目次
12代景行(けいぎょう)天皇、13代成務(せいむ)天皇の時代を物語としてまとめています。
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。
蛇神大物主神より授かりし神秘の恩恵
史上初!潜在意識の深海で甦る ― 奇跡の再生ヒーリング
大うつ病、不安、ストレス解消,自律神経失調症といったメンタル不調を瞬時に解消
精神科患者の8割が騙されている?精神医療の実態を知るおすすめ本
倭建命(やまとたけるのみこと)、幼名・小碓命(おうすのみこと)は、幼いころから周囲の空気を変える子でした。
走れば風が揺れ、跳べば影が遅れてついてくるほどの俊敏さ。
しかし、その身体能力以上に、人々の心をざわつかせたのは――彼の「静けさ」でした。
ある日、庭で遊ぶ皇子たちを見守っていた侍女たちは、ふと小碓命の姿に気づきました。
彼は一人、木陰に立ち、兄たちの遊びをじっと見つめていました。
「小碓命さま、今日もあの場所に……」
「ええ。でも、あのお目を見ましたか? まるで……」
「まるで心の奥を覗かれているようで、息が止まりそうでした」
侍女の一人が胸に手を当て、震える声で続けました。
「泣きもせず、怒りもせず、笑いもせず……。あの静けさは、幼子のものではありません」
そのとき、兄の五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)が近づきました。
「小碓、なぜ一緒に来ない? 走れば気持ちがいいぞ」
小碓命はゆっくりと兄を見上げました。
その瞳は、幼いのに、どこか遠い場所を見ているようでした。
「兄上……人は、どうして争うのですか」
「え……?」
「さっき、兄上たちは石を投げ合っていました。あれは、なぜですか」
五百城入彦皇子は言葉に詰まり、苦笑しました。
「あれは遊びだよ。争っているわけではない」
「遊び……。争いと遊びは、どう違うのですか」
「どうって……うーん……」
兄は答えられず、ただ小碓命の頭を撫でました。
その手つきには、幼い弟への愛情と、どこか説明できない不安が混じっていました。
夕暮れ、宮の廊にて。
母・弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、小碓命の手を取り、そっと問いかけました。
「小碓。今日はどんな一日でしたか?」
「……わかりません」
「わからない?」
「人の心が、よくわからないのです。
嘘をつく理由も、怒る理由も、愛する理由も……」
弟橘比売命は微笑みましたが、その目には深い憂いが宿っていました。
「心は形がありません。だから、見えにくいのです。
でも、小碓。あなたはきっと……誰よりも心を見ようとしているのでしょう」
小碓命は少しだけ目を伏せました。
「見ようとしても、見えません。
だから……胸が、少しだけ痛いのです」
母はそっと彼を抱き寄せました。
「その痛みは、優しさの証ですよ。
あなたは、まだ幼いのです。焦らなくていいのですよ」
小碓命は母の胸に顔を埋め、静かに息を吸いました。
その温もりだけが、彼にとって“理解できる世界”でした。
夜、寝所に戻った小碓命は、天井を見つめながら呟きました。
「どうして……皆は笑えるのだろう。
どうして……皆は泣けるのだろう」
答えは返ってきません。
ただ、幼い胸の奥に、静かで深い孤独が、ゆっくりと根を張っていきました。

大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、
玉座に座りながら、庭を駆ける小碓命の姿を静かに見つめていました。
その動きは、まるで風のように軽く、獣のように鋭い。
「……あの子は、やはり尋常ではない」
天皇は独り言のように呟きました。
傍らに控えていた老臣・武内宿禰が、そっと声をかけます。
「陛下。小碓命さまは、神の御子のような才をお持ちです。
その御姿は、まさしく未来の英雄にふさわしきものかと」
天皇は眉をひそめ、静かに首を振りました。
「才があることは、誇らしい。だが……」
彼は目を細め、過去の記憶に沈みました。
ある日、小碓命がまだ七つの頃。
天皇は偶然、彼が庭の林で小鹿を狩る姿を目にしました。
「……あの子は、獣の息遣いを読み、逃げ道を見抜き、
何のためらいもなく、仕留めた」
その姿は、まるで神の意志に導かれているかのようでした。
美しく、そして――恐ろしかった。
その夜、天皇は小碓命を呼び寄せました。
月明かりの差す広間で、二人は向かい合いました。
「小碓。今日、鹿を狩ったそうだな」
「はい。逃げる方向が見えました。だから、仕留めました」
「……怖くはなかったか?」
「怖い、とは……?」
小碓命は首をかしげました。
その瞳には、純粋な疑問が浮かんでいました。
「命を奪うことに、痛みは感じぬのか?」
「……痛みは、ありました。
でも、それは鹿のものです。
私の中には、ただ……静けさがありました」
天皇は言葉を失いました。
その静けさこそが、彼の胸に恐れを呼び起こしたのです。
天皇は夜更けまで、玉座に座り続けました。
武内宿禰が再び声をかけます。
「陛下。ご心配は……小碓命さまが、何かを誤るのではと?」
「そうだ。あの子は、心の揺らぎを見抜き、
迷いなく行動する。だが、人の世には“迷い”が必要な時もある」
「迷いが、人を守ることもある……と?」
「そうだ。迷いが、優しさとなることもある。
だがあの子は、迷いを知らぬ。
それが、英雄となるか――禍となるか……」
天皇は深く息を吐き、空を見上げました。
「私は、父として……あの子を、愛している。
だが、父として……あの子が怖いのだ」
その言葉は、玉座の間に静かに響き、
誰にも答えられぬ問いとして、夜の闇に溶けていきました。

美濃国から戻った大碓命(おおうすのみこと)は、
天皇の命に背き、迎えるはずだった姉妹を自らの妻としてしまいました。
その報せを受けた天皇は、玉座の間で深く嘆きました。
「……兄弟であるがゆえに、諭せるはずだ。
小碓、お前に任せる。兄を正してくれ」
小碓命は静かに頷きました。
その瞳には、感情の波はなく、ただ深い湖のような静けさがありました。
大碓命の屋敷にて。
小碓命が現れると、兄は目を見開き、後ずさりしました。
「お、お前が来るとは……。いや、これは誤解だ。
美濃の姉妹は、私に心を寄せていたのだ。だから……」
小碓命は一歩、静かに踏み出しました。
「兄上。嘘をついていますね」
「ち、違う! 私は……私はただ……!」
「なぜ、嘘をつくのですか」
その言葉は、幼いころから小碓命の胸にあった問いでした。
彼の瞳は、兄の心の奥を見透かすように揺らぎません。
「人は、なぜ……嘘をつくのですか」
大碓命は震えながら、逃げようとしました。
その瞬間、小碓命の中で何かが静かに決壊しました。
後に残されたのは、血の気の失せた屋敷と、
薦に包まれた兄の亡骸。
小碓命は、何も語らず、ただ天皇のもとへ戻りました。
「兄は、嘘をつきました。
だから、正しました」
その声は、まるで雨音のように静かで、冷たく、
感情の色を持たないものでした。
天皇はその報告を聞き、震えました。
玉座の間に沈黙が落ち、武内宿禰がそっと目を伏せました。
「この子は……正しすぎる。
その正しさが、人を斬る刃となる」
天皇は、父としての愛と、帝としての責任の狭間で苦しみました。
「私は……この子を遠くへ遣わさねばならぬ。
このままでは、宮も、国も、裂けてしまう」
その言葉を口にした瞬間、天皇の胸は深く裂かれました。
愛するがゆえに、遠ざける――それは父にとって、最も苦しい決断でした。

小碓命が熊襲討伐の命を受ける前夜、
叔母・倭比売命(やまとひめのみこと)は、静かに彼の部屋を訪れました。
「小碓……」
彼は振り向かず、ただ焚き火の揺らぎを見つめていました。
倭比売命はそっと衣を差し出します。
「これは、私が縫ったものです。
あなたが“人の心”に触れるとき、少しでも温かくありますように」
小碓命はゆっくりと振り向き、衣を受け取りました。
「……私は、恐れられているのでしょうか」
倭比売命は微笑みながら、彼の手を包みました。
「あなたは、恐れられるために生まれたのではありません。
どうか……自分を責めないでください」
その言葉は、小碓命の胸に初めて“温かさ”を灯しました。
熊襲建の屋敷。
焚き火が燃え、酒が回り、男たちの笑い声が響く中――
一人の少女が、静かに座っていました。
それは、小碓命が変装した姿でした。
「おい、そこの娘。酒は飲めるか?」
「……少しだけ」
彼は声を作り、表情を整え、冷静に場を観察していました。
熊襲建が酔い、弟が踊り、隙が生まれた瞬間――
小碓命は胸元から剣を抜き、
熊襲建の胸を一突きに貫きました。
「ぐっ……!」
男たちが騒ぎ、弟が逃げ出します。
小碓命は風のように立ち上がり、
迷いなく追い、討ち取りました。
熊襲建は血を吐きながら、最後の力で言いました。
「大和より……我らを超える強き男子が現れた……
その名を……倭建命(やまとたけるのみこと)と称えよ……」
その言葉は、小碓命の胸に初めて“誇り”を与えました。
宮に戻った小碓命は、静かに報告しました。
「熊襲建は、討ちました。
彼は、私に名を与えました。倭建命と」
天皇は沈黙し、倭比売命はそっと微笑みました。
「あなたは、ただの刃ではありません。
その名は、あなたが“人の心”に触れた証です」
倭建命は、初めて自分の名を口にしました。
「私は……倭建命です」
その声には、静かな誇りと、微かな温もりが宿っていました。

