龍神の記憶と目覚め  日本神話-⑫11代垂仁天皇 ― 大和の国が形を整えた御代 | 龍神の記憶と目覚め 

日本神話-⑫11代垂仁天皇 ― 大和の国が形を整えた御代

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創作物語風版

第11代天皇である垂仁(すいにん)天皇の時代を物語にしています。
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

第一章 玉垣宮の朝風 ― 若き天皇と十六の御子

蛇神大物主神より授かりし神秘の恩恵
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磯城(しき)玉垣宮(たまがきのみや) は、朝になると白い霧がゆっくりとほどけ、玉垣の木々が淡い光を受けて輝き始めます。
その静けさの中で、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) は、深い思索に沈むことが多くありました。

天下を治めるという重責は、若き天皇の肩に常にのしかかっていましたが、
その胸の奥には、国をより良くしたいという強い願いが燃えていました。

皇后として迎えた 佐波遅比売命(さはぢひめのみこと) は、穏やかで聡明な女性でした。
彼女が産んだ皇子・品牟都和気命(ほむつわけのみこと) は、天皇にとって初めての子であり、抱いたときの温もりは今も忘れられません。

その後、丹波(たんば) の王家から姫たちを迎え、宮には次々と皇子皇女が誕生しました。
十六柱――皇子十三人、皇女三人。
天皇はその一人ひとりの名を呼ぶたび、胸の奥に温かな灯がともるのを感じておられました。

中でも、大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと) は幼い頃から聡明で、
天皇は彼に未来の光を見ておられました。

第二章 皇子たちの旅立ち ― 国を形づくる若き力

皇子たちが成長すると、天皇は彼らを各地へ遣わされました。
それは単なる任務ではなく、国を支える柱となるための試練でもありました。

印色入日子命(いにしきのいりひこのみこと)

武に優れ、心はまっすぐで、民の声に耳を傾ける人物でした。
血沼池、狭山池、高津池――彼が築いた池は干ばつに苦しむ民を救い、土地に豊かさをもたらしました。

鳥取の河上宮で千振りの太刀を鍛えるとき、
「この太刀が国を守る力となりますように」
と祈りながら槌を振るう姿には、若き皇子の誠が宿っていました。

大中津日子命(おおなかつひこのみこと)

人々をまとめる力に長け、赴く土地ごとに争いが収まり、民が笑顔を取り戻しました。
山辺、三枝、尾張、吉備――彼の足跡は国の骨格を形づくっていきました。

倭比売命(やまとひめのみこと)

幼い頃から清らかな心を持ち、伊勢の大神宮を斎き祀る斎皇女となりました。
朝霧の中、白衣をまとい祈る姿は、まるで神そのもののように尊く見えました。

石衝毘売命(いわつくびめのみこと)

強い意志を持ち、のちに倭建命の后となります。
天皇は彼女の未来を思うとき、誇りと同時に言いようのない不安も抱いておられました。

皇子たちの旅立ちは、国の形を静かに、しかし確実に変えていきました。

第三章 沙本毘古(さほびこ)と沙本毘売(さほびめ) ― 愛と裏切りの炎

皇后・沙本毘売命(さほびめのみこと)は、心優しく、天皇に深い敬愛を抱いておられました。
しかし、彼女の心には、兄・沙本毘古(さほびこ)への情もまた強く残っていました。

