龍神の記憶と目覚め  旅行記録19:京都市内観光(嵐山・仁和寺・龍安寺・金閣寺) | 龍神の記憶と目覚め 

旅行記録19:京都市内観光(嵐山・仁和寺・龍安寺・金閣寺)

京都市内観光

京都市内は修学旅行では必ずといっていいほど訪れる定番の観光スポット。
私も中学3年生のときに訪れたことがあります。
そのときの嵐山の風景を見て、「京都に住みたい!」と思っていました。
就職して関西に住むことになり、京都に行くことも容易になっていたのですが、10年以上住んでいながらうつ病のために京都観光をろくにしたことがありませんでした。
関西を離れることになってやっと観光かと、後悔ばかりでした。

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京都市内観光ルート

今回は京都市内の北西部領域。
嵐山⇒仁和寺⇒竜安寺⇒金閣寺
と嵐山から北東方向に向かって徒歩で観光。
行程約6km

嵐山(あらしやま)の天皇陵

朝8時にホテルをチェックアウトし、まだ空気の冷たい時間帯に嵐山へ向かいました。
京都駅周辺の喧騒から離れ、バスが西へ進むにつれて、街並みが少しずつ落ち着いた雰囲気に変わっていきます。

嵐山の近くまで来ると、ふいに平安時代の天皇陵が目に入ってきました。 嵯峨天皇陵、亀山天皇陵、後亀山天皇陵(写真)―― いずれも静かな山裾に寄り添うように佇んでいて、観光地の華やかさとはまったく違う、深い静寂をまとっています。

奈良や大阪でみた天皇陵と同じく、鳥居のような門がありどこも似たような構造になっています。

奈良にある巨大な天皇陵と比べると、これらはどれも小規模です。 やはり古墳時代の陵墓は、権力の象徴として圧倒的な規模を誇っていたのだと、あらためて実感しました。 平安期の陵は、むしろ“祈りの場”としての静けさが前面に出ていて、時代の価値観の違いがそのまま形になっているように思えます。

嵐山へ向かう道すがら、 「京都は観光地の顔だけじゃなく、こういう静かな歴史の層が突然現れるのが面白い」 そんなことを感じながら、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みました。


嵐山(あらしやま)

嵐山(あらしやま)は標高382メートルの山で、 その周辺の松尾山、鳥ヶ岳、小倉山、亀山とその麓一帯を含めて、 一般に“嵐山”と呼ばれています。 京都でも屈指の観光名所で、誰もが一度は訪れる場所です。

私も中学の修学旅行で来たとき、 保津川下りの到着地点として嵐山を訪れた記憶があります。 あの頃は、ただ人の流れに合わせて歩いていたような、 どこか夢の中のような感覚でした。

そして今回、数十年ぶりに嵐山へ向かってみると、 「え、こんな場所だったっけ?」 と、昔の記憶との違いに驚かされました。

青年期の記憶というのは、 年を重ねるといつの間にか輪郭がぼやけ、 自分の中で勝手に書き換えられてしまうものなんだなと実感しました。

当時の私は、感情がどこか死んでいたような時期でもあり、 景色を見ても心が動くことが少なかったのかもしれません。 だからこそ、今見える嵐山の風景が、 まるで別の場所のように感じられたのでしょう。

嵯峨野と嵐山の間を流れる大堰川(おおいがわ)に架かるのが、 京都を代表する名所 「渡月橋(とげつきょう)」 です。

その歴史は古く、836年(平安時代)に最初の橋がかけられたと伝わっています。 現在の姿は近代以降に整備されたものですが、 橋そのものが長い年月の中で人々の暮らしと景観を支えてきたことに変わりはありません。

鎌倉時代、亀山上皇が橋の上空をゆっくりと移動していく月を眺め、 「くまなき月の渡るに似る」 と詠んだことが、橋の名の由来とされています。 “雲ひとつなく澄んだ月が、橋を渡っていくようだ”という意味で、 その情景の美しさが今も名前に残っているのが素敵です。

