龍神の記憶と目覚め  日本神話ー⑱21代 雄略天皇ー古代王権の炎  雄略天皇の治世― | 龍神の記憶と目覚め 

日本神話ー⑱21代 雄略天皇ー古代王権の炎  雄略天皇の治世―

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創作物語版ー古代王権の炎  雄略天皇の治世―

21代雄略(ゆうりゃく)天皇の時代を物語としてまとめています。
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

第一章 后妃と御子たち ― 朝倉宮に差す光と影

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朝倉宮の朝は、白い光が静かに柱の間を満たし、庭の竹が風に揺れていました。
大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)は縁に腰を下ろし、遠く霞む山々を眺めておられました。
その横顔には、治世の重みと、言葉にできない寂しさが影のように落ちています。

背後から、柔らかな衣擦れの音がしました。

「陛下……朝の風が冷うございます。お身体を冷やされませぬよう。」

若日下部王(わかくさかべのおおきみ)が、そっと薄衣を天皇の肩にかけました。
天皇は振り返り、微笑を浮かべます。

「そなたは、いつも私のことを案じてくれるのだな。」

若日下部王は、少しだけ目を伏せました。

「陛下のおそばに仕えることが、私の務めにございます。」

天皇はしばらく黙り、庭の竹が揺れる音を聞いておられました。
やがて、低く呟かれます。

「……そなたとの間に、子が授からぬこと。私は、それが心にかかっている。」

若日下部王の胸が、きゅっと締めつけられました。
しかし、顔には出さず、静かに答えます。

「陛下……私は、ただ陛下のお幸せを願うばかりにございます。
御子が生まれぬことを、どうか私のせいとお思いになりませぬよう……。」

その声は震えていました。
天皇はその震えに気づきながらも、何も言えませんでした。

やがて天皇は韓比売(からひめ)を妻とし、白髪命(しらかのみこと)と若帯比売命(わかたらしひめのみこと)が誕生します。

その知らせを聞いた若日下部王は、ひとり庭に立ち、竹の葉が風に揺れるのを見つめました。

「……よかった。陛下に、ようやくお子が……。」

その声は、喜びと痛みが入り混じっていました。
涙はこぼれませんでしたが、胸の奥で何かが静かに崩れ落ちていきました。

第二章 白い犬の贈り物 ― 山の上の邂逅

日下へ向かう山道。
天皇の一行は、朝の霧をかき分けるように進んでいました。

山の上から国中を見渡したとき、天皇はふと目を細められました。

「……あれを見よ。屋根に堅魚木(かつおぎ)を載せた家がある。」

従者が目を凝らし、答えます。

「志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)の家にございます。」

天皇の眉がぴくりと動きました。

「我が宮殿に似せて造るとは……。身の程を知らぬにもほどがある。」

声には怒りが滲み、従者たちは息を呑みました。

「すぐに人を遣わし、あの家を焼け。」

しかし、大県主は白い犬の縄を握りしめ、震える手で深く頭を下げました。

「陛下……愚か者の過ちにございます。
どうか、どうかお許しを……。
この白き犬、我が家の宝にございます。陛下に献じ、罪を償いたく……。」

白い犬は澄んだ目で天皇を見上げ、鈴がかすかに鳴りました。
その音は、怒りを溶かすように柔らかく響きました。

天皇はしばらく犬を見つめ、やがて息を吐かれました。

「……よい。そなたの誠意、確かに受け取った。家を焼くことはやめよう。」

大県主は地に額をつけ、震える声で礼を述べました。

その白い犬は、若日下部王へ贈られました。

使者が言います。

「陛下より、『道中で得た珍しきもの。そなたへの結納の品とする』とのお言葉にございます。」

若日下部王は犬を抱き上げ、胸に寄せました。
犬は彼女の頬を舐め、鈴が優しく鳴りました。

「……陛下が、日に背を向けてお越しになったのは不吉にございます。
私から参上いたします、とお伝えください。」

その声には、天皇への深い思慕が滲んでいました。

帰途、峠の上で天皇は風に揺れる樫と竹を見つめ、若日下部王を想って歌を詠まれました。

「……いずれ、共に寝ようぞ。」

その呟きは、山風に溶けていきました。

第三章 赤猪子 ― 八十年の待ち人

三輪川のほとり。
水音が澄み、少女が衣を洗っていました。
天皇は馬を止め、声をかけられます。

「そなた、名は何と申す?」

少女は驚きながらも、まっすぐ天皇を見つめました。

「引田部(ひきたべ)の赤猪子(あかいこ)と申します。」

天皇はその素朴な美しさに心を奪われ、馬から降りて近づかれました。

「赤猪子よ。そなた、他の男に嫁ぐな。
いずれ宮中に召そう。」

赤猪子の胸は熱くなり、頬が赤く染まりました。

「……はい。陛下のお言葉、決して忘れませぬ。」

しかし――
その「いずれ」は、八十年の歳月となりました。

老いた赤猪子が参内したとき、天皇は彼女を見ても思い出せませんでした。

「そなたは……どこの婆か?
なぜ参内した?」

赤猪子は震える声で語りました。

「陛下のお言葉を信じ、今日まで……八十年、待ち続けました。
若き日の私を召すと仰せられた、そのお言葉を……。」

天皇の顔色が変わり、息を呑まれました。

「……忘れていた。
そなたは、なんと気の毒な……。
操を守り続け、女の盛りをすべて捧げてしまったとは……。」

赤猪子は涙をこぼしながら歌を返し、天皇もまた胸を痛めながら歌を贈られました。
二人の間に流れたのは、失われた青春と、言葉の重さでした。

第四章 吉野の童女 ― 舞いと蜻蛉の国

吉野川のほとりは、朝の光を受けてきらきらと輝いていました。
天皇が馬を進められると、川辺にひとりの少女が立っていました。
白い足を水に浸し、流れを見つめている姿は、まるで水の精のようでした。

