目次
京都は名所が多いものの、まだ攻略がほどんどできていなかったため、京都市内の攻略へ。
まずは京都の中心にある二条城を見学し、そこから東山方面へ向かいました。
その前に、コメダ珈琲で腹ごしらえをすることにしました。
コメダ珈琲には、私にとってさまざまな思い出があります。 2007年頃、上司とともに名古屋へ旅行した際、当時コメダ珈琲はまだ名古屋にしかありませんでした。 名古屋大学に通っていた上司は名古屋のことに詳しく、コメダ珈琲へ連れていってもらい、旅行中は朝モーニングやシロノワールをよく注文していました。
「コメダ珈琲が関西にもあればいいのにね」と話していた数年後、 その願いは現実となり、関西にも店舗が進出しました。 週末の仕事帰りには、上司や同僚とともに憩いの場としてコメダ珈琲に入り浸っていたものです。
そして今では、コメダは全国チェーンとなり、まさかの近所にまで店舗ができています。 時の流れとともに、自分の生活圏にまで広がっていったことに、なんとも言えない感慨を覚えます。
ホットサンドが本当にたまらんだぎゃー。
ありがとう、コメダ珈琲。心からそう思います。
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京都駅を下車し、北へと徒歩で移動しました。
「二条城」と呼ばれる城はいくつか存在しますが、現在残っているのは1603年、江戸幕府初代将軍・徳川家康によって築かれたものです。 当時、天皇が住まわれていた京都御所の守護、そして将軍が上洛した際の宿泊所として造営されました。
第3代将軍・家光の時代になると、1626年の後水尾天皇の行幸を迎えるために大規模な改修が行われました。 この行幸は幕府の権威を示す重要な政治的儀礼であり、二条城はその舞台として大きく整備されました。 狩野派による障壁画の制作や、御殿・庭園の拡張などが行われ、現在の二条城の姿の基礎がこの時期に形づくられています。
二条城はその後も、徳川家康の将軍宣下、豊臣秀頼との会見、そして幕末には徳川慶喜による大政奉還の舞台となるなど、 江戸幕府の始まりと終わりを見届けた城として、日本史の中でも特に象徴的な存在となりました。

東西約500メートル、南北約400メートル総面積275,000平方メートル、外周約2kmのほぼ矩形の城。

右の領域が国宝二の丸御殿などがある敷地で、左の四角い領域が天守跡。
3が唐門でここから入場。
唐門は二の丸御殿の正門にあたり、重要文化財に指定されている建造物です。
屋根の前後には唐破風が設けられており、門としては最も格式の高い造りになっています。
冠木(かぶき)の上部には、龍や虎、鶴・亀、松竹梅といった長寿や吉祥を象徴する彫刻がびっしりと施され、 その豪華さと細やかな技に思わず見入ってしまうほどです。 二条城の中でもひときわ華やかで、将軍の権威を象徴する門であることがよく伝わってきます。

唐門をくぐると、すぐ目の前に現れるのが、二条城の中心的建造物であり国宝に指定されている二の丸御殿です。 徳川家康が二条城の造営に着手したのは1601年で、現存する二の丸御殿の建物群は、その20数年後の寛永期に大規模な改修が行われたものです。 この改修は、後水尾天皇の行幸を迎えるためのもので、御殿の内部装飾や建築様式はこの時期に大きく整えられました。
二の丸御殿は、車寄・遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の六棟から構成され、 それぞれが渡り廊下でつながる壮大な書院造の建築群です。 内部には狩野探幽を中心とする狩野派による障壁画が数多く残され、 金箔をふんだんに使った豪華絢爛な世界が広がっています。
特に大広間は、将軍が諸大名を対面するための場として設けられ、 畳の高さや間仕切りの配置によって身分の上下が明確に示される、 まさに“権威の空間”として設計されています。
こうした歴史的背景と豪華な造りから、二の丸御殿は時代劇のロケ地としてもしばしば使われています。 将軍の対面シーンや大名の登城場面など、 「いかにも江戸時代」という雰囲気をそのまま再現できる場所として重宝されているのも納得です。

大政奉還
幕末大政奉還が行われた場所がこの中。
撮影禁止のため画像は載せれませんが、意外に狭かったです。

二の丸御殿の「大広間」は、二の丸御殿の諸殿の中でも最も格式の高い部屋です。
将軍が諸大名と公式に対面する際に用いられた、まさに表向きの政治空間でした。

この庭園は特別名勝に指定されており、寛永3年(1626年)に後水尾天皇の行幸を迎えるため、作事奉行・小堀遠州のもとで改修された桃山様式の池泉回遊式庭園です。 池を中心に築かれた石組や植栽は、遠州好みの“洗練された豪華さ”を備えており、二条城の中でもひときわ格調高い景観をつくり出しています。