また、この川は場所によって名前が変わることでも知られています。

上流:保津川(保津川下りで有名)
嵐山付近:大堰川(おおいがわ)
さらに南:桂川

同じ水が流れているのに、地域によって呼び名が変わるのは、 京都の地形と歴史が複雑に絡み合っている証でもあります。

渡月橋の上に立つと、 川の流れ、山の稜線、そして空の広がりが一体になって、 どこか時間の感覚がゆっくりになるような気がします。

嵐山は、桜と紅葉の名所として古くから知られています。 ちょうどこの時期は紅葉シーズンで、山全体がゆっくりと色づき始めていました。

山肌には、 ミドリ、赤、黄色がまだら模様のように重なり合い、 まるで絵巻物の一場面のような景色が広がっていました。 完全に紅葉しきった“真っ赤な嵐山”も美しいですが、 この“移り変わりの途中”の色合いには、どこか儚さと深みがあります。

朝の光に照らされると、 緑の部分はしっとりと落ち着き、 赤や黄色の葉はふわりと浮かび上がるように輝き、 嵐山全体が静かに呼吸しているように見えました。

観光地としての賑わいとは別に、 季節の移ろいがそのまま山に刻まれているようで、 しばらく立ち止まって眺めていたくなる風景でした。


仁和寺(にんなじ)

嵐山からしばらく歩くと、昨日の雨が嘘のように青空が広がり、まさに観光日和でした。 ただ、面接の翌日ということもあり、着替えを持ってくるのが面倒で、スーツ姿のまま歩くことに。 秋とはいえ日差しは強く、仁和寺に着いた頃には汗がぐだぐだで、まるで修行僧のような状態でした。

仁和寺といえば、徒然草の有名な一節 「仁和寺にある法師…」 で知られる、あの寺です。 中学の古典で習った記憶がふっとよみがえり、 「ここがあの舞台か」と思うと、少しだけ胸が高鳴りました。

仁和寺の僧侶が石清水八幡宮にある時、思い立って1人で参詣したものの、八幡宮のある山に登らずにその麓のお寺をみただけで八幡宮に行ってきたと勘違いしているお話。
仁和寺はエリート僧集団で、エリートのような人物でもこういう勘違いはするもんだという内容。

仁和寺は、平安時代後期に光孝天皇の勅願によって建立が始まり、 仁和4年(888年)に、その子・宇多天皇の時代に完成しました。 当初は「西山御願寺(にしやまごがんじ)」と呼ばれていましたが、 完成した元号にちなみ、後に「仁和寺」と呼ばれるようになったと伝わります。

二王門

仁和寺の入り口には、堂々とした二王門が構えています。 門の左右には金剛力士像が安置されており、 その迫力は、まさに寺の“顔”と呼ぶにふさわしい存在です。

一般的には金剛力士像を安置する門は「仁王門」と呼ばれますが、 仁和寺では「二王門」と表記されているのが特徴です。 細かな違いではありますが、寺ごとの伝統や呼称のこだわりが感じられます。

仁和寺は歴史の中で何度も大火災に見舞われ、 伽藍全体が焼き尽くされてしまった時期もありました。 現在の伽藍は、江戸時代・徳川家光の時代に再建されたもので、 この二王門もそのときに建てられたと伝わっています。

門の前に立つと、 その巨大さと重厚さに思わず息をのむほどで、 どこか永平寺の山門を思わせるような威圧感と荘厳さがあります。

伽藍配置

南庭

拝観受付を済ませ、左手にある本坊表門をくぐると、 境内南西に広がる御殿群――白書院、黒書院、辰殿へと続く静かな空間に入ります。

足を踏み入れた瞬間、まず目に飛び込んでくるのは、 白砂に丁寧につけられた箒目(ほうきめ)が美しい枯山水の庭でした。 朝の光を受けて白砂がやわらかく輝き、 その上に描かれた規則正しい線が、まるで呼吸するように静かに波打っています。