天皇は馬を止め、声をかけられます。

「そなた、名は何と申す?」

少女は驚いて振り返り、深く頭を下げました。

「名は……申し上げるほどの者ではございません。
ただ、吉野に住む娘にございます。」

天皇は少女の頬に浮かぶ赤みを見て、柔らかく微笑まれました。

「そなたのような娘が、名を持たぬはずがない。
……教えてくれぬか。」

少女はしばらく迷い、やがて小さな声で答えました。

「……はい。名は、まだ幼い頃につけられたもので……。
人は、私を“童女(どうじょ)”と呼びます。」

天皇はその名を心の中で繰り返し、静かに頷かれました。

「童女よ。そなた、私と共に宮へ来ぬか。」

少女は驚き、胸に手を当てました。

「わ、私は……陛下のおそばにふさわしい者では……。」

「ふさわしいかどうかは、私が決めることだ。」

その言葉に、少女の頬はさらに赤く染まりました。

再び吉野へ ― 舞いのひととき

後日、天皇は再び吉野を訪れられました。
童女と出会った場所に呉床(あぐら)を立て、琴を弾かれます。

「童女よ。舞ってみせてくれぬか。」

少女は胸に手を当て、震える声で答えました。

「陛下の御前で……私のような者が舞ってよろしいのでしょうか。」

「そなたの舞を見たいのだ。」

少女は深く息を吸い、そっと舞い始めました。
その動きは風のように軽く、花びらのように柔らかく、天皇は思わず息を呑まれました。

「……美しい。
その姿が、永遠に続けばよい。」

天皇はそう呟き、歌を詠まれました。

蜻蛉の国の名

ある日、天皇が阿岐豆野(あきずの)で狩りをしておられたときのことです。
呉床に座っておられる天皇の腕に、虻(あぶ)が食いつきました。

「む……。」

その瞬間、トンボが飛び来たり、虻を咥えて空へ舞い上がりました。

従者たちは驚き、声を上げます。

「なんと……!」

天皇はその様子を見て、ふっと笑みを浮かべられました。

「見事な働きだ。
この国を“蜻蛉島(あきづしま)”と呼ぶのも、うなずけるな。」

その言葉は、風に乗って野に広がっていきました。

第五章 葛城の一言主大神 ― 山の尾根の影

葛城山の山道は、深い緑に包まれていました。
天皇の一行が山頂へ向かう途中、突然、大きな猪が現れました。

「陛下、お下がりください!」

従者が叫ぶ間もなく、天皇は矢をつがえ、猪を射られました。
しかし、手負いの猪は怒り狂い、唸り声を上げて迫ってきます。

「……これは、危うい。」

天皇は近くの榛(はり)の木に登られました。
枝が揺れ、葉がざわめきます。

「この唸り声……なんと恐ろしいことか。」

天皇は震える息を整えながら、歌を詠まれました。

山の尾根に現れた影

別の日、天皇が葛城山に登られたときのことです。
お供の官人たちは、紅い紐をつけた青い摺染(すりぞめ)の衣を身にまとい、行列は美しく整っていました。

しかし、向かいの山の尾根に、まったく同じ姿の一行が現れたのです。

「……あれは、何者だ。」

天皇が問われると、従者たちはざわめきました。

「陛下の行列と……そっくりにございます。」

天皇は声を張り上げられました。

「そなたら、何者だ!」

すると、向こうの一行も同じ調子で返します。

「そなたこそ、何者だ!」

緊張が走り、弓がきしむ音が山に響きました。

天皇はさらに問われます。

「名を名乗れ!
互いに名を明かしてから、矢を放とう!」

向こうの長が、静かに答えました。

「我は、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)。
悪事も善事も、一言で言い放つ神なり。」

天皇は息を呑み、すぐに太刀を置き、深く頭を下げられました。

「畏れ多い……。神と知らず、無礼を働きました。」

大神は笑みを含んだように拍手し、献上品を受け取られました。
その後、山の頂から天皇を見送り、風のように姿を消しました。

第六章 天語歌 ― 欅の下の赦し

新嘗の宴の日。
泊瀬の欅(けやき)の大木の下で、天皇は酒宴を催されていました。

伊勢国三重郡から奉られた采女(うねめ)が、杯を高く捧げて献上します。
しかし、欅の葉がひらりと落ち、杯に浮かびました。

天皇は眉をひそめられました。

「……これは、どういうことだ。」

采女は気づかず、杯を差し出します。
天皇は怒りを露わにされました。

「無礼者! このような杯を私に差し出すとは!」

采女は震え、地に伏しました。

「お、お待ちくださいませ……!
申し上げたいことがございます……!」

天皇は刀を抜きかけましたが、采女は涙をこらえ、長い歌を詠み始めました。
その声は震えていましたが、言葉は澄んでいました。

歌が終わると、天皇はしばらく沈黙されました。
やがて、刀を下ろし、静かに言われます。

「……そなたの言葉、確かに聞いた。
罪は赦す。」

采女は涙を流し、深く頭を下げました。

皇后もまた優しい歌を詠まれ、天皇は宮人たちの賑わいを歌にされました。
宴は再び和やかに続きました。

第七章 天皇の旅立ち

百二十四年の御代を生きられた天皇は、静かに息を引き取られました。
丹治比の高鷲に御陵が築かれ、風がその上を渡っていきます。

若日下部王は、白い犬の鈴の音を思い出しながら、そっと空を仰ぎました。

「……陛下。どうか安らかにお眠りくださいませ。」

その声は風に溶け、山々に吸い込まれていきました。

古事記現代語訳

后妃と御子

大長谷若建(おおはつせわかたけ)命は、泊瀬(はつせ)の朝倉宮(あさくらのみや)で天下をお治めになりました。
天皇は、大日下(おおくさか)王の妹である若日下部(わかくさかべ)王を后としてお迎えになりましたが、この后との間に御子はお生まれになりませんでした。

また、都夫良意富美(つぶらのおほみ)の娘である韓比売(からひめ)を妻とされ、この韓比売からお生まれになった御子は、白髪(しらか)命と、その妹の若帯比売(わかたらしひめ)命の二柱でございます。

天皇は、皇太子である白髪(しらか)命の御名代(みなしろ)として白髪部(しらかべ)を定め、さらに長谷部(はせべ)の舍人(とねり)、河瀬(かわせ)の舍人もお定めになりました。

この天皇の御代(みよ)に呉人(くれひと)が渡来し、その呉人を飛鳥の呉原(くれはら)にお置きになりました。これによって、その地を呉原と名づけたのでございます。

若日下部(わかくさかべ)王

当初、皇后の若日下部(わかくさかべ)が日下(くさか)におられたとき、天皇は真っ直ぐに日下へ越える道を通って河内(かわち)へお出でになりました。

そのとき、山の上から国内を遠望なさると、屋根の上に堅魚木(かつおぎ)を乗せて造ってある家がありました。
天皇が、
「その堅魚木(かつおぎ)を屋根に乗せて家を作っているのは誰の家だ」
とお尋ねになると、
「あれは志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)の家です」
と答えました。

天皇は、
「あいつめ、自分の家を天皇の宮殿に似せて造っている」
とお怒りになり、ただちに人を遣わしてその家を焼かせようとされました。

そのとき、大県主(おおあがたぬし)は恐れ慎んで深く頭を下げ、
「私は卑しい者でございますので、身の程をわきまえず誤ってこのように作ってしまいましたこと、誠に畏れ多いことでございます。どうかお許しをいただきたく、贈り物を献上いたします」
と申し上げ、布を白い犬にかけ、鈴をつけ、自分の一族の腰佩(こしはき)という者に犬の縄を取らせて献上しました。

そこで天皇は、その家に火をつけることをおやめになりました。

そしてすぐに若日下部(わかくさかべ)のもとへ犬を贈り、従者に言わせました。
「これは今日、道中で手に入れた珍しい物である。ゆえにこれを結納の品とする」
とお伝えになりました。
若日下部(わかくさかべ)は天皇に、
「日に背を向けておいでになったことは、たいそう不吉なことでございます。ですから私のほうからすぐ参上してお仕えいたします」
と奏上しました。
こうして天皇は朝倉宮(あさくらのみや)にお帰りになりましたが、そのとき、山の峠に通じる坂の上にお立ちになり、次の歌を詠まれました。

(九一)若日下部に贈った歌
日下部(くさかべ)のこちらの山と、
(たたみこも)平群(へぐり)の山の、
あちらとこちらの山の峡谷に、
繁茂している葉の広い大樫(おおがし)。
その木の根元には、
こんもり茂って枝をさしかわした竹が生え、
こずえのほうの斜面には、
枝葉の密生した竹が生えている。
(いくみ竹)組んでは寝もせず、
(たしみ竹)たしかには共寝もしない。
が、将来はきっと組み合って寝よう。
そのいとしい妻よ。ああ。

天皇はこの歌を若日下部(わかくさかべ)の使者に持たせて返されました。

赤猪子(あかいこ)

またあるとき、天皇は遊びにお出かけになり、三輪川(みわがわ)に着かれたとき、川のほとりで衣服を洗っている少女がいました。
その容姿はとても美しいものでございました。
天皇がその少女に、
「おまえは誰の子か」
とお尋ねになると、少女は、
「私の名は引田部(ひきたべ)の赤猪子(あかいこ)と申します」
と申し上げました。

天皇は、
「おまえはほかの男に嫁がないでいてくれ。今に宮中に召そう」
と仰せになり、朝倉宮(あさくらのみや)にお帰りになりました。

赤猪子(あかいこ)はそのお召しの言葉をお待ちして、とうとう八十年が経ちました。
そして、
「お召しの言葉をお待ちしている間に多くの年月が過ぎ、体つきも痩せしぼみ、もはや召される望みもなくなってしまった。しかし、これまで待っていた私の気持ちをお伝えしないでは気が晴れない」
と思い、机に乗せた多くの品を持って参内しました。

ところが天皇は以前の言葉を忘れておられ、
「おまえはどこのお婆さんだ。どうして参内したのだ」
とお尋ねになりました。

赤猪子(あかいこ)は、
「先年のある月に天皇のお言葉をいただき、お召しをお待ちして今日まで八十年が経ちました。今は容姿もすっかり老い、お召しにあずかる望みもございません。しかし、これまで天皇のお言葉を守ってまいった私の志をお伝えしたく参上いたしました」
と申し上げました。

天皇はこれを聞いて大変驚かれ、
「私はすっかり以前の言葉を忘れていた。それなのに、おまえは操を守り私の言葉を待ち、女としての盛りの年をむなしく過ごしてしまったとは誠に気の毒である」
と仰せになりました。
天皇は内心では結婚しようと思われましたが、赤猪子(あかいこ)があまりに年老いており、結婚できないことを悲しんで、次の歌を賜りました。
(九二)

御諸(みもろ)の社の神聖な樫(かし)の木。
その樫の木のように、
神聖で近寄りがたいよ、
三輪(みわ)の樫原乙女(かしはらおとめ)は。

さらに次の歌も賜りました。
(九三)
引田(ひけた)の若い栗林(くりばやし)。
そのように若いときに、
おまえと共寝すればよかったものを、
今はすっかり年老いてしまったよ。

赤猪子(あかいこ)は涙で袖を濡らし、次の歌を返しました。
(九四)
御諸(みもろ)の社に築きめぐらす立派な垣。
その「築く」という言葉ではないが、
神に斎(いつ)き仕え過ごして、
今は誰に頼りましょうか、
神の宮にお仕えする宮人(みやびと)は。

さらに歌いました。
(九五)
日下江(くさかえ)の入江の蓮(はす)。
美しく咲き誇っているその蓮の花。
そのように若い盛りの人がうらやましいこと。

天皇は赤猪子(あかいこ)に多くの品物を賜って帰されました。
この四首の歌は志都歌(しつうた)でございます。

吉野(よしの)の童女(どうじょ)

天皇が吉野宮(よしののみや)にお出かけになったとき、吉野川(よしのがわ)の川辺に美しい少女がいました。
天皇はこの少女と結婚して朝倉宮(あさくらのみや)にお帰りになりました。
その後、再び吉野にお出かけになり、少女と出会った場所にとどまられ、立派な御呉床(みあぐら)を立てて座り、琴を弾き、少女に舞を舞わせました。
少女が巧みに舞ったので、天皇は次の歌を詠まれました。
(九六)
呉床(あぐら)に座っておいでになる
神の御手で弾く琴にあわせて舞う少女よ。
その美しい姿は、
永遠であってほしいものだ。

その後、天皇が阿岐豆野(あきずの)に出かけて狩りをしたときのこと、天皇が呉床(あぐら)に座っていると、虻(あぶ)が御腕に食いつき、それをトンボが咥えて飛んでいきました。
天皇は次の歌を詠まれました。
(九七)
吉野(よしの)のおむろが嶽(だけ)に猪(いのしし)や鹿(しか)が潜んでいると、
誰が天皇の御前に申し上げたのか。
(やすみしし)我が大君がそこで獣を待とうと呉床(あぐら)におすわりになり、
(しろたへの)袖もきちんと着ている腕の内側のふくらみに、
虻(あぶ)が食いつき、
その虻をトンボがさっそく咥えて行き、
このように手柄を立てたトンボを名につけようと、
(そらみつ)大和(やまと)の国を蜻蛉島(あきずしま)というのだ。