ある夕暮れ、兄は妹に問いかけます。
「天皇と私、どちらが愛しいか」

その声は静かでしたが、どこか狂気を孕んでいました。
妹は迷い、そして――
「兄上を愛しく思います」
と答えてしまいます。

その瞬間、兄の瞳に炎が宿りました。

沙本毘古は妹に短刀を渡し、低く囁きます。
「天皇を刺し、私と共に天下を治めよ」

皇后は震えながら短刀を握りしめました。
天皇の膝を枕にし、三度短刀を振り上げましたが、涙が頬を伝い、どうしても刺すことができませんでした。

天皇はその涙で目を覚まされ、皇后はすべてを告白しました。
天皇は深い悲しみを胸に、軍を出して沙本毘古を討たれます。

皇后は兄のもとへ逃げ、やがて兄と共に命を落としました。
天皇は彼女の死を悼み、夜ごとにその名を呼ばれたと伝えられています。

その腹に宿っていた御子は、火の中で生まれたため
本牟智和気命(ほむちわけのみこと)
と名づけられました。

第四章 本牟智和気命(ほむちわけのみこと) ― 白鳥の導き

本牟智和気命は、成長しても言葉を発されませんでした。
天皇はその姿を見るたび、胸が締めつけられるような思いを抱いておられました。

ある日、白鳥の声を聞いたとき、皇子は初めて片言を発されます。
その瞬間、天皇の心に希望の光が差しました。

天皇は山辺之大鶙(やまべのおおたか)を遣わし、白鳥を追わせました。
白鳥は諸国を飛び巡り、まるで皇子の魂を導くかのようでした。

白鳥が捕らえられても、皇子は言葉を発されませんでした。
その夜、天皇の夢に神が現れ、出雲大神の御心を告げました。

皇子が出雲へ向かわれ、帰り道の肥河で大神の祭場を見たとき――
皇子の口から、初めてはっきりとした言葉がこぼれました。

天皇は涙を流して喜ばれ、皇子の名にちなむ部民を定められました。

第五章 円野比売命(まとのひめのみこと) ― 美しさと悲しみの果て

丹波の姫の中で、円野比売命だけは容姿が醜いとされ、宮から退けられました。
彼女はその事実を深く恥じ、心を閉ざしていきました。

相楽の地で木に身を掛けようとしたとき、彼女は空を見上げ、
「なぜ私だけが……」
と呟かれたと伝えられています。

乙訓の淵に身を投じたとき、彼女の心には、もう苦しみも怒りもありませんでした。
ただ静かな闇が広がっていたのです。

その地名は、彼女の悲しみを今に伝えています。

第六章 多遅摩毛理(たじまもり) ― 常世国の橘を求めて

天皇は多遅摩毛理を常世国へ遣わされました。
それは、永遠の実「時じくの香の木の実(橘)」を求める旅でした。

多遅摩毛理は荒海を越え、霧の森を抜け、ついに橘を手に入れました。
しかし、帰国したとき、天皇はすでに崩御されていました。

御陵の前で橘を捧げ、
「持って参りました……」
と泣き叫んだ彼は、そのまま息絶えました。

橘は永遠の実として語り継がれています。

第七章 垂仁天皇の御終焉 ― 静かなる眠り

垂仁天皇(すいにんてんのう)は153歳で崩御されました。
御陵は菅原の御立野に築かれ、今も静かに天皇の眠りを守っています。

皇后・比婆須比売命(ひばすひめのみこと)の時代には土師部が定められ、のちの埴輪文化の源流となりました。

十六の御子と多くの物語に彩られた天皇の御代は、こうして静かに幕を閉じました。

古事記現代語訳

皇妃と御子たち

伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は、
磯城の 玉垣宮(たまがきのみや) にて天下をお治めになりました。
天皇は、沙本毘古の妹 佐波遅比売命(さはぢひめ) を皇后とされ、
お生まれになった御子は 品牟都和気命(ほむつわけ)
さらに丹波の王家の娘たちを次々と妃とされ、
多くの皇子・皇女が誕生しました。
印色入日子命(いにしきのいりひこ)
大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけ)
大中津日子命(おおなかつひこ)
倭比売命(やまとひめ)
若木入日子命(わかきいりひこ)
沼帯別命(ぬたらしわけ)
伊賀帯日子命(いがたらしひこ)
伊許婆夜和気命(いこばやわけ)
阿耶美都比売命(あざみつひめ)
袁耶弁王(おざべのみこ)
落別王(おちわけ)
五十日帯日子王(いかたらしひこ)
伊登志別王(いとしわけ)
石衝別王(いわつくわけ)
石衝毘売命(いわつくびめ)
合わせて 十六柱
皇子十三人、皇女三人という、豊かな御子の御代でした。
このうち 大帯日子淤斯呂和気命 が、のちの 景行天皇 となられます。

皇子たちの働きと国造り

皇子たちは各地に派遣され、
池を築き、武器を奉納し、国々を治め、
後の豪族の祖となっていきました。

印色入日子命
血沼池、狭山池、高津池を築く
鳥取の河上宮で千振りの太刀を作り、石上神宮へ奉納
河上部を定める

大中津日子命
山辺別、三枝別、稲木別、阿太別、尾張の三野別、吉備の石无別など、
多くの氏族の祖となりました。

倭比売命
伊勢の大神宮を斎き祀る 斎皇女(いつきのひめみこ) となられました。

石衝毘売命
のちに 倭建命(やまとたけるのみこと) の后となります。

沙本毘古と沙本毘売 ― 愛と裏切りの物語

垂仁天皇の皇后・沙本毘売命には、
同母兄の 沙本毘古(さほびこ) がいました。
ある日、兄は妹に尋ねます。
「夫の天皇と兄の私と、どちらが愛しいか」
妹は答えに迷い、
「兄上を愛しく思います」と言ってしまいます。
その言葉をきっかけに、
沙本毘古は反逆を企て、
妹に短刀を渡してこう言いました。
「天皇を刺し殺し、私と共に天下を治めよ」
皇后は天皇の膝を枕にしながら、
三度短刀を振り上げましたが、
涙がこぼれ、どうしても刺すことができませんでした。
天皇はその涙で目を覚まし、
皇后はすべてを告白します。
天皇は軍を出して沙本毘古を討ち、
皇后は兄のもとへ逃げ込み、
やがて兄と共に亡くなりました。
皇后が残した御子は、
火の中で生まれたことから 本牟智和気命(ほむちわけ) と名づけられます。

本牟智和気命 ― 口をきかぬ皇子と白鳥の物語

本牟智和気命は成長しても言葉を発せず、
天皇は深く心を痛めておられました。
ある日、白鳥の声を聞いたとき、
皇子は初めて片言を発します。
天皇は山辺之大鶙(やまべのおおたか)を遣わし、
白鳥を追わせました。
白鳥は紀伊から播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越国へと飛び、
ついに和那美の水門で捕らえられました。
しかし白鳥を見ても皇子は言葉を発しません。
その夜、天皇の夢に神が現れます。
「我が神殿を天皇の宮のように造れば、
御子は必ず言葉を発するであろう」
占いの結果、それは 出雲大神 の御心であるとわかり、
皇子は出雲へ参拝に向かいます。
帰り道、肥河で大神の祭場を見たとき、
皇子はついに言葉を発しました。
天皇は大いに喜び、
鳥取部・鳥甘部・品遅部などを定め、
皇子の名にちなむ部民を置かれました。

