龍神の記憶と目覚め  旅行記録1:飛鳥時代の首都ー明日香村探訪記録 | 龍神の記憶と目覚め 

旅行記録1:飛鳥時代の首都ー明日香村探訪記録

明日香村について

明日香村は奈良県中央部の小さな盆地に位置し、6世紀末から8世紀初頭にかけて、日本の政治・文化・宗教の中心として栄えました。推古天皇・舒明天皇・皇極天皇・斉明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇と、数多くの天皇がこの地に宮を構え、国家の形を整えていきました。日本史の大きな転換点――仏教の受容、冠位十二階、十七条憲法、大化の改新、壬申の乱、律令国家の成立――そのほとんどが、この小さな盆地で起こったのです。

地形は東西を山に囲まれ、中央を飛鳥川がゆるやかに流れます。川沿いには古代の生活道が残り、飛び石を渡って宮廷へ向かった官人や、寺へ向かった僧、田畑へ向かった農民の足跡が今も感じられます。稲渕の棚田は古代から続く農耕文化の象徴で、宮廷に米を供給する重要な地域でした。山の斜面を巧みに利用した段々の田は、自然と共に生きるための古代人の知恵の結晶です。

明日香村の魅力の一つは、石造物文化です。亀石、猿石、鬼の雪隠・鬼の俎、酒船石など、用途が明確でない謎の石造物が点在し、飛鳥の石工集団の高度な技術と、古代人の信仰の深さを物語ります。これらは単なる造形物ではなく、祭祀や境界、呪術的意味を持つと考えられ、飛鳥の宗教観を知る上で欠かせない存在です。

また、明日香村は古墳文化の宝庫でもあります。蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳は日本最大級の横穴式石室古墳で、巨石が積み上げられた迫力は圧倒的です。高松塚古墳やキトラ古墳には極彩色の壁画が残り、唐文化の影響を受けた飛鳥の国際性を示しています。天武・持統天皇陵は八角形の独特な形を持ち、道教・陰陽道の思想が反映されています。

宗教面では、飛鳥寺をはじめとする寺院が建立され、仏教が国家の中心思想として根づきました。飛鳥寺の飛鳥大仏は日本最古の仏像であり、仏教受容の象徴です。一方で、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のように、山そのものを御神体とする古い神道の姿も残り、仏教と古来の自然信仰が共存していたことが分かります。

政治面では、蘇我氏の台頭と滅亡、大化の改新、壬申の乱など、国家の命運を左右する事件が相次ぎました。飛鳥板蓋宮跡は乙巳の変の舞台であり、ここから日本は中央集権国家へと大きく舵を切ります。天武・持統朝では律令国家の基礎が築かれ、藤原京の造営へとつながっていきました。

明日香村は、単なる歴史遺産の集積ではありません。田畑の静けさ、山の稜線、川の流れ、石の冷たさ――そのすべてが、古代の息づかいを今に伝えています。ここは、日本という国が形を成していく過程を最も濃密に体験できる場所であり、千年の記憶が風景の中にそっと息づく、特別な地なのです。

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明日香村へのアクセス

明日香村巡り

朝8時に飛鳥駅に到着。
駅前にレンタサイクルがあるので、ここで自転車を借り1日かけて明日香村を回ることにしました。

明日香村巡りをする場合、下のルートだと8時~17時までかかるので、時間に余裕がない方は北半分側のルートがお勧めです。

以下のサイトから観光マップが手にはいりますよ!

明日香村 観光マップ – 一般社団法人 飛鳥観光協会|奈良県明日香村の観光・宿泊情報

1.田園風景

この周辺一帯はかつて繁栄していたとは思えないほど、鄙びた場所で、のどかな田園風景が広がっています。


2.文武天皇陵
桧隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

文武天皇(42代 683–707)は、持統天皇の孫であり、天武系皇統の若き継承者として即位しました。彼が即位したのはわずか15歳のときで、政治の実権は母・阿閇皇女(元明天皇)や藤原不比等らが支えました。文武天皇の治世で最も重要なのは、701年に施行された大宝律令です。これは日本初の本格的な律令法典であり、中央集権国家としての枠組みを確立する大改革でした。律令国家の成立は、唐の制度を積極的に取り入れた飛鳥文化の成熟を象徴します。文武天皇は25歳という若さで崩御しますが、その短い生涯は日本史の転換点に深く刻まれています。陵は緑の丘に静かに佇み、若き天皇の儚さと、律令国家の黎明を見届けた地として、今も柔らかな光に包まれています。桧隈安古岡上陵が文武天皇陵と指定されていますが、中尾山古墳を真の文武天皇陵とする意見が有力とされています。

3.高松塚古墳

高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭に築かれた終末期古墳で、天武天皇の皇子クラスの人物が埋葬されたと考えられています。直径23m(下段)、および18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳で、最大の特徴は、石室内部に描かれた極彩色壁画で、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神、天文図、そして「飛鳥美人」と呼ばれる男女群像が描かれています。これらは唐の宮廷文化の影響を強く受けており、飛鳥が国際色豊かな都であったことを示す貴重な証拠です。壁画は死者を守る呪術的な意味を持ち、同時に死後の世界を美しく彩るための祈りでもありました。1972年の発見は日本の考古学史における大事件であり、飛鳥時代の美術・宗教観・国際交流を知る上で欠かせない遺構です。古墳周辺の静けさは、千年の色彩を抱えた地中の世界をそっと守っています。このような壁画古墳は、日本では高松塚古墳と明日香村南方にあるキトラ古墳だけです。


4.明日香村全貌

高松塚古墳から稲淵に向かうまでは急な山道で、自転車を降り歩きながら登っていきました。
道中はこれといって何もなく、頂上付近では明日香村全体を見渡すことができます。
飛鳥時代の中心となった日本の首都としては、考えられないほどとても狭い領域。

5.明日香村の棚田風景(稲渕の棚田)