出雲建は豪胆で、誇り高く、
倭建命は彼に奇妙な親しみを感じました。
「もし、私が“普通の人間”であったなら……
彼と友になれたのだろうか」
しかし、使命は友情を許しませんでした。
沐浴の際に太刀をすり替え、
太刀合わせを挑むと、
出雲建の太刀は抜けず、倭建命は彼を討ちます。
出雲建は倒れながら、
倭建命の瞳を見つめ、微笑みました。
「お前は……強い。
だが……その強さが……お前を苦しめるだろう……」
倭建命は胸が締めつけられるのを感じました。

弟橘比売は、倭建命の笑顔の奥にある影を、誰よりも感じ取っていました。
ある夜、彼女はそっと彼に問いかけました。
「あなたは……笑っているとき、少しだけ寂しそうです」
倭建命は驚いたように目を見開き、そして目を伏せました。
「……そう見えるか」
「はい。怒るときも、悲しみが混じっているように思えます」
彼はしばらく沈黙し、焚き火の揺らぎを見つめながら呟きました。
「私は……誰かを守るために生まれたのか、
それとも、誰かを斬るために生まれたのか……わからない」
弟橘比売はそっと彼の手を握りました。
「あなたは、誰よりも優しい。
だからこそ、誰よりも傷ついているのです」
海が荒れ、船が進めなくなったとき、
弟橘比売は静かに立ち上がりました。
倭建命が叫びます。
「橘! 何をするつもりだ!」
彼女は振り返り、微笑みました。
「あなたが生きて帰るために……私は、海に祈ります」
「やめろ! そんなことをしても……!」
弟橘比売は八重の畳の上に立ち、
風に髪をなびかせながら、最後の言葉を残しました。
「あなたが生きて帰るなら……私は、それでいいのです」
倭建命が叫ぶ声を背に、
彼女は静かに海へ身を沈めました。
水の中で、弟橘比売は目を閉じ、手を胸に当てました。
波の音が遠ざかり、光が揺らぎ、静寂が広がる。
「どうか……この人が、生きて帰れますように」
その願いだけが、彼女の心を満たしていました。
そしてその祈りは、海の神々に届き、
倭建命の命を守る力となったのです。

蝦夷の地に踏み入った倭建命は、
足柄山で白く輝く鹿と出会いました。
その目は、ただの獣ではなく――山そのものの意志を宿していました。
「……これは、神の使いか」
鹿は風のように走り、
倭建命の剣を避け、角で岩を砕きました。
その動きは、まるで自然そのものが怒りをぶつけてくるかのようでした。
倭建命は息を整え、剣を構え直します。
「お前は、何を守っている……?」
鹿は答えず、ただ静かに睨み返しました。
その瞳に、弟橘比売の面影が重なります。
「……ああ、我が妻よ。
お前なら、この神の怒りを……どう受け止めただろうか」
鹿が再び跳ねた瞬間、
倭建命はその足の運びを読み、
一瞬の隙を突いて剣を振るいました。
「――今だ!」
剣は白鹿の胸を貫き、
その体は静かに地に伏しました。
倭建命は膝をつき、手を合わせました。
「お前は、ただこの地を守っていたのだな……
許せ、我が使命が、お前を斬った」
風が静かに吹き、山の木々がざわめきました。
それは、白鹿の魂が山へ還っていく音のようでした。
その夜、倭建命は焚き火の前で独り言を呟きました。
「お前がいたら……この戦いも、少しは優しくなっただろうか」
炎が揺れ、彼の瞳に涙が浮かびます。
「私は……強くなった。
だが、その強さが……私を苦しめている」
彼は剣を見つめ、静かに語りかけました。
「弟橘……お前の祈りが、今も私を導いている。
だから私は、進む。
この地を、平らげるために」

倭建命が東国へ向かった日から、
美夜受比売は毎朝、そして毎晩、空を見上げていました。
「どうか……ご無事で……」
侍女がそっと声をかけます。
「姫さま、今朝も空を?」
「ええ。空は、あの方とつながっている気がするの」
「……倭建命さまは、きっとご無事です。あの方は強い方ですから」
美夜受比売は微笑みながら、静かに答えました。
「その強さが……あの方を傷つけるのです」
倭建命が戻った日、
美夜受比売は庭の端で彼を待っていました。
彼の姿が見えた瞬間、胸が締めつけられました。
しかし、涙をこらえ、静かに頭を下げました。
「おかえりなさいませ」
倭建命は少し驚いたように彼女を見つめ、
そして、そっと微笑みました。
「……ただいま」
その言葉には、疲れと安堵、そして微かな痛みが混じっていました。
その夜、倭建命は月を見上げながら、静かに歌を詠みました。
「月の障り 衣の裾に 触れし時
君の心に 影はなかりし」
美夜受比売はその歌を聞き、胸が熱くなりました。
そして、同じように歌を返しました。
「月の光 裾に宿りて 揺れし時
我が心にも 影はありけり」
二人は言葉より深く、心を通わせました。
その歌には、互いの痛みと優しさ、そして再会の喜びが込められていました。

伊吹山の山道を進む倭建命の前に、
突如として白い猪が現れました。
その姿は、ただの獣とは異なり――
「……これは、神そのものだ」
倭建命は剣に手をかけながら、息を呑みました。
猪の足跡からは霧が立ち昇り、
その息は雷のような音を響かせ、
目は深い闇のように光っていました。
傍らの従者が震えながら囁きます。
「命さま……これは、討つべきでは……」
倭建命は目を細め、静かに答えました。
「今はよそう。帰りに討とう」
その言葉が、山の怒りを呼び起こしました。
その瞬間、空が唸り、
雹が降り、風が唸り、
山全体が怒りに満ちました。
「ぐっ……!」
倭建命は身体を打ち据えられ、
膝をつき、息を荒げました。
「これは……祟りか……」
従者が駆け寄り、必死に声をかけます。
「命さま! しっかりなされませ!」
「……身体が……動かぬ……」
彼はそのまま倒れ、
山の冷たい風に晒されながら、病に伏しました。
その夜、倭建命は朦朧とした意識の中で、
弟橘比売の声を思い出しました。
「あなたは、誰よりも優しい。
だからこそ、誰よりも傷ついている」
彼は苦しみながら、呟きました。
「私は……強さに溺れたのか……
神を侮った……その報いか……」
従者が薬草を煎じながら、涙をこらえます。
「命さま……どうか、持ちこたえてください……」
山の静寂の中、倭建命の苦悶は続きました。
それは、彼の“強さ”が試される、最も孤独な戦いでした。

倭建命は、病に伏しながらも静かに歩みを進め、
ついに能煩野の地に辿り着きました。
従者が心配そうに声をかけます。
「命さま……もう、これ以上は……」
倭建命は微笑みながら、空を見上げました。
「……大和は、青い垣のように山々が囲む、美しい国だ」
その言葉は、彼の心の奥にある望郷の想いでした。
「草薙の太刀よ……」
彼はそっと呟き、
そのまま静かに息を引き取りました。
葬儀の日、后や御子たちは涙を流しながら、
倭建命の亡骸に手を合わせました。
そのとき――
空に白い千鳥が舞い上がりました。
それは、倭建命の魂が白鳥となって昇天する姿でした。
「……あれは、命さま……?」
后は涙を拭いながら、空を見上げました。
「どうか……安らかに……」
白鳥は伊勢から河内へ飛び、
志幾の地に留まりました。
そこに、白鳥御陵が築かれました。
しかし、白鳥は再び空へ舞い上がり、
雲の彼方へと姿を消しました。
従者が呟きます。
「命さまは……もう、神々のもとへ還られたのですね」
后は静かに頷きました。
「この国を守り、愛し、傷つきながらも……
最後まで、優しさを忘れなかった方でした」
空には、白い羽が一枚、風に乗って舞っていました。
それは、倭建命の魂が今もこの国を見守っている証のようでした。

蛇神大物主神より授かりし神秘の恩恵
史上初!潜在意識の深海で甦る ― 奇跡の再生ヒーリング
大うつ病、不安、ストレス解消,自律神経失調症といったメンタル不調を瞬時に解消
精神科患者の8割が騙されている?精神医療の実態を知るおすすめ本
朝霧が立ちこめる近江の志賀、高穴穂宮。
若帯日子天皇は静かに庭を歩きながら、侍従に語りかけました。
「今日も、国は穏やかであるか?」
侍従は頭を下げながら答えます。
「はい、陛下。民は安んじ、役人も勤めに励んでおります」
天皇は微笑みながら、遠くの山々を見つめました。
「父・景行の時代は、剣が国を治めた。
兄・倭建命は、荒ぶる神を討ち、白鳥となって昇天した。
だが……私は、剣よりも秩序を望む」
宮中では、侍女たちが囁き合っていました。
「陛下は、剣を振るわれぬが……その御心は深く、国を長く安んずるための道を常にお考えであられる」
「倭建命さまのような烈しさはないけれど……
陛下の静けさは、民に安心を与えているのです」
若帯日子天皇は、幼いころから兄の背を見て育ちました。
熊襲を討ち、東国を平定し、白鳥となって空へ舞ったその姿――
ある夜、天皇は側近に語りました。
「兄上のような烈しさは、私にはない。
だが……国を治める道は、剣だけではないはずだ」
側近は静かに頷きました。
「陛下の御心が、国の柱となるのです。
武よりも秩序を重んじるその御姿こそ、民の安寧を導くものにございます」
天皇は月を見上げ、静かに呟きました。
「私は、兄の影に怯えるのではなく……
その光を受け継ぎたいのだ」