書院の濃い木の色と、白砂の明るさの対比が見事で、 嵐山から歩いてきた汗だくの身体が、 この庭を前にすると落ち着いていくようでした。

御殿群は、かつて門跡寺院として皇族が暮らした空間でもあり、
どこか宮廷文化の名残を感じさせる上品な静けさがあります。
観光地の喧騒とはまったく別の時間が流れていて、
「ここは本当に京都の中なのか」と思うほどの落ち着きでした。

白書院(しろしょいん)に入ると、まず目を奪われるのが、 煌びやかな襖絵です。 金地に描かれた文様や草花が、静かな書院の空気の中でやわらかく輝き、 まるで時間が止まったような上品さがあります。

このあたりの建物群は、実は明治時代の火災で一度すべて消失しています。 現在の白書院・黒書院・辰殿などは、 明治から大正にかけて再建されたもので、 古い歴史を持ちながらも、どこか近代の息づかいも感じられる造りです。

白書院の襖絵は、 昭和12年(1937年)に福永晴帆(ふくなが せいはん)によって描かれた作品で、 再建後の仁和寺に新たな彩りを与える存在となっています。 古典的な題材を扱いながらも、どこかモダンな感覚があり、 再建された御殿の雰囲気とよく調和していました。

辰殿からみた北庭

辰殿から北側に目を向けると、 そこには白砂、池、木々が織りなす枯山水の北庭が広がっていました。
白砂は丁寧に均され、光を受けてやわらかく輝き、 池の水面は静かに空を映し込み、 その周囲を囲む木々が季節の色を添えています。

そして何より印象的なのは、 庭の向こうに五重塔と茅葺屋根の建物が重なる構図です。
まるで庭そのものが、五重塔を背景にした一幅の絵画として 計算されているかのような美しさでした。

白砂の明るさ、池の静けさ、木々の柔らかな緑、 そして奥にそびえる五重塔の黒いシルエット。 それぞれが強い存在感を持ちながら、 不思議と調和してひとつの景色をつくり上げています。

霊明殿

黒書院の北側に続く廊下を静かに進んでいくと、 ふいに視界が開け、宝形造(ほうぎょうづくり)の端正な建物・霊明殿が姿を現します。

霊明殿は、御殿群の中でも特に厳かな空気をまとった場所で、 外観は簡素ながら、どこか宮廷文化の香りを残す上品な佇まいです。

内部は一室のみの構造で、 正面の三間幅の仏壇には、 国宝・薬師如来像が安置されています。 薄暗い堂内に静かに浮かび上がるその姿は、 華美ではなく、むしろ“祈りの中心”としての落ち着いた存在感を放っていました。

勅使門

御殿群の東側に建つ正門は、 かつて 天皇の使者(勅使)だけが通行を許された特別な門です。 そのため、仁和寺の中でもひときわ格式の高い建造物として位置づけられています。

現在の正門は、 大正時代に亀岡末吉(かめおか すえきち)によって造られたもので、 近代の技術と伝統的な意匠が見事に融合した造りになっています。

特に目を引くのは、 門に施された 枯草の透かし彫りです。 繊細でありながら力強さも感じさせる彫刻で、 光が差し込むと影が揺れ、まるで草が風にそよいでいるように見えます。

御殿の静けさと、 この正門の端正な佇まいが重なると、 「ここはかつて皇族が行き交った場所なのだ」と 自然と背筋が伸びるような気持ちになります。

中門

御殿群をあとにして外へ出ると、 仁和寺の境内は思っていた以上に広く、 視界が一気に開けるような感覚がありました。正面に見える中門をくぐると、 そこから先はまた別の空気が流れていて、 御殿の静けさとは違う、寺院らしい開放感が広がっています。

中門を抜けた先には、 金堂や五重塔へ続く参道がまっすぐ伸び、 その両側には広々とした空間が広がっていました。 建物の配置がゆったりとしているため、 歩いているだけで気持ちが落ち着いていくようです。