円野比売命 ― 美しさと悲しみの姫

天皇は丹波の王家の娘たちを妃とされましたが、
その中で 円野比売命(まとのひめ) は容姿が醜いとされ、
故郷へ返されてしまいます。
姉妹の中で自分だけが退けられたことを恥じ、
円野比売は山城の相楽で木に身を掛けようとし、
乙訓では深い淵に身を投じて亡くなりました。
その地名は、
懸木(さがりき) → 相楽(さがらか)
堕国(おちくに) → 乙訓(おとくに)
と変わり、
彼女の悲しみを今に伝えています。

時じくの香の木の実 ― 多遅摩毛理の遠い旅

天皇は三宅連の祖 多遅摩毛理(たじまもり)
遥か常世国へ遣わし、
「時じくの香の木の実(橘)」を求めさせました。
多遅摩毛理は八本ずつの橘を持ち帰りましたが、
天皇はすでに崩御されていました。
彼は御陵の前で橘を捧げ、
大声で泣き叫びながら息絶えました。
「常世国の時じくの香の木の実を、
持って参りました――」
橘は「永遠の実」として、
この物語を今に伝えています。

垂仁天皇の御終焉

天皇は 153歳 で崩御され、
御陵は 菅原の御立野(みたちの) にあります。
皇后・比婆須比売命の時代には、
石棺を造る部民、土師部(はにしべ)が定められ、
のちの埴輪文化の源流となりました。

日本書紀現代語訳

即位

活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)は、崇神天皇(すじんてんのう)の第三子であられます。母は大彦命(おおひこのみこと)の娘である御間城姫(みまきひめ)です。
天皇は崇神天皇二十九年一月一日に瑞籬宮(みずかきのみや)でお生まれになりました。生まれつきしっかりとしたお姿で、壮年になる頃には非常に度量が大きく、人となりは正直で、飾ったり偏屈なところがありませんでした。

父である崇神天皇にたいへん可愛がられ、常に身辺に置かれておりました。二十四歳のとき、夢のお告げによって皇太子となられました。

六十八年冬十二月、崇神天皇が崩御されました。

元年春一月二日、皇太子は皇位につかれました。

冬十月十一日、崇神天皇を山辺道上陵(やまのへのみちのえのみささぎ)に葬られました。

十一月二日、先の皇后を尊んで皇太后と申し上げました。この年、太歳は壬辰(たいさいみずのえたつ)でした。

二年春二月九日、狭穂姫(さほひめ)を皇后とされました。誉津別命(ほむつわけのみこと)がお生まれになりました。天皇はこの皇子を深く愛され、常に身近に置かれました。しかし、成長しても物をお話しになりませんでした。
冬十月、さらに纏向(まきむく)に都を造り、珠城宮(たまきのみや)と名づけられました。

纏向の宮

任那(みまな)・新羅(しらぎ)抗争のはじまり
この年、任那(みまな)の人である蘇那曷叱智(そなかしち)が「国に帰りたい」と申し出ました。先皇の御代に来朝して、まだ帰国していなかったのでしょう。

天皇は彼を厚くもてなし、赤絹百匹(100枚)を持たせて任那の王に贈られました。ところが、新羅(しらぎ)の人々が途中でこれを奪いました。両国の争いはこのときに始まったとされます。

また別の説によると、崇神天皇の御代に、額に角の生えた人が一隻の船に乗って越(こし)の国の笱飯の浦(けひのうら)に着きました。それで、その地を角鹿(つぬが)(敦賀)と名づけたといいます。

「どこの国の人か」と尋ねると、その人物は次のように答えました。

「私は大加羅国(おおからのくに)の王の子で、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と申します。日本の国に聖王がおられると聞き、やってまいりました。穴門(あなと)(長門国)に着いたとき、その国の伊都都比古(いつつひこ)が私に『私はこの国の王である。私のほかに二人の王はない。他の所へ勝手に行ってはならぬ』と言いました。しかし、よくよくその人となりを見ると王とは思えませんでしたので、そこを退出しました。しかし道が分からず、島浦を伝い歩き、北海から回って出雲国(いずものくに)を経てここに来たのです。」

このとき崇神天皇が崩御されたため、都怒我阿羅斯等はそのまま留まり、垂仁天皇(すいにんてんのう)に三年間仕えました。
天皇は都怒我阿羅斯等に「自分の国に帰りたいか」とお尋ねになり、彼は「大変帰りたいです」と答えました。

天皇は次のようにおっしゃいました。
「お前が道に迷わず速くやってきていたら、先皇にも会えたことであろう。そこで、お前の本国の名を改め、御間城天皇(みまきてんのう)の御名をとって、お前の国の名とせよ。」

そして赤織の絹を阿羅斯等(あらしと)に賜り、元の国へ帰されました。ゆえに、その国を「ミマナの国」と呼ぶのは、この縁によるものだといいます。

阿羅斯等は賜った赤絹を自国の蔵に収めましたが、新羅の人々がそれを聞きつけ、兵を率いてやってきて、その絹をすべて奪いました。これが両国争いの始まりであるとも伝えられています。

白石の乙女の伝承

また別の説では、都怒我阿羅斯等が国にいたとき、黄牛(あめうし)に農具を負わせて田舎へ向かいましたが、その牛が急にいなくなりました。跡を追っていくと、足跡がある村に留まっていました。

