龍神の記憶と目覚め  日本神話ー⑦天孫降臨(高天原から葦原中国へ降り立つ) | 龍神の記憶と目覚め 

日本神話ー⑦天孫降臨(高天原から葦原中国へ降り立つ)

タグ:

創作物語版

葦原中国が平定された後、天津国が高天原から葦原中国へ降り立つまでの創作物語版です。
古事記の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

第1章 高天原に満ちる静謐と決意

蛇神大物主神より授かりし神秘の恩恵
史上初!潜在意識の深海で甦る ― 奇跡の再生ヒーリング
大うつ病、不安、ストレス解消,自律神経失調症といったメンタル不調を瞬時に解消


精神科患者の8割が騙されている?精神医療の実態を知るおすすめ本

国譲りが終わったとはいえ、葦原中国にはまだ荒ぶる気が残り、
その余韻は高天原にまでかすかに届いていました。
しかし、天照大御神の御前には、
その揺らぎを包み込むような深い静寂が広がっていました。

雲海は金色に輝き、
遠くには天の川がゆるやかに流れ、
神々の息遣いさえも聞こえなくなるほどの神聖な空気が満ちています。

天照大御神はゆっくりと立ち上がり、
地上の大地を見つめながら静かに告げました。

「この国を治めるのは、我が血を継ぐ者であろう」

その声は、朝日が山々を照らす前の一筋の光のように、
高天原全体に染み渡っていきました。

八百万の神々は深くうなずき、
世界の秩序が新たに形づくられる瞬間を感じ取っていました。
その場に立ち会うことの重みを、
誰もが胸の奥で静かに受け止めていたのです。