仁和寺は門跡寺院として格式が高い一方で、 伽藍のスケールはどこか素朴で、 “皇族の寺”でありながらも親しみやすい雰囲気があります。

五重塔(重要文化財)

仁和寺の五重塔は、 1644年(寛永21年)に徳川三代将軍・家光の寄進によって建立されたものです。 総高は約36メートル。 京都にある五重塔の中では中規模ですが、 その端正な姿は、仁和寺の伽藍の中でひときわ静かな存在感を放っています。

塔は黒みがかった落ち着いた色合いで、 派手さはないものの、どこか宮廷文化の余韻を感じさせる優美な造形です。 近づいて見上げると、 軒の重なりが美しいリズムを刻み、 空へ向かってまっすぐ伸びていくような印象があります。

金堂(国宝)

仁和寺の伽藍の中心に建つ金堂は、 1613年(江戸時代)に建立された京都御所の正殿・紫宸殿を移築した建物です。 もともとは天皇が重要な儀式を行う場であり、 その格式の高さは、移築された現在でも強く感じられます。

現存する紫宸殿としては最古のもので、 寝殿造の構造を今に伝える非常に貴重な遺構です。 そのため、金堂は国宝に指定されています。

外観は落ち着いた色合いでありながら、 軒の反りや柱の配置には宮廷建築の優雅さが残り、 伽藍の中にあってもひときわ品格のある佇まいを見せています。

御殿の静けさから歩いてきて、 この金堂の前に立つと、 「ここはかつて天皇が儀式を行った場所なのだ」という 歴史の重みが静かに胸に響いてきました。

御影堂(重要文化財)

この建物は、1613年(江戸時代)に建立されたもので、京都御所の清涼殿の用材を用いて造られたと伝わっています。 清涼殿といえば、平安時代以来、天皇の日常生活の中心となる建物であり、 その用材が仁和寺に移されて新たな堂として生まれ変わったという点に、 門跡寺院ならではの格式の高さが感じられます。

堂内には、

弘法大師(空海)像

宇多法皇像

が祀られています。

弘法大師は真言宗の開祖として、 宇多法皇は仁和寺を門跡寺院として整えた中心人物として、 どちらもこの寺にとって欠かせない存在です。

その二人が同じ空間に祀られているということは、 仁和寺の歴史そのものを象徴しているようにも思えます。 堂内は華美ではなく、むしろ静かで落ち着いた雰囲気で、 祈りの場としての重みが静かに漂っていました。


龍安寺

仁和寺から北へ向かって歩いていくと、 やがて木々の間に静かな寺の気配が漂い始め、 その先に龍安寺が姿を現します。

龍安寺といえば、誰もが教科書で一度は目にしたことのある、 あの有名な枯山水の石庭で知られる寺です。 中学や高校の頃、写真で見たあの白砂と石の世界が、 ついに目の前に広がるのだと思うと、自然と足取りが軽くなりました。

仁和寺の広々とした伽藍とはまた違い、 龍安寺はどこか“凝縮された静けさ”が漂っていて、 門をくぐる前から、心がすっと落ち着いていくようでした。

龍安寺は、1450年(室町時代)に細川勝元が建立した寺です。 この地にはもともと藤原北家の山荘があり、 勝元がそれを譲り受けて禅寺として整えたのが始まりとされています。

しかし、応仁の乱が勃発すると、 龍安寺は西軍の攻撃を受けて一度は焼失してしまいます。 その後、勝元の子である細川政元によって再興され、 現在の姿へとつながっていきました。

興味深いのは、 江戸時代の龍安寺では、今の石庭よりも池泉回遊式庭園の方が有名だった という点です。 つまり、当時の人々にとって龍安寺といえば、 石庭ではなく“池の庭”だったわけです。

境内に入ると、まず目に入るのが 鏡容池(きょうようち)を中心とした池泉回遊式庭園です。 池の周囲を歩きながら景色が移り変わるように設計されており、 水面に映る空や木々の色が、季節ごとに違った表情を見せてくれます。