高穴穂宮の庭に、春の風がそよぎます。
弟財郎女(おとたからのいらつめ)は、咲き始めた梅の花に目を細めながら、
そっと風の音に耳を澄ませていました。
天皇が静かに歩み寄り、声をかけます。
「今日の庭は、よく香るな」
皇后は微笑みながら答えました。
「はい。風が、花の香りを運んでくれております」
「私は……兄上のように剣を振るうことはできぬ。
だが、国を整えることならば……」
皇后はそっと首を振り、天皇の手に触れました。
「陛下は陛下にしかできぬ道を歩まれております。
国を整えることこそ、民が最も望むことでございましょう」
その言葉に、天皇はしばし沈黙し、
そして深く頷きました。
「……その言葉が、私の支えとなる」
弟財郎女は、華やかさよりも静けさを好む女性でした。
侍女たちは彼女のそばで、そっと囁き合います。
「皇后さまは、まるで春の霞のよう……」
「陛下が穏やかであられるのは、皇后さまのおかげです」
天皇は庭の池を眺めながら、皇后に語りました。
「この国が、争いではなく、調和によって治まるよう……
私は、制度を整えたい」
皇后は静かに微笑み、答えました。
「それこそが、陛下の“剣”なのです」

春の朝、宮中に柔らかな光が差し込む中、
弟財郎女は静かに御子を抱いていました。
その小さな命は、和訶奴気王――ただ一柱の皇子。
侍女がそっと声をかけます。
「姫さま、御子はよく眠っておられますね」
皇后は微笑みながら答えました。
「ええ……この子の寝顔を見ていると、
心が静かに満たされていくようです」
若帯日子天皇は、皇子を腕に抱きながら、
その小さな温もりに目を細めました。
「兄上のように烈しくなくともよい。
この子には、この子の道がある」
皇后がそっと寄り添い、天皇の袖を握ります。
「陛下の御心が、この子に受け継がれております。
争いのない世を歩ませてあげましょう」
天皇は皇子の顔を覗き込み、優しく語りかけました。
「和訶奴気よ……お前が歩む道が、
穏やかで、光に満ちたものであるように……」
皇子は父の胸に顔を寄せ、
その温もりに安心したように、すやすやと目を閉じました。
侍女たちは、そっと囁き合います。
「この御子さまは、陛下に似て穏やかでいらっしゃる」
「きっと、国を安んじる光となるでしょう」
天皇はその声を聞きながら、静かに頷きました。
「この子が育つ世を、私は整えねばならぬ。
剣ではなく、言葉と秩序で――」
春の風が吹く朝、若帯日子天皇は建内宿禰を呼び寄せました。
庭の梅がほころぶ中、天皇は静かに語りかけます。
「私は、兄上のように剣を振るうことはできぬ。
だが、国を整えることならば……そなたの力を借りたい」
建内宿禰は深く頭を下げ、
その声に揺るぎない敬意を込めて答えました。
「陛下の御心こそ、国を治める柱でございます。
この身、いかなる道でもお供いたします」
こうして、二人は全国を巡る旅へと出発しました。
道中、天皇は村々を訪れ、民の声に耳を傾けました。
ある村で、年老いた農夫が頭を下げながら語ります。
「陛下がお越しくださるとは……ありがたいことでございます」
天皇は膝を折り、農夫の目を見て答えました。
「民の暮らしを知ることこそ、国を治める第一歩だ」
建内宿禰はその姿を見て、心の中で思いました。
「この方は……剣ではなく、心で国を治めようとしておられる」
巡行を終え、高穴穂宮に戻った夜。
天皇は建内宿禰と庭を歩きながら語りました。
「この国には、まだ整えるべきことが多い。
制度を築き、民が安心して暮らせるようにしたい」
建内宿禰は静かに頷きました。
「陛下の御志があれば、国は必ず安んじましょう。
私も、命尽きるまでお支えいたします」
天皇は夜空を見上げ、星々の輝きに目を細めながら呟きました。
「兄上の剣が空を翔けたなら……
私は、地を歩み、根を張る者となろう」

天皇は、地方の有力氏族を国造(くにのみやつこ)として任命し、
それぞれの地域を治めさせました。
また、国より小さな行政単位である県(あがた)を定め、
その長として県主(あがたぬし)を置きました。
さらに、国と国の境界を明確にし、
争いの種となる土地問題を解決していきました。
建内宿禰は天皇に申し上げます。
「陛下の御代に整えられた制度は、
のちの世の基盤となりましょう。
武によらず、秩序によって国を治める……
これこそ、真の大王の御姿にございます」
天皇は静かに頷きました。
「兄上の剣が国を広げたのなら、
私の務めは、その国を整えることだ」

成務天皇の御代は、争いが少なく、
民は安んじて田を耕し、家を守り、
穏やかな日々を送ったと伝えられます。
ある日の夕暮れ、村の広場で老農が若者たちに語りかけていました。
「お前たちは、倭建命さまの時代を知らぬだろう。
あれは英雄の時代じゃった。剣が空を裂き、神を討つ時代じゃ」
若者が目を輝かせて尋ねます。
「では、今の御代は……?」
老農は静かに笑い、空を見上げました。
「今は、静けさの時代じゃ。
争いはなく、田は実り、家族は笑う。
どちらも、国に必要な御代であったのだ」
その頃、高穴穂宮では、天皇が建内宿禰と語り合っていました。
「民の声を聞くたびに、私は思う。
剣を振るわずとも、国は治まるのだと」
建内宿禰は深く頷きました。
「陛下の御代は、民の心に安らぎをもたらしております。
それこそが、真の治世にございます」
天皇は庭の池に映る月を見つめながら、静かに呟きました。
「兄上の剣は空を翔けた。
私は、地に根を張り、民の声に耳を澄ませよう」
村の祭りの日、老農は天を仰ぎ、手を合わせました。
「成務天皇さま……この穏やかな日々を、ありがとうございます」
その祈りは、村の者たちの心にも響き、
天皇の静かな治世は、深く敬われていきました。