急な山道を登り下りに入ると、眼下には棚田が扇状に広がって見えます。
ここの棚田は平安~室町期に開墾された稲渕の棚田という場所で、棚田百景のひとつに選ばれてます。
稲渕の棚田は、飛鳥時代から続く農耕文化の象徴であり、宮廷に米を供給する重要な地域でした。山の斜面を巧みに利用した段々の田は、古代人の知恵と技術の結晶で、水路の整備や土の積み上げなど、自然と共に生きるための工夫が随所に見られます。飛鳥時代の国家は、税制の基盤を「田」に置いており、稲渕のような農地は国家運営の根幹でした。棚田の形は千年以上変わらず、古代の農村の息づかいを今に伝えています。春の若草、夏の水鏡、秋の黄金、冬の静寂――四季ごとに表情を変える景観は、古代から続く人々の営みそのものです。ここに立つと、飛鳥の政治や文化を支えた「食」の歴史が、風景の中に静かに息づいていることを実感します。
特に、秋は彼岸花が一面に咲き、多くの観光客が訪れますが、この時期は閑散としていました。

田んぼがだんだん減って日本の心が失われていく感じがしますの。


6.案山子ロード

稲渕の案山子ロードは、現代の観光名所であると同時に、古代の農耕儀礼の名残を感じさせる場所です。案山子は単なる鳥よけではなく、古代には「田の神の依り代」としての役割を持ち、春に神を迎え、秋に山へ送り返すという信仰の象徴でした。稲渕ではその伝統が現代的に再解釈され、毎年テーマに沿った案山子が制作されます。ユーモラスなものから芸術的なものまで多様で、地域の創造力と温かさが感じられます。案山子たちが並ぶ風景は、古代から続く祈りと現代の遊び心が調和した独特の空間であり、訪れる者に素朴な感動を与えます。

7.稲渕の綱掛け神事(男綱)

稲渕の棚田から南方の栢森までは奥飛鳥と呼ばれる地域になります。
稲渕の入口の 勧請橋 (かんじょばし)の近くに、奇妙なものがぶら下がっているのを見る事ができます。
これは、稲藁で作った男性のシンボルで、「男綱」と呼ばれるものです。
男綱は、稲渕地区に伝わる古い神事で、陰陽思想に基づく「男」と「女」の象徴が村の境界に張られます。男綱は男性性、女綱は女性性を表し、両者が村を守る結界として機能します。これは古代の人々が自然界の力を「男女の調和」として捉えていた証であり、五穀豊穣を祈る祭祀の名残です。綱は地域の人々が協力して編み上げ、神々への祈りを込めて掲げられます。古代の祭祀がそのまま現代に息づく貴重な文化であり、飛鳥の精神文化を象徴する行事です。


8.飛鳥川 飛び石(石橋)

稲渕から 栢森まで飛鳥川に沿っていくと、飛び石(石橋)があります。
飛鳥川は古代から歌に詠まれ、万葉集には「飛鳥川 淵瀬常ならし」と無常を象徴する歌が残ります。川の流れは時代の移ろいを映し、飛び石は古代の生活道の名残として人々の往来を支えました。宮廷へ向かう官人、寺へ向かう僧、田畑へ向かう農民――多くの足跡がこの川を渡りました。飛鳥川は政治・宗教・生活の中心を結ぶ重要な動脈であり、川の音は今も飛鳥の歴史を静かに語り続けています。

明日香川 明日も渡らむ 石橋(いしばし)の
遠き心は 思ほえぬかも
作者不詳 万葉集 巻第11-2701

明日香川、あの川を明日にでも渡って逢いに行こう。その飛石のように、離れ離れの遠く隔てた気持などちらっとも抱いたことはないのです。

飛び石(石橋)

9. 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社
(あすかかわかみにますうすたきひめのみことじんじゃ)

稲渕地区と栢森地区の間くらいに、『飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社』という古社が鎮座します。
本殿はなく、拝殿後方の南淵山をご神体とする原始神道の神社 。
200段ほどの長い石段と、長い名前が特徴で、日本一名前の長い神社
日本書紀においては、642年の皇極天皇のときに「日本最初の雨乞いが行われた神社」として記録が残っています。
歴史的価値の割に、この当りは観光客どころか人の姿も見当たらない、ひっそりとした場所にあります。 主祭神は、古代宇佐国(福岡県北部)の多伎都比売命(たぎつひめのみこと)で、大国主神のお妃。 俗に宇佐宮と呼ばれていますが、神社の沿革は詳らかでありません。
自然そのものを神とする古代信仰の姿が色濃く残り、木々のざわめきは今も神々の声のように響きます。飛鳥の宗教観を知る上で極めて重要な場所です。

疲れていたので、石段の長さをみて諦めてしまった。


10. 栢森(かやのもり)の綱掛け神事 女綱

稲渕にあった男綱とは対照的に、栢森に差しかかる所にあるのは女綱。
形状は丸い玉のようで女性のシンボルを表しています。
面白いことに稲渕全体では、 神職が御祓いをする神式であるのに対し、 栢森は僧侶の法要の後に行う仏式で行います。

11.稲渕の街並み 竜福寺と竹野王碑

飛鳥川に沿って細長く民家が立ち並ぶ稲渕の集落。
飛鳥川に沿って細長く家々が連なる稲渕の集落は、明日香村の中でもとりわけ古い生活の気配が色濃く残る地域です。川のせせらぎを聞きながら歩くと、山裾に寄り添うように建つ民家や石垣が続き、古代から変わらぬ農村の営みが静かに息づいていることを感じます。棚田で知られる稲渕ですが、集落の中心部には歴史的にも重要な寺院や碑が点在し、飛鳥の政治史・宗教史を語る上で欠かせない場所となっています。

右方の石垣の上にあるのが竜福寺

集落の中ほどにある竜福寺(りゅうふくじ)は、素朴な佇まいながら深い歴史を秘めた寺院です。境内には「竹野王塔(たけのおうとう)」と呼ばれる石塔があり、これは日本最古の石塔とされる極めて貴重な遺構です。竹野王は舒明天皇の皇子で、天武天皇の時代に活躍した皇族と伝えられています。塔は小ぶりながら端正な形を保ち、飛鳥時代の石造技術の高さを今に伝えています。周囲の静けさの中で塔を眺めていると、千三百年以上前の皇族の祈りがそのまま石に宿っているような感覚に包まれます。

さらに集落の外れ、少し高台に登った場所には、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の墓があります。請安は飛鳥時代の思想家で、遣隋使として中国に渡り、儒教や政治制度を深く学んだ人物です。帰国後は飛鳥の知識人として知られ、のちに中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我氏討伐を志す際、彼らが思想的な指導を受けた人物として『日本書紀』にも記されています。乙巳の変へとつながる思想的背景には、請安が伝えた中国の政治理念が影響していたと考えられています。