第2章 邇邇芸命 ― 若き光をまとう神

天照大御神の呼びかけに応じて姿を現した邇邇芸命は、
まるで朝日そのものが形を取ったかのような神でした。

その歩みは軽やかでありながら、
一歩ごとに周囲の空気が澄み渡るような気配をまとい、
若き神でありながら、
すでに王者の風格を漂わせていました。

天照大御神は三種の神器を前に置き、
ひとつひとつに込められた意味を語ります。

八咫鏡は、光を受けて柔らかく輝き、
まるで天照大御神の心そのものが映し出されているかのようでした。

八尺瓊勾玉は、命の連なりを象徴するように、
静かに脈動する光を放ち、
邇邇芸命の胸の奥に温かい響きを与えました。

草薙剣は、荒ぶるものを鎮める力を宿し、
その刃は雲の奥に潜む影さえも祓うような気配を帯びていました。

「この鏡を、まるで私を見るように大切にしなさい」

その言葉は、母が子に託す祈りのように柔らかく、
邇邇芸命は深く頭を垂れ、
その使命を静かに胸に刻みました。

第3章 天の浮橋に立つ ― 神々の見送り

旅立ちの刻が訪れました。
天の浮橋に立つ邇邇芸命の背には、
高天原の光が静かに降り注いでいました。

浮橋は雲の上に細く伸び、
その先にはまだ見ぬ地上の世界が広がっています。
風は柔らかく吹き、
まるで「行け」と背中を押すようでした。

邇邇芸命の周囲には、
道案内を務める神々が整然と並びます。

天児屋命は祝詞を唱え、
布刀玉命は清らかな玉を掲げ、
天宇受売命は舞を捧げ、
伊斯許理度売命と玉祖命は神器の輝きを整えました。

そして、堂々たる姿の猿田彦大神が前に進み出ます。
その姿は大地そのものが形を取ったかのようで、
眼差しには揺るぎない覚悟が宿っていました。

「我が道を照らし、導こう」

その声は深く、
邇邇芸命の胸に静かな勇気を与えました。

第4章 雲を割る光の道 ― 天孫降臨

邇邇芸命が一歩踏み出すと、
天の浮橋はかすかに震え、
雲の層がゆっくりと左右に割れていきました。

その裂け目から、
一本の光の道がまっすぐに地上へと伸びていきます。
その光は、天照大御神の祈りそのものであり、
邇邇芸命を包み込むように輝いていました。

風は優しく吹き、
草木は彼の到来を歓迎するように揺れ、
鳥たちは空を旋回しながら歌いました。

邇邇芸命は光の道を進みながら、
地上の気配を感じ取ります。
荒々しさと温もりが混ざり合い、
まだ形を定めきれない世界が広がっていました。

第5章 高千穂の峰に降り立つ

やがて、雲の切れ間から葦原中国の大地が姿を現します。
山々は連なり、川はきらめき、
そのすべてが邇邇芸命を待ち望んでいたかのようでした。

邇邇芸命が高千穂の峰に降り立った瞬間、
世界はひときわ明るく輝きました。

山々はざわめき、
海は遠くで光を返し、
大地は深く息を吸い込むように震えました。

「ここから、我が務めが始まるのだ」

邇邇芸命は静かに大地に手を触れ、
その温もりを確かめました。
それは、天とは異なる、
しかし確かな生命の鼓動でした。

第6章 大地が息を吹き返す

邇邇芸命が降り立ったことで、
葦原中国の大地はゆっくりと息を吹き返していきます。

荒ぶる気は鎮まり、
山々は豊かな緑を取り戻し、
川は静かに流れ、
風は柔らかく吹き始めました。

人々の暮らしにも変化が訪れ、
光に照らされるように整い始めます。
まるで大地そのものが、
新しい主を迎えて喜んでいるかのようでした。

第7章 天と地が結ばれる瞬間

天孫降臨――
それは、天と地が結ばれ、
世界が新たな秩序へと歩み出す瞬間でした。

邇邇芸命の降臨は、
ただの神の旅立ちではなく、
大地そのものが新しい息吹を得る“始まり”だったのです。

天照大御神の祈り、
八百万の神々の見守り、
そして邇邇芸命の決意がひとつとなり、
世界は静かに、しかし確かに動き始めました。

古事記原文現代訳

天照大御神、ついに天孫を地上へ

天照大御神と高木神は、
日嗣の御子である 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(あめのおしほみみ) に仰せになります。
「葦原中国が平定されたと報告があった。
先に委任したとおり、その国に天降って統治しなさい。」
ところが天忍穂耳命は申し上げます。
「私が天降る準備をしている間に子が生まれました。
名は 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(ににぎのみこと) と申します。
この子を降すのがよいでしょう。」

天忍穂耳命の子 ― 火明命と邇邇芸命

天忍穂耳命は、高木神の娘 萬幡豊秋津師比売命 を娶り、
二柱の御子をもうけました。
天火明命(あめのほあかり)
日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎ)
天照大御神は天忍穂耳命の言葉に従い、
邇邇芸命に命じます。
「この豊葦原の瑞穂の国は、あなたが統治すべき国である。
命に従って天降りなさい。」

天降りの道に立つ神 ― 猿田毘古神

邇邇芸命が天降ろうとした時、
天と地を照らすほどの光を放つ神が、
天降りの道の辻に立っていました。
天照大御神と高木神は、
天宇受売命(あめのうずめ) に命じます。
「あなたはか弱い女であるが、
向き合う神を圧倒する力を持つ。
その神に『天つ神の御子の天降りの道に立つのは誰か』と尋ねなさい。」

天宇受売命が尋ねると、その神は答えました。
「私は国つ神、名は 猿田毘古神(さるたびこ) と申します。
天つ神の御子が天降ると聞き、お迎えに参りました。」
こうして猿田毘古神は、
邇邇芸命の 先導役 を務めることになりました。

天孫降臨 ― 高千穂の峰へ

邇邇芸命は、
天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命の
五部族の祖神を従え、
さらに八尺瓊勾玉・八咫鏡・草那芸之剣などの神器を携えて
天降りました。
天照大御神は仰せになります。
「この鏡は私の御魂として、
私を拝むように敬って祀りなさい。
思金神は、私の祭祀と政事を司りなさい。」
こうして
内宮には天照大御神と思金神
外宮には豊宇気毘売神
が祀られることになりました。
邇邇芸命は雲を押し分け、
天の浮橋から浮島を経て、
筑紫の日向・高千穂の峰 に天降りました。