このときから、その野を阿岐豆野(あずきの)と名づけました。

葛城(かずらき)の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)

またある時、天皇は葛城(かずらき)の山の上にお登りになりました。
そのとき、大きな猪(いのしし)が現れました。天皇がすぐに鳴鏑(なりかぶら)の矢でその猪を射られると、猪は怒って唸り声をあげて寄ってきました。
天皇はその唸り声を恐ろしく思われ、榛(はり)の木の上に逃げ登られました。
そのとき、次の歌を詠まれました。
(九八)

(やすみしし)わが大君が射られた猪(いのしし)の、
手負いの猪の唸り声が恐ろしくて、
私が逃げ登った高い峰の榛(はり)の木の枝よ。

また別のとき、天皇が葛城山(かずらきのやま)にお登りになった際、お供の官人たちは皆、紅い紐をつけた青い摺染(すりぞめ)の衣服を賜って着ていました。
そのとき、向かいの山の尾根に、天皇の行幸の列にそっくりの一行が現れました。服装も随行の様子も、まったく同じでございました。

天皇が遠くからその様子をご覧になり、お供の者に尋ねさせて言われました。
「この大和(やまと)の国に、私をおいて他に大君はないのに、今、誰が私と同じような様子で行くのか」
すると向こうからの答えも、天皇のお言葉と同じような調子でした。
天皇はひどくお怒りになり、矢を弓につがえられました。お供の官人たちも皆、矢をつがえました。
すると向こうの一行も、同じように矢をつがえました。
天皇はさらに尋ねられました。
「それではそちらの名を名のれ。互いに名を名のってから矢を放とう」
向こうの者は答えて言いました。
「私が先に問われた。だから私が先に名のりをしよう。私は、悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城(かずらき)の一言主(ひとことぬし)の大神である」

天皇はこれを聞いて恐れ畏まり、
「畏れ多いことです、我が大神よ。現実のお方であろうとは気がつきませんでした」
と申し上げ、自らの太刀や弓矢をはじめ、多くの官人たちの衣服まで脱がせて献上しました。
一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)は拍手をしてその献上品をお受け取りになりました。
そして天皇が皇居にお帰りになるとき、その一言主大神の一行は山の頂に大勢集まり、泊瀬(はつせ)の山の入口までお送り申し上げました。
このときが、一言主大神が初めて現れた時でございます。

天語歌(あまがたりうた)

また天皇が、丸邇(わに)のサツキの臣(おみ)の娘、袁杼比売(おどひめ)に求婚するため春日(かすが)に出かけられたとき、道でその少女に出会いました。
少女は行幸を見るとすぐ逃げて、丘のほとりに隠れました。
天皇は次の歌をお詠みになりました。
(九九)
少女の隠れている丘を、
金鋤(かなすき)の五百丁もほしいな、
鋤で撥ね退けて、
少女を見つけ出そうものを。
この歌によって、その丘を金鋤(かなすき)の岡と名づけました。
また、天皇が泊瀬(はつせ)にある枝の茂った大きな欅(けやき)の木の下で、新嘗(にいなめ)の酒宴をされたときのことです。
伊勢国(いせのくに)の三重郡(みえのこおり)から奉られた采女(うねめ)が、天皇に御杯を高く捧げて献上しました。
そのとき、欅の葉が落ちて采女の捧げ持つ杯に浮かびました。
采女はそれに気づかず、そのまま天皇に献上しました。
天皇は杯に浮かぶ落葉をご覧になると、その采女を打ち伏せ、刀を首に当てて斬ろうとされました。
采女は天皇に、
「私を殺しなさいますな。申し上げることがございます」
と言い、次の歌を詠みました。
(一〇〇)
纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)は、
朝日の照り輝く宮、
夕日の光り輝く宮、
竹の根が十分に張っている宮、
木の根が長く延びている宮、
(八百土よし)築き固めた宮でございます。
(まきさく)檜(ひのき)造りの宮殿の、
新嘗(にいなめ)の儀式を執り行う御殿に生い立っている、
枝葉のよく茂った欅(けやき)の枝は、
上の枝は天を覆い、
中の枝は東の国を覆い、
下の枝は田舎を覆っています。
そして上の枝の葉は中の枝に散り触れ、
中の枝の葉は下の枝に散り触れ、
下の枝の葉は、
(ありきぬの)三重(みえ)の采女(うねめ)が捧げている立派な杯に、
浮き脂のように落ちて漂い、
水をコオロコオロと掻き鳴らして島のように浮かんでおります。
これこそ畏れ多いことでございます。
(高光る)日の御子よ。
事の語り言としてこのことを申し上げます。

天皇はこの歌を聞いて采女の罪をお赦しになりました。
そのとき、皇后も歌を詠まれました。
(一〇一)

大和(やまと)のこの小高い所にある市に、
小高くなっている市の丘。
そこの飾嘗(かざしの)の御殿に生い立っている、
葉の広い神聖な椿(つばき)よ。
その葉のように心広く、
その花のようにお顔の照り輝く、
(高光る)日の御子に、
めでたいお酒を差し上げてください。
事の語り言として、このことを申し上げます。

天皇も歌を詠まれました。
(一〇二)

(ももしきの)大宮人(おおみやびと)は、
首に白い斑(まだら)のある鶉(うずら)のように、
首に領巾(ひれ)をかけ、
鶺鴒(せきれい)のように長い裾を交えて行き交い、
庭の雀(すずめ)のようにうずくまり集まって、
今日は酒に浸っているらしい、
(高光る)日の宮の宮人(みやびと)たちは。
事の語り言として、
このことを申し上げます。

この三首は天語歌(あまがたりうた)でございます。
その新嘗(にいなめ)の酒宴で、三重(みえ)の采女(うねめ)は褒められ、多くの褒美を賜りました。
また、春日(かすが)の袁杼比売(おどひめ)が酒を献上したとき、天皇は次の歌を詠まれました。
(一〇三)

(みなそそく)宮仕えの少女が、
酒甕(さけがめ)を持っておいでだよ。
酒甕は手にしっかりお持ちなさい。
しっかりと、いよいよしっかりとお持ちなさい。
酒甕をお持ちの少女よ。

袁杼比売(おどひめ)は次の歌を献上しました。
(一〇四)

(やすみしし)我が大君が、
朝よりかかられ、
夕べにもよりかかられる、
あの脇息(きょうそく)の下の板になりたいものです。アセヲ。
これは志都歌(しつうた)でございます。

天皇の崩御(ほうぎょ)

天皇の御年齢は百二十四歳で、己巳(つちのとのみ)の年の八月九日に崩御されました。
御陵は河内国(かわちのくに)の丹治比(たじひ)の高鷲(たかわし)にございます。

日本書紀現代語訳

眉輪王の父の仇

大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと、雄略天皇)は、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の第五子でございます。
天皇がお生まれになったとき、神々しい光が御殿に満ちあふれたと伝えられております。
ご成長なさってからは、その逞しさは群を抜いておられました。

安康天皇の殺害

三年八月、安康天皇(あんこうてんのう)は湯浴みをしようとお思いになり、山の宮へお出ましになりました。
そして楼(たかどの)にお登りになり、四方を眺め渡されました。
その後、酒宴を催すよう命じられ、心がくつろがれて楽しさが極まり、さまざまな話を語り出されました。

その折、皇后に向かって次のようにおっしゃいました。
「妻よ、お前とは十分に馴染んでいるが、私は眉輪王(まよわのおおきみ)が怖いのだ」

眉輪王はまだ幼い身でございましたが、楼の下で遊んでいるうちに、この話をすべて聞いてしまいました。

やがて天皇は皇后の膝を枕に昼寝をなさいました。
そこで眉輪王は、天皇の寝込みをうかがって刺し殺してしまいました。

この日、大舎人(おおとねり)が急ぎ走って雄略天皇に
「安康天皇は眉輪王に殺されました」
と申し上げました。

天皇は大いに驚かれ、まずご自身の兄弟を疑われました。
甲冑を身につけ、太刀を佩き、兵を率いて自ら先頭に立ち、同母兄である八釣白彦皇子(やつりしろひこのみこ)を攻め、問い詰められました。
皇子は危害を加えられそうな気配を感じ、声も出せず座ったままでおられました。
天皇は即座に刀を抜き、斬り殺してしまわれました。

続いて坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を問い詰められました。
皇子もまた殺されると悟り、座したまま何も言われませんでした。
天皇の怒りはますます激しくなりました。

このとき、眉輪王も殺してしまおうとお考えになり、事の次第をお尋ねになりました。
眉輪王は申し上げました。
「私はもとより皇位を望んではおりません。ただ、父の仇を討ちたかっただけです」

坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れ、こっそり眉輪王と語り合い、隙を見てともに円大臣(つぶらのおおきみ)の家へ逃げ込みました。

円大臣の最期

天皇は使者を遣わし、二人の引き渡しを求められました。
大臣は使者を返して答えました。
「人臣が事あるときに王宮へ逃げ込むことは聞きますが、君王が人臣の家に隠れるという話は存じません。
確かに今、坂合黒彦皇子と眉輪王は、深く私を頼って私の家に来られました。どうして強いて差し出すことができましょうか」