竹野王碑
751年に造られた最古の石塔


12.棚田の風景

稲渕を抜け、北へ進む。
晴天と扇状地に広がる棚田。
このあたりをウォーキングする人をみかけます。

13.マラ石、フグリ山

石舞台古墳へ向かう道すがら、ふと視界に入る奇妙な石があります。近づいてよく見ると、そこには男性器が驚くほど写実的に彫り込まれており、その迫力と大きさに思わず息をのむほどです。この石は、飛鳥に点在する謎の石造物の一つで、一般に「マラ石」と呼ばれています。

現在は地面に横たわっていますが、かつては直立していたとも伝えられています。もし本来の姿が立ち上がった状態であったなら、その象徴性はさらに強く、古代の祭祀や信仰と深く結びついていた可能性が高いと考えられています。飛鳥には、性に関わる石造物がいくつか存在し、いずれも豊穣・子孫繁栄・生命力の象徴として扱われてきました。マラ石もその一つであり、農耕社会における「生殖=生命の再生」を祈る祭祀の痕跡と見る説があります。

マラ石

また、地元ではマラ石の向かい側、飛鳥川を挟んだ対岸の山を「フグリ山」と呼び、両者を一対の存在として捉えています。「フグリ」とは男性の陰嚢を意味する古語です。飛鳥の地名や伝承には、古代の性に対する素朴で力強い信仰が随所に残っており、マラ石とフグリ山の関係もその一端を示しています。

飛鳥の石造物は、用途が明確に分からないものが多く、マラ石も例外ではありません。しかし、飛鳥川を挟んで配置されたこの対の象徴は、単なる偶然ではなく、古代の人々が自然の地形と石を用いて「生命の力」を表現しようとした痕跡とも考えられます。

フグリ山

マラ石に座って休憩

14.都塚古墳

マラ石を過ぎてしばらく歩くと、木々が花笠のように円く植えられた小さな丘が姿を現します。これが都塚古墳(みやこづかこふん)です。外観は素朴で、訪れた当時は観光客も少なく、ひっそりと佇む印象でした。この時撮影したのは2010年頃で、当時は特に注目された古墳でもありませんでした。

しかし、この静かな丘が飛鳥の歴史を大きく揺るがす発見の舞台となるのは、2014年のことです。
都塚古墳は6世紀末に築かれたと考えられ、被葬者は蘇我稲目(そがのいなめ)と推定されています。稲目は蘇我氏の祖として知られ、仏教を積極的に受け入れた人物であり、後の蘇我馬子・蝦夷・入鹿へと続く巨大豪族の基盤を築いた重要人物です。飛鳥の政治史を語る上で欠かせない存在であり、その墓とされる都塚古墳は、蘇我氏の権勢を象徴する遺構といえます。

都塚古墳全貌

古墳前

2014年の調査で、都塚古墳は日本では他に例のない階段状ピラミッド構造を持つことが判明しました。これは、従来の古墳のイメージを覆す大発見でした。古墳は一辺約28メートル、高さ約4.7メートルの方墳で、段状に石を積み上げた構造は、朝鮮半島の高句麗の積石塚(つみいしづか)との類似が指摘されています。飛鳥時代は大陸文化の影響が強く、都塚古墳の構造もその交流の一端を示すものとして注目されています。

また、この古墳は古くから「金鳥塚(きんちょうづか)」とも呼ばれています。元旦になると金色の鶏が鳴くという伝説が残されており、古代の人々がこの地に特別な霊性を感じていたことがうかがえます。金鶏は瑞兆(めでたい兆し)を象徴する存在であり、蘇我氏の権威や祖霊信仰と結びついて語られた可能性もあります。


15.石舞台古墳

都塚古墳から緩やかな坂道を登っていくと、視界が開けた頂上付近に、巨大な石が積み上がった異様な光景が現れます。これが飛鳥を代表する遺跡、石舞台古墳です。初めて目にすると、古墳というより巨大な石の舞台装置のように見えますが、実際には7世紀初頭に築かれた古墳時代終末期の横穴式石室です。その規模は日本最大級で、天井石だけでも約70トン、総重量は2,300トンを超えると推定され、古代の石工技術の高さを物語っています。

現在は石室がむき出しになっていますが、もともとは一辺約50メートルの方墳で、周囲には幅8.4メートルの濠が巡らされていました。つまり、かつては巨大な土の墳丘が石室全体を覆い、現在の姿は「内部構造だけが露出した状態」なのです。なぜこのような姿になったのかは明確ではありませんが、後世に盛土が失われたためとされ、自然崩壊説・盗掘説・意図的な除去説などが語られています。

石室部分

被葬者は確定していませんが、古墳の規模や位置、そして近くに蘇我氏の庭園跡(島庄遺跡)があることから、蘇我馬子(そがのうまこ)の墓と考えられています。馬子は推古天皇を支え、聖徳太子とともに仏教国家の基礎を築いた飛鳥時代最大の権力者です。彼の政治力は絶大で、飛鳥の寺院建立や仏教政策の中心に立ち、後の蘇我氏繁栄の礎を築きました。

石室がむき出しになっている理由については、古くから「馬子の横暴な政治に反発した後世の人々が、盛土を取り除いた」という伝承が残されています。もちろん史実として確証はありませんが、蘇我氏が後に乙巳の変で滅ぼされることを思えば、こうした伝承が生まれた背景には、蘇我氏への複雑な感情があったのかもしれません。

石室内

周囲には幅8.4mの濠がめぐる。

16.岡寺前鳥居

石舞台古墳から坂道を下っていくと、やがて明日香村の集落が広がり、その入口に静かに佇む鳥居が見えてきます。ここから先は、飛鳥の山裾に抱かれた古刹岡寺(おかでら)へと続く参道です。周囲には古い家並みが残り、山から吹き下ろす風がどこか清らかで、寺へ向かう道としての厳かな雰囲気を自然と感じさせます。