猿田毘古神と天宇受売命の別れ

邇邇芸命は天宇受売命に言いました。
「猿田毘古を送って帰りなさい。
また、その名をあなたが背負い、
天つ神の御子に仕えなさい。」
こうして猿女君(さるめのきみ)の名が生まれました。
猿田毘古神はのちに海で貝に手を挟まれ溺れ、
その魂は
底御魂
つぶたつ御魂
あわさく御魂
と名を変えていきました。
天宇受売命は魚たちを集め、
「天つ神の御子に仕えるか」と問うと、
海鼠だけが答えなかったため、
その口を裂いたと伝えられます。

木花之佐久夜毘売との出会い

邇邇芸命は笠沙の御崎で美しい少女を見つけます。
名は
木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)
大山津見神の娘でした。
父に結婚を申し込むと、
姉の 石長比売(いわながひめ) を添えて差し出されましたが、
石長比売が醜かったため邇邇芸命は返してしまいます。

大山津見神は深く恥じ入り、こう言いました。
「石長比売をお使いになれば、
天つ神の御子は岩のように永遠であったでしょう。
木花之佐久夜毘売をお使いになれば、
花のように栄えるでしょう。
あなたが石長比売を退けたため、
天つ神の御子の寿命は花のように儚くなったのです。」
こうして、
天皇の寿命が永遠でなくなった理由 が語られます。

木花之佐久夜毘売、火中で三柱を出産

木花之佐久夜毘売は身重になり、
邇邇芸命に申し上げます。
「この子は天つ神の御子です。
私事として生むべきではありません。」
しかし邇邇芸命は疑いました。
「一夜の契りで身籠ったというのか。
国つ神の子ではないか。」
木花之佐久夜毘売は答えます。

「もし国つ神の子なら無事に生まれません。
天つ神の御子なら無事に生まれます。」
彼女は戸口のない産殿を作り、
土で塞ぎ、
火を放ってその中で出産しました。

炎の中で生まれた三柱の御子は――
火照命(ほでりのみこと)
隼人・阿多君の祖
火須勢理命(ほすせりのみこと)
火遠理命(ほおりのみこと)
またの名を 天津日子穂穂手見命
この三柱です。

日本書紀現代語訳

天孫降臨

時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を包んで降ろしました。
皇孫は天の磐座(あまのいわくら)を離れ、天の八重雲(あまのやえくも)を押しひらき、勢いよく道を踏み分けて進み、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂の峯(たかちほのみね)にお降りになりました。

皇孫はお進みになり、槵日の二上(くしひのふたかみ)の天の梯子(あまのはしご)から浮島の平らな所にお立ちになり、瘦せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて吾田国(あたくに)の長屋の笠狭崎(かささのみさき)にお着きになりました。

そこに人がいて、自らを事勝国勝長狭(ことかつくにかつながき)と名乗りました。
皇孫が「国があるのかどうか」と問われると、彼は「国があります。お気に召しましたら、どうぞごゆるりと」と答えました。
それで皇孫はそこに止まられました。

その国に美人がいました。
名を鹿葦津姫(かしつひめ)といい、またの名を神吾田津姫(かむあたつひめ)、また木花開耶姫(このはなさくやひめ)ともいいます。
皇孫が「あなたは誰の娘ですか」と問われると、
「私は天つ神(あまつかみ)が大山祇神(おおやまつみのかみ)を娶って生まされた子です」
と答えました。

皇孫はこの姫を召されました。
すると一夜で妊娠しました。
皇孫は疑って、
「たとえ天つ神であっても、一夜で孕ませることができようか。お前が孕んだのは我が子ではあるまい」
と言われました。

鹿葦津姫(かしつひめ)は怒り、無戸室を作って籠もり、誓約して言いました。
「もし私が孕んだ子が天孫の子でないなら焼け滅びるでしょう。もし本当に天孫の子なら火も損なうことはできません。」
そして火をつけて室を焼きました。