これにより天皇はますます兵を増し、大臣の家を包囲しました。

大臣は庭に出て脚結(あゆい)を求めました。
大臣の妻は脚結を持ってきて、悲しみのあまり心が張り裂けるような思いで歌いました。

オミノコハ、夕へノハカマヲ、ナナへヲシ、 ニハニタタシテ、アユヒナタスモ。
(我が夫の大臣は白い栲の袴を七重にお召しになり、庭に立って脚結を撫でておられます)

大臣は装束を整え、軍門に進み出て拝礼し、
「私は誅殺されようとも、命令に従うことはできません。古人も申します。『賤しい男の志も奪うことは難しい』と。まさしく私のことです。
伏してお願い申し上げます。私の娘・韓媛(からひめ)と、葛城の領地七ヶ所を献上いたしますので、どうか罪をお許しください」
と申し上げました。

しかし天皇は許されず、火を放って家を焼き払いました。
大臣、黒彦皇子、眉輪王はともに焼死しました。
そのとき坂合部連贄宿禰(さかあいべのむらじ・にえのすくね)は皇子の屍を抱き、共に焼け死にました。

舎人たちは死骸を収めましたが、骨を選び分けることも難しく、一つの棺に入れて新漢(いまき)の槻本の南の丘に合葬しました。

市辺押磐皇子の謀殺

冬十月一日、天皇は、安康天皇がかつて従兄弟の市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)に皇位を譲ろうと考えていたことを恨み、偽って狩りを誘いました。

「近江の佐々貴山(ささきやま)の君・韓帒(からふくろ)が申すには、
『今、近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)に猪や鹿が多くおります』
とのことだ。初冬の風があまり冷たくないうちに、野に遊び、巻狩りをして心を楽しませようではないか」

皇子はこの誘いに従い、狩りに出かけました。

そのとき天皇は弓を構え、馬を走らせ、「鹿がいる」と偽って呼び寄せ、市辺押磐皇子を射殺しました。
皇子の舎人・佐伯部売輪(さえきべのうるわ)は皇子の屍を抱き、驚き慌ててどうすべきか分からず、叫び声をあげて転げ回り、皇子の頭と脚の間を右往左往しました。
天皇はこれを皆殺しにしました。

同月、御馬皇子(みまのみこ、押磐皇子の同母弟)は三輪君身狭(みわのきみ・むさ)と親しかったため、心を楽しませようと出かけましたが、途中で伏兵に遭い、三輪の磐井のほとりで戦いとなりました。
御馬皇子は捕らえられ、処刑される際、井戸を指して呪いました。
「この水は百姓だけが飲むことができる。王者だけは飲むことができない」

即位と諸妃

十一月十三日、天皇は泊瀬(はつせ)の朝倉に即位の場を設け、皇位に就かれました。
宮居を定め、平群臣真鳥(へぐりのおみ・まとり)を大臣、大伴連室屋(おおとものむろや)と物部連目(もののべのめ)を大連とされました。

元年三月三日、草香幡梭姐皇女(くさかのはたびひめのみこ)を皇后とされました。
この月、三人の妃を立てられました。

韓媛(からひめ)

葛城円大臣の娘で、
白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと、清寧天皇)
および稚足姫皇女(わかたらしひめのみこと)をお生みになりました。
皇女は伊勢神宮の斎宮となられました。

稚姫(わかひめ)

吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の娘で、
磐城皇子(いわきのみこ)と星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)をお生みになりました。

童女君(おみなぎみ)

春日の和珥臣深目(わにのおみ・ふかみ)の娘で、もとは采女(うねめ)でした。
天皇が一夜を共にされたところ身ごもり、女子を生みました。
天皇は疑いを抱き、養育されませんでした。

女の子が歩けるようになった頃、天皇が大殿にお出ましになり、物部目大連(もののべのめのおおむらじ)が侍していました。
女の子が庭を歩く姿を見て、大連は群臣に向かって言いました。
「なんと麗しい女の子でしょう。古の人が『なひとやははに(お前は母に似たのか)』と言ったように、清らかな庭を静かに歩く姿は、誰の娘なのでしょう」

天皇が問われると、大連は
「その歩きぶりが、よく天皇に似ておられますので」
と申し上げました。

天皇は、
「この子を見た者は皆、お前と同じことを言う。しかし私は一夜を共にしただけで身ごもったのだ。一晩で子を宿すとは異常であるから疑っているのだ」
とおっしゃいました。

大連は尋ねました。
「では一晩に何度お呼びになりましたか」
天皇は
「七度呼んだ」
と答えられました。

大連は申し上げました。
「乙女は清らかな身と心で一夜を共にしたのです。どうして軽々しく疑われるのですか。
私は聞いております。孕みやすい人は、襌(衣)が体に触れただけでも身ごもることがあると。
まして一晩中床を共にされたのに、みだりに疑いをかけられるとは」

天皇はこれを聞き、女の子を皇女とし、母を妃とされました。

池津媛の不義と処刑

二年七月、百済の池津媛(いけつひめ)は、天皇が宮中に入れようとしておられたにもかかわらず、石川楯(いしかわのたて)と密通しました。
天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に命じ、来目部(くめべ)を使って二人の四肢を木に張りつけ、桟敷の上に置いて火で焼き殺させました。

百済新撰には、己已の年に蓋鹵王(こうろおう)が即位したとあります。
天皇は阿礼奴跪(あれなこ)を遣わし、美女を求めさせました。
百済は慕尼夫人の娘を飾り、適稽女郎(ちゃくけいえはし)と呼んで天皇に奉ったと記されています。

吉野の猟と宍人部の貢上(ししひとべのこうじょう)

冬十月三日、天皇は吉野宮(よしののみや)へ行幸されました。
六日には御馬瀬(みませ)にお出ましになり、山の係の役人に命じて、思うままに狩りをなさいました。

天皇は幾つもの峯に登り、広い原を駆け巡られました。
日が傾く前には、十中八九の獲物を得られ、鳥獣が尽きるのではないかと思われるほどでございました。

やがて林泉に行き当たり、水辺で休憩されました。
車駕(しゃが)を整え、士卒を休ませ、群臣にお尋ねになりました。

「猟場の楽しみは、料理人に鮮(なます)を作らせることだが、自分で作るのとどちらが楽しいだろう」

群臣は即答できませんでした。
すると天皇は大いに怒られ、太刀を抜いて御者の大津馬飼(おおつのうまかい)を斬ってしまわれました。

この日、天皇は吉野宮からお帰りになりました。
国内の民は皆震え恐れました。
皇太子と皇后もこれを聞き、大いに心を痛められました。

采女・日媛との出会い

倭(やまと)の采女・日媛(うねめ・ひのひめ)が酒を捧げて天皇をお迎えしました。
天皇は日媛の端正な顔立ちと上品な姿をご覧になり、顔をほころばせて喜びの色を示されました。

「私は、どうしてお前の美しい顔を見ずにいられようか」

そう言われ、手を取り合って後宮に入られました。

皇太后との対話

天皇は皇太后に語られました。
「今日の狩りでは多くの獲物を得た。群臣と新鮮な料理を作り、野外で宴をしようと思い、群臣に尋ねたが、誰も答えられなかった。それで腹を立てたのだ」

皇太后は天皇の真意を悟り、慰めようと申し上げました。

「群臣は、陛下が狩猟の場で宍人部(ししひとべ)を設けようとなさっているとは気づかなかったのでしょう。答えられなかったのも無理はありません。今からでも遅くはありません。膳臣(かしわでのおみ)の長野(ながの)は料理が上手ですから、これをお使いになってはいかがでしょう」

天皇は跪いて礼をし、

「良いことを言ってくれた。下々の者が言う『貴い身分の者は互いに心が通じる』とは、このことだろう」

とおっしゃいました。
皇太后は天皇の喜ばれる様子をご覧になり、自らも喜んでお笑いになりました。
さらに人を加えようと、

「私の厨人(くりやびと)の菟田御戸部(うだのみとべ)と、真鋅田高天(まさきだのたかめ)の二人を宍人部に加えてください」

と申し上げました。

その後、大倭国造・吾子籠宿禰(おおやまとのくにのみやつこ・あごこのすくね)、狭穂子鳥別(さほのことりわけ)も宍人部に加えられました。
臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)らもこれにならって人を奉りました。

新たな部民の設置

この月、史戸(ふみひとべ)と河上舎人部(かわかみのとねりべ)が設けられました。

天皇はご自身の判断だけで物事を決められることが多く、誤って人を殺されることもありました。
天下の人々はこれを誹謗して、
「大変悪い天皇である」
と言いました。
ただし、史部(ふひとべ)の身狭村主青(むさのすぐり・あお)、桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかい・はかとこ)だけは特に可愛がられました。

阿閉臣国見の讒言と皇女の死

三年夏四月、阿閉臣国見(あへのおみ・くにみ)が、
栲幡皇女(たくはたのひめみこ、伊勢の斎宮)と、湯人(ゆえ、皇子皇女の沐浴に仕える者)である廬城部連武彦(いおきべのむらじ・たけひこ)を讒言しました。

「武彦は皇女を穢して妊娠させました」

武彦の父・枳莒喩(きこゆ)はこの流言を聞き、災いが及ぶことを恐れました。
そこで武彦を廬城河(いおきのかわ)へ誘い出し、鵜飼いの真似をして水に潜っているときに、不意に打ち殺しました。

