目次
17代履中(りちゅう)天皇、18代反正(はんぜい)天皇、19代允恭(いんぎょう)天皇、20代安康(あんこう)天皇の時代を物語としてまとめています。
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

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若桜宮の静けさ
仁徳天皇の御子、伊耶本和気(いざほわけ)王――のちの履中天皇は、磐余(いわれ)の若桜宮で天下を治めておられました。
その御代は穏やかで、春の風が宮の桜を揺らすたび、臣下たちは「この世に乱れなし」と語り合ったほどです。
天皇は、葛城の曾都比古の子・葦田宿禰の娘、黒比売(くろひめ)命を皇后とされ、三柱の御子をもうけられました。
市辺之忍歯(おしは)王
御馬(みま)王
青海郎女(あおみのいらつめ)/飯豊郎女(いいとよのいらつめ)
黒比売命は穏やかな人柄で、天皇は彼女の前ではよく微笑まれました。
しかし、その静かな日々は、ある夜、突然の炎によって破られることになります。
炎の夜
新嘗祭の夜。
難波宮は酒宴の熱気に包まれ、灯火が揺れ、楽人の琴の音が夜空に溶けていました。
天皇は珍しく深く酔われ、御殿の寝所で静かに眠りにつかれました。
そのとき――。
宮の外で、炎がぱちりと弾ける音がしました。
次の瞬間、赤い光が御殿の壁を照らし、煙が天井を這い始めました。
御殿に仕える者たちが叫びます。
――「火だ! 御殿が燃えております!」
しかし、火を放ったのは外敵ではありませんでした。
天皇の弟、墨江中(すみのえのなかつ)王――。
彼は闇の中で炎を見つめ、低く呟きました。
――「兄上……今宵こそ、あなたの世は終わる」
嫉妬か、野心か。
彼の胸に渦巻くものは誰にもわかりません。
阿知直の決断
炎が迫る中、倭の漢直(あやのあたい)の祖・阿知(あち)直は、迷うことなく天皇の寝所へ駆け込みました。
――「天皇様、どうかお目覚めくださいませ!」
しかし天皇は深い眠りの中。
阿知直は決断しました。
――「……お許しください。今はお救いすることが先でございます」
彼は天皇を背負い、炎の中を走り抜け、馬に乗せて宮を離れました。
夜風が熱を奪い、遠くで炎が轟き続けます。
目覚め
しばらく走ったのち、天皇は揺れに気づき、ゆっくりと目を開けられました。
――「……ここは、どこだ?」
阿知直は振り返り、息を切らしながら答えます。
――「墨江中(すみのえのなかつ)が御殿に火を放ちました。天皇をお連れして大和へ逃げているところでございます!」
天皇はしばし沈黙し、燃える宮を思い浮かべました。
そして、丹比野(たじひの)に着いたとき、静かに歌を詠まれました。
(七六)
丹比野に寝ると知っていたなら、
風よけの薦(こも)でも用意して来たものを。
丹比野に寝ると知っていたなら……。
その声には、裏切られた痛みと、宮を離れる寂しさが滲んでいました。
埴生坂の望郷
河内の埴生坂(はにゅうさか)に着くと、天皇は遠く難波宮を振り返られました。
夜空を焦がす炎はまだ赤々と燃え、陽炎のように揺れています。
天皇は胸の奥に湧き上がる思いを抑えきれず、再び歌を詠まれました。
(七七)
埴生坂に立って眺めると、
陽炎の立ちのぼる家群が見える。
あそこが……妻の家のあたりだ。
黒比売命の顔が脳裏に浮かび、天皇は拳を握りました。
――「黒比売……無事でいてくれ」
阿知直は黙って天皇の横顔を見つめ、馬を進めました。
大坂の娘子
大坂の山口に差しかかったとき、一人の娘子が道端に立っていました。
彼女は天皇一行を見ると、驚いたように駆け寄ります。
――「お方々、武器を持った人々が、この先の山を塞いでおります!
どうか……当芸麻道(たぎまみち)を回ってお越しくださいませ!」
天皇は娘子の瞳に怯えを見つけ、優しく尋ねられました。
――「そなた、名は?」
――「名乗るほどの者ではございません。ただ……どうかご無事に」
天皇は娘子の真心に胸を打たれ、歌を詠まれました。
(七八)
大坂で出会った娘子に道を尋ねると、
近道を告げず、
遠まわりの当芸麻道を教えてくれた……。
その声には、娘子への感謝と、世の無常を思う静かな響きがありました。
こうして天皇は大和へ入り、石上神宮(いそのかみじんぐう)に到着されました。
炎の夜から続いた逃避行は、ようやく終わりを迎えます。
石上神宮の静寂
炎の夜を逃れた履中天皇は、ようやく石上神宮(いそのかみじんぐう)へ辿り着かれました。
境内には朝霧が立ちこめ、古い社殿の木々が静かに風に揺れています。
天皇は深く息を吸い込み、胸の奥に残る焦げた匂いを振り払うように目を閉じられました。
――「ここまで来れば、ひとまずは……」
阿知直は天皇の横で膝をつき、静かに頭を垂れました。
――「天皇様、どうかご安心くださいませ。ここは神々の御前。誰も手出しはできませぬ」
しかし、天皇の胸にはまだ疑念が渦巻いていました。
炎を放ったのは実の弟――墨江中(すみのえのなかつ)。
そして、もう一人の弟・水歯別(みずはわけ)命の胸の内も、果たして……。
疑念の対面
石上神宮に天皇が入られたと聞き、水歯別命は急ぎ参上しました。
彼は兄の無事を知ると、深く頭を下げます。
――「兄上……ご無事で何よりにございます」
しかし天皇はその顔をじっと見つめ、冷ややかに言われました。
――「水歯別よ。おまえは……墨江中と同じ心を持つのではあるまいな?」
水歯別命は驚き、顔を上げました。
――「兄上! そのような疑い、あまりに酷うございます。
私は兄上に弓引く心など、露ほども持ちませぬ!」
天皇は目を細め、しばし沈黙したのち、低く告げました。
――「ならば証を立てよ。
今すぐ難波へ戻り、墨江中を討ち取って来い。
それが叶えば、私はおまえを信じよう」
水歯別命は拳を握りしめ、深く頭を垂れました。
――「……承知いたしました。兄上の疑いを晴らすためならば、命を賭して参りましょう」
その声には、忠義と悲しみが入り混じっていました。
隼人・曾婆加里との密談
難波に戻った水歯別命は、墨江中の側近である隼人・曾婆加里(そばかり)を呼び出しました。
曾婆加里は鋭い目をした男で、主君への忠誠心は厚いと評判でした。
水歯別命は静かに口を開きます。
――「曾婆加里よ。おまえに頼みたいことがある」
――「水歯別様、なんなりと」
水歯別命は声を潜め、言葉を続けました。
――「もしおまえが私の言葉に従えば……私はいずれ天皇となり、おまえを大臣として天下を治めようと思う。どうだ?」
曾婆加里の目が揺れました。
忠義と野心が胸の中でぶつかり合い、しばし沈黙が続きます。
やがて彼は深く頭を下げました。
――「……仰せのとおりにいたします」
水歯別命は多くの品物を与え、静かに告げました。
――「では、おまえの主君を……殺せ」
曾婆加里は唇を噛み、震える声で答えました。
――「……承知いたしました」
その夜、曾婆加里は厠に入った墨江中を密かに伺い、矛を突き立てました。
主君の目が驚愕に見開かれ、やがて光を失っていきます。
曾婆加里は震える手で矛を引き抜き、呟きました。
――「……これで、私は……大臣に……」
しかし、その胸の奥には、消えない罪の影が落ちていました。
水歯別命の胸中
墨江中が討たれたと聞き、水歯別命は静かに目を閉じました。
(心中)
「曾婆加里は大きな手柄を立てた……だが、主君を殺す者は恐ろしい。
約束を果たせば、今度は私が殺されるかもしれぬ。
しかし、報いなければ信義に反する……」
忠義と恐怖の狭間で揺れながら、水歯別命は決断しました。
――「……手柄には報いる。だが、曾婆加里は……ここで終わらせねばならぬ」
仮宮の宴
大坂の山の入口に着いたとき、水歯別命は曾婆加里に言いました。
――「今日はここに泊まり、おまえに大臣の位を授けよう。
明日、大和へ上ろう」
曾婆加里は喜び、深く頭を下げました。
――「水歯別様……ついに、ついに私は……!」
その夜、仮宮で盛大な酒宴が開かれました。
水歯別命は曾婆加里に大臣の位を授け、多くの官人が礼を尽くしました。
曾婆加里は涙を浮かべ、杯を掲げます。
――「私は……私は、ついに願いが叶いました!」
水歯別命は微笑み、言いました。
――「今日は大臣と同じ杯の酒を飲もう」
大きな椀に酒が注がれ、二人は向かい合って杯を口に運びました。
水歯別命が先に飲み、曾婆加里が続きます。
その瞬間――。
大きな椀が曾婆加里の顔を覆い、視界が塞がれました。
水歯別命は敷物の下から剣を抜き放ち、低く呟きました。
――「……許せ」
そして、一閃。
曾婆加里の首は静かに落ち、宴のざわめきが凍りつきました。
近つ飛鳥、遠つ飛鳥
翌朝、水歯別命は静かに立ち上がり、亡骸を見下ろしました。
――「この地を……近つ飛鳥と名づけよう」
さらに翌日泊まった地を「遠つ飛鳥」と名づけ、
水歯別命は大和へ戻り、石上神宮で天皇に深く頭を下げました。