燃え上がる煙の中から生まれた子を火闌降命(ほのすそりのみこと)と名づけました。
これが隼人(はやと)の始祖です。

次に熱を避けてお出でになるときに生まれた子を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と名づけました。
次に生まれた子を火明命(ほのあかりのみこと)と名づけました。
これが尾張連(おわりむらじ)の始祖です。
全部で三人の御子です。

しばらくして瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)はお隠れになりました。
それで筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の可愛の山(えのやま)の陵(みささぎ)に葬りました。

別の言い伝え(第一)

天照大神(あまてらすおおみかみ)が天稚彦(あめわかひこ)に、
「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)は我が子が王たるべき国である。しかし強暴な悪い神たちがいる。まずお前が行って平定せよ」
と言われました。

天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天真鹿児矢(あまのかごや)を授けて遣わされました。
天稚彦(あめわかひこ)は天降って国つ神(くにつかみ)の娘を多く娶り、八年たっても復命しませんでした。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は思兼神(おもいかねのかみ)を召して事情を問われました。
思兼神(おもいかねのかみ)は「雉子(きぎし)を遣わして問わせるのが良いでしょう」と言いました。

雉子(きぎし)は天稚彦(あめわかひこ)の門前の桂の梢にとまり、
「なぜ八年の間、復命しないのか」
と問いました。
天探女(あまのさぐめ)がこれを見て、
「鳴き声の悪い鳥がいる。射殺してしまいましょう」
と言いました。

天稚彦(あめわかひこ)は天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天真鹿児矢(あまのかごや)で雉を射ました。
矢は雉を貫き、天上の天神のもとへ届きました。

天神は矢を見て、
「これは昔、天稚彦に与えた矢だ。どうして戻ってきたのか」
と言い、呪いをかけて矢を投げ返しました。

矢は天稚彦(あめわかひこ)の胸に当たり、彼は死にました。
これが「返矢は恐ろしい」と言われる由来です。

その後、天稚彦(あめわかひこ)の妻子が天から降りてきて柩を持ち上り、天上に喪屋を作って殯を行いました。

味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)は友として弔いに来ましたが、姿が天稚彦に似ていたため、妻子が「まだ生きていた」と喜びました。
味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)は怒り、十握剣で喪屋を切り倒しました。
これが美濃国(みののくに)の喪山です。

皇孫の降臨と猿田彦大神

天照大神(あまてらすおおみかみ)は万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)に娶わせ、葦原中国(あしはらのなかつくに)に降らせました。

しかし尊は天浮橋(あまのうきはし)に立って下を見て、
「あの国はまだ平定されていない」
と言って天に戻りました。

そこで天照大神(あまてらすおおみかみ)は武甕槌神(たけみかつちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)を遣わし、先に平定させました。

二神は出雲(いずも)に降り、大己貴神(おおあなむちのみこと)に
「国を天つ神に奉るか」
と問いました。
大己貴神(おおあなむちのみこと)は子の事代主(ことしろぬし)に尋ね、
事代主(ことしろぬし)は「奉らぬ理由はない」と答えました。

こうして国は平定されました。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は
「ならば皇孫を降らせよう」
と言われ、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)を選ばれました。

八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を授け、
天児屋命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、石凝姥命(いしこりどめのみこと)、玉屋命(たまのやのみこと)を従わせました。

皇孫に勅して言われました。
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、我が子孫が治める国である。行きなさい。宝祚は天地と共に尽きることがない。」

猿田彦大神との出会い

先払いの神が戻り、
「天八街(あまのやちまた)に鼻七握、背七尺、目は八咫鏡のように輝く神がいる」
と報告しました。

天鈿女命(あめのうずめのみこと)が遣わされ、胸を露わにして挑発すると、その神は名乗りました。
「私は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)です。天孫をお迎えするために待っています。」

猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)は
「天孫は筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)に降られる。私は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴(いすず)の川上に行く」
と言いました。

天鈿女命(あめのうずめのみこと)はこれを天に報告しました。

皇孫は天磐座(あまのいわくら)を離れ、天八重雲(あまのやえくも)を押し分けて降り、筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)に到着しました。
猿田彦神(さるたひこのかみ)は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴(いすず)の川上に着きました。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)は最後まで送って行きました。