天皇は使者を遣わして皇女を調べさせました。
皇女は
「私は知りません」
と答えました。

皇女は急ぎ神鏡を持ち出し、五十鈴川(いすずがわ)のほとりへ行き、人の来ない場所を選んで鏡を埋め、首をくくって亡くなりました。

天皇は皇女の姿が見えないことを疑い、闇夜にあちこち探し回られました。
すると川上に虹がかかっている場所があり、蛇のように四、五丈の長さでした。

虹の立つ場所を掘ると神鏡が出てきました。
その近くに皇女の屍がありました。
割いてみると腹の中には水のようなものがあり、その中に石がありました。

これによって枳莒喩は息子の冤罪を晴らすことができました。
しかし、かえって子を殺したことを悔い、報復として国見を殺そうとしました。
国見は石上神宮(いそのかみじんぐう)に逃げ隠れました。

葛城の一事主(ひとことぬし)

四年春二月、天皇は葛城山(かずらきやま)へ狩りにお出でになりました。
すると突然、背の高い人物が現れ、谷間で行き合いました。
その顔立ちや姿は天皇とよく似ていました。

天皇は「これは神であろう」とお思いになりながらも、あえてお尋ねになりました。

「どちらの公(きみ)でいらっしゃいますか」

長身の人物は答えて言いました。

「私は現人神(あらひとがみ)である。まずあなたが名を名乗りなさい。そうすれば私も名乗ろう」

天皇は答えられました。

「私は幼武尊(わかたけるのみこと)である」

すると長身の人物は名乗りました。

「私は一事主神(ひとことぬしのかみ)である」

その後、天皇と神はともに狩りを楽しみ、鹿を追い詰めても互いに矢を放つのを譲り合い、轡(くつわ)を並べて馬を走らせました。
言葉遣いも恭しく、まるで仙人に出会ったかのようでありました。

日が暮れて狩りが終わると、神は天皇を見送り、来目川(くめのかわ)までお越しになりました。
この出来事を聞いた世の人々は皆、「天皇は徳のあるお方である」と評しました。

蜻蛉(あきつ)の忠義

秋八月十八日、天皇は吉野宮(よしののみや)にお出でになり、二十日には川上の小野にお越しになりました。
山の役人に命じて獣を追い出させ、ご自身で射ようと構えておられると、虻(あぶ)が飛んできて天皇の肘を噛みました。

そこへ蜻蛉(あきつ、トンボ)が急に飛んできて虻を食い、そのまま飛び去りました。
天皇は蜻蛉の心ある行いを褒められ、群臣に詔して言われました。

「私のために蜻蛉を褒めて歌を詠め」

しかし群臣の中であえて詠む者はありませんでした。
そこで天皇は自ら口ずさまれました。

ヤマトノ、ヲムラノタケニ、シシフスト、 タレカコノコト、オホマヘニマヲス。 オホキミハ、ソコヲキカシテ、タママキノ、 アグラニタタシ、シヅマキノ、アグラニタタシ、 シシマツト、ワガイマセバ、サヰマツト、 ワガタタセバ、タクフラニ、アムカキツキツ、 ソノアムヲ、アキツハヤクヒ、ハフムシモ、 オホキミニマツラフ、ナガカタハオカム、 アキツシマヤマト。

(倭の山々の頂に猪がいると、誰がこのことを大君に申し上げるだろうか。
大君はそれをお聞きになり、玉を飾り倭文を巻いた胡床におかけになって、猪を待つと私が構えていると、手のふくらみに虻が食いついた。
その虻を蜻蛉がたちまち食い、昆虫までも大君にお仕えする。
この蜻蛉島・倭(あきつしまやまと)という名を、お前の形見として残しておこう。)
天皇はこのように蜻蛉を褒め、この地を「蜻蛉野(あきつの)」と名づけられました。

猛猪と臆した舎人

五年春二月、天皇は再び葛城山で狩りをされました。
すると不思議な鳥が現れました。雀ほどの大きさで、尾が長く地を引きずり、鳴きながら
「ゆめ、ゆめ(油断するな)」
と言いました。

その直後、怒った猪が草の中から飛び出し、人に襲いかかりました。
狩人たちは木に登って大いに恐れました。

天皇は舎人(とねり)に詔して言われました。
「猛き猪も、人に逢えば止まるという。迎え射って仕留めよ」
しかし舎人は臆病で、木に登って震え、何もできませんでした。
猪はそのまま天皇に向かって突進しました。

天皇は弓で猪を突き刺し、足で踏み殺されました。
狩りが終わる頃、天皇は舎人を斬りました。

舎人は殺されるとき、次の歌を詠みました。

ヤスミシシ、ワガオホキミノ、アソバシシ、 シシノウタキ、カシコミ、ワガニゲノボリシ、 アリヲノウヘノ、ハリガエダアセヲ。(大君が狩りをされた猪のうなり声を恐れて、私が逃げ登った峯の上の榛の木の枝よ、ああ。)

皇后はこの歌を聞いて深く悲しまれ、心を込めて天皇を諫められました。
しかし天皇は言われました。
「皇后は天皇に味方せず、舎人を大事に思った」
皇后は答えました。

「国人は皆、陛下は狩りをなさって猪を好まれると言うでしょう。これは良くありません。
今、陛下が猪のことで舎人を斬られたのなら、陛下は狼に他なりません」

天皇は皇后と車に乗って帰られました。
「万歳(よろずよ)」
と叫ばれ、

「楽しいことだなあ。人は皆、鳥や獣を獲物とするが、私は狩りをして良い言葉を獲物として帰るのだから」
とおっしゃいました。

嶋王(武寧王)誕生

夏四月、百済(くだら)の加須利君(かすりしき)は、池津媛(いけつひめ)が焼き殺されたことを聞き、
「昔、女を貢って采女とした。しかし礼に背き、我が国の名を貶めた。今後、女を貢ってはならぬ」
と言いました。

そして弟の軍君(こにきし)に、
「お前は日本に行って天皇に仕えよ」
と命じました。

軍君は、
「命に背くことはできません。願わくば、君の婦(め)を賜ってから私を遣わしてください」
と言いました。

加須利君は臨月の婦を軍君に与え、
「もし途中で出産したら、母子を同じ船に乗せて速やかに国に返すように」
と言いました。

六月一日、婦は筑紫の加羅島(かからのしま)で出産しました。
この子を嶋君(せまきし)といい、軍君は母子を船に乗せて国に送りました。
これが武寧王(むねいおう)であり、百済人はこの島を「主島(りむせま)」と呼びました。

秋七月、軍君は京に入り、すでに五人の子がありました。
百済新撰には、
「辛丑年、蓋鹵王(こうろおう)が弟の昆支王(こんきおう)を遣わし、大倭に参向させ、天王に仕えさせた」
とあります。

道小野(みちのおの)

六年春二月四日、天皇は泊瀬(はつせ)の小野に遊ばれました。
山野の地形をご覧になり、深く感慨を覚えて歌われました。

コモリクノ、ハツセノヤマハ、イデタチノ、 ヨロシキヤマ、ワシリデノ、ヨロシキヤマノ、 コモリクノ、ハツセノヤマハ、アヤニウラグハシ、 アヤニウラグハシ。(泊瀬の山は姿の良い山である。裾も形の良い山である。何とも言えず美しい)

そこでこの小野を「道小野(みちのおの)」と名づけられました。

少子部(ちいさこべ)蜾贏(すがる)

三月七日、天皇は后と妃に桑の葉を摘ませ、養蚕を勧めようと思われました。
蜾贏(すがる)に命じて国内の蚕(かいこ)を集めさせましたが、蜾贏は勘違いして嬰児(みどりご)を集めて奉りました。

天皇は大いに笑われ、嬰児を蜾贏に賜って、
「お前自身で養いなさい」
と言われました。

蜾贏は宮の垣の近くで嬰児を育てました。
これにより姓を賜り、少子部連(ちいさこべのむらじ)となりました。

三輪山の大蛇

七年秋七月三日、天皇は少子部連蜾贏に詔して言われました。
「私は三輪山の神の姿を見たい。お前は腕力が人に勝れている。行って捕えてこい」
蜾贏は、
「ためしにやってみましょう」
と答えました。
三輪山に登り、大きな蛇を捕えて天皇に見せました。
しかし天皇は斎戒しておられず、大蛇は雷のような音を立て、目をきらきらと輝かせました。

天皇は恐れ、目を覆ってご覧にならず、殿中にお隠れになりました。
そして大蛇を岳に放たせ、その岳を「雷(いかづち)」と名づけられました。

吉備弓削部虚空(おおぞら)の訴え

八月、舎人(とねり)である吉備弓削部虚空(きびのゆげべの・おおぞら)は、急いで自宅に帰りました。
吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみ・さきつや)は虚空を自分のもとに留めて使い、何ヶ月経っても京へ戻らせませんでした。
天皇は身毛君大夫(むげのきみ・ますらお)を遣わして虚空を呼び寄せました。

虚空は呼ばれて参上し、次のように申し上げました。

「前津屋(さきつや)は小女(おとめ)を天皇のお側の者とし、大女(おおめのこ)を自分の側の者として、両者を競わせて闘わせています。
小女が勝つと、太刀を抜いて殺しました。
また、小さな雄鶏を天皇の鶏とし、毛を抜き翼を切り、大きな雄鶏を自分の鶏として鈴や金の爪を付けて闘わせています。
毛の擦り切れた鶏が勝つと、また刀を抜いて殺します」

天皇はこれを聞かれ、物部の兵士三十人を遣わし、前津屋とその同族七十人を討ち殺しました。

吉備上道臣田狭(たさ)と稚媛(わかひめ)