龍安寺の石庭を望む方丈(ほうじょう)に入ると、 まず目に入るのは、静かに並ぶ襖絵の数々です。
本来この方丈には、 狩野派による襖絵が描かれていたと伝わっています。 室町〜江戸期の禅寺らしい、格調高い絵が並んでいたのでしょう。

しかし、明治時代の廃仏毀釈の影響で、 これらの狩野派の襖絵は取り外され、 現在は別の場所に保管されています。
その後、方丈の襖絵は長らく空白の時期を経て、 昭和28年(1953年)に皐月鶴翁(さつき かくおう)によって新たに描かれたものが 現在の姿として残されています。

皐月鶴翁の襖絵は、 狩野派のような豪華さとは少し違い、 禅寺の静けさに寄り添うような柔らかい筆致が特徴で、 石庭の静寂とよく調和していました。

龍安寺の石庭は、 1500年頃(室町時代)に作庭されたとも伝わっていますが、 実際の作庭者や意図は今もはっきりとは分かっていません。 禅寺らしい“余白の美”が極限まで研ぎ澄まされた庭で、 その謎めいた成り立ちもまた魅力のひとつです。

庭は、 幅約25メートル、奥行き約10メートルの長方形。 白砂が敷き詰められた空間に、 東から順に 5個・2個・3個・2個・3個 の石が配置されています。

この構成から、 庭は 「方丈庭園」 と呼ばれるほか、 「七五三の庭」 とも呼ばれています。

5+2=7

3+2=5

そして最後の3

という“7・5・3”の組み合わせに見立てられることから、 この名がついたといわれています。

さらに有名なのは、 どの位置から眺めても必ず1つの石が見えないように配置されている という点です。 15個すべてを同時に見ることはできず、 見る者の位置によって“欠け”が生まれるように設計されています。

また、庭に置かれた石はすべて、 織田信長の祖父・織田信定が運んだ という伝承も残っています。 戦国の気配が、静寂の庭の奥にひっそりと潜んでいるようで、 この話を知ると庭の印象がまた少し変わって見えます。

白砂の静けさ、石の沈黙、 そして“見えない石”がつくる余白。 龍安寺の石庭は、 ただ眺めるだけでなく、 “考えさせられる庭”として今も多くの人を惹きつけています。

方丈の石庭を見終えて茶室の前へ進むと、 そこにひっそりと置かれているのが、 「知足の蹲踞(ちそくのつくばい)」です。

この蹲踞は、 徳川光圀(黄門さま)の寄進と伝わるもので、 龍安寺の中でも石庭と並ぶほど有名な存在です。 「この蹲踞を見るために参拝する」という人もいるほどで、 実はかなりの人気スポットなのだそうです。

蹲踞の中央には四角い水穴があり、 その四方に刻まれた文字が、 水穴の「口」を共用して読めるようになっています。

吾 唯 足 知 (われ ただ たるを しる)
という禅語になります。

意味は、 「金や物があっても満足できない人は満足できない。 逆に、たとえ貧しくても感謝の心があれば満足できる」 というもの。

……とても立派な教えなのですが、
「いやいや、金はあったほうが満足じゃよ。」
と思いました。
欲がみたされてこそ、感謝の気持ちが湧くものです。


鹿苑寺(金閣寺)

龍安寺をあとにして北へ向かうと、 やがて観光客のざわめきが聞こえ始め、 その先に鹿苑寺(金閣)が姿を現します。

「来たことあるような、ないような」 そんな曖昧な感覚が胸に浮かんだのは、 修学旅行では訪れていないものの、 そのとき買った、“金閣寺が描かれた額縁”を毎日のように眺めていたからかもしれません。 それが、いつの間にか“行った気分”になっていたのだろうなと、 門の前に立った瞬間にふっと気づきました。