皇孫は天鈿女命(あめのうずめのみこと)に、
「お前が露わにした神の名を、お前の姓氏にしよう」
と言い、猿女君(さるめのきみ)の名を賜わりました。
これが猿女君(さるめのきみ)の由来です。

別の言い伝え(第二)

別の言い伝え(第二)によると、天つ神が経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかつちのかみ)を遣わし、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定させられました。

そのとき二柱の神は、
「天に悪い神がいます。名を天津甕星(あまつみかほし)といいます。またの名は天香香背男(あまのかかせお)です。どうかまずこの神を除き、それから降って葦原中国を平定させて頂きたい」
と言いました。

このとき、甕星(みかほし)を征する斎主を斎の大人(いわいのうし)といいました。
この神は今、東国の檝取(かとり)(香取)の地にお出でになります。

時に、二柱の神は出雲(いずも)の五十田狭(いたさ)の小汀(おばま)に降って、大己貴神(おおあなむちのみこと)に、
「お前はこの国を天つ神に奉るかどうか」
と問われました。

大己貴神(おおあなむちのみこと)は、
「あなた方二神の言われることはどうも怪しい。私が元から居るところへやって来たのではないか。許すことは出来ぬ」
と答えました。
そこで経津主神(ふつぬしのかみ)は帰り上って報告しました。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は二柱の神を再び遣わし、大己貴神(おおあなむちのみこと)に勅して言いました。

「今、お前の言うことを聞くと、深く理に叶っている。それで詳しく条件を揃えて申しましょう。
あなたが行う現世の政治は皇孫が致しましょう。あなたは幽界(ゆうかい)の神事を受け持ちなさい。
あなたの住むべき宮居(みやい)は、今からお造りしますが、千尋もある栲(たえ)の縄で結び固めて造りましょう。
柱は高く太く、板は広く厚く致しましょう。供田も作りましょう。
また、あなたが海に遊ばれるために、高い橋や水上に浮く橋、鳥のように速く走る船なども造りましょう。
さらに天上の安河(やすかわ)に掛け外しのできる橋を造りましょう。
また幾重にも革を縫い合わせた白楯(しらたて)を造りましょう。
あなたの祭祀を掌るのは、天穂日命(あめのほひのみこと)が致します。」

そこで大己貴神(おおあなむちのみこと)は、
「天つ神のおっしゃることは、こんなに行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。
私が治めるこの世のことは、皇孫がまさに治められるべきです。私は退いて幽界の神事を担当しましょう」
と答えました。

そこで岐神(ふなとのかみ)(猿田彦神)を二神に勧めて、
「これが私に代わってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します」
と言い、体に八坂瓊(やさかに)の大きな玉をつけて、永久にお隠れになりました。

その後、経津主神(ふつぬしのかみ)は岐神(ふなとのかみ)を先導役として方々を巡り歩き、平定しました。
従わない者は斬り殺し、帰順する者には褒美を与えました。

このとき帰順した首長は、大物主神(おおものぬしのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)でありました。
そこで八十万神(やそのかみ)を天高市(あめのたけち)に集め、この神々を率いて天に上り、その誠の心を披歴しました。

時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は大物主神(おおものぬしのかみ)に勅して言いました。「お前がもし国つ神を妻とするなら、私はお前がまだ心を許していないと考える。
そこで、これから我が娘の三穂津姫(みほつひめ)をお前に娶わせて妻とさせたい。
八十万神(やそのかみ)を引き連れて、永く皇孫のために守って欲しい。」

そして、紀国(きのくに)の忌部の遠祖である手置帆負神(たおきほおいのかみ)を笠作りの役目とし、
彦狭知神(ひこさちのかみ)を盾作りの役目とし、
天目一箇神(あまめひとつかのかみ)を鍛冶の役とし、
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を布作りの役とし、
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を玉作りの役としました。

太玉命(ふとたまのみこと)は、天孫の代理として大己貴神(おおあなむちのみこと)を祀る役を負いました。これが始まりです。

また天児屋命(あめのこやねのみこと)は神事の元締であり、太占(ふとまに)の占いを役目としました。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は勅して言いました。