岡寺は今から約1300年前、天智天皇の勅願によって建立されたと伝えられています。開基は義淵僧正(ぎえんそうじょう)。義淵は日本で初めて「僧正」の位に就いた高僧で、飛鳥から奈良時代にかけての仏教界を牽引した中心人物です。彼の門下には、のちに東大寺を開いた良弁(ろうべん)、民衆教化に尽力した**行基(ぎょうき)**など、奈良仏教を代表する名僧たちが名を連ねています。岡寺は、まさに日本仏教の源流を形づくった学僧たちの学び舎であり、思想の発信地でもありました。

寺の正式名称は龍蓋寺(りゅうがいじ)といいます。寺伝によれば、かつてこの地に棲みついて人々を苦しめていた龍を、義淵が法力によって封じ込め、その上に蓋をしたことから「龍蓋寺」と名付けられたとされます。山寺らしい神秘性を帯びた伝承であり、古代の人々がこの地に抱いていた畏れと信仰の深さを感じさせます。

岡寺への入口になぜか今時寺であるのに珍しく鳥居があります。
しかし、これも神仏習合時代の名残で、江戸時代以前はこんなのが一般的だったんです。

一方で、古来よりこの寺は「飛鳥の岡にある寺」と呼ばれてきました。地名と結びついた呼び名が長く親しまれた結果、いつしか正式名よりも「岡寺」の名が広く定着したといわれています。寺名の変遷そのものが、地域の人々の生活と信仰が密接に結びついていたことを物語っています。

岡寺は日本最初の「厄除け寺」としても知られ、現在も多くの参拝者が訪れます。鳥居の前に立つと、飛鳥の山々に抱かれた静かな空気の中に、1300年の祈りが今も息づいていることを感じることができます。

山の上にあるのが岡寺。由来の通り岡の上にあり遠いのでこのときは諦めました。


17.酒船石遺跡

岡寺の鳥居を抜け、集落の家並みが途切れると、再び山道が始まります。木々が生い茂る細い道を進むと、やがて視界が開け、花崗岩を削り出した奇妙な石造物が姿を現します。これが飛鳥を代表する謎の遺構、酒船石(さかふねいし)です。

飛鳥には亀石・猿石・マラ石など、用途不明の石造物が数多く残されており、昭和の頃には「飛鳥のミステリー」として雑誌や書籍でしばしば取り上げられました。その中でも酒船石は特に特徴的で、上面には大小のくぼみが複数彫られ、それらを結ぶように複雑な溝が走っています。人工的に加工されたことは明らかですが、何のために作られたのかは今も決定的な説がありません。

名前の由来となった「酒を造るための道具」という説は、くぼみと溝の形状から連想されたものですが、実際に酒造工程に適しているかは不明です。他にも「薬草をすり潰すための設備」「呪術や占いに使われた祭祀具」「水を流して何かを精製する装置」など、さまざまな説が提案されてきました。いずれも決定打に欠け、酒船石は今なお飛鳥最大級の謎を秘めた石造物といえます。

近年の研究では、酒船石の近くにある「亀形石造物」や「小判形石造物」との関連が注目され、これらが一体となって水を使った祭祀施設を構成していた可能性も指摘されています。飛鳥時代は仏教と古来の自然信仰が混在していた時代であり、水や石を用いた儀礼が行われていたことは十分に考えられます。

山道を抜けた先に突然現れる酒船石は、自然の中に溶け込みながらも、どこか異質な存在感を放っています。飛鳥の石造文化の奥深さ、そして古代人の思想や技術の痕跡が静かに刻まれたこの石は、訪れる者に「飛鳥の謎」を象徴する不思議な魅力を感じさせてくれます。

18.山道

山道を歩く歩く

19.大原の里 大原神社 ~藤原鎌足の誕生地~

岡寺から続く山道を下っていくと、やがて視界が開け、静かな農村風景が広がる「大原の里」にたどり着きます。棚田と山々に囲まれたこの一帯は、飛鳥の中心地から少し離れた場所にありながら、古代の生活の気配が色濃く残る地域です。山裾に寄り添うように家々が並び、どこか素朴で温かな空気が漂っています。

この地に鎮座する大原神社は、飛鳥時代の大改革「大化の改新」を主導した人物、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の誕生地として知られています。鎌足は中臣氏の出身で、のちに天智天皇から「藤原」の姓を賜り、藤原氏の祖となりました。藤原氏はその後、平安時代を通じて摂関政治を担う巨大貴族へと成長し、日本史の中枢を担う家系となります。その源流が、この静かな大原の里にあるのです。

境内には、鎌足が生まれた際に産湯に使われたと伝わる井戸跡が残されています。現在は井戸そのものは失われ、祠のみがひっそりと佇んでいますが、かつてこの場所で新たな命が誕生し、後に日本の政治史を大きく動かす人物へと成長したことを思うと、静かな祠にも深い歴史の重みが感じられます。

鎌足は青年期に南淵請安のもとで学び、のちに中大兄皇子(天智天皇)と出会い、蘇我氏打倒を決意します。乙巳の変(645年)で蘇我入鹿を討ち、大化の改新を推し進めたその原点が、この大原の里にあると考えると、飛鳥の山里が持つ歴史的意義は非常に大きいといえます。

大原の里は、観光地として派手さはありませんが、飛鳥の政治史・文化史の根幹に関わる人物の出生地として、静かに深い存在感を放っています。山風が吹き抜けるたび、古代の記憶がそっと呼び起こされるような、そんな不思議な魅力を持つ場所です。


20.大原の里 大伴夫人の墓

大原神社の前を通る細い道を進み、雑木林の奥へと入っていくと、静かに佇む小さな墓所が現れます。ここが、藤原鎌足の母である大伴夫人(おおとものぶにん)・智仙娘(ちせんのいらつめ)の墓と伝えられる場所です。周囲は木々が生い茂り、鳥の声と風の音だけが響く静寂の空間で、飛鳥の中心地から少し離れたこの里に、鎌足の原点がひっそりと残されています。

大伴夫人は大伴氏の出身とされ、大伴氏は古代日本の軍事・外交を担った名門氏族です。鎌足が後に中大兄皇子とともに蘇我氏を討ち、大化の改新を成し遂げる思想的基盤には、こうした名族の血筋と教養が影響していたとも考えられます。大原の里に残るこの墓は、藤原氏の源流を語る上で欠かせない場所といえるでしょう。