――「御命令はすべて平定し終えて参上いたしました」
天皇は水歯別命を中に呼び入れ、ようやく疑いを解かれました。
その場には、
忠義に殉じた者、
野心に飲まれた者、
そして兄弟の情を失った者――
さまざまな思いが渦巻いていました。
若桜宮の再建と、天皇の胸に残る影
石上神宮での緊張の対面を経て、履中天皇はようやく大和の地で安堵を取り戻されました。
しかし、心の奥にはまだ、炎の夜の記憶が消えずに残っていました。
――「弟に命を狙われるとは……」
天皇は夜、灯火の揺れる寝所で独り呟かれました。
黒比売命はそっと寄り添い、静かに言います。
――「陛下……どうか、ご自らを責められませぬように。
人の心は、時に闇に迷うものにございます」
天皇はその言葉にわずかに微笑みましたが、胸の奥の痛みは消えませんでした。
水歯別命の帰還
墨江中を討ち、曾婆加里をも葬った水歯別命が、石上神宮へ戻ってきました。
彼の衣には旅の埃がつき、目には疲労と決意が宿っています。
水歯別命は深く頭を下げました。
――「兄上。御命令のとおり、すべて平定して参りました」
天皇はしばし彼を見つめ、ゆっくりと頷かれました。
――「……よく戻った、水歯別よ。
おまえの忠義、疑ってすまなかった」
水歯別命は胸に込み上げるものを抑えきれず、声を震わせました。
――「兄上……私は、ただ兄上のおそばにいたかっただけにございます」
二人の間に、ようやく兄弟としての温かさが戻りました。
しかし、その裏には、曾婆加里の血が静かに沈んでいました。
阿知直への褒賞
天皇は、炎の夜に命を救った阿知直を呼び寄せました。
――「阿知よ。あの夜、おまえがいなければ私は今ここにおらぬ。
その忠義、忘れはせぬ」
阿知直は深く頭を垂れました。
――「陛下のお命を守ることこそ、我が家の誉れにございます」
天皇は蔵官(くらのつかさ)に任命し、私有地を与えました。
阿知直の目には、誇りと感謝の光が宿っていました。
若桜部と比売陀君
天皇はまた、若桜部臣(わかさくらべのおみ)に若桜部の名を授け、
比売陀君(ひめだのきみ)に姓を授けました。
臣下たちは深く拝し、声を揃えて言いました。
――「陛下の御恩、末代まで忘れませぬ!」
天皇は静かに頷き、彼らの忠誠を受け止められました。
伊波礼部の制定
さらに天皇は、伊波礼部(いわれべ)を定め、国の秩序を整えました。
その決断は、乱れた世を再び安定へと導くものでした。
臣下たちは口々に語りました。
――「陛下の御代は、再び平らぎましたな」
――「これで国は安泰でございましょう」
しかし、天皇の胸には、どこか寂しげな影が残っていました。
静かな最期
天皇は六十四歳になられました。
ある冬の朝、天皇は黒比売命の手を取り、静かに言われました。
――「黒比売……私は、そなたと子らに恵まれ、幸せであった」
黒比売命は涙をこらえ、天皇の手を握り返しました。
――「陛下……どうか、まだお側に……」
天皇は微笑み、遠くを見つめるように目を閉じました。
――「私は……もう、よいのだ。
国も、そなたも……水歯別も……皆、よくしてくれた」
その声は、春の風のように穏やかでした。
丑申(みずのえさる)の年、正月三日。
履中天皇は静かに息を引き取られました。
御陵は河内の毛受(もず)に築かれ、
人々はその死を深く悼みました。

九尺の御姿
履中天皇が崩御されたのち、弟の水歯別(みずはわけ)命が皇位を継がれました。
その御姿は、まさに神の子孫にふさわしいものであったと伝えられています。
身の丈は九尺二寸半。
立てば影が地を覆い、歩けば風が衣を揺らす。
歯は一寸の長さで、上下の歯並びは珠を貫いたように整い、
人々はその美しさに息を呑みました。
宮中では、侍女たちがひそひそと語り合います。
――「あの御歯……まるで白玉のよう」
――「天皇様は、笑われるだけで宮が明るくなるようです」
反正天皇は、威厳と優しさを併せ持つ、穏やかな君主でした。
許碁登臣の娘たち
天皇は丸邇(わに)氏の許碁登(こごと)臣の娘・都怒郎女(つののいらつめ)を皇后とされました。
都怒郎女は聡明で、天皇のそばに控えると、まるで春の陽だまりのような柔らかさを宮にもたらしました。
二人の間には、
甲斐郎女(かいのいらつめ)
都夫良郎女(つぶらのいらつめ)
の二柱の姫が生まれました。
天皇は娘たちを抱き上げ、微笑んで言われます。
――「そなたたちは、宮の宝だ」
都怒郎女はその姿を見つめ、胸の奥に温かな光を感じていました。
さらに天皇は、同じ許碁登臣の娘・弟比売(おとひめ)をも妻とされ、
財(たから)王
多訶弁郎女(たかべのいらつめ)
の二柱をもうけられました。
弟比売は控えめな性格で、天皇の前ではいつも静かに膝を折り、
――「陛下のおそばにいられるだけで、私は幸せにございます」
と微笑みました。
天皇はその慎ましさを愛し、二人の妻を分け隔てなく大切にされました。
穏やかな治世
反正天皇の御代は、兄の履中天皇の時代に起きた反乱や血の争いとは対照的に、
静かで、穏やかで、安らぎに満ちていました。
天皇はしばしば臣下を集め、こう語られました。
――「国を治めるとは、民の声を聞くことだ。
争いを避け、和をもって世を導くことこそ、天皇の務めである」
臣下たちは深く頭を下げ、
――「陛下の御心、まことに尊くございます」
と口々に称えました。
宮中には争いがなく、
民は豊かに暮らし、
国は静かに栄えていきました。
天皇の晩年
六十歳を迎えた頃、天皇は体の衰えを感じ始めました。
ある夕暮れ、都怒郎女がそっと天皇の肩に衣をかけました。
――「陛下、夜風が冷うございます。どうかお身体をお大事に」
天皇は微笑み、静かに答えられました。
――「都怒よ……そなたの気遣いに、私はどれほど救われてきたことか」
都怒郎女は胸が熱くなり、言葉を失いました。
その夜、天皇は月を眺めながら独り呟かれました。
――「私は……良い天皇であっただろうか」
月光が白く差し込み、天皇の横顔を照らします。
その表情には、長い治世を終えようとする者の静かな覚悟がありました。
静かな旅立ち
丁丑(ひのとのうし)の年、七月。
反正天皇は静かに息を引き取られました。
都怒郎女は天皇の手を握りしめ、涙をこぼしました。
――「陛下……どうか安らかに……」
弟比売も泣き崩れ、
――「陛下……私たちは、陛下の御心を忘れませぬ……」
と震える声で呟きました。
御陵は毛受野(もずの)に築かれ、
人々はその死を深く悼みました。
反正天皇の御代は、
争いの後に訪れた、
短くも美しい“静寂の時代”として語り継がれていきます。

遠つ飛鳥宮の朝
履中天皇、反正天皇と続いた激動の時代のあと、
男浅津間若子宿禰(おあさつまわくごのすくね)命――のちの允恭天皇は、
遠つ飛鳥宮(とおつあすかのみや)で静かに天下を治め始められました。
朝の宮には、澄んだ風が吹き抜け、
庭の木々がさわさわと揺れています。
允恭天皇は、庭を歩きながらふと呟かれました。
――「争いのない世を……私は作りたい」
その声は柔らかく、しかし深い決意を秘めていました。
忍坂大中津比売との出会い
天皇が皇后とされたのは、意富本杼(おほほど)王の妹、
忍坂之大中津比売(おさかのおおなかつひめ)命でした。
彼女は聡明で、静かな気品を持ち、
天皇のそばに立つと、まるで宮に光が差し込むようでした。
ある日、天皇は皇后に言われました。
――「大中津比売よ。そなたと共に歩むことができて、私は幸せだ」
皇后は微笑み、静かに頭を下げました。
――「陛下……私は、陛下のお心を支えるために生まれてまいりました」
二人の間には、九柱の御子が生まれました。
その中には、のちに国を揺るがす者たちも含まれていました。
皇子たちの影
允恭天皇の御子は九柱。
その中でも、木梨之軽(きなしのかる)王と軽大郎女(かるのおおいらつめ)は、
幼い頃から互いに強く惹かれ合っていました。
天皇は二人の仲の良さを微笑ましく思いながらも、
どこか胸の奥に不安を抱いていました。
――「あの二人は……あまりに近すぎる」
皇后はそっと天皇の手を取って言いました。
――「陛下、あの子たちはまだ幼うございます。
どうか、見守ってあげてくださいませ」
天皇は頷きましたが、
その不安は、やがて現実となっていきます。
即位をめぐる葛藤
允恭天皇が皇位を継ぐよう求められたとき、
天皇は深く首を振られました。
――「私は長い病を抱えている。
皇位を継ぐことなど……できぬだろう」
しかし、皇后も群臣も、口々に言いました。
――「陛下こそ、この国を導くべきお方です」
――「どうか、即位をお受けくださいませ」
天皇はしばし沈黙し、
やがて静かに頷かれました。
――「……わかった。
この身が朽ちるまで、国を守ろう」
その決意は、弱さではなく、
深い優しさから生まれたものでした。
新羅の使者と、癒える病
ある日、新羅(しらぎ)の国王が、
八十一隻もの船に貢物を積んで献上してきました。
