正則は、開戦直後に井伊直政・松平忠吉とともに宇喜多秀家隊と激突し、戦いの火蓋を切る役割を果たします。

現在の陣跡には案内板が整備され、正則がどの位置で布陣し、どの方向へ攻め込んだのかがわかりやすく示されています。


東軍 藤堂高虎・京極高知陣跡

藤堂高虎と京極高知の陣跡は、関ケ原の北側に位置し、西軍左翼の大谷吉継隊と最初に激しくぶつかった場所です。ここは東軍の側面攻撃の起点となり、戦局の早い段階から激戦が展開された地域でした。

藤堂高虎は、もともと豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉の晩年には徳川家康に接近し、巧みに立ち回ったことで知られています。 高虎は武勇だけでなく築城術にも優れ、家康からも高く評価されていました。

関ケ原では東軍として参陣し、京極高知とともに大谷吉継隊の前面に布陣します。 午前中はこの二隊が大谷隊と激しく戦い、互いに押し引きを繰り返す展開となりました。

正午、小早川秀秋が松尾山から裏切りの攻撃を開始すると、大谷隊は四方から包囲される形となります。 その混乱の中で、高虎は戦線を広げ、石田三成の本隊とも交戦したと伝えられています。

高虎は戦況を読む力に優れ、裏切り四将(脇坂・朽木・小川・赤座)が東軍に寝返ると、すぐにその動きに呼応して攻勢を強めました。 これにより西軍左翼は完全に崩壊し、三成の本陣にも圧力がかかることになります。

一方、京極高知は名門・京極家の武将で、藤堂高虎と並んで大谷隊と戦いました。 京極家は豊臣政権下でも重要な家柄でありながら、関ケ原では家康側につき、東軍の一翼を担っています。

京極隊も大谷隊との戦闘で大きな役割を果たし、秀秋の裏切り後は東軍の包囲網を形成する一角として機能しました。


東軍 本多忠勝陣跡

関ケ原駅から史跡を巡り、最後にたどり着くのが本多忠勝の陣跡です。ここは東軍の右翼側に位置し、島津義弘の退却ルートにも近い場所でした。

本多忠勝は徳川四天王の筆頭格であり、若い頃から数々の戦場で武名を轟かせた武将です。武田信玄・織田信長・豊臣秀吉といった名だたる戦国大名からも賞賛され、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」とまで称えられました。

関ケ原では、忠勝の嫡男・本多忠政が実際の指揮を執っていたとされます。これは、豊臣恩顧の武将たちを監視する役割を担っていたためともいわれています。それでも本多隊は奮戦し、わずかな手勢でありながら九十にも及ぶ首級を挙げたと伝えられています。

忠勝は戦場全体を見渡しながら、島津義弘の退却にも追撃を加えました。しかし、島津隊は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる苛烈な殿戦術を用い、忠勝の追撃すら振り切って突破していきます。

忠勝の武勇は戦国随一といわれるほどですが、その忠勝をもってしても止められなかった島津義弘の退き口は、まさに“化け物じみた”戦いぶりだったといえるでしょう。

現在の本多忠勝陣跡は、関ケ原の東側に静かに残されており、ここに立つと、忠勝が槍「蜻蛉切」を携え、戦場を鋭く見据えていた姿が思い浮かびます。

思ったより時間かかった。
大垣の近くにある竹中半兵衛さんの墓でも行こうかと思っていたのですが、時間の余裕がなかったので帰りました。

岐阜のおすすめ郷土おみやげ

1.朴葉味噌(ほおばみそ)
朴葉の上に味噌・ネギ・きのこなどをのせて焼く飛騨の名物。 香ばしい香りが特徴で、ご飯にも酒にも合う。 2.飛騨牛
岐阜が誇るブランド和牛。霜降りの甘みと柔らかさが特徴。 ステーキ・すき焼き・炙り寿司など多彩。 3.鶏ちゃん(けいちゃん) 味噌や醤油ダレに漬けた鶏肉とキャベツを鉄板で焼くソウルフード。 地域や店ごとに味が違うのも魅力。 4.五平餅 つぶした米を串に巻き、味噌ダレをつけて焼く山間部の定番。 わらじ型・団子型など地域差が大きい。 5.ほう葉寿司 酢飯の上に川魚や山菜をのせ、朴葉で包んだ初夏の風物詩。 田植えの弁当として発達した保存性の高い寿司
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愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
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