成務天皇は、九十五歳という長寿を保ち、
乙卯の年、三月十五日――春の風が穏やかに吹くその日、
静かに御旅立ちになりました。
寝所には、皇后・弟財郎女がそっと寄り添い、
天皇の手を握りながら、涙をこぼします。
「陛下……あなたの御代は、静かで、美しい御代でございました……
民は争いなく、田を耕し、家族と笑い合うことができました」
天皇は微笑みながら、かすかに首を振りました。
「それは……そなたが、私の傍にいてくれたからだ……」
その言葉を最後に、天皇は静かに目を閉じました。
その場にいた皇子・和訶奴気王は、
父の胸に顔を寄せ、震える声で語りました。
「父上……私は、父上のように国を思う人になりとうございます。
剣ではなく、心で国を治める道を、私も歩みます」
皇后は皇子の背に手を添え、静かに頷きました。
「あなたの中に、陛下の御心は生きております。
どうか、その静けさを、次の御代へと繋いでくださいませ」
天皇の御陵は、狭城の盾列に築かれました。
その佇まいは、まるで風の音すら遠慮するような静けさに包まれていました。
建内宿禰は、御陵の前で深く頭を垂れ、
心の中で語りかけます。
「陛下……この国は、陛下の御心によって安んじられました。
その静謐なる御代は、永く語り継がれましょう」
白い花が風に揺れ、
空には一羽の鳥が静かに舞い上がっていきました。
倭建命が剣で国を切り開いたなら、
成務天皇は制度で国を整えました。
兄と弟、
烈しさと静けさ、
剣と秩序。
そのどちらが欠けても、
大和の国は形を成さなかったでしょう。
若帯日子天皇の御代は、
静かでありながら、
確かに国の未来を支える礎となったのでございます。
■ 后妃と御子たち
大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、
纒向の日代宮(まきむくのひしろのみや)にて天下をお治めになりました。
天皇は多くの后妃を迎えられ、
その御子は記録されているだけで 二十一王、
記録に残らぬ御子を含めると 八十王 にも及びました。
その中でも特に名高いのが――
倭建命(やまとたけるのみこと)。
幼名は 小碓命(おうすのみこと) と申します。
大碓命の過ちと、小碓命の恐るべき性質
天皇は、美濃国の美しい姉妹を宮中に召そうとされ、
御子の 大碓命(おおうすのみこと) を遣わされました。
しかし大碓命は姉妹を自分の妻としてしまい、
別の女を天皇に献じました。
これを知った天皇は深く嘆き、
小碓命に兄を諭すよう命じます。
五日後、兄はなお参内せず。
天皇が理由を問うと、小碓命は静かに答えました。
「夜明け、兄が厠に入ったところを捕え、
手足をもぎ取り、薦に包んで捨てました」
天皇はその恐るべき性質を恐れ、
小碓命を遠く 熊襲(くまそ) の討伐へと遣わされました。
倭建命、熊襲を討つ ― 英雄の誕生
小碓命は叔母・倭比売命(やまとひめのみこと)から衣を借り、
少女に変装して熊襲建の宴に忍び込みます。
酒宴が最高潮に達したとき、
胸元に忍ばせた剣で兄の熊襲建を刺し、
逃げる弟を追って討ち取りました。
死に際、熊襲建は言いました。
「大和より我らを超える強き男子が現れた。
その名を 倭建命(やまとたけるのみこと) と称えよ」
こうして小碓命は 倭建命 と呼ばれるようになりました。
出雲建を討つ ― 偽りの太刀
倭建命は出雲へ向かい、
出雲建(いずもたける)と友情を結んだふりをして、
沐浴の際に太刀をすり替えます。
太刀合わせを挑むと、
出雲建の太刀は偽物で抜けず、
倭建命は本物の太刀で彼を討ちました。
そのときの歌。
出雲建が腰につけた太刀は
葛を巻いて見かけは立派だが
刀身がなくて
東国征伐 ― 草薙剣と弟橘比売の愛
天皇はさらに倭建命に命じます。
「東方十二国の荒ぶる神、人々を平定せよ」
倭建命は伊勢神宮を参拝し、
叔母の倭比売命から 草薙剣(くさなぎのつるぎ) と
「火急の際に開けよ」と言われた袋を授かります。
■ 焼津の火攻め
相模の国造に騙され、
野に火を放たれた倭建命。
袋を開くと火打石があり、
草を刈り払って向かい火を放ち、
炎を制して脱出しました。
その地は 焼津(やきつ) と呼ばれます。
■ 走水の海と弟橘比売
走水の海で荒波に阻まれたとき、
后の 弟橘比売(おとたちばなひめ) は言いました。
「私が身代わりとなりましょう。
皇子は使命を果たし、天皇に報告なさってください」
八重の畳を海に敷き、その上に立ち、
弟橘比売は海へ身を沈めました。
波は静まり、倭建命は渡ることができました。
七日後、后の櫛が海岸に流れ着き、
倭建命は涙ながらに葬りました。
東国平定と “吾妻はや”
倭建命は蝦夷を平定し、
足柄山で白鹿を討ち、
山頂で三度嘆息して言いました。
「ああ、我が妻よ……」
これが 吾妻(あずま) の語源と伝えられます。
美夜受比売との再会と別れ
尾張に戻った倭建命は、
約束していた美夜受比売(みやずひめ)と再会します。
しかし、彼女の衣の裾に月の障りがあり、
倭建命は歌を詠みました。
天香具山を渡る白鳥よ
その白鳥の首のように
細い腕を枕にしたいが
裾に月が出てしまった
美夜受比売は静かに答えます。
天香具山を渡る白鳥よ
その白鳥の首のように
細い腕を枕にしたいが
裾に月が出てしまった
二人は結ばれましたが、
倭建命は草薙剣を置いたまま、
伊吹山の神を討つため旅立ちます。
伊吹山の神の祟りと、英雄の死
伊吹山で白い猪に出会い、
倭建命は言いました。
「これは神の使いだろう。帰りに討とう」
しかしそれは神そのものでした。
山は激しい雹を降らせ、
倭建命は重い病に倒れます。
帰路、彼は次々と地名を残しながら弱っていきました。
・当芸(たぎ)
・杖衝坂(つえつきざか)
・三重(みえ)
能煩野(のぼの)に至り、
故郷・大和を思って歌います。
大和は
青い垣のように山々が囲む
美しい国だそして最後の歌。
美夜受比売の床のそばに
置いてきた太刀よ
ああ、草薙の太刀よ
歌い終えると、倭建命は息を引き取りました。
白鳥となった倭建命
葬儀のとき、倭建命の魂は
白い千鳥となって空へ飛び立ちました。
后や御子たちは泣きながら追い、
その姿を歌に詠みました。
白鳥は伊勢から河内へ飛び、
志幾(しき)に留まりました。
そこに 白鳥御陵(しらとりのみささぎ) が築かれました。
しかし白鳥はさらに天へ翔け、
姿を消したと伝えられます。
倭建命の子孫と景行天皇の御終焉
倭建命には六柱の御子があり、
その中の 帯中津日子命(たらしなかつひこ) が
のちの 仲哀天皇 となります。
景行天皇は 137歳 で崩御され、
御陵は山辺道のほとりにあります。
■ 高穴穂宮にて天下を治める
若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)は、
近江の 志賀・高穴穂宮(しがのたかあなほのみや) にて天下をお治めになりました。
その御姿は、父・景行天皇や兄・倭建命のように武勇を示すというより、
国の制度を整え、秩序を築くことに長けた大王 であったと伝えられます。
■ 皇后と御子
天皇は、穂積臣(ほずみのおみ)の祖である
建忍山垂根(たけおしやまたりね) の娘、
弟財郎女(おとたからのいらつめ) を皇后とされました。
お生まれになった御子は、
和訶奴気王(わかぬけのみこ)
ただ一柱でございます。
この静かな御代にふさわしく、
皇子は慎み深く、穏やかな性質であったと伝えられます。
国造(くにのみやつこ)と県主(あがたぬし)の制度を定める
成務天皇の御代の最大の功績は、
国の行政制度を整えたこと にあります。
天皇は、
父の代から仕えてきた名臣 建内宿禰(たけしうちのすくね) を大臣とし、
彼と共に全国を巡り、次のような制度を整えました。
■ 国造(くにのみやつこ)の設置
地方の有力氏族を「国造」として任命し、
それぞれの地域を治めさせました。
■ 県主(あがたぬし)の設置
国より小さな行政単位である「県(あがた)」を定め、
その長として県主を置きました。
■ 国境の明確化
国と国の境界を定め、
争いの種となる土地問題を解決しました。
これらの制度は、
のちの大和政権の基盤となり、
日本の古代国家形成において極めて重要な役割を果たします。
成務天皇は、
武力ではなく 秩序と制度によって国を治めた大王 といえるでしょう。
静かなる御代と御終焉
成務天皇は 九十五歳 という長寿を保ち、
乙卯(きのとう)の年、三月十五日に崩御されました。
御陵は 狭城(さき)の盾列(たてなみ) にあります。
静かで穏やかな御代にふさわしく、
その御陵もまた、静謐な佇まいであったと伝えられます。
天皇即位
大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、垂仁天皇(すいにんてんのう)の第三子であられます。
母は丹波道主王の娘である日葉洲媛命(ひはすひめのみこと)です。
垂仁天皇三十七年に皇太子となられました。
そのとき、御年二十一歳でした。
九十九年春二月、垂仁天皇が崩御されました。
元年秋七月十一日、皇太子は皇位につかれ、年号を改められました。
この年は太歳辛未(かのとひつじ)でした。
二年春三月三日、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后とされました。
皇后は二人の男子をお生みになりました。
第一は大碓皇子(おおうすのみこと)、第二は小碓尊(こうすのみこと)です。
この二人は同じ日に同じ胞(えな)に生まれた双生児でした。
天皇はこれを不審に思われ、碓(うす)に向かって叫び声をあげられました。
そこでこの二人を大碓(おおうす)・小碓(こうす)と名づけられました。
小碓尊はまたの名を日本童男(やまとおぐな)、または日本武尊(やまとたけるのみこと)といいます。
幼いころから雄々しい性格で、壮年になると容貌は溢れるばかりに逞しく、身の丈は一丈(約3m)、力は鼎(かなえ)を持ち上げるほどであったと伝えられます。
神祇の祭祀と武内宿禰の誕生
三年春二月一日、天皇は紀伊国(きいのくに)に行幸され、諸々の神祇をお祭りしようとされましたが、占うと吉と出ませんでした。
そこで行幸を中止され、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わして祭らせました。
武雄心命(たけおごころのみこと)は阿備の柏原(あびのかしわら)にいて神祇を祀り、そこに九年住まわれました。
紀直(きのあたい)の先祖である蒐道彦(うじひこ)の娘・影媛(かげひめ)を娶り、武内宿禰(たけのうちのすくね)を生ませました。
美濃の弟媛と八坂入媛
四年春二月十一日、天皇は美濃(みの)にお出でになりました。
側近が申し上げました。
「この国に美人がいます。弟媛(おとひめ)といい、容姿端麗な八坂入彦皇子(やさかのいりびこのみこと)の娘です。」
天皇は弟媛を妃にしたいと思われ、弟媛の家に行かれました。
弟媛は天皇が来られたと聞いて竹林に隠れました。
天皇は弟媛を引き出そうとお考えになり、泳宮(くくりのみや)におられ、鯉を池に放って朝夕ご覧になって遊ばれました。
あるとき弟媛は鯉の遊ぶ様子を見ようとこっそり池に来ました。
天皇はそれを引きとめて召されました。