その使者、金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)は薬に詳しく、
天皇の病を診ると、丁寧に言いました。
――「陛下の病は、まだ癒える余地がございます。
どうか、私に治療をお任せください」
天皇は驚きながらも、静かに頷かれました。
治療は長く続きましたが、
やがて天皇の顔色は明るさを取り戻し、
宮中には喜びの声が満ちました。
皇后は涙を浮かべて言いました。
――「陛下……本当に、よかった……」
天皇はその手を取り、優しく微笑まれました。
――「そなたがいてくれたからだ」
氏姓を正す
天皇は、国中の氏姓が乱れていることに心を痛めていました。
――「人の名は、その家の魂だ。
誤りのままでは、国が乱れる」
天皇は甘樫丘(あまかしのおか)の
言八十禍津日の埼(ことやそまがつひのさき)に
盟神探湯(くかたち)の釜を据え、
多くの部の長を集めました。
炎が釜を照らし、
熱湯がぐらぐらと揺れる中、
天皇は厳かに告げました。
――「今より、氏姓を正す。
誤りは正し、真の名を取り戻すのだ」
その声は、国の隅々まで響くようでした。
木梨之軽王の影
しかし、天皇の心には、
どうしても晴れない影がありました。
それは、皇太子・木梨之軽王のこと。
ある夜、天皇は皇后に言いました。
――「大中津比売よ……私は心配なのだ。
軽が、妹の軽大郎女に心を寄せていると聞く」
皇后は驚き、胸に手を当てました。
――「まさか……あの子たちが……」
天皇は深く息を吐きました。
――「もしそれが真ならば、
国は乱れるだろう……」
その予感は、やがて現実となり、
国を揺るがす悲劇へとつながっていきます。
允恭天皇の最期
七十八歳になられた允恭天皇は、
ある冬の日、静かに床につかれました。
皇后がそばに寄り添い、手を握ります。
――「陛下……どうか、まだ……」
天皇は微笑み、かすかに首を振られました。
――「私は……もう十分だ。
そなたと子らに恵まれ……
この国を守ることができた……」
皇后の頬を涙が伝いました。
天皇はその涙を指で拭い、
最後の言葉を残されました。
――「大中津比売よ……ありがとう……」
甲午の年、正月十五日。
允恭天皇は静かに息を引き取られました。
御陵は河内国恵賀(えが)の長枝(ながえ)に築かれ、
人々は深い悲しみの中でその死を悼みました。
兄妹の幼き日
允恭天皇の皇子・木梨之軽(きなしのかる)王と、
その同母妹・軽大郎女(かるのおおいらつめ)は、
幼い頃から互いのそばを離れず育ちました。
宮の庭で遊ぶ二人は、まるで双子のように寄り添い、
笑い声はいつも一つに溶け合っていました。
ある日、幼い軽大郎女が転んで泣いたとき、
軽王は泥だらけになりながら抱き起こし、言いました。
――「泣くなよ、大郎女。
おれがずっと守るから」
その言葉に、大郎女は涙を拭き、
小さな手で兄の袖をぎゅっと握りました。
その絆は、やがて誰にも断ち切れないほど深く、強く育っていきます。
禁じられた想い
二人が成長するにつれ、
その絆は兄妹の情を越え、
互いを求める恋へと変わっていきました。
夜、月の光が宮の回廊を照らす頃、
軽王はそっと大郎女の部屋を訪れました。
大郎女は驚きながらも、
兄の顔を見ると胸が熱くなりました。
――「兄上……どうしてここへ……?」
軽王は静かに答えました。
――「大郎女……おまえに会いたかった。
昼も夜も……おまえのことばかり考えてしまう」
大郎女は震える声で言いました。
――「兄上……私たちは……兄妹なのですよ……」
軽王はそっと大郎女の手を取り、
その手を胸に当てました。
――「それでも……おまえが恋しい。
おまえがいなければ、私は生きていけぬ」
大郎女の目に涙が溢れました。
――「私も……兄上を……」
二人は抱き合い、
その夜、禁じられた恋は結ばれました。
密やかな歌
二人は人目を忍び、
互いの想いを歌に託しました。
軽王の歌(七九)
(あしひきの)山田を作り、
水を引くために下樋を走らせるように、
人目につかぬようにひそかに言い寄る妹よ。
今夜こそは、心安らかに肌を触れ合わせよう。
大郎女はその歌を聞き、
胸に手を当てて涙を流しました。
――「兄上……私は……どうすればよいのでしょう……」
軽王は大郎女の頬に触れ、
静かに言いました。
――「大郎女……おまえがいれば、それでよい」
しかし、この恋はやがて宮中に知れ渡り、
国を揺るがす大事件へと発展していきます。
朝廷の動揺
二人の密通が明らかになると、
朝廷は騒然となりました。
群臣たちは口々に言いました。
――「皇太子が妹と……」
――「これは国を乱す……」
――「穴穂(あなほ)王こそ、次の天皇にふさわしい」
允恭天皇の死後、
皇位は軽王が継ぐはずでしたが、
民も官も、彼を拒むようになりました。
軽王は恐れ、
大前小前宿禰(おおまえおまえのすくね)の家に逃げ込みました。
大郎女は兄の姿を思い、
夜ごと涙を流しました。
――「兄上……どうか……どうかご無事で……」
包囲
穴穂王は軍を興し、
大前小前宿禰の家を包囲しました。
激しい氷雨が降りしきる中、
穴穂王は歌を詠みました。
穴穂王の歌(八一)
大前小前宿禰の家の金門の陰に、
このように寄って来い。
ここに立って雨のやむのを待とう。
その声は冷たく、
兄を討つ覚悟が滲んでいました。
大前小前宿禰は舞いながら現れ、
歌を歌いました。
大前小前宿禰の歌(八二)
宮人の脚結の紐につけた小鈴が落ちてしまったと、
宮人が騒ぎ立てている。
里人も騒ぐことなく慎めよ。
そして深く頭を下げ、言いました。
――「天皇である我が皇子よ。
どうか同母兄に兵を差し向けなさいますな。
私が捕えてお引き渡しいたしましょう」
穴穂王は静かに頷きました。
捕縛
大前小前宿禰は軽王を捕え、
穴穂王のもとへ連れてきました。
軽王は縄をかけられながらも、
静かに歌を詠みました。
軽王の歌(八三)
(あまだむ)軽の少女よ。
おまえがひどく泣けば、
人が私たちの仲を知ってしまうだろう。
だから鳩のように忍び泣け。
そしてもう一首。
軽王の歌(八四)
(あまだむ)軽の少女よ。
しっかりと私に寄り添って寝ておいで。
その声は、
大郎女への深い愛と、
別れの予感に満ちていました。
流刑
軽王は伊予の湯へ流されることになりました。
船に乗せられる直前、
彼は空を見上げて歌いました。
軽王の歌(八五)
空を飛ぶ鳥も使者なのだ。
鶴の声が聞こえたら、
私の名を言って、
私のことを尋ねておくれ。
そしてもう一首。
軽王の歌(八六)
王である私を四国の島に追放したら、
私は帰って来る。
その間、畳を汚さぬよう気をつけよ。
妻を慎めよ。
その言葉には、
大郎女への想いと、
宮への未練が滲んでいました。
大郎女の追走
軽王が流されたと聞き、
大郎女は涙を流しながら歌を詠みました。
大郎女の歌(八七)
(夏草の)あいねの浜の牡蠣殻に
足を踏み入れて怪我をなさいますな。
ここで夜を明かしてからお通りなさい。
そして、
兄を追う決意を固めました。
――「兄上……私は、あなたを一人にはいたしません」
大郎女は宮を抜け出し、
軽王の後を追いました。
再会と最期
大郎女が軽王に追いついたとき、
軽王は驚き、そして深く喜びました。
――「大郎女……来てくれたのか……」
大郎女は涙を流しながら言いました。
――「兄上……私は、あなたと共に……」
軽王は彼女を抱きしめ、歌を詠みました。
軽王の歌(八九)
泊瀬の山の大きな峰に幡を張り、
小さな峰にも幡を張り、
仲も定まった愛しい妻よ。
臥しても立っても、
これからも世話をしたい愛しい妻よ。
さらにもう一首。
軽王の歌(九〇)
泊瀬川の上流の瀬には神聖な杭を打ち、
下流の瀬には立派な杭を立て、
鏡と玉を懸けるように妻を大切に思う。
妻がいるなら家に帰ろう。
故郷を懐かしもう。
二人は抱き合い、
そのまま自ら命を絶ちました。
兄妹の恋は、
許されぬ恋でありながら、
誰よりも純粋で、
誰よりも深い愛でした。

穴穂宮の朝
允恭天皇が崩御され、
その御子・穴穂(あなほ)命が石上(いそのかみ)の穴穂宮で天下を治められました。
のちの安康天皇です。
穴穂宮の朝は静かで、
薄い霧が庭の石畳を覆い、
遠くの森から鳥の声が響いていました。
天皇はその景色を眺めながら、
胸の奥に重く沈むものを感じていました。
――「父上の御代は、優しさに満ちていた……
だが、私は……そのようにはいかぬのかもしれぬ」
彼の目には、
兄弟たちの影がちらついていました。
大日下王への使者
天皇は、同腹の弟・大長谷(おおはつせ)王のために、
大日下(おおくさか)王の妹・若日下(わかくさか)王を娶らせようと考えました。
天皇は坂本臣(さかもとのおみ)の祖・根臣(ねのおみ)を呼び寄せました。
――「根臣よ。大日下王に伝えよ。
『その妹を、大長谷の妻として差し出せ』とな」
根臣は深く頭を下げました。
