目次
16代仁徳(にんとく)天皇の時代を物語としてまとめています。
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

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難波の高津宮は、朝ごとに海風が吹き上がる高台に建てられています。
春の朝、宮殿の回廊には潮の香りが淡く漂い、遠く河内の平野には薄い霞がかかっています。
大雀命(おおさざきのみこと)――後の仁徳天皇は、その景色を眺めながら静かに息をつかれました。
「今日も、よい風が吹いておるな……。民の暮らしも、この風のように穏やかであればよいが。」
天皇の呟きに、側近たちは深く頭を下げました。
高津宮は国の中心としての威容を保ちながらも、どこか人の暮らしに寄り添う温かさを感じさせる場所でした。
皇后・石之日売命の気品
その宮中を厳しく、しかし凛として取り仕切っていたのが、皇后・石之日売命(いわのひめのみこと)です。
葛城の名家に生まれた彼女は、幼いころから「葛城の姫」としての誇りを胸に育ちました。
ある日、皇后は女官たちを従え、宮中の庭を歩いていました。
白い衣が風に揺れ、黒髪が陽光を受けて艶やかに光ります。
「庭の手入れが行き届いていませんね。
この石畳の苔は、昨日より広がっています。」
女官たちは慌ててひざまずきました。
「申し訳ありません、皇后様。すぐに整えさせていただきます。」
石之日売は厳しい方でしたが、その眼差しには宮中を守ろうとする強い責任感が宿っていました。
天皇もまた、その気品と意志の強さを深く信頼していました。
四柱の皇子たち
天皇と皇后の間には、四柱の御子が生まれました。
幼い皇子たちが庭で遊ぶ姿を、天皇はよく微笑ましく眺めていました。
ある夕暮れ、天皇は皇后と並んで回廊を歩きながら語られました。
「我らの子らは、皆よく育っておる。
大江之伊耶本和気は聡明、墨江之中津は武に優れ、
水歯別は心優しく、浅津間若子宿禰は気が強い。」
石之日売は静かに頷きました。
「この子らが、いつか国を支える柱となりましょう。
そのためにも、宮中の秩序を乱すものは許せません。」
その言葉には、皇后としての誇りと、母としての強い愛情が込められていました。
天皇はふと、皇后の横顔を見つめられました。
夕陽に照らされたその表情は、厳しさの奥に深い情の影を宿していました。
「そなたの支えがあれば、我も安心して国を治められる。」
皇后はわずかに微笑みました。
それは、普段の厳しさからは想像できぬほど柔らかな微笑みでした。
皇后の胸に宿る影
しかし、皇后の心には、まだ誰にも語らぬ影がありました。
天皇が民を思い、国を思う姿を尊敬しながらも、
「天皇の心が自分から離れてしまうのではないか」
という不安が、時折胸をよぎるのです。
ある夜、皇后はひとり灯火の前に座り、そっと呟きました。
「私は……天皇様のおそばにあり続けられるのでしょうか。」
その声は、誰にも届かぬほど小さく、かすかに震えていました。
この不安こそが、後に髪長比売との出会いをきっかけに、
皇后の嫉妬という大きな波となって宮中を揺るがすことになるのです。

難波の高津宮に春の陽が差し込むころ、宮中にはひそやかに一つの噂が流れ始めていました。
「日向に、たいへん美しい姫がいるらしい」
その名は、髪長比売(かみながひめ)。
黒く長い髪は夜の海のように艶やかで、歩けばその髪が光を帯びて揺れ、見る者の心を奪うと語られていました。
天皇の胸に芽生える興味
ある夕暮れ、天皇は高殿から西の空を眺めていました。
海風が衣を揺らし、遠くで波が砕ける音が聞こえます。
「日向の諸県君の娘……髪長比売か。
その名のとおり、髪が長く美しい姫だというな。」
側近が控えめに答えました。
「はい。人々は、あの姫の髪は天の糸のようだと申しております。」
天皇はふと微笑みました。
その微笑みには、まだ恋と呼ぶには淡い、しかし確かな興味が宿っていました。
「一度、会ってみたいものだ。」
その言葉は静かでしたが、側近たちはすぐに察しました。
やがて、髪長比売は宮中に召し寄せられることになります。