一人の老人が言いました。
「お前の探している牛はこの村に入った。村役人によれば、牛が背負っていた物から考えると、きっと殺して食べようとしているのだろう。もし主が来たら物で償おうと言って、殺して食べてしまったそうだ。もし『牛の代価に何を望むか』と聞かれたら、財物を望んではならぬ。『村に祀ってある神を欲しい』と言いなさい。」

しばらくして村役人が来て「牛の代価は何を望むか」と尋ねたので、阿羅斯等は老人の言葉どおりに答えました。
その祀られていた神は白い石でした。こうして白い石が牛の代わりとして与えられました。

阿羅斯等がそれを持ち帰って寝屋に置くと、石は美しい乙女になりました。阿羅斯等は大変喜び、交わろうとしましたが、少し離れたすきに乙女は姿を消してしまいました。

驚いた阿羅斯等が妻に尋ねると、妻は「東の方へ行きました」と答えました。
追っていくと、乙女は海を越えて日本国に入り、難波(なにわ)に至って比売語曽社神(ひめごそのやしろのかみ)となり、また豊国(とよくに)の国前郡でも比売語曽社神となり、この二箇所に祀られているといいます。

天日槍(あめのひほこ)の来訪

三年春三月、新羅(しらぎ)の王の子・天日槍(あめのひほこ)が来ました。
彼が持参したのは、羽太(はふと)の玉一つ、足高(あしたか)の玉一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ、出石(いずし)の小刀一つ、出石の様(ほこ)一つ、日鏡(ひかがみ)一つ、熊の神籬一具(くまのひもろぎひとそなえ)、合わせて七点であり、それらは但馬国(たじまのくに)に納められ、神宝となりました。

別の説では、天日槍は船で播磨国(はりまのくに)に来て宍粟邑(しさわのむら)にいたといいます。
天皇は三輪君(みわのきみ)の祖・大友主(おおともぬし)と倭直(やまとのあたい)の祖・長尾市(ながおち)を遣わし、「お前は誰か、どこの国の者か」と尋ねさせました。

天日槍は「私は新羅の王の子で、日本に聖王がおられると聞き、国を弟の知古(ちこ)に授けて参りました」と答えました。

彼が奉ったのは、葉細の珠(はほそのたま)、足高の珠(あしたかのたま)、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の珠、出石(いずし)の刀子、出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅(いささ)の太刀、合わせて八種類でした。

天皇は天日槍に「播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑の二つに、心のままに住みなさい」と詔されましたが、天日槍は「もし許されるなら、自ら諸国を巡り、心に適った所を選びたい」と申し上げ、その許しを得ました。

天日槍は宇治川を遡って近江国(おうみのくに)の吾名邑(あなむら)に入り、しばらく住みました。その後、近江から若狭国(わかさのくに)を経て但馬国(たじまのくに)に至り、そこに居処を定めました。

近江国の鏡邑(かがみのむら)の谷の陶人(すえびと)は天日槍に従っていた者であったといいます。
天日槍は但馬国出石の人・太耳(ふとみみ)の娘である麻多烏(またお)を娶り、但馬諸助(たじまもろすく)を生みました。
諸助は但馬日樁杵(たじまひならき)を生み、日播杵は清彦(きよひこ)を生み、清彦は田道間守(たじまもり)を生んだと伝えられています。

狭穂彦王の謀反

四年秋九月二十三日、皇后の兄である狭穂彦王(さほひこのみこ)は、謀反(むほん)を企てて国を傾けようとしました。皇后が休息して家におられるときを伺い、皇后に向かって、
「お前は兄と夫と、どちらが大事か」
と問いかけました。
皇后は尋ねられた意味が分からず、
「兄が大事です」
と答えました。

すると狭穂彦王は皇后に、
「容色をもって人に仕えるのは、色香が衰えれば寵愛は終わる。今、天下には美人が多く、それぞれが寵愛されることを求めている。どうして容色だけを頼みにできようか。もし私が皇位につけば、お前とともに天下に臨むことができる。枕を高くして百年でも過ごせるのは快いことではないか。どうか、私のために天皇を殺してくれ」
と言いました。
そして匕首(あいくち)(短刀)を皇后に授け、
「この匕首(あいくち)を衣の中に忍ばせ、天皇が眠っておられるときに頸を刺して殺せ」
と言いました。

皇后は心が戦慄き、どうすべきか分かりませんでした。しかし兄の志を思うと、たやすく諫めることもできませんでした。その匕首を独りで隠すこともできず、衣の中に忍ばせました。

五年冬十月一日、天皇は来目(くめ)にお越しになり、高宮におられました。
そのとき、天皇は皇后の膝を枕にして昼寝をされました。しかし皇后は事を行いませんでした。
「兄の謀反はこの時なのに」
と思うと、涙が流れて帝の顔に落ちました。

天皇は驚いて目を覚まされ、皇后に向かって言われました。
「私は今、夢を見た。錦色の小さな蛇が我が頸に巻きついた。大雨が狭穂から降ってきて、顔を濡らすように見えたが、これは何の兆しだろうか」