「私は天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を造り、皇孫のために謹んで祭ろう。
天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとたまのみこと)は天津神籬をもって葦原中国に降り、皇孫のために謹んで祭りなさい。」
そして二神を遣わし、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に付き従わせて降らせました。

このとき天照大神(あまてらすおおみかみ)は宝鏡(ほうきょう)を手に持ち、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に授けて言いました。
「我が子がこの宝鏡を見るのは、私を見るのと同じであるべきだ。共に床を同じくし、部屋を一つにして慎み祭る鏡とせよ。」

また天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとたまのみこと)に勅して、
「お前たち二神は共に同じ建物に侍って、よく守りの役をせよ」
と言われました。

さらに、
「我が高天原(たかまがはら)の斎庭(ゆにわ)の稲穂を我が子に与えなさい」
と言われました。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡姫(よろずはたひめ)を天忍穂耳尊(あまのおしほみみこと)に娶わせ、妃として降らせました。

その途中の大空で生まれた子を天津彦火壤瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)といいます。
この皇孫を親の代理として降らせようと思われました。

天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとたまのみこと)以下の諸神をすべてお伴とし、前例のごとく装束を授けられました。
そののち天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)は天に帰られました。

天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)は日向の槵日(くしひ)の高千穂峯(たかちほのみね)に降られ、膂宍の胸副国(そししのむなそうくに)を丘続きに求め歩き、浮渚在平地(うきじまりたいら)に立たれ、国主である事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)を召して尋ねられました。事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)は、
「ここに国があります。勅のままにどうぞ御自由に」
と答えました。

皇孫は宮殿を建てて住まわれました。
後に浜辺で美人をご覧になり、
「お前は誰の娘か」
と尋ねられました。

美人は答えました。
「私は大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、名は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、またの名を木花開耶姫(このはなさくやひめ)といいます。姉に磐長姫(いわながひめ)がいます。」

皇孫は、
「お前を妻にしたい」
と言われました。

木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、
「父にお尋ね下さい」
と答えました。

大山祇神(おおやまつみのかみ)は二人の娘に多くの物を持たせて奉りました。
皇孫は姉を醜いと思われて返し、妹を召されました。

一夜で妊娠したため、磐長姫(いわながひめ)は恥じて呪い、
「もし私を退けなければ、御子は永遠に生きたでしょう。しかし妹だけを召されたので、その子は木の花のように散るでしょう」
と言いました。

これが人の命が短い理由とされます。

木花開耶姫(このはなさくやひめ)は恥じて塗籠を作り、
「もし他の神の子なら不幸になるでしょう。本当に天孫の子なら無事に生まれるでしょう」
と誓い、火をつけました。

炎が出始めたときに生まれた子を火酢芹命(ほのすせりのみこと)、
火の盛んなときに生まれた子を火明命(ほのあかりのみこと)、
次に生まれた子を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、またの名を火折尊(ほおりのみこと)といいます。

別の言い伝え(第三)

はじめに炎が明るくなったときに生まれた子を火明命(ほのあかりのみこと)といいます。
次に炎の盛んになったときに生まれた子を火進命(ほのすすみのみこと)、または火酢芹命(ほのすせりのみこと)といいます。
次に炎がなくなるときに生まれた子を火折彦火火出見尊(ほおりひこほほでみのみこと)といいます
この三人の御子は火でも損なわれることがありませんでした。
母親もまた少しも損なわれるところがありませんでした。

そのとき竹刀で御子の臍の緒を切りました。
その捨てた竹刀が後に竹林となり、その場所を竹屋(たけや)と名づけました。

時に、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)は、占いによって定めた神餞田を狭名田(さなだ)と名づけました。
その田の稲で天甜酒(あめのたむさけ)を嚙んで造り、お供えしました。
また沼田の稲を炊いて飯とし、お供えしました。

別の言い伝え(第四)