――「御意にございます」
根臣は大日下王のもとへ向かい、
勅命を伝えました。
大日下王は驚き、
そして深く四度拝して言いました。
――「もしやこのような勅命があるかと思い、
妹を外に出さずにおりました。
畏れ多いことです。
勅命に従い、妹を差し上げましょう」
その言葉には、
天皇への敬意と、
妹への思いやりが滲んでいました。
大日下王は、
妹を差し出す証として、
押木の玉縵(たまかずら)を根臣に持たせました。
しかし――。
根臣の裏切り
根臣は玉縵を手にすると、
その美しさに目を奪われました。
(心中)
「これほどの宝……
私が持っていてもよいのではないか……?」
そして、
彼は恐ろしい決断をしました。
天皇のもとへ戻ると、
深く頭を下げて言いました。
――「大日下王は勅命を拒み、
『私の妹は同族の者の下敷きになるものか』と怒り、
太刀を握ってお怒りでした」
天皇の目が鋭く光りました。
――「……なんと無礼な」
その瞬間、
大日下王の運命は決まりました。
大日下王の最期
天皇は大日下王を呼び出し、
その場で討ち取りました。
大日下王は最後の瞬間、
静かに呟きました。
――「妹よ……どうか幸せに……」
その声は、
風に消えるように儚く響きました。
天皇はその正妻である長田大郎女(ながたのおおいらつめ)を奪い、
皇后としました。
宮中には、
重い沈黙が流れました。
神床の夢
ある日、天皇は神託を受けるため、
神床(かむとこ)に入り、昼寝をされました。
皇后・長田大郎女がそばに控え、
静かに天皇の寝顔を見つめていました。
天皇は目を開け、
皇后に問いかけました。
――「おまえは……何か心配ごとがあるか?」
皇后は微笑み、首を振りました。
――「陛下の厚いご寵愛をいただいて、
なんの心配もございません」
しかし天皇は、
ふと目を伏せ、低く呟きました。
――「私は……心配していることがある。
おまえの子・目弱(まよわ)が成人したとき、
私がその父を殺したと知れば……
反逆の心を起こすのではないか……」
その言葉を、
御殿の下で遊んでいた幼い目弱王は、
すべて聞いてしまいました。
目弱王の小さな胸に、
恐怖と怒りが渦巻きました。
(心中)
「父を殺した……?
この人が……?」
目弱王の刃
天皇が再び眠りについたとき、
目弱王はそっと御殿に忍び込みました。
天皇の枕元には太刀が置かれていました。
目弱王は震える手で太刀を握り、
涙をこぼしながら呟きました。
――「父上……私は……私は……」
そして――
太刀が振り下ろされました。
天皇は声を上げる間もなく、
そのまま息を引き取りました。
目弱王は太刀を落とし、
震える声で叫びました。
――「父の仇を討った……!
私は……私は……!」
しかし、
その顔には恐怖と後悔が入り混じっていました。
目弱王は都夫良意美(つぶらのおみ)の家へ逃げ込みました。
大長谷王の怒り
天皇の死を聞いた大長谷王は、
怒りに震えました。
兄の黒日子(くろひこ)王のもとへ駆け込み、叫びました。
――「兄上! 天皇が殺されました!
どういたしましょう!」
しかし黒日子王は、
驚くこともなく、
ただ気怠げに言いました。
――「……そうか。
まあ、どうにかなるだろう」
大長谷王の目が怒りで燃え上がりました。
――「兄上は……兄上は、天皇であり兄である方が殺されたというのに……
どうしてそのように……!」
大長谷王は黒日子王の襟首を掴み、
そのまま斬り捨てました。
次に白日子(しろひこ)王のもとへ向かいましたが、
彼も同じように無関心でした。
大長谷王は白日子王を小治田まで引きずり、
穴を掘って立ったまま埋めました。
白日子王は腰まで埋まったとき、
目を見開き、
そのまま絶命しました。
都夫良意美の忠義
大長谷王は軍を興し、
都夫良意美の家を包囲しました。
矢が飛び交い、
戦いは激しさを増していきました。
大長谷王は家の中を伺い、
呟きました。
――「私が言い交した少女は……
この家にいないか……?」
都夫良意美は武器を外し、
八度拝して言いました。
――「陛下。
先日、妻問いなさった私の娘・訶良比売(からひめ)は、
おそばにお仕えいたしましょう。
五つの屯倉も献上いたします。
しかし……
目弱王を見捨てることはできませぬ。
あの方は……私を頼って来られたのです」
その声には、
臣下としての忠義と、
人としての誠が宿っていました。
最後の決断
戦いは続き、
都夫良意美は深い傷を負い、
矢も尽きました。
彼は目弱王に言いました。
――「私はもう戦えませぬ……
どういたしましょう……?」
目弱王は涙を流しながら言いました。
――「……私を殺してくれ。
もう……逃げられぬ……」
都夫良意美は震える手で太刀を握り、
深く頭を下げました。
――「……御意にございます」
そして、
目弱王を刺し殺し、
そのまま自らの首を斬りました。
二人の亡骸は、
静かに並んで倒れていました。
皇后と御子
仁徳天皇の御子である伊耶本和気いざほわけ王は、磐余いわれの若桜宮わかさくらのみやで天下を治めました。
この履中天皇が、葛城かずらきの曾都比古そつひこの子である葦田宿禰あしだのすくねの娘・黒比売くろひめ命を娶り、お生みになった御子は、
・市辺の忍歯おしは王
・御馬みま王
・青海郎女あおみのいらつめ(飯豊郎女いいとよのいらつめ)
の三柱です。
墨江中王の反逆
履中天皇が難波宮なにわのみやにお出でになった頃、新嘗祭いなめまつりの酒宴で天皇はよい気分でお眠りになりました。
そのとき、弟の墨江中すみのえのなかつ王は天皇を殺そうと企て、御殿に火を放ちました。
倭やまとの漢あやの直あたいの祖・阿知あちの直あたいが天皇を密かに連れ出し、馬に乗せて大和へ向かいました。
河内かわちの丹比野たじひのに着いたとき、天皇はお目覚めになり、
「ここはどこか」
と尋ねました。
阿知あちは、
「墨江中すみのえのなかつが御殿に火を放ちました。天皇をお連れして大和へ逃げているところです」
と申し上げました。
天皇は歌を詠みました。
丹比野たじひのに寝ることがわかっていたら、
風よけの薦こもでも用意して来るのだったのに。
丹比野に寝ることがわかっていたら。(七六)
さらに埴生坂はにゅうさかに着き、難波宮を遠く眺めると、御殿を焼く火がまだ赤々と燃えていました。
天皇はまた歌を詠みました。
埴生坂はにゅうさかに立って眺めると、
陽炎かげろうの立ちのぼる家群が見える。
あそこが妻の家のあたりだ。(七七)
大坂おおさかの山口やまぐちに至ったとき、一人の女が現れ、
「武器を持った人々がこの山を塞いでいます。遠回りの当芸麻道たぎまみちを通られるほうがよいでしょう」
と申し上げました。
天皇は歌を詠みました。
大坂で出会った娘子に、
大和への道を尋ねると、
まっすぐの近道を告げず、
遠回りの当芸麻道たぎまみちを教えてくれた。(七八)
こうして天皇は大和に入り、石上神宮いそのかみじんぐうに到着しました。
水歯別命と曽婆訶理
石上神宮に入った天皇のもとへ、同母弟の水歯別みずはわけ命が参上して拝謁を求めました。
しかし天皇は、
「あなたが墨江中すみのえのなかつと同じ心ではないかと疑っている。語り合うことはしない」
と言いました。
水歯別は、
「反逆の心は持っていません。墨江中と心を同じくしてもいません」
と答えました。
天皇は、
「それならば難波に戻り、墨江中を殺して来い。そのときは語り合おう」
と命じました。
水歯別は難波に戻り、墨江中の側近である隼人・曾婆加里そばかりを騙し、
「私が天皇になったらおまえを大臣にする」
と言って主君殺害をそそのかしました。
曾婆加里は主君が厠に入った隙に矛で刺し殺しました。
水歯別は曾婆加里を連れて大和へ向かいましたが、大坂の山口で、
「主君を殺した者をそのまま重職に就けるのは恐ろしい。手柄には報い、しかし本人は始末しよう」
と考えました。
仮宮を建て酒宴を開き、曾婆加里に大臣の位を授けたうえで、酒を飲ませる際に大椀で顔が隠れた瞬間、敷物の下の剣で首を斬りました。
その地を近つ飛鳥ちかつあすかと名づけました。
さらに大和に着いた地を遠つ飛鳥とおつあすかと名づけ、石上神宮に参上して、
「御命令どおり平定しました」
と奏上しました。
天皇は水歯別を中に呼び入れ語り合いました。
天皇は阿知あちを蔵官くらのつかさに任じ、私有地を与えました。
また若桜部臣わかさくらべのおみに若桜部の名を授け、比売陀君ひめだのきみに姓かばねを授け、伊波礼部いわれべを定めました。
天皇は六十四歳で崩御し、御陵は河内の毛受もずにあります。
履中天皇の弟・水歯別みずはわけ命は多治比たじひの柴垣宮しがきのみやで天下を治めました。
天皇の身の丈は九尺二寸半、歯の長さは一寸、広さは二分で、上下の歯並びが揃い珠を貫いたように見事でした。
丸邇わに氏の許碁登こごとの臣の娘・都怒郎女つののいらつめを妻とし、
・甲斐郎女かいのいらつめ
・都夫良郎女つぶらのいらつめ
を生みました。