皇后は謀を隠し通せないことを悟り、恐れて地に伏し、兄王の謀反のことを詳しく申し上げました。
「私は兄王の志に背くこともできず、天皇の御恩に背くこともできません。告白すれば兄王を死なせることになり、言わなければ国を傾けることになります。それで恐れと悲しみで胸がつかえ、昼も夜も苦悩して訴え申し上げることができませんでした。今日、天皇が私の膝を枕に休まれ、もし狂った女が兄のためにこの時を好機と思ったなら、手間もかけずに成功したでしょう。この思いがまだ胸に残っているうちに涙が溢れ、袖から落ちて帝の顔を濡らしました。夢にご覧になったのは、このことの現れでしょう。錦の小蛇というのは私が預かった匕首です。雨が降ったというのは私の涙です」

天皇は皇后に、
「これはお前の罪ではない」
と言われました。

天皇は身近にいる兵を遣わし、上毛野の君の祖である八綱田(やつなた)に命じて、狭穂彦(さほひこ)を討たせました。狭穂彦は軍を起こして防ぎました。急いで稲を積んで城塞とし、それがなかなか破れませんでした。これを稲城(いなき)といいます。

月が替わっても降伏しませんでした。皇后は悲しんで、
「私は皇后といっても、兄王をこんなことで失っては、何の面目があって天下に臨めましょうか」
と言い、王子である誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱いて、兄王の稲城(いなき)の中に入られました。

天皇は軍勢を増やして完全に城を取り囲み、
「速やかに皇后と皇子を出しなさい」
と詔されました。
それでも出てこないため、八綱田(やつなた)は火をつけて城を焼きました。

皇后は皇子を抱いて城の上を越えて出てこられ、
「私が兄の城に逃げ込んだのは、もしかしたら私と子のために兄の罪を許されるかもしれないと思ったからです。許されないならば、私に罪があることを知りました。捕らわれるよりは自殺いたします。私は死んでも天皇の御恩は忘れません。どうか私が務めていた後宮の仕事は、良い女性にお任せください。丹波の国に五人の婦人がいます。貞潔な人たちです。丹波道主王(たにはのちぬしのおおきみ)の娘たちです(道主王は開化天皇の子孫である彦坐王子〈ひこいますのきみ〉、または彦湯産隅王〈ひこゆむすみのみこ〉の子とされます)。後宮に召し入れて補充としてお使いください」
と言いました。

天皇はこれを聞き入れられました。火は燃え上がり、城は崩れ、軍卒はことごとく逃げました。狭穂王(さほのおおきみ)と妹は城の中で亡くなりました。天皇は八綱田(やつなた)の功を褒めて名を授けられました。これを倭日向武火向彦八綱田(やまとひむかたけびむかひこやつなた)といいます。

角力(すもう)の元祖

七年秋七月七日、お傍の者が申し上げました。
「当麻邑(たぎまのむら)に勇敢な人がいます。当麻蹶速(たぎまのくえはや)といい、その人は力が強く、角を折ったり曲がった鈎を伸ばしたりします。人々に『四方に求めても自分の力に並ぶ者はないだろう。何とかして強い者に会い、生死を問わず力比べをしたい』と言っています」

天皇はこれをお聞きになり、群卿たちに詔して、
「当麻蹶速(たぎまのくえはや)は天下の力持ちだという。これにかなう者はいるだろうか」
と言われました。

ひとりの臣が進み出て、
「出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇士がいると聞いています。この人を蹶速(くえはや)に取り組ませてみるのがよいと思います」
と言いました。

その日に倭直の祖・長尾市が遣わされ、野見宿禰(のみのすくね)が呼ばれました。野見宿禰は出雲からやってきました。

当麻蹶速(たぎまのくえはや)と野見宿禰(のみのすくね)は角力をしました。二人は向かい合って立ち、互いに足を挙げて蹴り合いました。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、さらに腰を踏みくじいて殺しました。そこで当麻蹶速の土地は没収され、すべて野見宿禰に与えられました。これがその邑(むら)に腰折田(こしおりだ)(山裾の折れ曲がった田)がある由来です。野見宿禰はそのまま留まってお仕えしました。

後宮の婦人たち

十五年春二月十日、丹波の五人の女性が召されて後宮に入りました。
一番上を日葉酢媛(ひばすひめ)といいます。
次を淳葉田瓊入媛(ぬはたにいりびめ)といいます。
第三を真砥野媛(まとのひめ)といいます。
第四を薊瓊入媛(あざみにいりびめ)といいます。
第五を竹野媛(たけのひめ)といいます。

秋八月一日、日葉酢媛(ひばすひめ)が皇后とされました。皇后の妹三人は妃とされました。竹野媛(たけのひめ)だけは不器量であったため里に返されました。竹野媛はそのことを恥じ、葛野(かずの)で自ら輿(こし)から落ちて亡くなりました。そのため、その地を堕国(おちくに)と名づけました。今の弟国(おとくに)(乙訓)は、その名が訛ったものです。

皇后である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は三男二女を生みました。
第一は五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)です。
第二は大足彦命(おおたらしひこのみこと)(景行天皇)です。
第三は大中姫命(おおなかつひめのみこと)です。
第四は倭姫命(やまとひめ)です。
第五は稚城瓊入彦命(わかきにいりびこのみこと)です。

次の妃である濘葉田瓊入媛(ぬばたにいりびめ)は、鐸石別命(ぬてしわけのみこと)と胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生みました。
その次の妃である薊瓊入媛(あざみにいりびめ)は、池速別命(いけはやわけのみこと)と稚麻津媛命(わかあさつひめのみこと)を生みました。