また、大原の里は万葉集にもたびたび詠まれた風情ある地として知られています。志貴皇子が詠んだ次の歌は特に有名です。

大原の この市柴の いつしかと
わが思ふ妹に 今夜逢へるかも
   =巻4-513 志貴皇子=
大原の茂った雑木林の中でいつ逢えるかと思っていたが今夜やっと逢えたよ。

21.飛鳥寺修徳坊

ここは、ただの研修会館・・。

22.飛鳥巫神社(あすかにいますじんじゃ)

飛鳥の集落の中にひっそりと佇む飛鳥巫神社(あすかにいますじんじゃ)は、創建の由緒こそ明確ではないものの、『日本書紀』にもその名が記されるほど古い歴史を持つ神社です。社名の「巫(います)」は「神がいます場所」を意味し、古代から神霊が宿る聖地として崇められてきたことを示しています。

伝承によれば、この地は天照大神を初めて宮中の外で祀った場所ともいわれています。天照大神は皇室の祖神であり、伊勢神宮に祀られる以前、各地を遷座したとする伝承が残っていますが、その候補地の一つがこの飛鳥巫神社です。飛鳥が政治・宗教の中心であった時代を考えると、この伝承は決して荒唐無稽ではなく、古代の祭祀の痕跡を今に伝える貴重な要素といえます。

入口

境内には小さな社がいくつも並び、素朴ながらも古代の神祀りの雰囲気を色濃く残しています。その一角には、男性と女性の象徴をかたどった陰陽石(いんようせき)が置かれており、古くから子授け・安産の神として信仰を集めてきました。飛鳥にはマラ石・フグリ山など性に関わる石造物が多く、生命力や豊穣を祈る古代の性信仰が今も息づいていることがわかります。

本殿

力石
男性は左手で、女性は右手で持ち上げる
と幸福がつかめる

陰陽石

特に有名なのが、毎年2月に行われる御田(おんだ)祭です。夫婦和合を象徴的に表現する儀式が行われ、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願するこの祭りは、飛鳥地方でも屈指の「奇祭」として知られています。普段は静かな境内も、この日ばかりは多くの参拝者や観光客で賑わい、古代から続く民俗信仰の力強さを感じさせます。

飛鳥巫神社は、華やかな大寺院や巨大古墳とは異なり、素朴で小さな社にすぎません。しかし、そこには飛鳥の宗教文化の根底にある「自然への畏れ」「生命への祈り」「神と人の近さ」が凝縮されています。飛鳥の歴史を歩く中で、この神社は古代人の心に最も近づける場所の一つといえるでしょう。

23.飛鳥資料館前

飛鳥資料館前で食事中。
ここまでくるのに14時をまわっていました。
遠くに見える山は畝傍山。

奈良といえば柿の葉寿司が名産!

24.雷丘(いかずちのおか)

明日香村の田園地帯を歩いていると、交差点のそばにぽつんと盛り上がった小高い丘が目に入ります。周囲の平坦な田んぼの中で、この丘だけがこんもりと盛り上がっており、どこか特別な存在感を放っています。これが雷丘(いかづちのおか)です。

雷丘の名は、『日本書紀』に記された雄略天皇の家臣が、ここに落ちてきた雷神を捕らえたという伝承に由来します。雷神を捕らえるという大胆な物語は、古代の人々が雷を「神の顕現」として畏れ敬っていたことをよく示しています。雷は天と地をつなぐ力を象徴し、豊穣をもたらす雨の前触れでもあるため、雷神信仰は農耕社会において重要な意味を持っていました。

この丘からは埴輪の破片などが出土しており、雄略天皇の時代に活躍した豪族の古墳であった可能性が指摘されています。また、地形的特徴から宮殿跡であった可能性も考えられており、単なる伝承の地にとどまらず、飛鳥の政治史に関わる重要な遺構である可能性が高まっています。

さらに雷丘は、万葉集の舞台としても知られています。持統天皇がこの地を遊行した際、歌人・柿本人麻呂が詠んだとされる有名な歌が残されています。

大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも (万葉集)

( 大君は神でいらっしゃるので、天雲の中にいる雷の上に
仮の宮をお造りになっていらっしゃることだ )

雷丘

現在の雷丘は、田園風景の中に静かに佇む小さな丘にすぎません。しかし、そこには日本書紀の神話・万葉集の詩情・古墳時代の遺構が重層的に重なり合い、飛鳥の歴史の奥深さを象徴する場所となっています。風が吹き抜けるたび、古代の物語がそっと蘇るような、不思議な魅力を持つ丘です。

登ってみても特に何もない

25. 甘樫丘 (あまかしのおか)

明日香村のほぼ中央に位置する甘樫丘(標高148m)は、飛鳥の歴史を語る上で欠かせない象徴的な場所です。周囲は田園風景が広がり、丘の麓には古代の集落跡が点在していますが、ひときわ存在感を放つこの丘は、飛鳥時代の政治の中心を見渡す「権力の丘」として伝えられてきました。

『日本書紀』には、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子が、この丘に壮大な邸宅を構えたと記されています。蘇我氏は6〜7世紀にかけて絶大な権力を誇った豪族で、仏教の受容を推進し、政治の実権を握った一族です。甘樫丘に邸宅を築いたという伝承は、彼らが飛鳥の政治・宗教・文化の中心を見下ろす位置に居を構え、権勢を誇示していたことを象徴的に示しています。

丘の上に立つと、明日香村の集落が一望できます。飛鳥寺、石舞台古墳、岡寺、稲渕の棚田など、飛鳥の主要な史跡が視界に収まり、古代の都の姿を想像するには最適の場所です。さらに遠くには、大和三山(畝傍山・耳成山・天香久山)が美しい三角形を描き、古代の歌人たちが愛した大和の風景がそのまま広がっています。

大和三山は『万葉集』にも数多く詠まれ、古代人にとって特別な意味を持つ山々でした。甘樫丘からの眺望は、まさにその万葉の世界を体感できる場所であり、飛鳥の地形と歴史が一体となった稀有な景観といえます。