同じ年、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみ・たさ)は御殿近くに侍り、しばしば稚媛(わかひめ)の美しさを友人に語っていました。

「天下の美女でも、私の妻に及ぶ者はない。
にこやかで明るく輝き、際立って愛らしい。
化粧の必要もなく、久しい世にも類い稀な絶世の美女である」

天皇はこれを遠くから聞き、心中大いに喜ばれ、稚媛を求めて女御にしようと思われました。
田狭を任那(みまな)の国司に任じ、その後しばらくして稚媛を召し入れられました。

田狭は稚媛を妻とし、兄君(えきみ)と弟君(おときみ)をもうけていました。
田狭は任地に赴いた後、天皇が稚媛を召されたことを聞き、新羅(しらぎ)に援助を求めようとしましたが、当時新羅は日本と不和でありました。

今来(いまき)の才伎(てひと)
新羅討伐の命


天皇は田狭の子・弟君(おときみ)と、吉備海部直赤尾(きびのあまのあたい・あかお)に詔して言われました。

「お前たちは新羅を討て」

そのとき、西漢才伎・歓因知利(こうちのあやのてひと・かんいんちり)が近くにいて進み出て言いました。

「韓国(からくに)にはもっと適当な者が多くおります。召してお使いになるのがよいでしょう」

天皇は群臣に詔して言われました。

「それでは歓因知利を弟君らに副えて百済に遣わし、勅書を下して優れた者を献上させよ」

弟君は命を受け、衆を率いて百済へ向かいました。

百済の国つ神と弟君の退却

百済の国つ神が老女に化け、道に忽然と現れました。
弟君が「この先は遠いか近いか」と尋ねると、老女は、

「もう一日歩いて、やっと着くでしょう」

と答えました。

弟君は道が遠いと思い、新羅を討たずに帰りました。
百済が献上した新来(いまき)の才伎(職人)を大島に集め、風待ちを理由に長く留まりました。

田狭の密書と樟媛(くすひめ)の忠節

任那国司・田狭は、弟君が兵を用いず帰ったことを喜び、密かに百済へ人を送り、弟君に伝えました「お前の首はどれほど堅固で、人を討てるというのか。
天皇は私の妻を召し、子まであると聞く。
いずれ禍が及ぶだろう。
お前は百済に留まり、日本に帰るな。
私は任那に留まって帰らない」

弟君の妻・樟媛(くすひめ)は国家を思う心が強く、忠義は白砂青松よりも明らかでした。
彼女はこの謀反の心を憎み、夫を殺して室内に埋め、海部直赤尾とともに百済の才伎を率いて大島へ戻りました。

才伎の移住

天皇は弟君がいなくなったことを聞き、日鷹吉人堅磐固安銭(ひたかのきし・かたしわこあんぜん)を遣わして復命させました。
そして才伎を倭の阿都(あとの)広津邑(ひろきつのむら、大阪府八尾周辺)に住まわせましたが、病死する者が多く出ました。

そこで天皇は大伴大連室屋(おおとものおおむらじ・むろや)に詔し、東漢直掬(やまとのあやのあたい・つか)に命じて、新漢(いまきのあや)の陶部高貴(すえつくりのこうてい)、鞍部堅貴(くらつくりのけんくい)、画部因斯羅我原(えかきのいんしらが)、錦部定安那錦(にしきごりのじょうあんなこむ)、訳語卯安那(おさみのようあんな)らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移住させました。

高麗軍の撃破
新羅の裏切りと高麗の介入


八年春二月、身狭村主青(むさのすぐり・あお)と桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかい・はかとこ)が呉国へ遣わされました。

天皇即位以来、新羅は八年間貢物を奉らず、高麗に頼っていました。
高麗王は精兵百人を送り、新羅を守らせました。

しかし高麗兵の一人が帰国した際、新羅人の馬飼に密かに言いました。

「お前の国は我が国のために滅ぼされるだろう」

馬飼はこれを聞き、腹痛を装って遅れ、隙を見て新羅に逃げ帰り知らせました。

新羅の反撃と高麗人虐殺

新羅王は高麗の守りが偽りであると知り、国人に命じました。

「家で飼っている雄鶏を殺せ」

これは国内の高麗人を殺せという暗号でした。
国人はこれを悟り、国内の高麗人を皆殺しにしました。

生き残った高麗人が一人逃れ、高麗王に伝えました。
高麗王は兵を興し、築足流城(つくそくろのさし)に集結させ、歌舞で声を響かせました。

任那の要請と日本軍の出陣

新羅王は夜、高麗軍の歌声を聞き、四方を囲まれたと悟り、任那王に救援を求めました。
任那王は膳臣斑鳩(かしわでのおみ・いかるが)、吉備臣小梨(きびのおみ・おなし)、難波吉士赤目子(なにわのきし・あかめこ)らを派遣しました。

膳臣らがまだ接触していないのに、高麗軍は恐れました。
膳臣らは奇襲の準備を整え、十日余り対峙し、夜に地下道を掘って輜重を送りました。

明け方、高麗軍は日本軍が逃げたと思い兵を出しました。
そこへ奇兵を放ち、挟撃して大破しました。
これが高麗と新羅の怨の始まりでした。

膳臣は新羅に言いました。
「お前の国は弱いのに強国と戦った。日本軍が助けなければ他国になっていた。今後は天朝に背くな」

宗像神の祀りと香賜(かたぶ)の死

九年春二月一日、凡河内直香賜(おおしこうちのあたい・かたぶ)と采女を遣わし、宗像神を祀らせました。

しかし香賜は神事の直前に采女を犯しました。
天皇は、

「神を祀って幸いを祈るには慎みが必要である」

と言われ、難波日鷹吉士を遣わして香賜を殺すよう命じました。
香賜は逃げましたが、弓削連豊穂(ゆげのむらじ・とよほ)が国中を探し、三島郡藍原で捕えて斬りました。

新羅討伐
四卿の任命


三月、天皇は自ら新羅を討とうとしましたが、神が戒めたため行かれませんでした。

そこで紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)、大伴談連(おおとものかたりのむらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)に詔して言われました。

「新羅は朝貢を怠り、対馬の先まで乗り出し、高麗の貢を妨げ、百済の城を奪い、狼の子のように荒い。
汝ら四卿を大将とし、王師をもって討て」

紀小弓宿禰の事情

紀小弓宿禰は大伴室屋大連に訴えました。

「私は詔を承りますが、妻が亡くなったばかりで後を見る者がいません。どうか天皇にお伝えください」
天皇はこれを聞き悲しまれ、吉備上道采女・大海(おおしあま)を小弓宿禰に賜り、世話をさせました。

新羅攻略と将たちの死

小弓宿禰らは新羅に入り、進撃は目覚ましいものでした。
新羅王は夜、皇軍の鼓声を聞き、四面を囲まれたと思い、数百の騎兵とともに逃走しました。
小弓宿禰は追撃して敵将を斬りました。

しかし残兵は降伏せず、小弓宿禰は大伴談連と合流して戦いました。
この夜、大伴談連と紀岡前来目連(きのおかざきのくめのむらじ)は力戦して死にました。

談連の従者・津麻呂(つのまろ)は主を探し、

「我が主・大伴公はどこにおられるか」

と尋ねました。
屍を示されると、

「主人が死なれたら、生きていても仕方がない」

と言い、敵中に入り共に死にました。

その後、残兵は自然に退却しました。
しかし大将軍・紀小弓宿禰は病を得て薨じました。

喪と帰国、そして角臣(つのおみ)の始まり

夏五月、紀大磐宿禰(きのおおいわのすくね)は父の死を聞き新羅へ行き、小鹿火宿禰が司る兵馬・船官を奪って勝手に振る舞いました。
小鹿火宿禰はこれを憎み、韓子宿禰に偽って告げ、両者の間に隙を作りました。

百済王は二人を招き、境を見せると言いました。
二人が轡を並べて行くと、河で大磐宿禰が馬に水を飲ませました。
その背後から韓子宿禰が鞍を射ました。
大磐宿禰は驚いて振り返り、韓子宿禰を射落とし、川に落ちて死にました。

三人の臣は道を乱し、百済王宮に至らず帰りました。

小弓宿禰の葬送

采女・大海は小弓宿禰の喪に従い帰国し、大伴室屋大連に訴えました。

「私には遺骸を葬る場所が分かりません。どうか良い所を教えてください」

天皇は詔して言われました。

「紀小弓宿禰は竜のように登り、虎のように睨んで天下を鎮めた。
身を万里に労して三韓に死んだ。
哀れみ悼んで視葬者を遣わそう。
大伴卿は紀卿と同郷で親しい」

大伴大連は詔を承り、土師連小鳥(はじのむらじ・ことり)に命じて淡輪邑(たわのむら)に墓を造らせ葬りました。

大海は喜び、韓奴室(からのやつこむろ)、兄麻呂(えまろ)、弟麻呂(おとまろ)、御倉(みくら)、小倉(おくら)、針(はり)の六人を大連に献上しました。
吉備上道の蚊島田邑(かしまだむら)の家人はこれが始まりです。

角臣(つのおみ)の起源

小鹿火宿禰は小弓宿禰の喪のために来ましたが、ひとり角国(つのくに、周防国都濃)に留まりました。
倭子連(やまとごのむらじ)をして八咫鏡(やたのかがみ)を大伴大連に奉り、願いました。