鳥取の姓

二十三年秋九月二日、群卿に詔して、
「誉津別命(ほむつわけのみこと)は三十歳になり、長い顎髯が伸びるまで赤児のように泣いてばかりいて、声を出して物を言うことがありません。これは何故なのか、皆で考えてほしい」
とおっしゃいました。

冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別皇子(ほむつわけのみこと)はその傍に付き従っていました。
そのとき白鳥の鵠(くぐい)が大空を飛んでいきました。
皇子は空を仰いで鵠をご覧になり、
「あれは何物か」
とおっしゃいました。

天皇は皇子が鵠を見て声を発することができたのを知り、たいへん喜ばれました。
傍の者に詔して、
「誰かこの鳥を捕えて献上せよ」
と命じられました。

そこで、鳥取造(とりとりのみやつこ)の祖である天湯河板挙(あめのゆかわたな)が、
「私が必ず捕まえましょう」
と申し上げました。

天皇は天湯河板挙に、
「お前がこの鳥を捕えたら、必ず充分な褒美を与えよう」
とおっしゃいました。

湯河板挙(ゆかわたな)は鵠の飛んでいった方向を追って出雲まで行き、ついに捕えました。
ある人は「但馬国(たじまのくに)で捕えた」とも言います。

十一月二日、湯河板挙が鵠を奉りました。
誉津別命(ほむつわけのみこと)はこの鵠を調教し、ついに物を言えるようになりました。
これによって湯河板挙に賞が賜わり、姓を授けられ、鳥取造(とりとりのみやつこ)といいました。
そして鳥取部(とりとりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めました。

伊勢の祭祀

二十五年春二月八日、阿倍臣(あべのおみ)の先祖である武淳川別(たけぬなかわわけ)、和珥臣(わにのおみ)の先祖である彦国葺(ひこくにぶく)、中臣連(なかとみのむらじ)の先祖である大鹿島(おおかしま)、物部連(もののべのむらじ)の先祖である十千根(とおちね)、大伴連(おおとものむらじ)の先祖である武日(たけひ)といった五大夫(ごだいふ)たちに詔して、
「先帝・崇神天皇は賢く聖であり、聡明で豁達であられ、政治をよくご覧になり、神々を救い、身を慎まれた。それによって人民は豊かになり、天下は太平であった。私の代にも神祇をお祀りすることを怠ってはならない」
とおっしゃいました。

三月十日、天照大神(あまてらすおおみかみ)を豊耜入姫命(とよすきいりびめのみこと)から離して、倭姫命(やまとひめ)に託されました。
倭姫命は大神を鎮座申し上げる場所を探し、宇陀の篠幡(ささはた)に行かれました。
さらに引き返して近江国(おうみのくに)に入り、美濃(みの)をめぐって伊勢国(いせのくに)に至られました。

そのとき天照大神は倭姫命に、
「伊勢国はしきりに波が打ち寄せる、傍国(かたくに)の美しい国である。この国にいたいと思う」
と教えておっしゃいました。

そこで大神のお言葉のままに、その祠を伊勢国に立てられました。
そして斎宮(いつきのみや)(斎王の宮)を五十鈴川(いすずがわ)のほとりに立てました。
これを磯宮(いそのみや)といいます。
天照大神が初めて天より降りられたところです。

一説には、天皇は倭姫命を依代として天照大神に差し上げられたといいます。
それで倭姫命は天照大神を磯城(しき)の神木のもとにお祀りしました。
その後、神のお告げにより、二十六年十月、甲子の日に伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)にお移ししました。

このとき、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が、穂積臣の先祖である大水口宿禰(おおみくちのすくね)に乗り移って言われました。
「最初のはじまりのときに約束して、『天照大神はすべての天原(あまのはら)を治め、代々の天皇は葦原中国(あしはらのなかつくに)の諸神を治め、私は地主の神を治める』ということであった。ここで仰せ言が終わった。先皇・崇神天皇は神祀をお祭りなさったが、詳しくその根源を探らず、枝葉に走っておられた。それで天皇は命が短かった。今、汝は先皇の及ばなかったところを悔い、よくお祀りすれば、汝の命も永く、天下も太平であろう」
とお告げになりました。

天皇はこの言葉を聞き、大倭大神(やまとのおおかみ)を誰に祀らせればよいのか、中臣連(なかとみのむらじ)の祖である探湯主(くかぬし)に占わせました。
その結果、淳名城稚姫命(ぬなかわかひめのみこと)が選ばれました。

そこで淳名城稚姫命に命じて、神地として穴磯邑(あなしのむら)を定め、大市の長岡の崎(ながおかのさき)にお祀りしました。
しかし淳名城稚姫命はすでに体が痩せ弱っていて、お祀りすることができませんでした。
そのため、大倭直(やまとのあたい)の祖である長尾市宿禰(なかおちのすくね)に命じて祀らせたといいます。

二十六年秋八月三日、天皇は物部十千大連(もののべのとおちねのおおむらじ)に詔して、
「たびたび使者を出雲に遣わして、その国の神宝を検めさせたが、はっきりと申す者がいない。お前が自ら出雲に行って調べてきなさい」
と命じられました。