弟媛は心の中で、夫婦の道は古も今も同じであるが、あれこれ問い質すこともできず困り、天皇に申し上げました。
「私は交接のことを望みません。恐れ多い仰せで大殿に参りましたが、心は快くありません。また私の顔も美しくなく、長く後宮に仕えることはできません。ただ、私の姉・八坂入媛(やさかのいりびめ)は顔も良く志も貞潔です。どうか後宮に召し入れてください。」
天皇はこれを聞き入れられ、八坂入媛を妃とされました。
八坂入媛は七男六女、合わせて十三人を生みました。
八坂入媛の十三皇子女
第一:稚足彦天皇(わかたらしひこ)(成務天皇)
第二:五百城入彦皇子(いおきいりひこ)
第三:忍之別皇子(おしのわけ)
第四:稚倭根子皇子(わかやまとねこ)
第五:大酢別皇子(おおすわけ)
第六:淳熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)
第七:淳名城皇女(ぬなきひめ)
第八:五百城入姫皇女(いおきいりびめ)
第九:籠依姫皇女(かごよりひめ)
第十:五十狭城入彦皇子(いさきいりびこ)
第十一:吉備兄彦皇子(きびのえひこ)
第十二:高城入姫皇女(たかきいりびめ)
第十三:弟姫皇女(おとひめ)
その他の妃と皇子女
三尾氏の磐城別(いわきわけ)の妹・水歯郎媛(みずはのいらつめ)は五百野皇女(いおのひめみこ)を生みました。
五十河媛(いかわひめ)は神櫛皇子(かみくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせのいりひこ)を生みました。
神櫛皇子は讃岐国造の先祖、稲背入彦皇子は播磨別の先祖です。
阿倍氏木事(あべのうじのこごと)の娘・高田媛(たかたひめ)は武国凝別皇子(たけくにこりわけ)を生みました。
これは伊予国御村別の先祖です。
日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこ)を生みました。
これは阿牟君(あむのきみ)の先祖です。
襲武媛(そのたけひめ)は国乳別皇子(くにちわけ)、国背別皇子(くにそわけ)、豊戸別皇子(とよとわけ)を生みました。
国乳別は水沼別の先祖、豊戸別は火国別の先祖です。
皇子女八十人と諸国の別
天皇の男女は全部で八十人おられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、五百城入彦皇子(いおきいりひこ)を除く七十余人は、すべて国や郡に封じられ、各地に赴かれました。
現在の諸国の「別(わけ)」は、これら別王の子孫です。
大碓命の失態と日代宮
この月、天皇は美濃国造・神骨(かむばね)の娘で、美人と聞こえた姉・兄遠子(えとおこ)と妹・弟遠子(おととおこ)を見せるため、大碓命(おおうすのみこと)を遣わされました。
しかし大碓命はこっそり女と通じ、復命しませんでした。
天皇はこれをお恨みになりました。
冬十一月一日、天皇は美濃から帰られ、纏向(まきむく)に都を造られました。
これを日代宮(ひしろのみや)といいます。
熊襲の反乱と土蜘蛛討伐
十二年秋七月、熊襲がそむいて貢物を奉りませんでした。
八月十五日、天皇は筑紫に向かわれました。
九月五日、周芳国(すわのくに)の娑麼(さば)(山口県佐波)に着かれ、南方に煙が多く立つのを見て、
「賊がいるのだろう」
とおっしゃいました。
武諸木(たけもろき)、菟名手(うなて)、夏花(なつはな)を遣わして様子を見させました。
そこには神夏磯媛(かむなつそひめ)という女がいて、一国の首長でした。
彼女は天皇に帰順し、四人の賊の存在を告げました。
鼻垂(はなたり)
耳垂(みみたり)
麻剝(あさはぎ)
土折猪折(つちおりいおり)
武諸木らは麻剝らを誘い出し、すべて捕えて殺しました。
天皇は筑紫に入り、豊前国長峡県(ながおのあがた)に行宮を建てられました。
これを京(みやこ)といいます。
冬十月、碩田国(おおきたのくに)に着かれ、地形が美しいので碩田と名づけました。
速見村(はやつむら)では速津媛(はやつひめ)が土蜘蛛の存在を告げました。
天皇は来田見邑(くたみむら)に留まり、軍議して討伐を決められました。
椿の木で椎(つち)を作り、兵に授け、土蜘蛛を討ちました。
血はくるぶしまで流れ、椿市・血田の地名が生まれました。
さらに禰疑山(ねぎのやま)で八田を討ち、打猿は降伏を願いましたが許されず、皆谷に身を投げました。
天皇は柏峡(かしわお)の大野で占いをし、石を蹴ると柏の葉のように舞い上がりました。
これを踏石(ほみし)と名づけました。
十一月、日向国に着き、高屋宮(たかやのみや)を建てられました。
熊襲討伐
十二月五日、熊襲(くまそ)を討つことを相談されました。
天皇は群卿(まちきみ)たちに詔して、
「聞くところによると、襲(その)国に厚鹿文(あつかや)、迮鹿文(さかや)という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十梟帥(やそたける)と言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし多勢の兵を動かせば百姓に害となる。兵の威力を借りず、ひとりでにその国を平定できないものか」
とおっしゃいました。
熊襲討伐
一人の臣が進み出て申し上げました。
「熊襲梟帥(くまそたける)に二人の娘があります。姉を市乾鹿文(いちふかや)、妹を市鹿文(いちかや)といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。多くの贈り物をして手下に入れるのがよいでしょう。梟帥の様子を探らせて不意を突けば、刃を血で汚さずとも敵を破ることができましょう。」
天皇は、
「良い考えだ」
とおっしゃいました。
そこで贈り物を見せて二人の女を欺き、味方につけました。
天皇は市乾鹿文(いちふかや)を召して、騙すために寵愛されました。
市乾鹿文は天皇に申し上げました。
「熊襲が従わないことをお気になさらないでください。私に良い案があります。一人か二人の兵をお付けください。」
家に帰って強い酒を多く用意し、父に飲ませました。
父は酔って寝てしまいました。
市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切っておきました。
そこへ従兵の一人が進み出て、熊襲臬帥(くまそたける)を殺しました。
天皇はその不孝の甚だしいことを憎まれ、市乾鹿文を殺させました。
妹の市鹿文(いちかや)は火国造(ひのくにのみやつこ)に賜わりました。
十三年夏五月、ついに襲(その)国を平定されました。
高屋宮(たかやのみや)にお出でになってすでに六年が経っていました。
その国に美人がいて、御刀媛(みはかしひめ)といいました。
これを召して妃とされ、豊国別皇子(とよくにわけのみこと)をお生みになりました。
これが日向国造(ひむかのくにのみやつこ)の先祖です。
日向国の命名と国偲び歌
十七年春三月十二日、天皇は子湯県(こゆのあがた)(宮崎県児湯)にお出でになり、丹裳小野(にものおの)に遊ばれました。
そのとき東方を望まれ、お側の者におっしゃいました。
「この国はまっすぐに日の出る方に向いているなあ。」
そこでその国を日向(ひむか)と名づけられました。
この日、野中の大石に登って都を偲び、歌を詠まれました。
ハシキヨシ、ワギへのかたゆ、くもゐたちくも、やまとは、くにのまほらば、たたなづく、あをがきやま、こもれる、やまとし、うるはし、いのちの、またけむひとは、たたみこも、へぐりのやまの、しらがしがえを、うずにさせ、このこ。
(なつかしいなあ、我が家の方から雲が湧いて流れてくる。
大和は最も優れた国。青々とした山が重なり垣のように包んでいる。
大和の国は美しい。
命の満ちた人よ、平群の山の白橿の枝を髪飾りとして挿しなさい、この子よ。)
これを国偲び歌(くにしのびうた)といいます。
筑紫巡幸と諸国の平定
十八年春三月、天皇は京に向かおうとして筑紫国を巡幸されました。
最初に夷守(ひなもり)に着かれました。
岩瀬川のほとりに群衆が集まっていました。
天皇は遠くから眺め、お側の者に、
「あの集まっている人々は何だろう。賊だろうか」
とおっしゃいました。
兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)を遣わして見させました。
弟夷守が帰ってきて、
「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が帝に献上物を奉ろうとして、その仲間が集まっているのです。」
と申し上げました。
熊県の兄弟
夏四月三日、熊県(くまのあがた)に着かれました。
そこに熊津彦(くまつひこ)という兄弟がいました。
天皇はまず兄熊(えくま)を呼ばれ、彼は従って来ました。
次に弟熊(おとくま)を呼ばれましたが、来なかったため、兵を遣わして討たれました。
水島の泉
十一日、葦北(あしきた)の小島に泊まり、食事をされました。
山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖である小左(おひだり)を呼んで冷たい水を献上させました。
島には水がなかったため、天を仰いで天神地祇に祈ると、崖の傍から冷たい水が湧き出ました。
これを汲んで献上しました。
その島を水島(みずしま)と名づけました。
火国(ひのくに)の名の由来
五月一日、葦北から船出して火国に着きました。
暗くて岸に着けず、遠くに火の光が見えました。
天皇は船頭に、
「まっすぐ火のもとへ向かえ」
と命じられました。
火の光のもとに着き、
「何という邑か」
と尋ねられ、
「八代県の豊村です」
と答えました。
火の主を尋ねても分からず、人の火ではないため、その国を火国(ひのくに)と名づけました。
阿蘇国の神々
六月三日、高来県から玉杵名邑に着かれ、土蜘蛛の津頰(つつら)を討たれました。
十六日、阿蘇国に着かれました。
野が広く人家が見えず、
「この国には人がいるのか」
と問われると、阿蘇津彦・阿蘇津媛の二神が人の姿で現れ、
「私たちがおります」
と申し上げました。
そこでその国を阿蘇(あそ)と名づけられました。
御木国(みけのくに)
秋七月四日、筑紫後国の三毛(みけ)に着かれ、高田の行宮に入られました。
倒れた巨大な樹木があり、人々はそれを踏んで往来していました。
天皇が尋ねられると、老人が、
「これは歴木(くぬぎ)です。朝日を受ければ杵島山を隠し、夕日を受ければ阿蘇山を隠すほどでした。」
と申し上げました。
天皇は、
「この樹は神木である。この国を御木国(みけのくに)と呼ぼう」
とおっしゃいました。
八女国(やめのくに)
七日、八女県に着かれました。
藤山を越え、粟崎を望まれ、
「その山の峰は幾重にも重なり麗しい。きっと神がいるだろう」
とおっしゃいました。
水沼県主・猿大海(さるおおみ)が、
「女神・八女津媛(やめつひめ)がおられます」
と申し上げ、ここから八女国の名が始まりました。
浮羽(うきは)の名の由来
八月、的邑(いくは)で食事をされました。
食膳掛が盞(うき)を忘れたため、その地を浮羽(うきは)と名づけました。
大和への帰還と諸国視察