同じ許碁登の娘・弟比売おとひめを妻とし、
・財たから王
・多訶弁郎女たかべのいらつめ
を生みました。
天皇は六十歳で崩御し、御陵は毛受野もずのにあります。
皇后と御子
先帝の弟・男浅津間若子宿禰おあさつまわくごのすくね命は遠つ飛鳥宮とおつあすかのみやで天下を治めました。
意富本杼おほほど王の妹・忍坂之大中津比売おさかのおおなかつひめ命を妻とし、九柱の御子を生みました。
この九王のうち、穴穂あなほ、次に大長谷おおはつせが天下を治めました。
即位と政治
天皇は皇位継承を辞退しましたが、皇后や高官たちの強い勧めで即位しました。
新羅しらぎの国王が八十一隻の船で貢物を献上し、大使・金波鎮漢紀武こんはちんかんきむが天皇の病を治しました。
天皇は氏姓の誤りを正すため、甘樫の丘の言八十禍津日の埼に盟神探湯くかたちの釜を据え、氏姓を正しました。
また軽部かるべ、刑部おさかべ、河部かわべを御名代みなしろとして定めました。
天皇は七十八歳で崩御し、御陵は河内国恵賀えがの長枝ながえにあります。
軽太子と軽大郎女
允恭天皇崩御後、皇太子・木梨之軽きなしのかるは即位前に同母妹・軽大郎女かるのおおいらつめと密通し、歌を詠みました。
(あしひきの)山田を作り、 山が高いので水を引くために下樋したひを走らせる。 そのように、人目につかぬようにひそかに私が言い寄る妹に、 人目を忍んで私がひそかに慕い泣く妻に、 今夜こそは心安らかに肌に触れることよ。(七九)
これは志良宜歌しらげうたになります。
また詠んだ歌は、
笹の葉に打ちかかる霰の音のたしだしのように、 たしかに共寝をした後ならば、 あなたが離れて行っても構わない。 愛しいと思って寝さえしたなら。 (かりこもの)二人が離れ離れになっても構わない。 いっしよに寝さえしたなら。(八〇)
これは夷振ひなぶりという歌の上歌あげうたになります。
密通が知られ、朝廷は軽太子を退け穴穂あなほに心を寄せました。
軽太子は大前小前宿禰の家に逃げ込み武器を作りました。
穴穂も武器を作り、軍を興して包囲しました。
そこで詠んだ歌。
大前小前宿禰おおまえおまえのすくねの家の金門の陰に、 このように寄って来い。 ここに立って雨のやむのを待とう。(八一)
すると当の大前小前宿禰おおまえおまえのすくねが手を挙げ膝を打ち、舞を舞い、歌を歌いながらやって来ました。 その歌は、
宮人みやびとの脚結あゆいの紐につけた小鈴が落ちてしまったと、 宮人が騒ぎ立てている。 里人も騒ぐことなく斎み慎めよ。(八二)
この歌は宮人振みやひとぶりという歌になります。
大前小前宿禰は軽太子を捕えて差し出しました。
軽太子は捕えられつつ歌を詠みました
(あまだむ)軽かるの少女よ。 おまえがひどく泣けば、 人が私たちの仲を知ってしまうだろう。 だから、波佐はさの山の鳩はたのように、 おまえは忍び泣きに泣くよ。(八三)
また歌った。
(あまだむ)軽かるの少女よ。 しっかりと私に寄り添って寝ておいで。 軽の少女たちよ。(八四)
伊予いよの湯に流される際にも歌を詠みました。
空を飛ぶ鳥も使者なのだ。 鶴の声が聞こえたら、 私の名を言って、 私のことを尋ねておくれ。(八五)
この三つの歌は天田振あまたふりという歌です。
軽かるはまた歌を詠みました。
王おおきみである私を、 四国の島に追放したら、 私は(船余り)帰って来るぞ。 その間、私の畳はそのままにして汚さぬよう気をつけよ。 言葉でこそ畳というが、 実は、我が妻は決して汚れぬように慎めよ。(八六)
衣通そとほりは歌を献上します。
(夏草の)あいねの浜の牡蠣かきの貝殼に 足を踏み入れて怪我をなさいますな。 ここで夜を明かしてからお通りなさい。(八七)
さらに追って行き詠んだ歌、
あなたの旅は日数が長くなりました。 (山たづの)お迎えに参りましょう。 もうお待ちすることはいたしますまい。 (ここで山たづというのは今の造木のことである)(八八)
そこで衣通そとほりが、軽かるに追いついたとき、太子は待ち迎えて懐かしく思い、
(こもりくの)泊瀬はつせの山の大きな峰には幡を張り立て、 小さな峰にも幡を張り立て、 (おほをよし)仲も定まった私の愛しい妻よ、ああ。 (槻弓の)臥しているときも、 (梓弓の)立っているときも、 これから後も世話をしたい愛しい妻よ、ああ。(八九)
と詠んだ。 またさらに歌を詠んだ。
(こもりくの)泊瀬はつせの川の、 上流の瀬には神聖な杭を打ち、 下流の瀬には立派な杭を立て、 神聖な杭には鏡を懸け、 立派な杭には玉を懸け、 その立派な玉のように大切に思う妻、 その鏡のように私が大切に思う妻。 その妻がいるというのならば、 家に訪ねても行こうし、 故郷を懐かしく思いもしようけれど。(九〇)
このように歌って、そのまま軽かるは衣通そとほりと共に自ら死んでしまいました。
そして、この二つの歌は読歌よみうたという歌といいます。
大日下王と根臣
允恭天皇の御子・穴穂あなほ命は石上の穴穂宮で天下を治めました。
大日下おおくさか王に妹・若日下わかくさか王を大長谷おおはつせに娶らせるよう命じましたが、使者の根臣ねのおみが玉縵を盗み、虚偽の報告をしたため、天皇は大日下を殺し、長田大郎女を皇后としました。
目弱王
天皇が昼寝しているとき、皇后との会話を御殿の下で遊んでいた目弱まよわ王が聞き、父の仇を恐れて天皇を斬り殺し、都夫良意富美つぶらのおみの家に逃げ込みました。
天皇は五十六歳で崩御し、御陵は菅原の伏見ふしみの岡にあります。
大長谷おおはつせは激怒し、兄の黒日子くろひこ王・白日子しろひこ王を次々に誅しました。
都夫良意美つぶらのおみの家を包囲し、激しい戦いとなりました。
都夫良意美は娘・訶良比売からひめを差し出すと申し出ましたが、目弱を見捨てず戦い続け、矢尽きて目弱を刺し殺し、自らも死にました。
市辺之忍歯王
大長谷おおはつせは市辺之忍歯王を伴って近江へ狩りに出かけましたが、忍歯王を射殺し、飼葉桶に入れて埋めました。
忍歯王の御子・意祁おけと袁祁をけの二人は逃げ、山城で乾飯を奪われつつもさらに播磨へ逃れ、志自牟しじむの家で身を隠して馬飼い・牛飼いとして暮らしました。
去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)は、仁徳天皇の第一皇子でいらっしゃいます。母は葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の娘である磐之媛命(いわのひめのみこと)です。
仁徳天皇三十一年春一月、皇太子に立たれました。年十五歳でございます。
八十七年春一月、仁徳天皇が崩御されました。皇太子は天皇の喪から出られ、まだ帝位につかれない間に、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘・黒媛(くろひめ)を妃に迎えようと思われました。婚約も整い、同母弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣わして、婚礼の日取りを告げさせました。
しかしそのとき、仲皇子は太子であると偽って黒媛を犯してしまいました。
その夜、仲皇子は手に巻いていた鈴を黒媛の家に置き忘れて帰りました。翌夜、太子は仲皇子が黒媛を犯したことを知らずに訪れ、寝室に入って帳を開けて寝台にお座りになりました。そのとき、寝台の上部で鈴の音がしました。太子が怪しんで黒媛にお尋ねになると、黒媛は、
「昨夜、太子がお持ちになっていた鈴ではありませんか。どうして私にお尋ねになるのでしょう」
と答えました。
太子は仲皇子が名を偽って黒媛を犯したことを悟られ、しばらく黙ってその場を去られました。
仲皇子は事が大事になることを恐れ、太子を殺そうと企てました。密かに兵を挙げて太子の宮を囲みました。平群の木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)、漢直(あやのあたい)の祖である阿知使主(あちのおみ)の三人がこの事態を太子に申し上げましたが、太子はお聞きになりませんでした。一説には、太子は祀りの酒に酔って起きられなかったともいわれます。
そこで三人は太子を助け、馬に乗せて逃がしました。一説には、大前宿禰が太子を抱いて馬に乗せたともいわれます。
仲皇子は太子の所在を知らないまま、太子の宮を焼きました。一晩中燃え続けました。
太子は河内国の埴生坂(はにゅうのさか)に着き、ようやく酔いが醒められました。難波の方を望み見ると、火の光が見え、大いに驚かれました。急いで走り、大坂から倭へ向かわれました。
飛鳥山(大阪府羽曳野市)に着き、登り口で少女に会われました。
「この山に人がいるか」
と問われると、少女は、
「武器を持った者が山中にたくさんおります。引き返して当麻道(たぎまのみち)から越えなさい」
と答えました。
太子は少女の言葉を聞き、難を免れたことを悟られ、歌を詠まれました。