「私は紀卿と共に帝に仕えることは堪えられません。どうか角国に留まらせてください」

天皇はこれを許し、これが角臣(つのおみ)が角国に住む始まりとなりました。

田辺史伯孫と赤馬の怪異

秋七月一日、河内国(かわちのくに)から次のような言上がありました。

「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)の田辺史伯孫(たなべのふひと・はくそん)の娘は、古市郡(ふるいちのこおり)の書首加竜(ふみのおびと・かりょう)の妻であります。
伯孫は、娘が男の子を産んだと聞き、婿の家へ祝いに行き、月夜に帰ってまいりました。

その帰り道、いちびこの丘の誉田陵(ほむたのみささぎ、応神天皇陵)の下で、赤馬に乗った人物に出会いました。
その馬は竜のように蛇行したり、急に鴻(おおとり)のように駆けたりし、普通の馬とは異なる優れた姿でした。

伯孫は近づいて眺め、この馬が欲しくなりました。
自分の葦毛の馬に鞭を入れ、轡(くつわ)を並べようとしましたが、赤馬はたちまち伯孫を置き去りにし、遥か彼方に塵ほどに小さくなりました。

しかし赤馬の主は伯孫の願いを知り、馬を止めて互いに交換し、挨拶をして別れました。
伯孫は駿馬を得て大いに喜び、厩(うまや)に入れて鞍を下ろし、秣(まぐさ)を与えて寝ました。

ところが翌朝見ると、赤馬は埴輪(はにわ)の馬に変わっていました。
伯孫は不思議に思い、誉田陵に戻って探すと、自分の葦毛の馬が埴輪の馬の間に立っていました。
伯孫は埴輪の馬と取り替えて連れ帰りました。」

鵞鳥の死と水間君の贖罪

十年秋九月四日、身狭村主青(むさのすぐり・あお)らが、呉(くれ)が献上した二羽の鵞鳥(がちょう)を持って筑紫へ行きました。
しかしその鵞鳥は水間君(みずまのきみ)の犬に食われて死んでしまいました。

水間君は恐れ憂い、黙っていられず、鴻(ひしくい)十羽と養鳥人(とりかいびと)を献上して罪を贖うことを願いました。
天皇はこれを許されました。

冬十月七日、水間君が献上した養鳥人たちは、軽村(かるのふれ)と磐余村(いわれのふれ)の二ヶ所に住まわせられました。

白い鵜と川瀬舎人

十一年夏五月一日、近江国栗田郡(おうみのくに・くりたごおり)から、

「白い鵜(う)が田上の浜にいます」

という報告がありました。
そこで天皇は詔を下し、川瀬の舎人(とねり)を置かれました。

百済からの亡命者・貴信

秋七月、百済国から逃げてきた者があり、名を貴信(くいしん)と称しました。
あるいは呉国の人とも言われました。
磐余(いわれ)の呉の琴弾(ことひき)の坂手屋形麻呂(さかてのやかたまろ)らは、その子孫であります。

鳥養部(とりかいべ)と韋那部(いなべ)

冬十月、鳥官(とりつかさ)の鳥が宇陀(うだ)の人の犬に食われて死にました。
天皇は怒り、その者の顔に入墨(いれずみ)を施し、鳥養部(とりかいべ)とされました。

ちょうど信濃国と武蔵国の仕丁(つかえのよぼろ)が宿直しており、二人は言いました。

「ああ、自分の国では鳥を取って積んでおいたものが小塚ほどもあり、朝夕食べても余った。
今、天皇はわずか一羽の鳥のために人の顔に入墨をされた。
あまりに酷い。悪い天皇でいらっしゃる」

天皇はこれを聞き、

「鳥を取り集めて積んでみよ」

と言われました。
しかし急に集めることはできず、二人も罰せられて鳥養部とされました。

呉国への使節

十二年夏四月四日、身狭村主青と桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかい・はかとこ)が呉に遣わされました。

闘鶏御田(つげのみた)と采女の誤解

冬十月十日、天皇は木匠(こだくみ)である闘鶏御田(つげのみた)に命じて楼閣を造らせました。
御田は高殿に上り、飛ぶように働きました。

これを見た伊勢の采女(うねめ)は、その速さに驚いて庭に倒れ、捧げていた供物をひっくり返しました。
天皇は御田が采女を犯したのだと疑い、殺そうとして刑吏に渡しました。

そのとき秦酒公(はたのさけのきみ)が近くにおり、琴を弾いて歌い、天皇に悟らせようとしました。

カムカゼノ、イセノ、イセノヌノ、 サカエヲ、イホフルカキテ、シカツクルマデニ、 オホキミニ、カタクツカヘ、マツラムト、 ワガイノチモ、ナガクモガト、 イヒシタクミハヤ、アタラタクミハヤ。
(伊勢の野に生い茂る木の枝を打ち祈り、尽きるまで大君に仕えようと、命の長久を願っていた工匠よ、なんと惜しいことか。)

天皇はこの歌を聞いて悟られ、御田の罪を許されました。

歯田根命(はたねのみこと)の罪と歌

十三年春三月、狭穂彦(さほひこ)の玄孫・歯田根命(はたねのみこと)が、密かに采女・山辺小島子(やまべのこしまこ)を犯しました。
天皇はこれを聞き、物部目大連(もののべのめのおおむらじ)に預けて責めさせました。
歯田根命は馬八匹・大刀八本をもって罪を償い、次の歌を詠みました。

ヤマノベノ、コシマコユヱニ、ヒトテラフ、 ウマノヤツゲハ、ヲシケクモナシ。
(山辺の小島子のために、人々が狙っている馬八頭を手放すことは、少しも惜しくはない。)

天皇はこれを聞き、歯田根命の所有財産を餌香市(えかのいち)の橘の木の下にむき出しに置かせ、餌香の長野邑(ながののむら)を物部目大連に賜りました。

文石小麻呂(あやしのおまろ)の最期

秋八月、播磨国御井隈(はりまのくに・みいくま)の文石小麻呂(あやしのおまろ)は、力強く気丈であると評判でしたが、傍若無人で、道路を妨げ、物を奪い、商人の船を止めて品物を奪い、租税も納めませんでした。

天皇は春日小野臣大樹(かすがのおののおみ・おおき)を遣わし、死を恐れぬ百人の兵に松火(たいまつ)を持たせて家を焼かせました。
炎の中から白い犬が馬ほどの大きさで飛び出し、大樹臣に襲いかかりました。
大樹臣は動じず刀で斬ると、それは文石小麻呂の姿に戻りました。

猪名部真根(いなべのまね)の失敗と赦免

秋九月、工匠・猪名部真根(いなべのまね)が石を台にして斧で材を削っていました。
終日削っても誤って刃を潰すことがありませんでした。

天皇が来られ、

「誤って石に当てることはないのか」

と問われると、真根は、

「決して誤りません」

と答えました。

そこで天皇は采女たちを召し集め、着物を脱がせ、ふんどし姿で相撲を取らせました。
真根は手を休めてそれを見上げ、気を奪われて斧を石に当て、刃を傷つけました。
天皇は怒り、

「朕を恐れず不貞の心で軽々しいことを言った奴め」

と言って処刑を命じました。

同僚たちは真根を惜しみ、歌を詠みました。

アタラシキ、ヰナベノタクミ、カケシスミナハ、 シガナケバ、タレカカケムヨ、アタラスミナハ。
(惜しむべき猪名部の工匠よ。
彼の掛けた墨縄の技は見事であった。
彼がいなければ誰がその技を継ぐのか、継ぐ者はいないだろう。)

天皇はこれを聞き後悔し、
「危うく人を失うところだった」

と言って赦免の使者を甲斐の黒駒に乗せて走らせ、処刑を止めました。
そして結え綱を解き、歌を詠まれました。

ヌバタマノ、カヒノクロコマ、クラキセバ、 イノチシナマシ、カヒノクロコマ。
(甲斐の黒駒にもし鞍を置いていたら、間に合わず工匠は死んでいただろう。
甲斐の黒駒よ。)

呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の来朝

十四年春一月十三日、身狭村主青らは呉国の使者とともに、呉が献じた手末(てなすえ)の才伎(てひと)、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉の津に泊まりました。

この月、呉の来朝者のための道を造り、磯果の道(しはつのみち)に通じさせ、これを呉坂(くれさか)と名づけました。

三月、臣・連に命じて呉の使者を迎えさせ、その呉人を桧隈野(ひのくまのの)に住まわせ、呉原(くれはら)と名づけました。

衣縫の兄媛は大三輪神社に奉られ、弟媛は漢の衣縫部となりました。
漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の祖となりました。

玉縵(たまかずら)をめぐる発覚

夏四月一日、天皇は呉人(くれびと)を饗応しようと思われ、群臣に次々と尋ねられました。

「会食の相手には誰がよいだろうか」

群臣は皆、

「根使主(ねのつかいぬし)がよいでしょう」

と申し上げました。
そこで天皇は根使主を任じられ、石上(いそのかみ)の高抜原(たかぬきのはら)で饗宴を催されました。

そのとき天皇は、こっそり舎人(とねり)を遣わし、根使主の服装を見させました。

舎人が戻って申し上げました。

「根使主の髪に付けられた玉の飾りが際立って美しく、皆が『先に使者を迎えたときにも付けていた』と言っております」

天皇は自ら確かめようと思われ、臣・連(おみ・むらじ)に命じて、饗宴のときと同じ服装のまま根使主を引見させました。

その姿を見た皇后は天を仰いで嘆き、声を上げて泣かれました。
天皇は怪しまれ、

「なぜそんなに泣くのか」

と問われました。

皇后は胡床(あぐら)を降りて申し上げました。

「この玉縵(たまかずら)は、昔、私の兄・大草香皇子(おおくさかのみこ)が、安康天皇の勅を受けて私を陛下にお進めしたとき、私のために贈ってくれたものです。
それを根使主が付けているのを見て、疑いを抱き、愚かにも涙が出てしまったのです」

