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会社の就活支援も2月までで、残り期間が少なくなっていたため、焦りもあり、手当たり次第に応募を出していました。
そんなとき、姉が心配してわざわざ車で関西まで様子を見に来てくれ、ついでに旅行をすることになりました。行き先をどこにしようかと考えたとき、ふと思い浮かんだのが、私のお気に入りスポットである奈良県桜井市でした。
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今回はレンタカーで桜井市周辺を回ってみました。
ルート:談山神社→大神神社→樫原神宮→山田寺跡
大阪の温泉ホテルに一泊した後、朝に出発しました。明日香村に行こうかと思っていたものの、姉は以前に訪れたことがあるらしく、行ったことのない場所へ行くことにしました。
明日香村の奥山に、紅葉で有名な「談山神社」という場所があり、ちょうど秋でもあったため、そこへ向かうことにしました。
明日香村を通り、東の山道である多武峰(とうのみね)をどんどん登っていきます。
談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市多武峰(とうのみね)の深い山中に位置し、藤原鎌足公を祀る由緒ある神社です。大化の改新の際、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏討伐を密談した「談い(かたらい)山」に由来し、古代史の舞台として知られています。鎌足の遺骨は当初摂津国にありましたが、後にこの地へ改葬され、長男の定慧が木造十三重塔を建立したことが神社の起こりとされています。
境内には、楼門・本殿・権殿などの朱塗りの社殿が立ち並び、華やかな雰囲気を漂わせています。
本殿は日光東照宮の手本になったといわれ、「関西の日光」とも呼ばれています。特に高さ17メートルの木造十三重塔は、室町時代に再建された世界唯一の木造十三重塔として有名で、談山神社の象徴的存在です。
秋には境内一帯が紅葉に染まり、多武峰の山々と社殿が織りなす建造物と自然が調和した、奈良でも屈指の名所として多くの参拝者を魅了しています。


(左から)権殿、十三重塔(神廟)、そして神廟拝所が静かに並び、山の空気の中に溶け込むように佇んでいます。紅葉にはまだ少し早かったのか、木々は色づく気配をほんのりと纏うだけで、秋の訪れを静かに待っているようでした。

十三重塔は、藤原鎌足を弔うために建立された談山神社を象徴する代表的な建造物です。 もともとは奈良時代に創建されたと伝えられ、その後の戦乱や時代の変遷を経て、現在の塔は室町時代に再建されたものとされています。高さ約17メートルにおよぶ木造十三重塔は、同形式の木造建築としては世界で唯一の現存例といわれ、その希少性と歴史的価値から重要文化財に指定されています。
十三重という多層構造は、単なる装飾ではなく、鎌足の冥福を祈るための深い宗教的象徴性を帯びています。層を重ねるごとに天へと伸びていくような姿は、地上から彼岸へと至る道筋や、祈りの積み重ねを形にしたものとも受け取ることができます。朱色の塔身と周囲の山林との対比は非常に美しく、春の桜、秋の紅葉とともに、古来より多くの人々の心を惹きつけてきました。

また、この十三重塔は、戦前の日本銀行券の図案にも採用されたことがあるほど、近代以降の日本においても「日本的風景」を象徴する存在として認識されてきました。紙幣に描かれることで、談山神社の名とともに、この塔の姿は全国に知られることとなり、歴史・信仰・美術が一体となった象徴的建築としての地位をさらに確かなものにしています。

淡山神社を少し下ったあたりには、桜井市の街並みを一望できる小さな開けた場所があります。
遠景に見えるなだらかな山容こそが 三輪山。 古来より「神体山」として崇められ、山そのものが御神体であるため、今もなお禁足地として守られ続けています。
裾野付近には大神神社があり、そこへ向かいました。

大神神社へ向かう道の途中にそびえる大鳥居は、何度見ても胸の奥がざわつくほど大きく、存在感があります。 初めて見たときの衝撃はもちろん、何度訪れてもその印象は薄れるどころか、むしろ回を重ねるごとに「ここはただの神社ではない」という感覚が強まっていくようでした。
大鳥居の前に立つと、まるで自分の内側のどこか深い場所が静かに反応するような、不思議な感覚が生まれます。 それは理屈ではなく、言葉にもならない“呼ばれているような感覚”に近いものだったのかもしれません。
思い返せば、大神神社には理由もなくふと訪れたくなる瞬間が何度もありました。 「行こう」と強く意識したわけではないのに、気づけば足が向いている。 まるで無意識の奥底が、何かに導かれるようにしてこの場所へ連れてきていたような感覚です。
その時点では、ここが私の祖先の氏神だということなど、まったく知りませんでした。 姉も知らず、家族の誰も知らず、むしろ「何その神社?」という反応が返ってくるほど。
にもかかわらず、なぜか自分だけが繰り返しこの地に足を運んでいたという事実には、後から振り返ると不思議な縁を感じずにはいられません。
大鳥居
高さは約32メートルと日本最大規模の鳥居です。
大鳥居が建立されたのは、昭和59年(1984年)で、竣工は昭和61年(1986年)です。
昭和天皇のご親拝と御在位60年を奉祝して建てられたことが公式に記されています。

拝殿

昼食は、大神神社の近くで名物の 三輪そうめん と 柿の葉寿司 をいただきました。 この地域は素麺の本場だと聞いていましたが、実際に食べてみると、細い麺の中にしっかりとしたコシがあり、喉ごしもとても軽やかです。 姉は「おいしい、おいしい」と何度も言いながら箸を進めていました。
当時の私は、 「素麺ってそんなにうまい?味音痴なのでよくわからないけど」
と半ば冗談のように思っていましたが、後になって知ったのは、三輪そうめんは“日本で一番おいしい素麺”と評判のブランドだということです。
姉があれほど喜んでいたのも、今思えば納得できます。