オホサカニ、アフヤヲ卜メヲ、ミチトへハ、 夕ダニハノラズ、タギマヂヲノル。
大坂で会った少女に道を尋ねると、まっすぐの道は教えず、迂回する当麻道を教えてくれた、という意味です。
太子は少し戻ってその県の兵を集め、味方とされ、竜田山(たつたやま)から越えられました。その際、数十人の武器を持った者が追ってきました。太子は、
「あれは誰だろう。何と早いではないか。賊だろうか」
と言われ、山中に隠れて待ち、近づいたときに一人を遣わして尋ねられました。
「誰だ。どこへ行くのか」
彼らは、
「淡路の野島の漁師です。阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)の命令で、仲皇子のために太子を追っています」
と答えました。太子は伏兵を出して彼らを取り囲み、すべて捕えました。
倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)は仲皇子と親しく、あらかじめ陰謀を知って精兵数百を攪食(かきはみ)の栗林に集め、仲皇子のために太子を捕らえようとしていました。太子は兵がいることを知らず、山を出て数里のところで道に兵が溢れて進めませんでした。
使者を出して、
「誰だ」
と問うと、
「倭直吾子籠である」
と答えました。
太子は逆に使者に、
「誰の使いか」
と問わせると、
「皇太子の使いだ」
と答えました。
吾子籠は兵が多いのを恐れ、太子の使者に、
「聞くところによると、皇太子には大変なことがおありだと聞き、お助けしたいと思って兵を備えてお待ちしていたのです」
と言いました。しかし太子はその心を疑い、殺そうとされました。
吾子籠は恐れて、妹の日野媛(ひのひめ)を奉って許しを乞いました。太子はお許しになりました。倭直らが宮中に采女(うねめ)を奉るようになったのは、このときが始まりとされます。
太子は石上の振神宮(ふるのかみのみや)にお出でになりました。瑞歯別皇子(みつはわけのみこ・反正天皇)は太子がお出でにならないことに気づき、追って来られました。しかし太子は弟王の心を疑って呼ばれませんでした。
瑞歯別皇子は、
「私は黒い心はありません。ただ太子がお出でにならないので心配して来たのです」
と言われました。
太子は、
「私は仲皇子の反逆を恐れてここに来ている。お前も疑わないではいられない。仲皇子は私の病のようなものだ。除かなければならない。もし本当に異心がないなら、難波に帰って仲皇子を殺せ。それから会おう」
と言われました。
瑞歯別皇子は、
「仲皇子は無道で、群臣も人民も恨んでいます。私はその誤りを知っていても、太子の命を受けていませんでした。しかし今、命を受けた以上、仲皇子を殺すことは恐れません。ただ恐れるのは、仲皇子を殺しても、なお私を疑われることです。どうか心の正しい人を遣わして、私の忠誠を証明していただきたいのです」
と申し上げました。
太子は木菟宿禰を付き添わせて遣わしました。
瑞歯別皇子は嘆いて、
「太子と仲皇子は共に私の兄である。誰に従い、誰に背くべきか迷う。しかし無道を滅ぼし、道ある人につけば、誰が私を疑うだろうか」
と言われました。
難波に至り仲皇子の様子を伺うと、仲皇子は太子が逃げたと思い、備えをしていませんでした。
近習の隼人・刺領巾(さしひれ)がいました。瑞歯別皇子は密かに刺領巾を呼び、
「私のために皇子を殺してくれ。必ず厚く報いる」
と言い、錦の衣と袴を与えました。
刺領巾は言われたとおり、一人で矛を取り、仲皇子が厠に入るところを刺し殺しました。そして瑞歯別皇子のもとに戻りました。
木菟宿禰は、
「刺領巾は人のために己の君を殺した。それは自分には大きな功だが、私の君に対しては慈悲のないこと甚だしい。生かしてはおけない」
と言い、刺領巾を殺しました。
その日、倭に向かい、夜中に石上に至って太子に報告しました。太子は瑞歯別皇子を厚くもてなし、村合屯倉(むらあわせのみやけ)を賜りました。この日、阿曇連浜子を捕えました。
磐余の稚桜宮
元年春二月一日、皇太子は磐余の稚桜宮で即位されました。
夏四月十七日、阿曇連浜子を召して、
「お前は仲皇子と共に反逆を謀り、国家を傾けようとした。死罪にあたる。しかし大恩を垂れて死を免じ、顔に入墨の刑とする」
と言われ、その日、目の縁に入墨を施しました。当時の人はそれを「阿曇目(あずみめ)」と言いました。浜子に従った野島の漁師たちは罪を許され、倭の蒋代屯倉で労働に服しました。
秋七月四日、葦田宿禰の娘・黒媛を妃とされました。妃は磐坂市辺押羽皇子、御馬皇子、青海皇女(または飯豊皇女)をお生みになりました。次の妃・幡梭皇女は中磯皇女をお生みになりました。この年、太歳庚子でございます。
二年春一月四日、瑞歯別皇子を皇太子とされました。
冬十月、磐余に都を造られました。このとき、平群木菟宿禰、蘇賀満智宿禰、物部伊莒弗大連、円大使主らが国政に携わりました。
十一月、磐余の池を作られました。
三年冬十一月六日、天皇は両股船を磐余の市磯池に浮かべ、妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれました。膳臣余磯が酒を奉りました。そのとき桜の花びらが盃に散りました。天皇は怪しまれ、物部長真胆連を呼び、
「この花は咲くべきでない時に散ってきた。どこの花だろうか。探してこい」
と命じました。
長真胆連は一人で花を探し、腋上の室山で花を手に入れて奉りました。天皇はその珍しさを喜び、宮の名を「磐余若桜宮」とされました。この日、長真胆連の本姓を改めて稚桜部造とし、膳臣余磯を稚桜部臣とされました。
四年秋八月八日、初めて諸国に国史(書記官)を置かれました。
冬十月、石上の用水路を掘られました。
五年春三月一日、筑紫の三柱の神(田心姫・湍津姫・市杵島姫)が宮中に現れ、
「なぜ我が民を奪うのか。お前に今に恥を与える」
と言われました。しかし祈祷だけを行い、祀りはしませんでした。
秋九月十八日、天皇は淡路島に狩りに出られました。この日、河内の飼部らが馬の轡を取りました。すると以前から治らなかった飼部らの目先の傷が治らず、島にお出でになった伊奘諾神が祝部に神憑りして、
「血の匂いに堪えられない」
と言われました。占うと、
「飼部らの目先の傷の匂いを憎む」
と言われたため、以後、飼部に入墨をすることをやめました。
十九日、大空に風の音のように声が響き、
「剣刀太子王(つるぎたちひつぎのみこ)」
と呼びました。また、
「鳥往来う、羽田の汝妹は、羽狭はきに葬り立ちぬ」
さらに、
「狭名来田蔣津之命、羽狭はきに葬り立ちぬ」
と言いました。
急使が来て、
「皇妃がお隠れになりました」
と申し上げました。天皇は大いに驚き、馬で急ぎ帰られ、二十二日に淡路からお着きになりました。
冬十月十一日、妃を葬られました。天皇は神の祟りを鎮めず妃を亡くしたことを悔い、その咎のもとを探されました。ある者が、
「車持君が筑紫に行き、車持部をすべて調査し収め、その上、充神民を奪いました。これが罪でしょう」
と言いました。
天皇が車持君を呼んで調べると事実でした。天皇は、
「お前は勝手に天子の人民を検校した。第一の罪である。また神に配した車持部を奪った。第二の罪である」
と責め、悪解除・善解除を負わせ、長渚崎で祓い禊をさせました。そして、
「今後、筑紫の車持部を司ってはならぬ」
と詔し、すべて取り上げて三柱の神に奉られました。
六年春一月六日、草香幡梭皇女を皇后とされました。二十九日、初めて蔵職を立て、蔵部を定められました。
二月一日、鮒魚磯別王の娘・太姫郎姫、高鶴郎姫を召して後宮に入れ、嬪とされました。二人は常に、
「悲しい。我が兄王はどこへ行かれたのだろう」
と嘆きました。天皇が尋ねられると、
「私どもの兄・鷲住王は力強く敏捷で、一人で八尋屋を飛び越えてしまいました。もう何日も会えず語れません。それで嘆いているのです」
と答えました。
天皇はその力を喜んで召されましたが、彼は来ませんでした。使者を出しても来ませんでした。鷲住王は住吉邑に居り、以後呼ぶのをやめられました。これが讃岐国造・阿波国の脚咋別の先祖です。
三月十五日、天皇は病になられ、身体の不調から臭みが増しました。稚桜宮で崩御されました。年七十でございます。
冬十月四日、百舌鳥耳原陵に葬られました。
瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)は、履中天皇(りちゅうてんのう)の同母弟でいらっしゃいます。履中天皇の二年に、皇太子に立たれました。
天皇は淡路島でお生まれになりました。生まれながらにして歯が一本、骨のように白く美しく、容姿もたいへん麗しかったと伝えられています。
その地には「瑞井(みずのい)」という井戸がありました。その水を汲んで太子を洗ったところ、井戸の中に多遅(たじ)の花が浮かんでいました。そこで、この花の名を太子の名とされました。