しかし、現実の金閣はというと―― 中は観光客でいっぱい。
しかも、 日本人よりも外国人の方が多いほどの賑わいでした。

名所の観光地は騒がしいので、あまり好きではないのです。

池のほとりに立ち、ふと視線を上げた瞬間、 そこに広がっていたのは――
額縁で毎日のように眺めていた、あの“定番アングル”の金閣そのものでした。

子どもの頃、机の前に置いていた金閣寺の額縁。
何度も何度も見ていたその構図が、 まったく同じ形で目の前に現れるという不思議な感覚。
記憶と現実がぴたりと重なる瞬間でした。

そして何より――
金箔の輝きがたまらない。
写真では分からなかった“光の厚み”があって、 太陽の角度によって金色がゆっくりと変化し、 水面に映る金閣がまた別の金色をつくり出していました。

金閣の裏側へ回り込むと、 表のきらびやかな姿とは少し違う、 落ち着いた金色の光が静かに漂っていました。

正面の“額縁アングル”は誰もが知る景色ですが、 裏側は観光写真にはあまり登場しないため、 どこか素朴で、金閣が本来持っている静けさが ふっと顔をのぞかせるようでした。

白蛇の塚

金閣の裏側へと続く道を歩いていくと、 観光客のざわめきが少しずつ遠ざかり、 代わりに静かな山の気配が濃くなっていきます。

その途中でふと目に入るのが、 「白蛇の塚」と書かれた立札でした。
調べてみると、これは「はくじゃのつか」と読み、 遠くの木々の間に見える白い五輪塔を指すのだそうです。

この五輪塔は、 金閣の前身である西園寺家の時代(鎌倉期)の名残とされ、 室町時代に足利家の所有となった後も、 ひっそりとこの地に残り続けてきたものです。

横の看板には、こんな説明がありました。

「白蛇は弁財天の使い(神使)なり」

「弁財天は智慧・弁舌・芸能・福徳を与え、家運を盛んにする神」

つまりこの白蛇の塚は、 西園寺家の家運隆盛を祈るための“守り”のような存在だったのでしょう。

白蛇というと、私の祖先にもつながる大神神社の祭神「大物主神」も白蛇。
西園寺家の家紋を調べると私の家の家紋にもある「左三つ巴」

八幡神社にある左三つ巴の意味については、
宗像三女神
物部氏、秦氏
等いろいろと説があります。

また、水の流れや渦を象徴する紋で、 水神・龍神・蛇神と結びつけられることが多く、 “蛇族”との関連を指摘する説もあります。
西園寺家が弁財天(蛇神と縁が深い)を祀っていたことを考えると、蛇族と深い関係があるのかもしれません。

金閣の裏山を歩いていると、 木々の間からふと視界が開け、 その向こうに左大文字山が姿を見せました。

毎年お盆の送り火で灯る、 あの大きな「大」の字です。

昼間の静かな山肌に、 その「大」の形だけがくっきりと浮かび上がっていて、 観光地の賑わいから少し離れた裏山の空気と相まって、 どこか“京都の素顔”を見たような気持ちになりました。

金閣の黄金の輝きとは対照的に、 左大文字山は素朴で、 でも確かに京都の暮らしと季節を支えてきた存在で、 その静かな佇まいが旅の終盤にそっと寄り添ってくれるようでした。

時間はすでに15時すぎ。 朝からずっと歩き続けてきた身体には、 そろそろ疲れがどっと押し寄せてきます。
「もう今日は帰ろうか」 そんな気持ちが自然と湧いてきて、 バスに乗り京都駅へ向かいました。

京都の郷土おみやげ

1.阿闍梨餅(満月)
もっちり生地+丹波大納言あん。京都最強の定番。 2.京ばあむ
抹茶×豆乳のしっとりバーム。見た目も上品。 3.生八つ橋 おたべ
季節限定が豊富。京都らしさ100%。 4.茶の菓(マールブランシュ)
濃茶ラングドシャ。京都土産の王道洋菓子。 5.井筒八ッ橋
歯ごたえのある焼き八ッ橋。日持ち◎。 6.夕子(井筒八ッ橋) 生八つ橋の定番。個包装で配りやすい。
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愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
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