十千根大連(とおちねのおおむらじ)は神宝をよく調べ、はっきりと報告しました。
それで神宝のことを司らせました。

二十七年秋八月七日、神官に命じて武具を神々にお供えすることの可否を占わせたところ、吉(きち)と出ました。
そこで弓矢と太刀を諸々の神社に奉納しました。
さらに神地(かみじ)、神戸(かんべ)(神の料田や神社の民戸)を定め、時期を決めてお祭りさせました。
武具をもって神祇を祭るということは、このときに始まりました。

この年、屯倉(みやけ)(朝廷の直轄地)を来目邑(くめのむら)に定めました。

野見宿禰と埴輪

二十八年冬十月五日、天皇の母の弟である倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられました。
十一月二日、倭彦命(やまとひこのみこと)を身狭(むさ)(橿原)の桃花鳥坂(つきさか)(築坂)に葬りました。
このとき、近習の者たちを集め、全員を生きたまま陵(みささぎ)(墓)のまわりに埋めました。
日が経っても死なず、昼夜泣き叫び呻きました。
ついには死んで腐り、犬や鳥が集まって食べました。
天皇はこの泣き呻く声をお聞きになり、深く心を痛められました。

天皇は群卿(まちきみ)たちに詔して、
「生きている時に愛し使っていた人々を、亡者に殉死させるのは痛ましいことである。古い風習であるといっても、良くないことは従う必要はない。これから後は、合議して殉死をやめるように」
とおっしゃいました。

三十年春一月六日、天皇は五十瓊敷命(いにしきいりびこのみこと)と大足彦尊に詔して、
「お前たち、それぞれに欲しい物を言ってみよ」
とおっしゃいました。

兄王は、
「弓矢が欲しいです」
と申し上げました。
弟王は、
「天皇の位が欲しいです」
と申し上げました。

そこで天皇は、
「それぞれの望みのままにしよう」
と詔されました。
弓矢を五十瓊敷命(いにしきいりびこのみこと)に賜り、大足彦命(おおたらしひこのみこと)には、
「お前は必ず我が位を継げ」
とお命じになりました。

三十二年秋七月六日、皇后である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなられました。
葬るにはまだ日がありました。
天皇は群卿に詔して、
「殉死が良くないことは前に分かった。今度の葬はどうしようか」
とおっしゃいました。

すると野見宿禰(のみのすくね)が進み出て申し上げました。
「君王の陵墓に、生きている人を埋めるのは良くないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させてください。」

使者を出して出雲国の土部(はじべ)百人を呼び、土部たちに埴土(はにつち)で人や馬やさまざまな物の形を造らせ、天皇に献上して、
「これから後、この土物をもって生きた人の代わりとし、陵墓に立てて後世の決まりといたしましょう」
と申し上げました。

天皇は大いに喜ばれ、野見宿禰に、
「お前の便法は誠に我が意にかなったものだ」
とおっしゃり、その土物を初めて日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓に立てました。

これによって、この土物を埴輪(はにわ)と名づけました。
あるいは立物(たてもの)とも言いました。

天皇は命じて、
「今から後、陵墓には必ずこの土物を立て、人を損なってはならぬ」
とおっしゃいました。

天皇は野見宿禰の功を厚く褒められ、鍛地(かたしところ)(陶器を成熟させる地)を賜りました。
そして土師の職に任じられました。
それで本姓を改めて土部臣(はじのおみ)といいました。
これが土部連(はじのむらじ)らが天皇の喪葬を司る由来です。
つまり、野見宿禰は土部連の先祖です。

山城の美人とその子ら

三十四年春三月二日、天皇は山城(やましろ)にお出でになりました。
そのとき側仕えの者が申し上げました。
「この国に美人がいます。綺戸辺(かにはたとべ)といい、顔かたちが良く、山城大国(やましろおおくに)の不遅(ふち)の娘です。」

天皇は矛を取って祈られました。
「その美人に会ったら、必ず道路にめでたい瑞(しるし)があるように。」

行宮(かりみや)にお着きになる頃、大亀が川の中から出てきました。
天皇は矛を挙げて亀を刺されました。
亀はたちまち岩になりました。

天皇は傍の人に、
「この物から推測すると、きっと霊験があるだろう」
とおっしゃいました。

こうして綺戸辺(かにはたとべ)を召して後宮に入れられ、磐衝別命(いわつくわけのみこと)をお生みになりました。
これは三尾君(みおのきみ)の先祖です。

これより先に、山城の莉幡戸辺(かりはたとべ)を召され、三人の男子をお生みになりました。
第一:祖別命(おおじわけのみこと)
第二:五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
第三:胆武別命(いたけるわけのみこと)
五十日足彦命の子は石田君(いしだのきみ)の先祖です。

池の造成と農政

三十五年秋九月、五十瓊敷命(いにしきいりびこのみこと)を河内国に遣わし、高石池(たかしのいけ)・茅淳池(ちぬのいけ)を造らせました。

冬十月には倭の狭城池と迹見池を造りました。

この年、諸国に命じて池や溝を多く開かせました。
その数は八百あまりに及びました。
農業を大切な仕事とし、これによって百姓は富み豊かになり、天下は太平となりました。

三十七年春一月一日、大足彦命(おおたらしひこのみこと)を皇太子とされました。

石上神宮と神宝

三十九年冬十月、五十瓊敷命(いにしきいりびこのみこと)は茅濘(ちぬ)(和泉の海域)の菟砥(うと)の川上宮(かわかみのみや)にお出でになり、剣一千口を造らせました。
その剣を川上部(かわかみのとも)といい、またの名を裸伴(あかはだかとも)といいます。
これを石上神宮(いそのかみじんぐう)に納めました。