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は真床覆衾(まとこおうふすま)をもって、天津彦国光彦火瓊瓚杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと)にお着せになり、天磐戸(あまのいわと)を開き、天八重雲(あまのやえぐも)を押し分けて降ろされました。

そのとき、大伴連(おおとものむらじ)の遠祖である天忍日命(あまのおしひのみこと)、来目部(くめべ)の遠祖である天槵津大来目(あめくしつおおくめ)を率いて、背には天磐鞔(あまのいわゆき)を負い、臂には高鞆をつけ、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、八目の鏑矢を添え、柄頭が槌のような剣を帯び、天孫の前に立って降りました。

日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂(たかちほ)の扼日(くしび)の二上峯(ふたかみのたけ)の天浮橋(あまのうきはし)に至り、「うきじまのたいら」に立ち、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を丘続きに求め歩き、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の崎に着かれました。

そこに一人の神がいて、名を事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)といいました。
天孫が「ここに国があるか」と問うと、「あります。勅のままに奉ります」と答えました。
この事勝国勝長狭は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の子で、またの名を塩土老翁(しおつつのおじ)といいます。

別の言い伝え(第五)

天孫が大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘、吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)を召され、一夜で孕まれました。
そして四人の子を生みました。

吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)は子を抱いて言いました。
「天つ神の子を、どうしてこっそり養いましょうか。様子を申し上げます。」

天孫は子らを見て嘲笑し、
「何とまあ、私の皇子たち、こんなに生まれたとは嬉しい」
と言いました。

姫は怒り、
「どうして私を嘲るのですか」
と言いました。

天孫は、
「心に疑わしく思う。一夜で孕むはずがない。きっと我が子ではあるまい」
と言いました。

姫は恨み、無戸室(うつむろ)を作って籠もり、誓って言いました。
「もし天つ神の子でなければ焼け失せよ。もし天つ神の子なら損なわれることはない。」

火をつけると、炎が明るくなったとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、火明命(ほのあかりのみこと)。父はどこにおられるか。」

次に火の盛んなとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、火進命(ほのすすみのみこと)。父と兄弟はどこにおられるか。」

次に炎の衰えるとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、火折尊(ほおりのみこと)。父と兄弟はどこにおられるか。」

次に火熱が引けるとき踏み出した子が名乗りました。
「我は天つ神の子、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。父と兄弟はどこにおられるか。」

母の吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)も燃え杭の中から出て、
「私も子らも火難に遭っても損なわれませんでした。天孫はご覧になりましたか」
と言いました。

天孫は、
「もとより我が子と知っていた。ただ一夜で孕んだことを疑う者があると思い、衆人に示したかったのだ。お前は不思議な力がある。この子らが人に勝れた気を持つことを示したかった。」
と言いました。

別の言い伝え(第六)

天忍穂根尊(あめのおしほねのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である栲幡千千姫・万幡姫命(たくはたちぢひめ・よろずはたひめのみこと)、または火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の子の千千姫命(ちぢひめのみこと)を娶られました。

そして天火明命(あまのほのあかりのみこと)を生み、次に天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)を生みました。
天火明命(あまのほのあかりのみこと)の子である天香山(あまのかぐやま)は尾張連(おわりのむらじ)の遠祖です。

皇孫・火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)を葦原中国(あしはらのなかつくに)に降すにあたり、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は八十神に勅して、
「葦原中国は岩根も木の株も草の葉も物を言う。夜は火の子のように騒ぎ、昼は蠅のように沸き立つ」
と言いました。

天稚彦(あめわかひこ)が帰らないため、無名雄雉(ななしおのきぎし)を遣わしましたが、粟や豆を見て帰らず、これが「雉の片道使い」の由来です。

次に無名雌雉(ななしおのきぎし)を遣わすと、天稚彦(あめわかひこ)に射られ、その矢に当たって天に戻り報告しました。

その後、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は真床覆衾(まどこおうふすま)をもって皇孫・天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)に着せ、天八重雲(あまのやえくも)を押し分けて降らせました。
この神を天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと)といいます。

天降りの地を日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂(たかちほ)の添の山峯(そほりのたまのたけ)といいます。