多遅(たじ)の花とは、現在でいう虎杖(いたどり)の花のことです。
そのため、太子を 多遅比瑞歯別皇子(たじひみつはわけのみこ) とお讃え申し上げたのでございます。
■ 履中天皇の崩御と即位
六年春三月、履中天皇が崩御されました。
元年春一月二日、瑞歯別皇子は天皇に即位されました。
■ 皇后・皇子女
秋八月六日、大宅臣(おおやけのおみ)の先祖である木事(こごと)の娘・津野媛(つのひめ)を皇夫人とされました。
津野媛は 香火姫皇女(かひのひめみこ)、円皇女(つぶらのひめみこ) をお生みになりました。
また、津野媛の妹である 弟媛(おとひめ) を後宮に入れられ、
弟媛は 財皇女(たからのひめみこ) と 高部皇子(たかべのみこ) をお生みになりました。
■ 柴籬宮の造営
冬十月、河内(かわち)の丹比(たじひ)に都を造られました。
これを 柴籬宮(しばかきのみや) といいます。
この時代は雨風が順調で、季節も正しく巡り、五穀は豊かに実り、人民は富み栄え、天下は平和であったと記されています。
この年は 大歳丙午(たいさいひのえうま) でございます。
■ 天皇の崩御
五年春一月二十三日、天皇は正殿において崩御されました。
■ 即位の躊躇
雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)は、反正天皇(はんぜいてんのう)の同母弟でいらっしゃいます。
天皇は幼い頃から、また成人されてからも、恵み深く恭しいお心をお持ちでした。しかし壮年になって重い病を患われ、動作に不自由がありました。
五年春一月、反正天皇が崩御されました。
群卿たちは相談して、
「今、仁徳天皇の御子には雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子がおられるが、雄朝津間稚子宿禰皇子は年長で、情け深いお心をお持ちである」
と申し上げ、吉日を選んで御前に跪き、天皇の御璽を奉りました。
しかし皇子は、
「私は長く重い病にかかり、よく歩くこともできません。病を治そうとして密かに荒療治もしましたが、少しも良くなりませんでした。先帝は私を責めて『病気であるのに勝手に身を痛めるとは、親に従わぬ不幸である。長生きしても天つ日嗣を治めることはできまい』とおっしゃいました。また兄の二人の天皇も、私を愚かとして軽んじられました。これは群卿たちも知っていることです。天下は大器であり、帝位は大業です。人民の父母となるのは賢聖の天職です。愚かな私に堪えられるはずがありません。もっと賢い王を選ぶべきです。私は適当ではありません」
と辞退されました。
群臣は再拝して、
「帝位は長く空位であってはなりません。天命は拒めません。もし王が位に就かれなければ、人民の望みが絶えてしまいます。どうか厭わしく思われても、帝位にお就きください」
と申し上げました。
しかし皇子は、
「国家を任されるのは重大なことです。私は病の身で、とても堪えられません」
と承知されませんでした。
群臣はさらに固く願い、
「大王が皇祖の宗廟を奉じられることが最も適当です。天下万民も皆そのように思っています。どうかお聞き届けください」
と申し上げました。
■ 大中姫命の嘆願
元年冬十二月、妃の忍坂大中姫命(おしさかおおなかつひめのみこと)は、群臣の憂いをいたまれ、自ら洗手水(おおみてみず)を捧げて皇子の前に進み、
「大王は辞退されて即位なさらず、空位のまま年月が過ぎています。群臣百寮は憂えて、どうすべきか分かりません。どうか人々の願いに従い、強いてでも帝位にお就きください」
と申し上げました。
しかし皇子は聞き入れず、背を向けて何も言われませんでした。
大中姫は退かずに四〜五剋(約一時間以上)もその場に立ち続けました。歳末で風は烈しく寒く、大中姫の捧げた鋺の水は溢れて腕に凍りつき、命が危ういほどでした。
皇子は驚いて助け起こし、
「日嗣の位は重いことであり、軽々しく即くことはできないので同意しなかった。しかし群臣の願いは道理であり、これ以上断り続けることもできない」
と言われました。
大中姫は喜び、群卿に告げました。
「皇子は群臣の願いをお聞き入れになりました。今すぐ天皇の璽符を奉りましょう」
群臣は大いに喜び、即日、天皇の璽符を捧げて再拝しました。
皇子は、
「群卿は天下のために私を請うてくれた。私もいつまでも辞退してばかりはいられない」
とおっしゃり、ついに帝位にお就きになりました。
この年、太歳壬子でございます。
■ 忍坂大中姫を皇后とする
二年春二月十四日、忍坂大中姫を皇后とされました。
この日に皇后のために刑部(おしさかべ)を定められました。
皇后は多くの皇子女をお生みになりました。
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)
名形大娘皇子(ながたのおおいらつめのみこ)
境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)
穴穂天皇(あなほのすめらみこと・安康天皇)
軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)
八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)
大泊瀬稚武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと・雄略天皇)
但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)
酒見皇女(さかみのひめみこ)
■ 皇后と闘鶏国造の昔話
皇后がまだ母と共に家にいた頃、苑で遊んでいたとき、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)が馬に乗って通りかかり、垣根越しに嘲って言いました。
「お前に薗が作れるのかね」
「刀自よ、野蒜を一本くれ」
皇后は野蒜を取って渡し、
「何のために野蒜を所望するのか」
と問うと、国造は、
「山に行くときヌカガを追い払うのだ」
と言いました。
大中姫はその無礼を心に留め、
「お前、私は忘れないよ」
と言われました。
後に皇后となった年、国造を探し出し、昔の罪を責めて殺そうとされましたが、国造は額を地につけて謝り、
「その時は、あなたが貴い方になるとは思いませんでした」
と申し上げました。皇后は死罪をやめ、姓を下して稲置(いなき)とされました。
■ 新羅から医師を求める
三年春一月一日、良い医者を新羅に求めるため使者を遣わされました。
秋八月、新羅から医師が来て天皇の病を治療し、ほどなく病は治りました。天皇は大いに喜ばれ、厚く礼をして帰国させました。
■ 氏姓の誤りを正す
四年秋九月九日、天皇は詔して、
「古く国がよく治まっていた時は、人民も所を得て、氏姓が誤ることもなかった。今、私が践祚して四年だが、上下争い、百姓も安らかでない。自分の姓を誤って失う者、故意に高い氏を詐称する者もある。治まらぬのはこれによる。私は微力ながら、この誤りを正さねばならぬ。群臣はよく議定せよ」
と述べられました。
群臣は、
「陛下が過ちを挙げ、不正を正して氏姓を定められるなら、命がけで取り組みます」
と申し上げました。
二十八日、天皇はさらに詔して、
「群卿百寮、諸国造らは皆『帝の後裔』『天孫降臨に供奉した者』などと言う。しかし開闢以来、万世を経て、一つの氏から多数の氏姓が生まれ、実を知り難い。ゆえに諸氏姓の者は斎戒沐浴し、盟神探湯によって証明すべきである」
と命じました。
甘橿丘の辞禍戸崎に探湯の釜を据え、諸人に、
「真実の者は損なわれず、偽りの者は必ず傷を受ける」
と告げました。
諸人は木綿襷をかけて熱湯に手を入れ、真実の者は無事、偽りの者は傷つきました。
これ以後、氏姓は正され、偽る者はいなくなりました。
■ 玉田宿禰の罪
五年秋七月十四日、地震がありました。
その後、葛城襲津彦の孫・玉田宿禰(たまたのすくね)が反正天皇の殯を任じられました。
しかし地震の夜、尾張連吾襲(おわりのむらじあそ)が殯宮を見に行くと、玉田宿禰だけがいませんでした。
吾襲が葛城に行くと、宿禰は男女を集めて酒宴をしていました。
宿禰は罪を恐れ、馬一匹を賄賂として吾襲を途中で殺し、武内宿禰の墓地に逃げ込みました。
天皇はこれを聞き宿禰を召されました。
宿禰は甲を衣の下に着けて参上しましたが、甲の端が見えました。
天皇は采女に酒を賜わせ、采女は甲を見て天皇に報告しました。
天皇は討とうとしましたが、宿禰は逃げ帰り、天皇は家を囲んで捕え、殺されました。
冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵に葬りました。
■ 衣通郎姫(そとおしのいらつめ)
七年冬十二月一日、新居の落成祝いの宴がありました。