その後、五十瓊敷命に命じて石上神宮の神宝を司らせました。

別の説では、五十瓊敷皇子(いにしきのみこと)は茅淳(ちぬ)の菟砥の河上にお出でになり、鍛冶の河上という者に太刀一千口を造らせました。
このとき、楯部(たてべ)、倭文部(しとりべ)、神弓削部(かむゆげべ)、神矢作部(かむやはぎべ)、大穴磯部(おおあなしべ)、泊衝部(はつかしべ)、玉作部(たますりべ)、神刑部(かむおさかべ)、日置部(ひおきべ)、太刀佩部(たちはきべ)など十種の品部(とものみやつこ)を五十瓊敷皇子に賜りました。

その一千口の太刀を忍坂邑(おさかのむら)に納め、後に石上神宮に移しました。

このとき神が、
「春日臣(かすがのおみ)の一族で、市河という者に治めさせよ」
と告げられ、市河に命じて治めさせました。
これが物部首(もののべのおびと)の先祖です。

八十七年春二月五日、五十瓊敷命は妹の大中姫(おおなかつひめ)に、
「私は年をとったので神宝を司ることができない。今後はお前がやりなさい」
とおっしゃいました。

大中姫は辞退して、
「私はか弱い女です。どうして高い宝庫に登れましょうか」
と申し上げました。

五十瓊敷命は、
「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから登るのは難しくない」
とおっしゃいました。

諺にいう「天の神庫は樹梯(はしたて)のままに」というのは、この由来です。

こうして大中姫命は物部十千根大連(もののべのとおちねのおおむらじ)に神宝を授けて治めさせました。
物部連が今に至るまで石上の神宝を治めているのは、このためです。

昔、丹波国(たにはのくに)の桑田村に甕襲(みかそ)という人がいました。
甕襲の家の犬・足往(あゆき)が山の獣ムジナを食い殺しました。
その腹の中に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があり、それを献上しました。
この宝は現在、石上神宮にあります。

天日槍と神宝

八十八年秋七月十日、天皇は群卿に詔して、
「新羅の王子・天日槍(あめのひほこ)が初めて来たときに持ってきた宝物はいま但馬にあり、国人に尊ばれて神宝となっている。私は今、その宝を見たいと思う」
とおっしゃいました。

その日に使者を遣わし、天日槍の曽孫である清彦(きよひこ)に詔されました。
清彦は勅を受け、自ら神宝を捧げて献上しました。

羽太(はねたま)の玉一つ、足高(あしたか)の玉一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ、日鏡(ひかがみ)一つ、熊の神籬(ひもろぎ)一つで、刀子(とうす)が一つあり、名を出石(いずし)といいました。

清彦は急に刀子を奉るまいと思い、衣の中に隠しました。
天皇は気づかれず、清彦を労うため酒を賜りました。
ところが刀子は衣の中から現れてしまいました。

天皇は、
「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」
と尋ねられました。

清彦は隠せないと思い、
「奉る神宝の一つです」
と白状しました。

天皇は、
「その神宝は仲間と一緒でなくてもよいのか」
と尋ねられ、清彦はこれを差し出しました。
神宝はすべて神府(みくら)に納められました。

その後、神府を開くと刀子はなくなっていました。
清彦に尋ねさせると、
「昨夕、刀子がひとりで私の家に来ましたが、今朝はもうありません」
と答えました。

天皇は畏れ慎まれ、それ以上求めようとはされませんでした。

その後、出石の刀子はひとりで淡路島に行き、島の人々はそれを神として祠を立て、今も祀っています。

昔、一人の人が小舟で但馬国に来ました。
「どこの国の人か」と尋ねると、
「新羅の王の子、天日槍という」
と答えました。

彼は但馬に留まり、前津耳(まえつみみ)の娘・麻拕能烏(またのお)を娶り、但馬諸助(たじまもろすく)を生みました。
これが清彦の祖父です。

田道間守

九十年春二月一日、天皇は田道間守(たじまもり)に命じて、常世国(とこよのくに)に遣わし、「非時の香果(ときじくのかぐのみ)」を求めさせました。
これは現在の橘(たちばな)のことです。
九十九年秋七月一日、天皇は纏向宮(まきむくのみや)で崩御されました。
時に年百四十歳でした。

冬十二月十日、菅原(すがはら)の伏見陵(ふしみのみささぎ)に葬られました。

翌年春三月十二日、田道間守は常世国から帰ってきました。
持ってきたのは非時の香果を八竿八縵(はちほこはちかけ)でした。

田道間守は泣き嘆いて申し上げました。
「命を受けて遠い国に行き、万里の波を越えて帰ってまいりました。この常世国は神仙の秘密の国で、俗人の行ける所ではありません。そのため十年も経ちました。本土に戻れるとは思いませんでした。しかし聖帝の神霊の加護により帰ることができました。今、天皇はすでに亡く、復命もできません。私は生きていても何のためになりましょうか。」

田道間守は天皇の陵に参り、泣き叫んで死にました。

群臣はこれを聞いて皆泣きました。
田道間守は三宅連(みやけのむらじ)の先祖です。

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愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
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