その後、吾田(あた)の笠狭(かささ)の御崎に至り、長島(ながしま)の竹島(たけしま)に登られました。
そこに事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)がいて、
「ここは長狭(ながさ)の国ですが、今は天孫に奉ります」
と言いました。

天孫が「波の上の御殿で機を織る少女は誰か」と問うと、
「大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、姉が磐長姫(いわながひめ)、妹が木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、またの名を豊吾田津姫(とよあたつひめ)」
と答えました。

天孫は豊吾田津姫(とよあたつひめ)を召し、火酢芹命(ほのすせりのみこと)、火折尊(ほおりのみこと)を生みました。
またの名を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)といいます。

母の誓いにより、これが皇孫の胤であることは明らかでしたが、豊吾田津姫(とよあたつひめ)は恨んで口をきかず、天孫は悲しんで歌を詠みました。

オキツモハ、へニハヨレドモ、サネトコモ、アタハヌカモヨ、ハマツチトリヨ。
沖の藻は浜に寄るが、わが思う妻は寄らず、寝床も与えてくれない。浜千鳥よ、二人寄り添うお前たちが羨ましい。

別の言い伝え(第七)

別の言い伝え(第七)によると、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘として、天万栲幡千幡姫(あまよろずたくはたちはたひめ)がいました。
一説では、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子である万幡姫(よろずはたひめ)の子の玉依姫命(たまよりひめのみこと)であるともいいます。

この神が天忍骨命(あまのおしほねのみこと)の妃となり、天之杵火火置瀬尊(あまのぎほほおきせのみこと)を生みました。

あるいは、勝速日命(かちはやひのみこと)の子である天大耳尊(あまのおおしみみのみこと)が丹舄姫(にくつひめ)を娶って、火瓊璦杵尊(ほのににぎのみこと)を生んだともいいます。

または、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)が、その子として火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)を生んだともいいます。

また別の説では、天杵瀬尊(あまのきせのみこと)が吾田津姫(あたつひめ)を娶って、火明命(ほのあかりのみこと)を生み、次に火夜織命(ほのよおりのみこと)、次に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだとされます。

別の言い伝え(第八)

別の言い伝え(第八)によると、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちのはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である天万杵幡千幡姫(あまよろずたくはたちはたひめ)を娶り、子を生みました。

この子を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)と名づけました。
これが尾張連(おわりのむらじ)らの遠祖であります。

次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)を生みました。
この神は大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘である木花開耶姫(このはなさくやひめ)を娶り、子を生ませました。

これが火酢芹命(ほのすせりのみこと)と彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)であります。

神武前紀(ニギハヤヒの降臨は天孫降臨より後に書かれている)

【甲寅年】
天照大神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)に十種の神宝(とくさのかんだから)を授け、
天磐船(あまのいわふね)に乗って天下に降るよう命じられました。
饒速日命はその命に従い、天磐船に乗って河内国・河上哮ヶ峯(かわかみのたけるがみね)に天降られました。
その後、大和国鳥見の白庭山(しらにわやま)へ移られました。
長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命を天神の御子として敬い、
妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻として差し出しました。
饒速日命はこの地で勢力を持ち、大和の統治に関わるようになりました。

【戊午年】

神武天皇が大和へ向かわれたとき、長髄彦はこれを拒み、戦いとなりました。
長髄彦は「自分は天神の御子である饒速日命に仕えている」と主張し、
天皇の天孫としての正統性を疑いました。

しかし、饒速日命は天皇が天つ神の御子であることを知り、
長髄彦の不順を「道に背くもの」と判断されました。

そこで饒速日命は長髄彦を誅し、
自らの軍勢を率いて天皇のもとに参上し、申し上げました。

「私は天つ神の御子にお従いするため、この地に降りました。
今、天皇こそが天つ神の御子であると明らかになりましたので、
私はその御前に帰順いたします。」

こうして饒速日命は天皇に帰服し、
その子・宇摩志麻遅命は物部氏の祖として重んじられることになります。

The following two tabs change content below.
愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
「神話の旅」一覧に戻る トップに戻る