説によれば、今からおよそ 1200年以上前 のことです。 大田田根子命の子孫である 大神穀主(おおみわのたねぬし) が、当時の人々を苦しめていた飢饉と疫病の収束を願い、三輪の神に深く祈りを捧げました。 その祈りに応えるようにして、神からの啓示が降りたと伝えられています。啓示の内容は、 「三輪の地で小麦を育て、人々を救う食をつくれ」 というものでした。大神穀主はその教えに従い、三輪で小麦の栽培を始め、そこから生まれたのが 素麺の原型 だとされています。 これが、三輪そうめんの始まりと語り継がれてきた物語です。
昼食を終えたあとは、桜井市から西へと車を走らせ、橿原市(かしはら) のほうへ向かいました。
橿原といえば、何よりも 神武天皇が都を置いた橿原宮(かしはらのみや) があった場所として知られています。 『日本書紀』には、神武天皇が東征ののち、この地で即位し、国の礎を築いたと記されています。 そのため橿原は、しばしば 「日本建国の地」 と呼ばれ、古代史の中でも特別な意味を持つ土地です。
橿原宮が置かれたのは、畝傍山(うねびやま) の東南の地。 畝傍山は大和三山のひとつで、古代から神聖視されてきた山です。 その麓に都を構えたという事実は、神武天皇がこの地をどれほど重視していたかを物語っています。
橿原神宮には、神武天皇と、その皇后である 媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) が祀られています。 皇后の五十鈴媛命は、三島溝咋姫(みしまのみぞくいひめ/玉櫛媛) の娘と伝えられていますが、その父親については諸説あり、大物主神 とする説と、事代主神 とする説が残されています。いずれも三輪山に深く関わる神であり、皇室と三輪系の神々が古くから結びついていたことを示す象徴的な系譜です。
三島溝咋とは、古代に現在の大阪府茨木市や高槻市にあたる 三島地方を統率していた豪族の一族 とされています。 この一族は阿波忌部の流れを汲むといわれ、古代祭祀を担った重要な氏族でした。また、三島溝咋は 八咫烏(やたがらす)=賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) と同一視される説もあり、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神としても知られています。さらに、少彦名命と同神とする説も伝わり、三島溝咋の父神は 大山祇神(おおやまつみのかみ) であるともいわれています。

多くの天皇陵を見てわたりましたが、どの陵墓も近くに参拝できる神社があるわけではなく、観光客もそれほど多くありません。 静かな森の中にひっそりと佇み、厳かな空気だけが漂っている――そんな場所がほとんどです。
ところが、神武天皇陵だけはまったく雰囲気が異なります。 陵の前には立派な拝殿が整えられ、参拝しやすい環境が整備されているため、訪れる人の姿も多く見られます。 初代天皇という特別な存在であること、そして橿原という「日本建国の地」に位置していることもあって、国内外から多くの観光客が足を運んでいます。
神武天皇陵の周辺は、ただ陵墓があるだけではなく、橿原神宮の広大な境内と一体となっており、 参道を歩くだけでも歴史の深さを感じられる場所です。 他の天皇陵とは異なる“開かれた雰囲気”があり、古代の物語が今も息づいているような特別な空気が漂っています。

背後の山が畝傍山です。
畝傍山は標高199メートルの独立峰で、大和三山のひとつとして古代から神聖視されてきました。山容はなだらかで、周囲の田園風景と調和し、どこか柔らかな気配を漂わせています。『日本書紀』には、神武天皇が東征ののち、この畝傍山の東南に橿原宮を構えたと記され、日本建国の舞台として特別な意味を持つ山です。

最後は教科書にでてきた仏頭で知られる山田寺跡へ。
山田寺といえば大仏の頭部の写真が教科書にも載っていた記憶があります。
年齢を重ねて改めてみてみると、ところが、年齢を重ねて改めて仏頭を見てみると、その表情が アルカイックスマイル を湛えていることに気づきます。 穏やかで静かな微笑をたたえるその姿は、古代ギリシャ彫刻やガンダーラ仏に通じる美意識を感じさせます。

山田寺跡の所在地
山田寺跡(やまだでらあと)は、奈良県桜井市に位置する飛鳥時代の寺院跡で、日本最古級の本格的な伽藍配置を持つ寺として知られています。創建は 舒明天皇の時代(7世紀前半) とされ、天皇の異母弟である 山背大兄王(やましろのおおえのおう) が発願したとも伝えられています。
寺は、当時としては珍しい 東向きの伽藍配置 を採用しており、金堂・塔・講堂が一直線に並ぶ形式は、後の寺院建築に大きな影響を与えました。発掘調査によって、塔の心礎や金堂跡の基壇が良好な状態で残されていることが確認され、飛鳥時代の寺院構造を知るうえで非常に貴重な遺跡となっています。
また、山田寺は「山田寺の仏頭」で知られています。これは金堂本尊の頭部が後世に薬師寺へ移され、現在も国宝として大切に保管されています。穏やかで気品ある表情は、飛鳥白鳳文化の美を象徴するものです。
現在の山田寺跡は、静かな田園風景の中に広がり、往時の伽藍を想像しながら歩くことができる場所です。華やかな寺院が立ち並んだ飛鳥の時代を、今に伝える貴重な歴史遺産として、多くの人々に親しまれています。


このあとは、資料館を見学し、姉が帰省するためバスターミナルで見送りして帰りました。