畝傍山

耳成山

香久山

明日香村の集落

また、甘樫丘は乙巳の変(645年)の舞台とも深く関わります。蘇我入鹿が滅ぼされた後、蘇我氏の邸宅は焼き払われ、飛鳥の政治は大きく転換していきました。丘の静けさの中には、かつての権力の栄枯盛衰が刻まれているように感じられます。
現在の甘樫丘は整備された公園となっており、展望台からは飛鳥の歴史的景観が一望できます。春は桜、夏は深緑、秋は紅葉、冬は澄んだ空気と、四季折々の美しさを楽しめる場所でもあります。飛鳥を訪れるなら、必ず立ち寄りたい「古代の視点」を体験できる名所です。

26.飛鳥水落遺跡

飛鳥寺の北側、甘樫丘の麓に位置する飛鳥水落遺跡は、日本で初めて本格的な水時計(漏刻)が設置された場所として知られています。ここは、天智天皇がまだ皇太子であった時代に造られたと『日本書紀』に記されており、日本の「時を測る文化」の原点ともいえる重要な遺跡です。

水落遺跡には、石組みで造られた水槽跡が残っており、これが水時計の基礎部分と考えられています。

構造は二層式で、

一階部分には水時計(漏刻)

・二階部分には時刻を告げる鐘や、天文観測のための装置
が置かれていたと推定されています。

水時計は、水が一定の速度で落ちる性質を利用して時間を測る仕組みで、中国や朝鮮半島ではすでに用いられていました。天智天皇はこうした最新技術を積極的に取り入れ、国家の制度整備に役立てようとしました。飛鳥水落遺跡は、まさにその象徴といえる場所です。

『日本書紀』には、
天智10年4月25日(グレゴリオ暦で6月10日)に漏刻を造った
と明記されています。この記録にちなみ、現在の日本では6月10日が「時の記念日」とされています。
日本で「時間を公的に管理する」という概念が生まれた日ともいえるでしょう。

当時の漏刻は、都中に時刻を知らせるために鐘を打ち鳴らし、役人や庶民に時間を伝えました。これは律令国家の形成において極めて重要な意味を持ちます。時間の統一は、政治・行政・儀式・軍事など、国家運営の基盤となる要素だったからです。

時刻の管理も、こんな古くからあったんだ・・
と驚きを隠せない。

現在の遺跡は整備され、石組みの水槽や周囲の地形がわかりやすく公開されています。静かな田園風景の中に残るこの遺構は、飛鳥時代の技術革新と国家形成の息吹を今に伝えており、訪れる者に「日本の時間の始まり」を感じさせてくれます。

27.飛鳥寺

飛鳥寺に到着したのは16時あたり。だいぶ日が落ちてきた。

飛鳥寺は、推古天皇の時代である596年、蘇我馬子によって創建された日本最初の本格的な仏教寺院です。創建当初の寺名は法興寺(ほうこうじ)で、のちに奈良へ移転した元興寺(がんごうじ)の前身にあたります。飛鳥寺は、仏教が国家的に受け入れられた最初期の象徴であり、日本仏教史の出発点ともいえる存在です。

創建時の伽藍は、三つの金堂が中央の塔を囲むという壮大な配置で、当時としては画期的な大寺院でした。これは大陸の最新寺院様式を取り入れたもので、蘇我氏が仏教を国家の中心に据えようとした強い意志が伺えます。

しかし、鎌倉時代に伽藍の大半が焼失し、現在の本堂は江戸時代に再建されたものです。往時の壮麗さは失われたものの、境内には古代の礎石や遺構が残り、飛鳥時代の面影を今に伝えています。

飛鳥寺は、単なる古寺ではなく、

・日本仏教の始まり
・蘇我氏の政治的象徴
・飛鳥文化の中心
という三つの側面を併せ持つ特別な場所です。
静かな境内に立つと、飛鳥の黎明期に仏教がどのように受け入れられ、どのように広がっていったのか、その息遣いが今も感じられます。

飛鳥寺前

鐘楼

本堂

本堂に安置されている銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は、一般に「飛鳥大仏」として親しまれています。推古天皇の時代に止利仏師(鞍作止利)が造ったとされ、日本最古の仏像として名高い存在です。長い年月の中で火災に遭い、部分的に補修されていますが、飛鳥時代の仏像の特徴であるアルカイックスマイルや細身の体躯が今もはっきりと残っています。

飛鳥大仏

寺の西側には、蘇我入鹿の首塚と伝わる五輪塔がひっそりと残されています。乙巳の変(645年)で蘇我氏が滅亡した後、入鹿の首がこの地に葬られたという伝承があり、飛鳥寺は蘇我氏の栄華と滅亡の舞台としても深い歴史を刻んでいます。

蘇我入鹿の首塚

28. 飛鳥板蓋宮跡(あすかのいたぶきのみや)

飛鳥寺から南へ歩くと、静かな田園の中に広がる一角が見えてきます。ここが飛鳥板蓋宮跡です。現在は礎石や地形が整備され、往時の宮殿の規模を想像できるようになっていますが、この場所こそが日本史の大転換点「大化の改新」が始まった舞台でした。

板蓋宮は、舒明天皇が崩御した後、皇極天皇が蘇我蝦夷に命じて造らせた宮殿です。皇極天皇は舒明天皇の皇后であり、夫の死後に即位して政務を執りました。643年、皇極天皇はこの板蓋宮に移り住み、ここを政治の中心としました。

しかし、そのわずか2年後の645年、この宮殿で歴史的事件が起こります。
蘇我蝦夷の子である蘇我入鹿(いるか)が、皇極天皇の御前で中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足によって暗殺されたのです。これが有名な乙巳の変(いっしのへん)であり、ここから大化の改新が始まります。

この事件により、蘇我氏の長年の専横は終わりを迎え、皇極天皇は責任を取る形で退位。皇位は弟の孝徳天皇へと譲られました。
これが日本で最初の「譲位」とされ、皇位継承の歴史においても重要な転換点となりました。

孝徳天皇は政治改革を進めるため、都を飛鳥から離れた難波宮(なにわのみや)へ移しました。難波は外交の玄関口であり、中央集権国家を目指す孝徳天皇にとって理想的な場所だったのです。

その後、654年に孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇が再び即位し、今度は斉明天皇となります。斉明天皇は再び板蓋宮を使用しましたが、即位したその年に宮殿が火災に遭い、やむなく近くの川原宮(かわらのみや)へ遷りました。