庭園の石組は、三つの方向から鑑賞できるよう巧みに配置されており、 どの角度から眺めても構図が崩れず、まるで一幅の絵のように見えるよう工夫されています。 この多方向鑑賞の設計は、現存する城郭庭園の中でも特に優れたものとされ、 桃山文化の美意識と技術の高さを今に伝える貴重な作品です。
池面に映る御殿の影や、石橋・築山の配置など、 歩くたびに景色が変わる“回遊式庭園”ならではの楽しみがあり、 当時の天皇や将軍たちがどのようにこの庭を眺めたのか、想像が広がっていきました。

本丸御殿の南側には、明治天皇の行幸に合わせて造営された、芝庭風の築山式「本丸庭園」が広がっています。 緩やかな築山と芝生を主体とした庭園は、江戸時代の城郭庭園とはまた異なる、明治期らしい開放的で明るい雰囲気を備えています。
本丸御殿の威厳ある建物を背景に、柔らかな芝の緑と築山の起伏が調和し、 歩くたびに視界がゆるやかに変化していく、落ち着いた美しさを感じられる庭園です。

かつてこの場所には五層六階の天守閣がありましたが、1750年(寛延3年)の落雷によって焼失し、その後は再建されていません。 現在は天守台のみが残されており、往時の壮大な姿を想像させてくれます。

天守台に上ると、京都市内を一望することができます。 城下町として整えられた京都の街並みや、遠くに連なる山々まで見渡せ、 ここがかつて政治の中心として重要な役割を果たしていたことを、改めて実感しました。


二条から電車に乗って東山へ向かい、ここからは徒歩で観光を続けました。
清水寺は、南都六宗の一つである法相宗の大本山です。 平安京以前からの歴史を持つ京都の寺院の中でも、広隆寺や鞍馬寺と並んで、特に古い由緒を持つ数少ない寺院の一つです。
修学旅行でもお馴染みの場所で、私自身これで三度目の訪問になります。 清水寺へと続くこの坂道は、多くの人が一度は歩いた記憶があるのではないでしょうか。 観光客のざわめきや、土産物屋の並ぶ風景を目にすると、 学生時代の思い出がふっとよみがえってくるようでした。
一人でぶらぶらするのは初めてです。


清水寺は、778年に延鎮上人が開山し、798年には坂上田村麻呂が堂塔を創建したと伝えられています。 音羽山の中腹に、30近い堂塔伽藍が立ち並ぶ大規模な寺院で、現在の主な建物は1633年(寛永10年)に徳川家光によって再建されたものです。 その歴史的価値から、世界文化遺産にも登録されています。
清水寺を訪れると、まず目に入るのが鮮やかな朱色が美しい仁王門です。 1467〜1477年の応仁の乱で焼失しましたが、16世紀初めに再建され、2003年には解体修理が行われました。 堂々とした佇まいと鮮烈な色彩は、まさに清水寺の“玄関口”としてふさわしい存在感を放っています。

遠方からもよく見える清水寺の三重塔は、高さ約31メートルと国内最大級の規模を誇り、清水寺のシンボル的な存在となっています。 鮮やかな朱色の塔身が青空や山の緑に映え、境内に入る前からその姿が目に飛び込んでくるため、訪れる人々に強い印象を与えます。



本堂は江戸時代初期に建てられた国宝建造物で、「清水の舞台」として広く知られています。 前方左右には翼廊が張り出し、その間が板張りの大きな舞台となっています。 この舞台は断崖の上にせり出すように造られており、約12メートルもの長さを持つ欅の大木を束柱として組み合わせ、釘を使わずに支える独特の構造が特徴です。

また、坂上田村麻呂が長岡京の紫宸殿を賜り、それを本堂として移したという伝承も残されています。 長い歴史の中で何度も修理や再建が行われてきましたが、私が訪れた時期はちょうど改修工事が行われており、 覆いに包まれた本堂からは、千年以上続く寺院の営みを守り続ける人々の手仕事を感じました。

お馴染みの「今年の漢字」。2011年版

この時期に訪れたときは、冬入り直前のぎりぎり紅葉シーズンでした。 鮮やかな朱色というよりも、どこか深みを帯びた赤色が多く、 秋の終わりを静かに告げるような落ち着いた色合いに感じられました。
木々の葉はところどころ色を残しつつも、 冬の気配をまとった空気の中で、しっとりとした赤がより一層際立っていました。

紅葉やカエデの色合いが本当に美しく、 鮮やかな赤や橙だけでなく、ところどころに深みのある色が混ざり合い、 まるで絵画のような景色が広がっていました。
晩秋ならではの落ち着いた色づきが、 境内の静けさとよく調和していて、思わず足を止めて見入ってしまいました。