十九年秋九月二十日、天皇は日向から大和に帰られました。
二十年春二月四日、五百野皇女(いおののひめみこ)を遣わして天照大神を祭らせました。
二十五年春二月十二日、武内宿禰を遣わして北陸・東方の諸国を視察させました。
二十七年春二月十二日、武内宿禰は帰り、
「東国の田舎に日高見国(ひたかみのくに)があります。人々は髪を椎のように結い、入墨をして勇敢です。これらを蝦夷(えみし)といいます。土地は肥えて広大で、攻略するとよいでしょう。」
と申し上げました。
秋八月、熊襲が再び背き、辺境を侵しました。
日本武尊 出動
冬十月十三日、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして、熊襲(くまそ)を討たせました。
このとき、日本武尊の御年は十六歳でした。
日本武尊は、
「弓の上手な者を連れて行きたいと思います。どこかに名人はいないでしょうか」
とおっしゃいました。
ある人が申し上げました。
「美濃国(みののくに)に名人がいます。弟彦公(おとひこのきみ)といいます。」
そこで日本武尊は、葛城(かずらき)の人である宮戸彦(みやとひこ)を遣わして、弟彦公を召されました。
弟彦公は、石占横立(いしうらのよこたち)、尾張(おわり)の田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちぢかのいなき)を率いて参上し、日本武尊のお供をしました。
熊襲の地へ
十二月、日本武尊は熊襲の国に到着され、地形や人々の暮らしを視察されました。
そのとき、熊襲に魁帥(たける)という者がいて、名は取石鹿文(とろしかや)、または川上臬帥(かわかみのたける)といわれていました。
一族を残らず集めて、新築の祝いの宴を開こうとしていました。
日本武尊は童女(少女)のように髪を垂らし、臬帥の宴の時をうかがいました。
剣を衣の中に隠し、酒宴の室に入り、女たちの中に混じりました。
臬帥タケルは、その童女の容姿が良いのを褒め、手を取って同席させ、盃を与えて戯れました。
夜が更け、酒宴の人々もまばらになり、臬帥タケルも酔いが回りました。
そこで日本武尊は衣の中の剣を取り出し、臬帥タケルの胸を刺しました。
臬帥タケルの最期
臬帥タケルは死ぬ前に頭を下げて言いました。
「しばらくお待ちください。申し上げることがあります。」
日本武尊は剣を留めて待たれました。
臬帥タケルは尋ねました。
「あなたはどなたでいらっしゃいますか。」
日本武尊は答えられました。
「自分は景行天皇(けいこうてんのう)の子である。名は日本童男(やまとのおぐな)という。」
臬帥タケルは言いました。
「私は国中で最も強い者です。それで世の人は私の威力を恐れ、従わない者はありません。多くの武人に会いましたが、皇子のような方は初めてです。卑しい者の口からですが、尊号(そんごう)を差し上げたい。お許しいただけますか。」
日本武尊は、
「許そう」
とおっしゃいました。
そこで臬帥タケルは言いました。
「これ以後、皇子を日本武皇子(やまとたけるのみこ)と申し上げたい。」
言葉が終わると、日本武尊は胸を刺して臬帥タケルを殺されました。
これによって、今に至るまで日本武尊(やまとたけるのみこと)と称えるのは、この由来によるものです。
その後、日本武尊は弟彦らを遣わして、臬帥の仲間をすべて斬らせ、残る者はありませんでした。
西国からの帰途と悪神退治
さらに海路を倭(やまと)の方に向かわれ、吉備(きび)に行き、穴海(あなのうみ)を渡りました。
そこに悪い神がいたので、これを殺されました。
また難波(なにわ)に至る頃、柏渡(かしわのわたり)の悪神も殺されました。
熊襲平定の奏上
二十八年春二月一日、日本武尊は熊襲平定の様子を奏上されました。
「私は天皇の御霊力によって兵を挙げて戦い、熊襲の首領を討ち、その国を平らげました。西の国も鎮まり、人民は安らかになりました。吉備の穴渡の神と難波の柏渡の神は人を害し、悪人の巣となっていましたので、これを討ち、水陸の道を開きました。」
天皇は日本武尊の手柄を褒め、特に愛されました。
東国の乱と再征命令
四十年夏六月、東国の蝦夷(えみし)が背き、辺境が動揺しました。
秋七月十六日、天皇は群卿に詔して、
「今、東国に暴れる神が多く、蝦夷がすべて背いて人民を苦しめている。誰を遣わして乱を鎮めようか」
と問われました。
群臣は答えられませんでした。
日本武尊は申し上げました。
「私は先に西征に働かせていただきました。今度の役は大碓皇子(おおうすのみこ)がよいでしょう。」
大碓皇子は驚いて草の中に隠れましたが、連れ戻されました。
天皇は責めて言われました。
「望まぬ者を無理に遣わすことはない。何事だ。まだ敵にも会わないのに、なぜ怖がるのか。」
こうして大碓皇子は美濃国を任され、任地に赴きました。
これが身毛津君(むげつのきみ)・守君(もりのきみ)の先祖です。
日本武尊、東征を請け負う
日本武尊は雄々しく言われました。
「熊襲が平定されて間もないのに、また東国の夷が反乱した。いつになったら安定するのか。大変ですが、急いで平らげましょう。」
天皇は日本武尊を征夷将軍に任じ、東国の状況を詳しく述べられました。
「かの東夷(あずまえびす)は性狂暴で、凌辱も恥じず、村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷(あずまえびす)の中でも、蝦夷(えみし)は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず報いるという。矢は髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯(お)びている。あるいは、仲間を集めて辺境を犯し、実りの時期を狙って作物をかすめ取る。攻めれば草に隠れ、追えば山に入る。昔から一度も王化に従ったことがない。今、お前の人と成りを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電のようで、向うところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが、本当は神人(かみ)である。これは誠に自分が至らず、国が乱れるのを天が哀れんで、天業を整え、祖先のお祭りを絶えさせないようにして下さっているのだろう。天下も位もお前のもの同然である。どうか深謀遠慮をもって、良くない者は懲らしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わず、自ずから従うようにさせよ。言葉を考えて暴ぶる神を静まらせ、あるいは、武を振って姦鬼を打払え」
日本武尊は将軍の位を賜わり、
「西征のときは皇威を頼り、短い剣で熊襲を討ちました。今度も皇威をお借りし、徳を示し、それでも従わぬ者は討ちましょう。」
と申し上げました。
天皇は吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)を従わせ、七掏脛(ななつかはぎ)を膳夫(かしわで)とされました。
伊勢参拝と草薙剣
冬十月二日、日本武尊は出発されました。
七日、伊勢神宮を拝まれました。
倭媛命(やまとひめのみこと)に別れを告げ、
「今、天皇の命を受けて東国に向かいます。ご挨拶に参りました。」
と申し上げました。
倭媛命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授け、
「よく気をつけ、決して油断してはなりません。」
とおっしゃいました。
駿河の火攻めと草薙の由来
日本武尊は駿河(するが)に行かれました。
賊は従うふりをして、
「この野には大鹿が多く、狩りをなさるとよいでしょう。」
と欺きました。
日本武尊が野に入ると、賊は火を放ちました。
日本武尊は火打石で迎え火をつくり、難を逃れました。
また一説には、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が自ら抜けて草をなぎ払い、皇子を救ったといいます。
これによってその剣を草薙(くさなぎ)と名づけたとされます。
日本武尊は、
「危うく欺かれるところであった。」
とおっしゃり、賊を焼き滅ぼしました。
その地を焼津(やきづ)(静岡県焼津)と名づけました。
弟橘媛(おとたちばなひめ)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、さらに相模(さがみ)にお出でになって、上総(かみつふさ)に渡ろうとなさいました。
海を望んで大言壮語して、
「こんな小さい海、飛び上がってでも渡ることができよう」
とおっしゃいました。
ところが、海の中ほどに至ると暴風が起こり、御船は漂流して進みませんでした。
そのとき、皇子に付き従ってきた妾があり、名を弟橘媛(おとたちばなひめ)と申しました。
穂積氏(ほづみうじ)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘でございます。
弟橘媛(おとたちばなひめ)は皇子に申し上げました。
「今、風が起こり、波が荒れて御船は沈みそうでございます。これはきっと海神の仕業でございましょう。賤しい私めが皇子の身代わりに海に入りましょう。」
そう申し終えると、すぐに波を押し分けて海にお入りになりました。
すると暴風はたちまち止み、船は無事に岸へ着くことができました。
当時の人々は、この海を馳水(はしるみず)と名づけました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、上総(かみつふさ)から移って陸奥国(みちのくのくに)にお入りになりました。
そのとき、大きな鏡を船に掲げて海路から葦浦(あしうら)に回り、玉浦(たまのうら)を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られました。
蝦夷(えみし)の首領である島津神(しまつかみ)、国津神(くにつかみ)たちは、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしました。
しかし、遥かに王船を見てその威勢に恐れ、
「これは勝てそうにない」
と心中で思い、すべての弓矢を捨てて仰ぎ拝み、
「君のお顔を拝すると、人に優れておられます。神様でいらっしゃいますか。お名前を承りたい」
と申し上げました。
皇子は答えておっしゃいました。
「我は現人神(あらひとがみ)、すなわち天皇の皇子である。」
蝦夷(えみし)らはすっかり畏まり、着物をつまみ上げて波を分け、王船を助けて岸に着けました。
そして自ら縛についた形で服従しました。
そのため、皇子は彼らの罪をお許しになりました。
首領たちは捕虜として従者に加えられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は蝦夷(えみし)を平定して日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮(さかおりのみや)にお出でになりました。
明かりを灯してお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになりました。
ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル。
「新治(にいばり)や筑波(つくば)を過ぎて、いったい幾夜寝ただろうか。」
従者たちは答えられませんでした。
御火焚(みひたき)の者が、皇子の歌の後を続けて歌いました。
カガナヘテ、ヨニハココノヨ、ヒニハトヲカヲ。
「日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日でございます。」
日本武尊(やまとたけるのみこと)は御火焚(みひたき)の賢さを褒め、厚く褒美をお与えになりました。
この宮にお出でになった際、較部(ゆけいのとものお)を大伴連(おおとものむらじ)の先祖である武日(たけひ)に賜わりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)はおっしゃいました。
「蝦夷(えみし)の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ、信濃国(しなののくに)と越国(こしのくに)だけが、まだ少し王化に服していない。」
甲斐(かい)から北方の武蔵(むさし)、上野(こうずけ)を巡って、西の碓日坂(うすひのさか)にお着きになりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は常に弟橘媛(おとたちばなひめ)を思い出されるお気持ちがあり、碓日の峯(うすひのみね)に登り、東南の方を望んで三度嘆いて、
「吾嬬(あずま)はや(我が妻よ)」
とおっしゃいました。
それで碓日嶺(うすひのみね)より東の諸国を、吾嬬国(あずまのくに)と申すようになりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、上総(かみつふさ)から移って陸奥国(みちのくのくに)にお入りになりました。
そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回られました。
玉浦(たまのうら)を横切って、蝦夷(えみし)の支配地にお入りになりました。
蝦夷(えみし)の首領である島津神(しまつかみ)、国津神(くにつかみ)たちは、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしました。
しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れ、心の中で「これは勝てそうにない」と思い、すべての弓矢を捨てて仰ぎ拝み、
「君のお顔を拝すると、人に優れておられます。神様でいらっしゃいますか。お名前を承りたい」
と申し上げました。
皇子は答えておっしゃいました。
「我は現人神(あらひとがみ)、すなわち天皇の皇子である。」
蝦夷(えみし)らはすっかり畏まり、着物をつまみ上げて波を分け、王船を助けて岸に着けました。
そして自ら縛についた形で服従しました。
皇子はその罪をお許しになり、首領たちを捕虜として従者に加えられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は蝦夷(えみし)を平定して日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮(さかおりのみや)にお出でになりました。
明かりを灯してお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになりました。
ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル。
「新治(にいばり)や筑波(つくば)を過ぎて、いったい幾夜寝ただろうか。」
従者たちは答えられませんでした。
御火焚(みひたき)の者が、皇子の歌の後を続けて歌いました。
カガナヘテ、ヨニハココノヨ、ヒニハトヲカヲ。
「日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日でございます。」
日本武尊(やまとたけるのみこと)は御火焚(みひたき)の賢さを褒め、厚く褒美をお与えになりました。
この宮にお出でになった際、較部(ゆけいのとものお)を大伴連(おおとものむらじ)の先祖である武日(たけひ)に賜わりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)はおっしゃいました。
「蝦夷(えみし)の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ、信濃国(しなののくに)と越国(こしのくに)だけが、まだ少し王化に服していない。」
甲斐(かい)から北方の武蔵(むさし)、上野(こうずけ)を巡って、西の碓日坂(うすひのさか)にお着きになりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は常に弟橘媛(おとたちばなひめ)を思い出されるお気持ちがあり、碓日の峯(うすひのみね)に登り、東南の方を望んで三度嘆いて、
「吾嬬(あずま)はや(我が妻よ)」
とおっしゃいました。
それで碓日嶺(うすひのみね)より東の諸国を、吾嬬国(あずまのくに)と申すようになりました。
ここで道を分けて、吉備武彦(きびのたけひこ)を越(こし)の国に遣わし、その地形や人民の順逆を見させられました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は信濃(しなの)に進まれました。
この国は山が高く、谷は深く、青い嶽が幾重にも重なり、人は杖をついても登るのが難しいほどでした。
岩は険しく坂道は長く、高峯は数千に及び、馬は行き悩んで進みませんでした。
しかし、日本武尊(やまとたけるのみこと)は霞を分け、霧を凌いで大山を渡り歩かれました。
嶺に着かれて、空腹のため山中で食事をされました。
山の神は皇子を苦しめようとして白い鹿になり、皇子の前に立ちふさがりました。
皇子は怪しんで、一箇蒜(ひとつひる/にんにく)を投げて白い鹿をはじかれました。
それが鹿の眼に当たり、鹿は死にました。
ところが皇子は急に道を失い、出るべき道が分からなくなりました。
そのとき白い犬がやってきて、皇子を導くように歩きました。
そのおかげで皇子は美濃(みの)に出ることができました。
吉備武彦(きびのたけひこ)は越(こし)からやってきて皇子にお会いしました。
これより先、信濃坂(しなのさか)を越える者は神気を受けて病み臥す者が多かったのですが、白い鹿を殺されてからは、この山を越える者は蒜(ひる/にんにく)を噛んで人や牛馬に塗ると、神気にあたらなくなりました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の病没
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、さらに尾張(おわり)に帰られ、尾張氏(おわりのうじ)の娘である宮簀媛(みやすひめ)を娶って、しばらくその地に留まってお過ごしになりました。
そのとき、近江(おうみ)の五十葺山(いぶきやま/伊吹山)に荒ぶる神がいるとお聞きになり、剣を外して宮簀媛(みやすひめ)の家に置き、徒歩で山へ向かわれました。
胆吹山(いぶきやま)に至ると、山の神は大蛇(おろち)となって道を塞ぎました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、その大蛇が主神(かむざね/神の正体)であるとは知らず、
「この大蛇(おろち)はきっと神の使いであろう。主神を討つことができれば、この使いは問題ではない。」
とおっしゃいました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は大蛇を踏み越えて進まれました。
すると山の神は雲を起こし、雹を降らせました。
霧は峯にかかり、谷は暗く、進むべき道が見えなくなりました。
皇子はさまよい歩き、ようやく山を抜けることができましたが、正気を失い、酔ったような状態になりました。
山の下の泉にたどり着き、その水を飲むと気持ちがようやく醒めました。
それでその泉を居醒井(いさめがい)と申します。
ここで日本武尊(やまとたけるのみこと)は初めて病気になられました。
ようやく起き上がって尾張(おわり)に戻られましたが、宮簀媛(みやすひめ)の家には入らず、伊勢(いせ)へ移って尾津(おづ)に着かれました。
かつて日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国へ向かわれたとき、尾津浜(おづのはま)にとどまって食事をされた際、一つの剣を松の根元に置かれました。
それを忘れて行かれたのですが、今ここに来ると、その剣はそのまま残っていました。
宮簀媛(みやすひめ)はその剣を見て歌を詠まれました。
ヲハリニ、タダニムカヘル、ヒトツマツアハレ、
ヒトツマツ、ヒトニアリセバ、キヌキセマシヲ、タチハケマシヲ。
(尾張の国にまっすぐ向かって立つ尾津の崎の一本松よ。
もしその一本松が人であったなら、衣を着せてあげようものを。
太刀を佩かせてあげようものを。)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は能褒野(のぼの/鈴鹿)に至るころ、病がひどくなりました。
捕虜として従えていた蝦夷(えみし)たちを伊勢神宮(いせじんぐう)に献上されました。
吉備武彦(きびのたけひこ)を遣わして天皇に奏上させました。
「私は勅命を受けて遠く東夷(あずまえびす)を討ちました。
神恩をいただき、皇威に頼って、叛く者は罪に服し、荒ぶる神も自ら従いました。
それで鎧を巻き、矛を納め、心安らかに帰りました。
いずれの日か天朝に復命しようと思っておりましたのに、天命が急に至り、余命は幾ばくもありません。
荒野に臥し、語る相手もありません。
自分の身が亡ぶことは惜しみませんが、ただ、御前にお仕えできなくなることが残念でございます。」
こうして日本武尊(やまとたけるのみこと)は能褒野(のぼの/鈴鹿)でお亡くなりになりました。
そのとき御年三十でございました。
白鳥伝説
天皇はこの訃報をお聞きになり、安らかに眠ることもできず、
食べても味がせず、昼夜むせび泣き、胸を打って悲しまれました。
「我が子、小碓皇子(おうすのみこ/日本武尊)は、熊襲(くまそ)が背いたとき、まだ総角(あげまき)も結わぬ幼さでありながら、長く戦いに出て、いつも私を助けてくれた。
東夷(あずまえびす)が騒いだとき、他に適当な者がなく、やむなく賊の地に入らせた。
一日も忘れたことはなかった。
朝夕、帰る日を待ち続けた。
何の禍か、何の罪か、思いもかけず我が子を失うことになった。
今後、誰とともに鴻業(あまつひつぎ)を治めようか。」
天皇は群卿(まちきみ)たちに詔し、百僚(もものつかさ)に命じて、伊勢国(いせのくに)の能褒野(のぼの)の陵(みささぎ)に葬らせました。