天皇は琴を弾き、皇后は舞われましたが、舞い終えても礼を述べませんでした。
当時は舞い終えると「娘子を奉りましょう」と言うのが礼でした。
天皇が問われると、皇后は改めて舞い、「娘子を奉りましょう」と言いました。
天皇が「誰か」と問われると、皇后はやむなく、
「私の妹、弟姫(おとひめ)です」
と答えました。
弟姫は容姿絶妙で、衣を通して光が見えるほどでした。
人々は彼女を 衣通郎姫(そとおしのいらつめ) と呼びました。
天皇は衣通郎姫を愛され、皇后に奉ることを求められました。
皇后は気が進まず、弟姫も皇后の心を察して参上しませんでした。
七度召しても来ず、天皇は中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)に命じて迎えに行かせました。
烏賊津使主は坂田に赴き、庭に伏して七日間動かず、弟姫は忠臣を死なせることを恐れて同行しました。
倭の春日で乾飯を食べ、弟姫は酒を与えて慰めました。
使主は弟姫を倭直吾子籠の家に留め、天皇に報告しました。
天皇は喜び、使主を厚く遇しましたが、皇后は穏やかでなく、弟姫を藤原の別殿に住まわせました。
■ 天皇と衣通郎姫の歌
大泊瀬天皇(雄略天皇)を出産したとき、天皇が藤原に行かれたため、皇后は恨み、産殿を焼いて自殺しようとしました。
天皇は謝って慰めました。
八年春二月、天皇は藤原に行き、衣通郎姫が詠んだ歌を聞かれました。
ワガセコガ、クべキヨヒナリ、ササガニノ、 クモノオコナヒ、コヨヒシルシモ。
天皇は感動し、歌を返されました。
ササラガタ、ニシキノヒモラ、卜キサケテ、 アマ夕ハネズニ、タダヒトヨノミ。
翌朝、桜を見て詠まれました。
ハナグハシ、サクラノメデ、コトメデバ、 ハヤクハメデズ、ワガメヅルコラ。
皇后はこれを聞いてまた恨みました。
衣通郎姫は、
「私は宮中で陛下のお姿を見たいと思いますが、皇后は姉であり、私のために苦しんでおられます。ゆえに宮中を離れたいのです」
と言われました。
天皇は河内の茅淳(ちぬ)に宮を建て、衣通郎姫を住まわせました。
■ 阿波の大真珠
十四年秋九月十二日、天皇は淡路島へ猟に行かれましたが、一匹も獲れませんでした。
占うと島の神が、
「明石の海底の真珠を供えよ」
と言いました。
海人を集めましたが深くて潜れず、阿波国の男狭磯(おきし)が縄を腰に潜り、大アワビを抱えて浮上しましたが息絶えました。
深さは六十尋(約110m)でした。
アワビを割ると桃ほどの真珠があり、供えると獲物が得られました。
天皇は男狭磯を厚く葬りました。
■ 木梨軽皇子と軽大娘皇女
二十三年、木梨軽皇子を太子とされました。
皇子と同母妹の軽大娘皇女は互いに恋慕し、ついに密かに通じました。
皇子は歌を詠まれました。
アシヒキノ、ヤマタヲツクリ、ヤマタ力ミ……
二十四年、羹の汁が凍る異変があり、占いで兄妹の密通が明らかになりました。
皇女は伊予に流され、皇子は歌を詠まれました。
オホキミヲ、シマニハフリ……
さらに、
アマタム、カルヲトメ……
■ 天皇の崩御と新羅の弔使
四十二年春一月十四日、天皇は崩御されました。
年は若干とされますが、七十八歳と伝えられます。
新羅の王は深く悲しみ、多くの調と楽人を乗せた船を送りました。
対馬、筑紫、難波で泣き、舞い、殯宮に参会しました。
帰国の際、耳成山と畝傍山を愛でて、
「うねめはや、みみはや」
と言いました。
倭の飼部はこれを誤解し、新羅人が采女と通じたと疑いましたが、調べて誤解と分かり許されました。
しかし新羅人は恨み、貢物を減らしました。
冬十月十日、天皇を河内の長野原陵に葬りました。
■ 木梨軽皇子の死
穴穂天皇(あなほのすめらみこと)は允恭天皇(いんぎょうてんのう)の第二子でいらっしゃいます。一説には第三子ともいわれます。母は稚淳毛二岐皇子(わかぬけふたまたのみこ)の娘である忍坂大中姫命(おしさかのおおなかひめのみこと)です。
允恭天皇四十二年春一月、天皇が崩御されました。
冬十月、葬礼が終わりました。このとき、太子である木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は婦女に暴行し淫乱であった(同母妹の軽大娘皇女を犯した)ため、国人たちは太子を謗りました。群臣は心服せず、すべての人が穴穂皇子(あなほのみこ)につきました。
そこで軽太子は穴穂皇子を襲おうとして、密かに兵を用意しました。
穴穂皇子も同じく兵を集め、戦おうとされました。このとき、穴穂矢(あなほや:銅製の鏃) や 軽矢(かるや:鉄製の鏃) が初めて作られたといいます。
軽太子は群臣が従わず、人民も離反していくことを知り、宮を出て物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に身を潜めました。
穴穂皇子はそれを聞き、宿禰の家を兵で取り囲ませました。大前宿禰は門に出て穴穂皇子を迎えました。皇子は歌を詠まれました。
オホマへ、ヲマヘスクネガ、カナトカゲ、 カクタチヨラネ、アメタチヤメム。
大前・小前宿禰の家の金門の陰に、このように皆立ち寄りなさい。雨宿りをしていこう、という意味です。
大前宿禰も返歌しました。
ミヤヒ卜ノ、アユヒノコスズ、オチニキ卜、 ミヤヒ卜卜ヨム、サトヒトモユメ。
宮廷に仕える人の足結の小鈴が落ちたと、人々がどよめいている。不吉なことです。里に下っている人々も気をつけなさい、という意味です。
そして宿禰は皇子に申し上げました。
「どうか軽太子を殺さないでください。私が何とかいたします」
こうして軽太子は大前宿禰の家で自殺しました。一説には伊予国に流されたともいわれます。
■ 大草香皇子の災厄
十二月十四日、穴穂皇子は天皇の位につかれました。前の皇后を敬って皇太后と申し上げました。そして都を大和の石上に移され、これを 穴穂宮(あなほのみや) といいます。
ちょうどこの頃、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ・雄略天皇)は反正天皇の娘たちを我が物にしようとされました。しかし娘たちは、
「大泊瀬皇子は乱暴で恐ろしい方です。朝にお目にかかった者が夕方には殺され、夕方にお目にかかった者が翌朝には殺されます。私たちは容色も優れず、気も利きません。もし振る舞いや言葉が少しでもお気に召さなければ、どうして可愛がっていただけましょうか。ですからお受けできません」
と言って身を隠し、従いませんでした。
■ 幡梭皇女をめぐる悲劇
元年春二月一日、天皇は大泊瀬皇子のために、大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹・幡梭皇女(はたびのひめみこ)を娶らせたいと思われました。
坂本臣の先祖・根使主(ねのおみ)を遣わし、大草香皇子に、
「幡梭皇女を大泊瀬皇子に娶わせたい」
と頼まれました。
大草香皇子は答えました。
「私は重い病にかかり、治る見込みはありません。荷を満載した船が満ち潮を待つように、最期を待つばかりです。死は寿命ですから惜しむことはありません。ただ妹が孤児になるのが心残りです。陛下が妹の醜さを嫌われず、宮中に入れてくださるのは大変な恩恵です。どうして辞退できましょうか。真心を示すため、家宝の押木珠縵(おしきのたまかずら)を捧げます。つまらぬものですが、誼の印としてお納めください」
根使主はその縵の見事さに心を奪われ、嘘をついて自分の物にしようとしました。
そして天皇に、
「大草香皇子は勅命に従わず、『どうして妹を差し出せようか』と言っています」
と偽って報告しました。
天皇はこれを信じ、大いに怒って兵を遣わし、大草香皇子の家を囲んで攻め殺しました。
■ 大草香皇子の忠臣たちの殉死
このとき、難波吉師日香蚊(なにわのきしひかか)の親子は大草香皇子に仕えていました。主人が罪なく殺されたことを悲しみ、父は皇子の首を抱き、子らは皇子の足を抱いて泣きました。
「我が君が罪なくして死なれた悲しさよ。我ら親子三人、君に仕えながら、非業の最期にお供しないのでは家来とは申せません」
と言い、ためらわず自ら首をはね、皇子の亡骸の傍らに伏しました。
兵たちは皆、涙にむせびました。
■ 中蒂姫を皇后に
大草香皇子の妻・中蒂姫(なかしひめ)は召されて宮中に入り、妃とされました。
そして幡梭皇女は大泊瀬皇子に娶わせられました。
この年、大歳甲午です。
二年春一月十七日、中蒂姫命を皇后とされました。ひどく寵愛されました。
中蒂姫は大草香皇子との間に 眉輪王(まよわのおおきみ) を生んでおり、眉輪王は母の縁で父の罪を許され、宮中で育てられました。
■ 安康天皇の最期
三年秋八月九日、安康天皇は 眉輪王によって殺害されました。
(詳細は雄略天皇の条に述べられています。)
三年後、天皇は 菅原伏見陵(すがはらのふしみのみささぎ) に葬られました。