上から見下ろすモミジは、まるで赤いじゅうたんのように広がっていました。
木々の葉が折り重なるように散り敷き、深みのある赤色が一面を染め上げていて、
思わず息をのむほどの美しさでした。

こんだけ人が毎日乗っても大丈夫。イナバ物置



下から眺めると、モミジの枝ぶりが大きく広がり、思いのほか迫力があります。
頭上を覆うように重なり合う赤い葉が、まるで空を染め上げるようで、
見上げた瞬間にその存在感に圧倒されました。

清水寺から徒歩で南下し三十三間堂へ。
東山には見どころが多くあります。 中学生のときの修学旅行では「清水寺班」と「三十三間堂班」に分かれており、私は清水寺班だったため、三十三間堂を訪れるのは今回が初めてでした。
三十三間堂は、現在は妙法院が所有する天台宗の寺院です。 もともとは後白河上皇(1127年〜1192年)が、平清盛に資材提供を命じて造営した離宮・法住寺殿の一画に建てられたものです。 その後、桃山時代には豊臣秀吉による方広寺の造営に伴い、三十三間堂や後白河天皇法住寺陵もその境内に含まれるようになり、周囲の築地塀などが整備されました。

三十三間堂は、長さ約120メートルを誇る日本一長い木造建築として知られています。 堂内には千体を超える千手観音立像が整然と並び、その中央には国宝の本尊・千手観音坐像が安置されています。 千体の観音像がずらりと並ぶ光景は圧巻で、静けさの中に荘厳な気配が満ちていました。
撮影禁止なので画像はありませんが、大地震がきたら棒状の部分がぽろぽろ壊れそうなほど密集していました。

仏像画像は朝日デジタルのもの

三十三間堂の東隣には、後白河上皇が眠る法住寺があります。 法住寺は平安時代中期に藤原為光によって創建され、この寺を中心に形成された法住寺殿で、後白河法皇の院政が営まれました。

しかし、法住寺殿は木曾義仲によって焼き討ちに遭い、往時の姿は失われてしまいます。 その後、数年を経て後白河法皇が崩御すると、法住寺は法皇の御陵を守る寺として再興され、現在に至るまでその役割を担い続けています。
静かな境内に立つと、院政期の気配がどこかに残っているようで、 三十三間堂の賑わいとはまた異なる、深い歴史の余韻を感じました。


この付近には、大阪の陣のきっかけとなった方広寺や、幕末に新選組が一躍名を知られるきっかけとなった池田屋事件の池田屋跡など、歴史的な舞台となった場所が点在しています。
同じエリアの中で、戦国時代から江戸時代末期までの大きな出来事が折り重なるように残っており、歩いているだけで日本史の流れを体感できる場所でした。

池田屋事件の周辺は、現在ではごく普通の住宅街になっています。 かつての池田屋はその後人手に渡って廃業し、1960年ごろまでは当時の建物が残っていたものの、最終的には取り壊されました。 その跡地には、2009年に居酒屋チェーンのチムニーが「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を開業したそうです。
静かな街並みの中に立っていると、 ここで新選組が一躍名を上げたあの騒然とした夜が本当にあったのか、 ふと不思議な気持ちになります。 歴史の舞台が、今では日常の風景に溶け込んでいる―― そのギャップが、かえって時代の流れを強く感じさせてくれました。


方広寺は、豊臣秀吉が大仏を安置するために創建した寺院です。 鐘銘事件で広く知られていますが、豊臣時代から江戸時代中期にかけて、実に三代にわたって大仏が造立されました。 その高さは約19メートルに達したとされ、日本一の大仏として人々の信仰を集めていたと伝えられています。
しかし、1798年に落雷によって焼失し、その後は規模を縮小しながら再建されました。 さらに1973年には失火により再び焼失し、大仏は完全に姿を消してしまいました。 現在の方広寺には、かつての巨大な大仏を偲ばせる遺構が静かに残るのみで、 豊臣の栄華とその後の数奇な運命を物語っているようでした。



武士の戦では、戦功の証として敵の首を持ち帰ることが慣例でしたが、足軽など身分の低い兵は首の代わりに耳や鼻をそぎ落として証とすることがありました。 耳塚(鼻塚)は、そうした遺骸の供養のために築かれた塚です。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役では、首をそのまま持ち帰ることが難しかったことに加え、人身売買目的の誘拐(人取り)を抑制するためにも耳や鼻を集める方法が採られました。 耳や鼻の量が一定に達し戦功が認められた者には、人取りの許可が与えられたため、大規模に行われたとされています。 また、運搬中の腐敗を防ぐため、塩漬けや酒漬けにして持ち帰ったとも伝えられています。