髪長比売、宮中へ
髪長比売が宮中に到着した日、春の風は柔らかく、庭の桜がほころび始めていました。
姫は白い衣をまとい、長い黒髪を背に流して歩きます。
その姿は、まるで春の光の中に浮かぶ影のように静かで、しかし目を離せない美しさを放っていました。
天皇は彼女を迎え、穏やかな声で話しかけました。
「遠い日向からよく来てくれた。
そなたの名は聞き及んでいたが……なるほど、評判どおりだ。」
髪長比売は深く頭を下げ、静かに答えました。
「このような場にお招きいただき、恐れ多いことです。
どうか、よろしくお願いいたします。」
その声は澄んでいて、春の水のように柔らかく響きました。
天皇はその声に、胸の奥がふっと温かくなるのを感じました。
皇后の胸に走る影
しかし、この出会いは宮中に波紋を広げます。
皇后・石之日売は、髪長比売が宮中に入ったと聞いたとき、手にしていた扇を静かに閉じました。
「……また、美しい姫をお迎えになったのですね。」
女官たちは息を呑みました。
皇后の声は静かでしたが、その奥には深い不安と怒りが潜んでいました。
石之日売は、天皇が民を思い、国を思う姿を尊敬していました。
しかし、夫としての天皇を誰よりも愛していたからこそ、
「心が自分から離れてしまうのではないか」
という恐れが胸を締めつけていたのです。
夜、皇后はひとり寝所で灯火を見つめていました。
炎が揺れるたび、胸の奥の不安も揺れます。
「私は……天皇様のそばにいられるのでしょうか。
あの姫の美しさに、心を奪われてしまうのでは……。」
その呟きは、誰にも届かないほど小さな声でした。
天皇と髪長比売の距離
一方、天皇と髪長比売の距離は少しずつ縮まっていきました。
ある日、庭の池のほとりで、天皇は髪長比売に声をかけました。
「そなたは、日向ではどのように過ごしていたのだ?」
髪長比売は池に映る空を見つめながら答えました。
「山の風を感じ、海の音を聞きながら育ちました。
日向の空は広く、夜は星がよく見えます。」
「星か……。そなたの髪は、夜空のようだな。」
髪長比売は驚いたように天皇を見つめ、そして小さく微笑みました。
その微笑みは、天皇の胸に静かな波紋を広げました。
二柱の御子の誕生
やがて、髪長比売との間に二柱の御子が生まれます。
波多毘能大郎子(大日下王)
長目比売(若日下部命)
天皇は喜び、髪長比売もまた深い愛情をもって御子を抱きました。
しかし、この幸せは同時に、皇后の胸にさらなる影を落とすことになります。

高津宮に朝日が差し込むころ、仁徳天皇は静かに衣を整え、ひとり山へ向かって歩いていました。
春の風はまだ冷たく、草の上には露が光っています。
天皇の足取りはゆっくりとしていましたが、その眼差しは国の隅々まで見渡そうとする強い意志を宿していました。
炊煙のない国
山の頂に立ったとき、天皇は四方の国土をじっと見つめました。
しかし、どの村にも炊煙が立っていません。
朝であれば、どこかしらの家から白い煙が上がるはずです。
天皇は眉を寄せ、側に控える武内宿禰に問いかけました。
「……宿禰よ。あれほど広い国土に、煙がひとつも見えぬ。
これはどういうことだと思う。」
武内宿禰は深く頭を下げ、静かに答えました。
「民が貧しく、炊く米も尽きているのかもしれません。」
天皇はしばらく沈黙し、遠くの村々を見つめ続けました。
胸の奥に、重い痛みが広がっていきます。
「民が食を炊けぬほど困窮しているのに、
我が宮殿だけが豊かであってよいはずがない。」
その声は、風に溶けるように静かでしたが、深い決意が込められていました。
三年間の免除
宮中に戻った天皇は、すぐに詔を出しました。
「これより三年、民の調と夫役をすべて免除する。
民がまず食を得て、暮らしを立て直すことが先だ。」
側近たちは驚き、戸惑いの声を上げました。
「しかし、宮殿の修繕も滞り、国の財も尽きてしまいます。」
天皇は静かに首を振りました。
「民が苦しむときに、宮殿だけが整っていても意味はない。
我は器で雨を受けながら暮らしてもよい。
民が豊かになることこそ、国の礎だ。」
その言葉に、側近たちは胸を打たれ、深く頭を下げました。
雨漏りの宮殿