天皇はこれを聞かれ、驚き、大いに怒られました。

根使主を責めると、彼は、

「その通りです。私の過ちです」

と認めました。

天皇は言われました。

「根使主は今後、子々孫々に至るまで、群臣の仲間に入れてはならぬ」

そして今にも斬ろうとされましたが、根使主は逃げ隠れ、日根(ひね)に行き、稲を積んで砦を築き、官軍と戦いました。
しかしついに官軍に討たれました。

根使主の一族の処分

天皇は役人に命じ、根使主の子孫を二つに分けました。
・一つは 大草香部(おおくさかべ) の部民として皇后に付された。
・一つは 茅淳(ちぬ)の県主(あがたぬし) に賜り、袋担ぎの者とされた。

また、難波吉士日香香(なにわのきし・ひかか、※大草香皇子のため殉死した者)の子孫を探し出し、姓を賜って 大草香部吉士(おおくさかべのきし) としました。

事件が終わった後、根使主の子・小根使主(おねのつかいぬし)が夜、寝ながら人に語りました。

「天皇の城は堅固ではないが、我が父の築いた城は堅固だ」

天皇はこれを人づてに聞き、使者を遣わして根使主の家を見せました。
本当にその通りであったため、小根使主を捕えて殺しました。

これが、根使主の子孫が 坂本臣(さかもとのおみ) となる始まりです。

秦(はた)の「うずまさ」

十五年、秦氏(はたうじ)が率いていた民は、臣・連らに分散され、それぞれの願いに応じて使われました。
秦氏の管理者である伴造(とものみやつこ)には任されませんでした。

このため秦造酒(はたのみやつこ・さけ)は大いに悩み、天皇に仕えていました。

しかし天皇は彼を寵愛し、詔して秦の民を集めて秦酒公(はたのさけのきみ)に賜りました。
これにより彼は多くの村主を率いるようになり、租税として作られた絹・縑(かとり)を献上し、朝廷に山のように積み上げました。

その功により姓を賜り、「うずまさ(=うず高く積む)」 と呼ばれました。

桑の植栽と漢氏の整備

十六年秋七月、詔して、桑の栽培に適した国・県を選び、桑を植えさせました。
また秦の民を移住させ、そこから庸調が上がるようにされました。

冬十月、詔して、

「漢氏(あやうじ)の部民を集め、その管理者を定めよ」

と命じ、その姓を 直(あたい) と賜りました。

贄の土師部(はじべ)

十七年春三月二日、土師連(はじのむらじ)らに詔して、

「朝夕の膳部(かしわでのおみ)に用いる清らかな器を献上せよ」

と命じられました。

そこで土師連の先祖・吾苟(あけ)が、摂津国久佐々村、山背国内村・伏見村、伊勢国藤方村、さらに丹波・但馬・因幡の私有の部曲(かきべ)を奉りました。
これを 贄の土師部(にえのはじべ) と名づけました。

朝日郎(あさけのいらつこ)の討伐

十八年秋八月十日、物部菟代宿禰(もののべのうしろのすくね)と物部目連(もののべのめのむらじ)が、伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討つため遣わされました。

朝日郎は官軍が来たと聞き、伊賀の青墓(あおはか)で迎え撃ちました。
弓の名手であることを誇り、

「朝日郎の相手に誰が当たれるか」

と言いました。

彼の矢は二重の甲をも射通し、官軍は皆恐れました。

菟代宿禰は進まず、二日一夜対峙しました。
物部目連は自ら大刀を取り、筑紫の企救(きく)の物部大斧手(おおおのて)に楯を持たせ、雄叫びを上げて突進させました。

朝日郎は遠くから大斧手の楯と甲を射通し、矢は体に一寸入った。
大斧手は楯を持って目連を庇いました。

目連は朝日郎を捕えて斬りました。

菟代宿禰は自分が果たせなかったことを恥じ、七日間復命しませんでした。

天皇が侍臣に、

「菟代宿禰はなぜ復命しないのか」

と尋ねられると、讃岐の田虫別(たむしわけ)が進み出て申し上げました。

「菟代宿禰は怖れて進まず、二日一夜の間、朝日郎を捕えられませんでした。
それを物部目連が大斧手を率いて進み、朝日郎を捕えて斬りました」

天皇は怒り、菟代宿禰の所有する猪使部(いつかいべ)を没収し、物部目連に与えました。

穴穂部(あなほべ)の設置

十九年春三月十三日、詔して安康天皇の御名を遺すため、穴穂部(あなほべ) を設けられました。

高麗、百済を降す

二十年冬、高麗王が大軍をもって百済を攻め、ついに滅ぼしました。
わずかな生き残りが倉下(へすおと)に集まり、食糧も尽きて泣くばかりでした。

高麗の諸将は王に言いました。

「百済の民の心は分かりません。再び勢いを盛り返すかもしれません。追い払わせてください」

しかし王は言いました。

「よくない。百済は日本の官家として長く存してきた。その王は天皇に仕えている。周囲の国々も知っていることだ」

こうして追放は取りやめられました。

百済の再興

二十一年春三月、天皇は百済が高麗に破れたと聞き、久麻那利(こむなり)を百済の汶州王(もんすおう)に賜り、国を再興させました。

人々は皆、

「百済は一族が滅び、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の威光で再び興された」

と言いました。

白髪皇子の立太子

二十二年春一月一日、白髪皇子(しらかのみこ)を皇太子とされました。

浦島子(うらしまこ)の物語

秋七月、丹波国与謝郡筒川の水江浦島子(みずのえのうらしまのこ)が舟で釣りをして大亀を得ました。
それがたちまち女となり、浦島子はこれを妻としました。

二人は海中に入り、蓬萊山(ほうらいさん)に至って仙境を巡りました。
(この話は別巻にあります)

東城王(とうせいおう)の即位

二十三年夏四月、百済の文斤王(もんこんおう)が亡くなりました。
天皇は昆支王(こんきおう)の五人の子のうち、若くして聡明な末多王(またおう)を召し、親しく頭を撫でて戒め、その国の王とされました。

兵器を与え、筑紫国の兵五百人を付けて送り届けました。
これが 東城王 です。

この年、百済の貢物は例年より多く、筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討ちました。

天皇の遺言と崩御

秋七月一日、天皇は病にかかられ、賞罰や掟を皇太子に委ねられました。

八月七日、病が重くなり、百官に別れを告げ、大殿で崩御されました。

大伴室屋大連と東漢掬直(やまとのあやのつか)に遺詔して言われました。

天皇の遺詔(みことのり)

「今、天下は一つの家のようにまとまり、竈の煙は遠くまで立ち上っている。
万民はよく治まり、四方の夷も従っている。
これは天意が国内を安らかにしようと思われたからである。

心を責め、己を励まし、毎日慎むことは万民のためである。
臣・連・伴造は毎日参朝し、国司・郡司は時に従って参集せよ。
どうして心肝を尽くして勤めないでよいだろうか。

義においては君臣であるが、情においては父子も同じである。
どうか臣・連の智力によって内外の人々の心を喜ばせ、長く天下を安らかに保ってほしい。

思いがけず病が重くなり、常世の国に至ることになった。
これは人の世の常であるが、朝野の衣冠はまだ定まらず、教化政刑も十分とは言えない。
これを思うと恨みが残る。

星川皇子(ほしかわのみこ)は心に善くないことを抱き、兄弟の道に欠けた。
古人も言う。
『臣を知るは君に及ばず、子を知るは父に及ばず』と。

もし星川が志を得て共に国を治めたなら、必ず臣らを辱め、民を苦しめただろう。
出来の悪い子は国民に嫌われ、出来の良い子は大業を保つに足る。

大伴大連らは民部が広大で勢力が国に満ちている。
皇太子は仁孝の心が聞こえ、行いも我が志を継ぐに足る。
共に天下を治めてくれれば、私は瞑目しても恨みはない」

尾代(おしろ)と蝦夷(えみし)の戦い

このとき、新羅討伐の将軍・吉備臣尾代(きびのおみ・おしろ)は吉備国に戻り、自宅に立ち寄っていました。

後から率いられてきた五百人の蝦夷は、天皇崩御を聞き、話し合いました。

「我が国を治めていた天皇が亡くなられた。今こそ好機だ」

彼らは集結して近隣の郡を侵略しました。

尾代は家から駆けつけ、蝦夷と娑婆湊(さばのみなと、広島県福山佐波)で戦いました。
蝦夷は跳ね上がったり伏せたりして矢を避け、なかなか射当てられませんでした。

尾代は鳴弦(めいげん)の術を用いて邪気を払い、浜辺で踊り伏していた二隊を射殺しました。

矢が尽きたため船人に矢を求めましたが、船人は恐れて逃げました。

そこで尾代は弓を立て、弓筈(ゆみはず)をもって歌いました。

ミチニアフヤ、ヲシロノコ、 アメニコソ、キコエズアラメ、 クニニハ、キコエテナ。
(思いがけぬ戦いの途上で、尾代の子の雄々しい働きは、母には聞こえないだろうが、天子の上聞には達してほしい。)

歌い終えると、さらに多くの敵を斬り、追撃して丹波国の浦明(うらけ)の湊に至り、ことごとく討ち果たしました。

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愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
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