板蓋宮跡は、
・舒明・皇極・孝徳・斉明と続く天皇の居所
・蘇我氏の最期の舞台
・大化の改新の発火点
という、飛鳥時代の政治史が凝縮された場所です。

現在の遺跡は静かで穏やかですが、その地面の下には、古代日本の政治が大きく揺れ動いた激動の記憶が眠っています。

29.橘寺

飛鳥の南部に位置する橘寺(たちばなでら)は、創建年代こそ明確ではありませんが、聖徳太子誕生の地として古くから伝えられてきた寺院です。太子が建立したとされる「太子建立七大寺」の一つにも数えられ、飛鳥時代の宗教文化を語る上で欠かせない存在です。

文献に初めて登場するのは680年(天武天皇9年)で、すでに寺としての体裁を整えていたことがわかります。8世紀には伽藍が大きく整備され、66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院へと発展しました。その伽藍配置は、四天王寺と同じく四天王寺式伽藍配置を採用しており、中央に金堂、南に中門、北に講堂を置く整然とした構造でした。これは大陸の最新寺院様式を取り入れたもので、橘寺が当時の国家的寺院として重要視されていたことを示しています。

しかし、長い歴史の中で多くの堂宇が失われ、現在残るのは江戸時代に再建された本堂(太子殿)や講堂など、わずかな建物のみとなっています。それでも境内には、太子伝説を伝える数々の遺物が残され、訪れる者に古代の面影を感じさせます。

全景

東門

特に有名なのが、

二面石(にめんせき)
三光石(さんこうせき)
阿字池(あじいけ)

といった太子ゆかりの石造物です。

二面石は、善と悪の二つの顔が刻まれた不思議な石像で、人の心に宿る二面性を象徴するといわれています。飛鳥の石造文化の中でも特に象徴的な存在で、太子の教えを象徴するものとして信仰されてきました。

三光石は、太陽・月・星の三つの光を表すとされる石で、天体信仰と仏教思想が融合した飛鳥らしい遺物です。

阿字池は、密教の根本字「阿(あ)」を象徴する池で、太子がここで修行したという伝承も残っています。

橘寺は、聖徳太子の生涯と思想を伝える寺院であると同時に、飛鳥の宗教文化が凝縮された場所でもあります。静かな境内に立つと、太子が生きた時代の息遣いがふと蘇るような、不思議な清らかさが漂っています。

二面石
ここにも不思議な石造物がある。
右が善面、左が悪面といい、人の心の善悪二相を現しているとされる。

三光石
太子が勝鬘経(しょうまんきょう)を3日間にわたり講讃した時、
太子の冠から日月星の光が輝いたと伝える石。

境内

阿字池
「阿」は梵字の第一音で、アルファベットのAに相当する文字。はじまりを意味する。
太子が「阿」を形取りつくったと伝わる池。
このとき、水がなかった・・。

境内

本堂
1864年建てられたもの

30.川原寺跡

橘寺の正面に広がる一帯が、かつての川原寺(かわらでら)の跡です。現在は礎石や地形が整備され、往時の伽藍の規模を想像できるようになっていますが、この場所はもともと寺院として造られたわけではありません。飛鳥時代の政治と宗教が重なり合う、非常に特異な歴史を持つ場所です。

川原寺の地は、斉明天皇が板蓋宮で即位した655年の冬に火災が起きた際、急遽宮を置いた場所でした。板蓋宮は大化の改新の舞台となった重要な宮殿でしたが、火災により使用不能となり、斉明天皇はこの地に仮の宮殿を構えたと考えられています。

しかし、翌656年には新たに岡本宮が建てられ、天皇はそちらへ遷りました。つまり、この地はあくまで一時的な仮宮であり、政治の中心として使われた期間はごく短かったと推定されています。

斉明天皇の崩御後、この地には寺院が建立され、川原寺として整備されていきます。寺院としての川原寺は、飛鳥の大寺院の一つとして発展し、奈良時代には国家的な寺院として重要な位置を占めました。

川原寺

平安時代に入ると、嵯峨天皇が空海に寺を与えたと伝えられ、川原寺は真言宗の寺院として再編されます。空海の影響を受けたことで、密教的な儀礼や伽藍構造が取り入れられ、寺院としての性格が大きく変化していきました。

周辺地図

31.亀石

飛鳥の集落の中を歩いていると、民家と民家のあいだに突然現れる不思議な石があります。見逃してしまいそうなほど控えめな場所に置かれていますが、その存在感は圧倒的です。これが飛鳥の代表的な石造物の一つ、**亀石(かめいし)**です。

この石がいつ、何のために造られたのかは明らかではありません。飛鳥には用途不明の石造物が多く、酒船石・猿石・マラ石などと並んで、亀石も古代の謎を象徴する存在です。

方向は南西を向いている。
亀ではなく蛙ではないかとも考えられている

その中で有力な説のひとつが、
川原寺の四至(しし)=寺領の境界を示す標石だったのではないか
というものです。寺院の境界を示すために特徴的な石を置く例は他にもあり、亀石の位置関係から見ても一定の説得力があります。

しかし、亀石を語るうえで欠かせないのが、古くから伝わる湖の伝説です。

湖伝説

伝承によれば、かつて大和一帯は大きな湖で、その湖をめぐって川原(かわら)と当麻(たいま)の間で争いが起こったといいます。長い争いの末、湖は当麻側に奪われてしまい、川原の地は干上がってしまいました。

その結果、湖に棲んでいた多くの亀が干上がって死んでしまい、
亀たちの霊を慰めるためにこの亀石が造られた
と伝えられています。

さらに伝説は続きます。

亀石が当麻の方向(西)を向いたとき、大和は再び湖になる

現在の亀石は西を向いていませんが、もし向きを変える日が来れば、大和の地は再び水に沈む――そんな不思議な予言めいた言い伝えが残されています。

レンタサイクルの返却時間まで時間がない・・。

32.天武・持統天皇陵(野口王墓)

明日香村の田園地帯の中に、こんもりと盛り上がった小高い丘があります。周囲を田んぼに囲まれた静かな場所ですが、この丘こそが天武天皇と持統天皇の合葬陵、通称「野口王墓(のぐちおうのはか)」です。飛鳥の中でも特に格式の高い陵墓であり、日本の国家形成に深く関わった二人の天皇が共に眠っています。