三年の間、宮殿は修理されず、雨が降れば天井から水が落ちました。
天皇はその水を器で受けながら、静かに政を続けました。
ある夜、武内宿禰が心配そうに声をかけました。
「天皇様、このままではお体を冷やしてしまいます。
せめて屋根だけでも……」
天皇は微笑みました。
「民が暖かい食を得られぬのに、
我だけが雨を避けるわけにはいかぬ。
この冷たさは、民の苦しみを忘れぬためのものだ。」
その言葉に、宿禰は胸が熱くなり、何も言えなくなりました。
再び山へ
三年が過ぎた春、天皇は再び山へ登りました。
同じ場所に立ち、四方の国土を見渡します。
今度は、どの村にも白い炊煙が立ちのぼっていました。
風に揺れるその煙は、まるで国中が息を吹き返したかのようでした。
天皇は静かに目を閉じ、深く息を吸いました。
「……よかった。
民が食を得て、暮らしを取り戻したのだ。」
武内宿禰は天皇の横顔を見つめ、深く頭を下げました。
「天皇様の御心が、国を救ったのです。」
天皇は首を振りました。
「民が努力したのだ。
我はただ、その背を押しただけにすぎぬ。」
その言葉には、誇りではなく、深い謙虚さがありました。
聖帝と呼ばれる理由
こうして調と夫役は再開されましたが、民は天皇の慈しみを忘れませんでした。
「仁徳天皇は、民の父のようなお方だ」
「天皇の御代は、まことに聖なる時代だ」
人々はそう語り合い、やがて天皇は「聖帝」と呼ばれるようになりました。
天皇はその呼び名を聞いても、ただ静かに微笑むだけでした。
「民が笑って暮らせるなら、それでよい。」
その言葉こそが、仁徳天皇の御代を象徴するものでした。

高津宮に春の陽が満ちるころ、宮中にはまた新たな噂が流れ始めていました。
「吉備に、美しい娘がいるらしい」
その名は黒日売(くろひめ)。
海部直の家に生まれ、海の光を映したような瞳と、しなやかな気品を持つ娘だと語られていました。
天皇の耳にも、その名は自然と届いていきます。
黒日売の噂を聞く天皇
ある夕暮れ、天皇は高殿から海を眺めていました。
潮風が衣を揺らし、遠くの波が夕陽を反射してきらめいています。
「吉備の黒日売……か。
その美しさは、髪長比売にも劣らぬという話だ。」
側近が控えめに答えました。
「はい。天皇様の御心にかなう方かもしれません。」
天皇は静かに目を細めました。
その表情には、好奇心と、ほんの少しの期待が混じっていました。
「一度、会ってみたいものだ。」
その言葉は、宮中に新たな波紋を広げることになります。
皇后の胸に走る激しい痛み
黒日売が宮中に召し寄せられると聞いたとき、皇后・石之日売は扇を握りしめました。
その指先は白くなるほど強く力が入っています。
「……また、あのような噂に心を動かされたのですね。」
女官たちは息を呑み、誰も言葉を発しませんでした。
皇后の声は静かでしたが、その奥には深い怒りと悲しみが渦巻いていました。
皇后は天皇を深く愛していました。
しかし、その愛が強いほど、天皇の心が他の女性へ向かうことが耐えられなかったのです。
「私は……天皇様の正室。
それなのに、どうして……。」
その呟きは、誰にも届かないほど弱々しいものでした。
黒日売、宮中へ
黒日売が宮中に到着した日、空は澄み渡り、春の風が柔らかく吹いていました。
黒日売は控えめに頭を下げ、天皇の前に進み出ました。
「遠い吉備からよく来てくれた。
そなたの名は聞き及んでいた。」
黒日売は静かに答えました。
「このような場にお招きいただき、恐れ多いことです。
どうか、よろしくお願いいたします。」
その声は柔らかく、天皇の胸に静かに染み込んでいきました。
しかし黒日売の心には、別の影がありました。
皇后の嫉妬深さは吉備にまで伝わっており、宮中に入ることへの恐れがあったのです。
黒日売、吉備へ逃げ帰る
黒日売は宮中での暮らしに耐えられず、ついに吉備へ逃げ帰りました。
その知らせを聞いた天皇は、高殿に立ち、遠ざかる船を見つめながら歌を詠みました。
沖のほうには小舟が連なっている。
愛しい我が妻が、故郷へ下って行くことよ。(五三)
その歌は宮中に響き渡り、皇后の耳にも届きました。
皇后は怒りに震え、扇を床に叩きつけました。
「黒日売を……追い返しなさい!