そのとき、日本武尊(やまとたけるのみこと)は白鳥となって、陵(みささぎ)から飛び立ち、倭国(やまとのくに)へ向かって飛んでいかれました。
家来たちが柩(ひつぎ)を開いてみると、衣だけが残り、屍はありませんでした。
そこで使者を遣わして白鳥を追わせました。
白鳥は倭の琴弾原(ことひきのはら/奈良県御所)にとどまりました。
そこで陵(みささぎ)を造りました。
白鳥はさらに飛んで河内(かわち)に行き、古市邑(ふるいちのむら/大阪府羽曳野)にとどまりました。
そこにも陵(みささぎ)を造りました。
当時の人々は、この三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と申しました。
白鳥はその後、高く飛んで天に昇りました。
そこで衣冠だけを葬りました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の功績を伝えるため、武部(たけるべ)が定められました。
景行天皇(けいこうてんのう)の晩年と崩御
五十一年春一月七日、天皇は群卿(まちきみ)たちを召されて大宴会を催され、何日も続けて楽しまれました。
しかし、皇子である稚足彦尊(わかたらしひこのみこと/成務天皇)と、武内宿禰(たけのうちのすくね)はその宴に出席しませんでした。
天皇は二人を呼んで、その理由をお尋ねになりました。
二人は申し上げました。
「宴楽の日には、群卿(まちきみ)や百寮(もものつかさ)がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えておりません。
もし狂った者があって警衛のすきを窺ったらと心配でございます。
それで垣の外に控えて、非常時に備えておりました。」
天皇は、
「立派なものである。」
とおっしゃり、特に目をかけられました。
稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)の立太子
秋八月四日、天皇は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)を皇太子に立てられました。
同じ日に、武内宿禰(たけのうちのすくね)を棟梁之臣(むねはりのまえつきみ/重要な大臣)に任じられました。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)と蝦夷(えみし)の処遇
かつて日本武尊(やまとたけるのみこと)が差しておられた草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、現在、尾張国(おわりのくに)年魚市郡(あゆちのこおり)の熱田神宮(あつたじんぐう)にあります。
尊が神宮に献上した蝦夷(えみし)たちは、昼夜騒がしく、出入りにも礼儀がありませんでした。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、
「この蝦夷(えみし)らを神宮に近づけてはなりません。」
とおっしゃり、朝廷に進上されました。
そこで蝦夷(えみし)たちは三輪山(みわやま)の辺りに置かれることになりました。
しかし、ほどなくして三輪山の木を伐ったり、里で大声をあげたりして、村人をおびやかしました。
天皇はこれを聞かれ、群卿(まちきみ)たちに詔しておっしゃいました。
「三輪山のほとりに置かれている蝦夷(えみし)は、人並みではない心を持つ者どもである。
中央には住ませ難い。
その希望に従って、それぞれ畿外(そとつくに)に置くがよい。」
これが播磨(はりま)、讃岐(さぬき)、伊予(いよ)、安芸(あき)、阿波(あわ)の五つの国に置かれた佐伯部(さえきべ)の先祖でございます。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子ら
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、両道入姫皇女(ふたじのいりびめのみこ)を妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)をお生みになりました。
次に、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと/仲哀天皇)、
次に、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、
次に、稚武王(わかたけのみこ)をお生みになりました。
稲依別王(いなよりわけのみこ)は、犬上君(いぬかみのきみ)と武部君(たけるべのきみ)の先祖でございます。
また、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘である吉備穴戸武媛(きびあなとのたけひめ)は妃となり、武卵王(たけかいごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)をお生みになりました。
武卵王(たけかいごのみこ)は讃岐綾君(さぬきあやのきみ)の先祖であり、
十城別王(とおきわけのみこ)は伊予別君(いよのわけのきみ)の先祖でございます。
さらに、穂積氏(ほづみうじ)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、稚武彦王(わかたけひこのみこ)をお生みになりました。
皇后の交代
五十二年夏五月四日、皇后である播磨大郎姫(はりまのおおいらつめ)が亡くなられました。
秋七月七日、八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)を皇后に立てられました。
景行天皇の巡幸と晩年
五十三年秋八月一日、天皇は群卿(まちきみ)たちに詔しておっしゃいました。
「自分の愛した子を思い偲ぶことは、いつの日に止むであろうか。
小碓王(おうすのみこ/日本武尊)が平定した国々を巡幸したい。」
この月、天皇は伊勢(いせ)にお出でになり、そこから東海道にお入りになりました。
冬十月、上総国(かみつふさのくに)に行き、海路で安房(あわ)の水門(みなと)にお出でになりました。
そのとき、覚賀鳥(かくかのとり/カクカクと鳴き姿を見せにくい鳥)の声が聞こえました。
天皇はその鳥の姿を見たいと思われ、海の中までお出でになり、大きな蛤(はまぐり)を得られました。
膳臣(かしわでのおみ)の先祖である磐鹿六雁(いわかむつかり)が蒲の葉をたすきにかけ、蛤を膾(なます)にして奉りました。
天皇は六雁臣(むつかりのおみ)の功を賞め、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の役を賜わりました。
十二月、東国から帰り伊勢にお住まいになりました。
これを綺宮(かにはたのみや)と申します。
五十四年秋九月十九日、伊勢から倭(やまと)に帰り、纏向宮(まきむくのみや)にお住まいになりました。
景行天皇の崩御
五十五年春二月五日、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道十五国の都督(かみ)に任じられました。
しかし、王は春日の穴咋邑(あなくいのむら)で病に臥し、亡くなられました。
東国の人民は王が来られなかったことを悲しみ、密かに屍を盗み出して上野国(こうずけのくに)に葬りました。
五十六年秋八月、天皇は御諸別王(みもろわけのみこ)に詔しておっしゃいました。
「お前の父の彦狭島王(ひこさしまのみこ)は、任地に行けずに早く死んだ。
だからお前は専ら東国を治めよ。」
御諸別王(みもろわけのみこ)は命を受けて東国に赴き、善政を施しました。
蝦夷(えみし)が騒いだので兵を送り討ちました。
首領の足振辺(あしふりべ)、大羽振辺(おおはふりべ)、遠津闇男辺(とおつくらおべ)らは頭を下げて服従し、領地を献上しました。
降伏する者は許し、従わぬ者は討たれました。
こうして東国は長く安定しました。
五十七年秋九月、坂手池(さかてのいけ)を造り、堤に竹を植えました。
冬十月、諸国に命じて田部(たべ)と屯倉(みやけ)を設けさせました。
五十八年春二月十一日、天皇は近江国(おうみのくに)にお出でになり、志賀(しが/滋賀県大津)の地に三年間お住まいになりました。
これを高穴穂宮(たかあなほのみや)と申します。
六十年冬十一月七日、天皇は高穴穂宮(たかあなほのみや)でお亡くなりになりました。
御年百六歳でございました。
稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)は、景行天皇(けいこうてんのう)の第四子です。
母の皇后は、八坂入彦皇子(やさかいりびこのみこ)の娘である八坂入姫命(やさかのいりびめのみこと)です。
景行天皇(けいこうてんのう)の四十六年に皇太子となられたとき、御年は二十四歳でした。
六十年冬十一月、景行天皇(けいこうてんのう)は亡くなられました。
元年春一月五日、皇太子は皇位にお着きになりました。
この年は太歳辛未(たいさい・かのとひつじ)です。
二年冬十一月十日、景行天皇(けいこうてんのう)を倭国(やまとのくに)の山辺道上陵(やまへのみちのえのみささぎ)に葬りました。
先の皇后を尊んで皇太后とお呼びになりました。
三年春一月七日、武内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣に任じられました。
天皇と武内宿禰(たけのうちのすくね)は同じ日に生まれたため、天皇は特に彼を可愛がられました。
国・県の制の制定
四年春二月一日、天皇は詔しておっしゃいました。
「先帝は聡明で武勇に優れ、天の命を受けて皇位にお着きになった。
天意に沿い、人に順い、賊を伐ち払い正しきを示された。
徳は民を覆い、道は自然に適っていた。
このため天下に従わぬ者はなく、すべてのものは安らかであった。
今、私が皇位を継ぎ、日夜己をいましめてきた。
けれども人民の中には、虫のうごめくように穏やかでない者がある。
これは国・郡(くに・こおり)に長(おさ)がなく、県・邑(あがた・むら)に首(おびと)がいないからである。
これから後は、国・郡(くに・こおり)に長(おさ)を置き、県・邑(あがた・むら)に首(おびと)を置こう。
それぞれの国の長としてふさわしい者を取り立て、国郡の首長(ひとごのかみ)に任ぜよ。
これが王城を護る垣根となるであろう。」
五年秋九月、諸国に令して、国・郡(くに・こおり)に造長(みやつこ)を立て、県・邑(あがた・むら)に稲置(いなき)を置き、それぞれに盾と矛を賜わって印としました。
山河を境として国・県(くに・あがた)を分け、縦横の道に従って邑里(むら)を定めました。
こうして東西を「日の縦」とし、南北を「日の横」としました。
山の南側を影面(かげとも)、山の北側を背面(そとも)と呼びました。
これによって人民は住まいに安じ、天下は無事でした。
皇太子の立太子と崩御
四十八年春三月一日、甥である足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子に立てられました。
六十年夏六月十一日、天皇は亡くなられました。
御年百七歳でした。