陵墓は、持統天皇が遷都した藤原京の中心軸の南に位置しており、都の設計思想と密接に結びついた場所に築かれています。藤原京は日本初の本格的な条坊制の都であり、その中心軸に沿って天皇陵を配置するという発想は、中国王朝の都城計画を取り入れたものです。天武・持統政権が目指した「天皇中心の国家」の象徴といえるでしょう。

古墳内部は二室構造で、それぞれが墓室となっています。
天武天皇と持統天皇が並んで葬られたと考えられ、夫婦合葬陵としては日本史上でも特に重要な例です。

しかし、1200年頃に盗掘に遭ったという記録が残っており、内部は荒らされてしまったと伝えられています。
それでも陵墓の外形はよく保たれ、現在も宮内庁によって厳重に管理されています。

33.鬼の雪隠、鬼の俎

飛鳥の南部、風の森と呼ばれる地域の遊歩道沿いに、奇妙な石造物が二つ点在しています。
ひとつは「鬼の雪隠(せっちん)」、もうひとつは「鬼の俎(まないた)」。
どちらも花崗岩をくり抜いて作られた巨大な石で、遊歩道を挟んで数十メートル離れた場所に置かれています。

これらは本来、古墳に用いられた**横口式石槨(せっかく)**の部材で、

鬼の雪隠 → 蓋石(ふたいし)

鬼の俎 → 底石(そこいし)
にあたると考えられています。
つまり、もともとは一つの石槨を構成していた石材が、後世に分かれて残ったものなのです。

しかし、飛鳥の人々はこの奇妙な形の石に、もっと物語性のある意味を与えました。
ここから生まれたのが、鬼の伝説です。

鬼の雪隠

風の森に棲む鬼の物語

この地域は古くから「風の森」と呼ばれ、風が強く吹き抜ける土地柄でした。
その荒々しい自然の中に、鬼が棲んでいたという言い伝えがあります。

鬼は通行人をだまして捕らえ、

俎(まないた)」で調理し、

雪隠(せっちん)」で用を足した、

と語られています。

もちろんこれは後世の民間伝承ですが、
巨大な石の形状がどこか“道具”のように見えること、
そして飛鳥の石造物がしばしば妖怪や霊と結びつけられてきたことが、
この物語を生んだ背景にあるのでしょう。

飛鳥の石造物は、用途不明であるがゆえに、
人々の想像力を刺激し、
自然と伝説が生まれていくという特徴があります。
鬼の雪隠・鬼の俎もその典型例といえます。

鬼の俎

34.吉備姫王の墓・欽明天皇陵

欽明天皇陵

欽明天皇陵は、飛鳥の静かな田園地帯に佇む古墳で、第29代・欽明天皇(在位539〜571)の陵墓とされています。欽明天皇は、百済から正式に仏教が伝来した天皇として知られ、日本宗教史の大きな転換点を担った人物です。

欽明天皇の在位期間は非常に長く、
昭和天皇・明治天皇に次ぐ長さを誇ります。
その長い治世の間に、政治構造・宗教・氏族勢力のバランスが大きく変化していきました。

欽明天皇の妃となった堅塩媛(きたしひめ)は、蘇我稲目の娘であり、蘇我馬子の姉にあたります。
彼女が皇后となったことで、蘇我氏は宮廷内で強い影響力を持つようになり、
蘇我氏の政治的台頭の大きな契機となりました。

堅塩媛は、

推古天皇(日本初の女性天皇)

用明天皇(聖徳太子の父)

など、後の飛鳥政治を担う重要人物を次々と生んでいます。
欽明天皇陵は、こうした飛鳥王権の系譜が始まる地点としても象徴的です。

欽明天皇陵は、周囲を田畑に囲まれた穏やかな場所にあります。
しかしその静けさの下には、

仏教伝来という歴史的大事件

氏族対立の激化

蘇我氏台頭の始まり

推古・用明・聖徳太子へ続く系譜の形成

といった、飛鳥時代の幕開けを象徴する出来事が眠っています。

吉備姫王の墓と猿石

欽明天皇陵のすぐ近くに、ひっそりと佇む小さな陵墓があります。これが吉備姫王(きびひめのおおきみ)の墓とされる場所です。周囲は田園に囲まれ、飛鳥らしい静けさが漂う一角ですが、この陵墓には飛鳥王権の重要な血脈が眠っています。

吉備姫王は、

欽明天皇の孫

・皇極天皇(のちの斉明天皇)の母

・天智天皇・天武天皇の祖母

にあたる人物です。
つまり、飛鳥時代の中心を担った天皇たちの母系の源流に位置する女性であり、飛鳥王権の系譜を語る上で欠かせない存在です。

吉備姫王の墓

吉備姫王の墓の内部には、猿石(さるいし)と呼ばれる不思議な石像が数体置かれています。これらはもともと陵墓の一部ではなく、1702年に近くの水田から掘り出されたものです。

猿石は、
人のような
動物のような
どこかユーモラスでありながら神秘的な

独特の表情を持つ石像で、飛鳥の石造文化を象徴する存在のひとつです。

猿石の用途は明確ではありませんが、

古墳の副葬品
境界を示す石
祭祀に用いられた石像
など、さまざまな説があります。

吉備姫王の墓に安置されているのは、後世に保護のため移されたもので、飛鳥の石造物がどれほど大切に扱われてきたかを示しています。

猿石

奈良の代表的な郷土料理

1. 柿の葉寿司(かきのはずし)
奈良といえばこれ。 塩サバやサケを酢飯にのせ、柿の葉で包んだ押し寿司。 保存食として発達したため、味がしっかりしていて旅のお供にも最適。 2. 三輪そうめん
日本最古の素麺の産地・三輪の名物。 細いのにコシが強く、喉ごしが抜群。 冬は「にゅうめん」として温かく食べるのも奈良流。
3. 奈良の茶粥(大和の茶がゆ)
奈良の家庭料理の代表格。 ほうじ茶で炊いた薄味のお粥で、香ばしくて軽い食べ心地。 旅の疲れがすっと抜けるような優しい味。 4. 奈良漬(ならづけ)
瓜やきゅうりを酒粕で漬けた奈良の伝統漬物。 甘みとコクが強く、好きな人にはたまらない深い味わい。
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愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
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