船から下ろして、陸路を歩かせて戻らせるのです!」
その命はすぐに実行され、黒日売は涙をこらえながら陸路を歩いて吉備へ戻ることになりました。
天皇、黒日売を追う
黒日売を恋しく思った天皇は、皇后を欺いて淡路島へ向かうふりをし、島伝いに吉備へ向かいました。
吉備の山畑で、黒日売は天皇を迎えました。
彼女は青菜を摘み、吸物を作って差し出しました。
天皇はその姿を見つめ、静かに歌を詠みました。
山畑の青菜も、黒日売と摘めば楽しいことだ。(五五)
黒日売はその歌を聞き、胸が熱くなりました。
しかし、別れの時はすぐに訪れます。
黒日売は涙をこらえながら歌いました。
大和へ向かう風が吹き、雲が離れるように、
私は離れていても、あなたを忘れません。(五六)
天皇はその言葉を胸に刻み、吉備を後にしました。

紀伊の山々に春の光が差し込むころ、皇后・石之日売は御綱柏を採るために紀伊国へ向かっていました。
海風が吹き寄せる岬に立ち、皇后は柏の若葉を手に取りながら、ふと胸の奥に沈む不安を押し殺していました。
「……天皇様は、宮中でお変わりなく過ごしておられるでしょうか。」
女官たちは皇后の横顔を見つめ、言葉を選びながら答えました。
「天皇様は、いつも皇后様のことを案じておられます。」
しかし、その言葉は皇后の胸に届きませんでした。
黒日売の件で深く傷ついた心は、まだ癒えていなかったのです。
倉人女の告げ口
そのころ、高津宮ではひそやかな出来事が起きていました。
天皇は、異母妹である八田若郎女(やたのわきいらつめ)と結ばれたのです。
八田若郎女は控えめで、柔らかな物腰の女性でした。
天皇が彼女に向ける眼差しは、どこか安らぎを帯びていました。
「八田よ。そなたと話していると、心が静まる。」
八田若郎女は頬を染め、静かに頭を下げました。
「天皇様のお言葉をいただけるだけで、私は十分です。」
そのやり取りを、倉人女が偶然耳にしてしまいます。
そして、皇后のもとへ駆けつけました。
「皇后様……たいへんでございます。
天皇様は、八田若郎女様と……」
皇后の手から御綱柏が落ちました。
風に吹かれ、柏の葉が海へと舞い落ちていきます。
「……なんということ……。」
皇后の胸に、黒日売のときと同じ痛みが走りました。
いや、それ以上の痛みでした。
八田若郎女は、皇后にとって身近な存在だったからです。
皇后、宮中に戻らず
皇后は怒りと悲しみに震えながら、海を見つめました。
「もう……宮中には戻りません。」
女官たちは驚き、必死に止めようとしました。
「皇后様、どうかお心をお鎮めくださいませ。
天皇様もきっと……」
「いいえ。私は山代へ向かいます。
あの方の顔を、今は見たくありません。」
皇后は御綱柏を海に投げ捨て、馬に乗って山代へ向かいました。
その背中は、強く、しかしどこか悲しげでした。
天皇の追走
皇后が宮中に戻らないと知った天皇は、すぐに使者を送りました。
しかし、皇后は使者を避け続けました。
天皇は胸を痛め、鳥山に向かって歌を詠みました。
山代で皇后に追いついてくれ、鳥山よ。
私の愛しい妻に追いついて会っておくれ。(六〇)
その声には、深い後悔と愛情が滲んでいました。
「石之日売……どうか、戻ってきてくれ。」
しかし、皇后の心は固く閉ざされたままでした。
皇后の心の葛藤
山代の宿で、皇后はひとり灯火を見つめていました。
炎が揺れるたび、胸の奥の怒りと悲しみが揺れます。
「私は……天皇様の正室。
それなのに、どうして……。」
涙が頬を伝い、衣の袖を濡らしました。
「天皇様は、私を……もう必要としていないのでしょうか。」
その問いは、誰にも答えられないものでした。

山代の道は、春の雨を含んだ土の匂いが漂っていました。
皇后・石之日売は、怒りと悲しみを胸に抱えたまま、奴理能美(ぬりのみ)の家へと身を寄せていました。
その家は山の麓にあり、木々に囲まれた静かな場所でした。
奴理能美は、三色に変化する不思議な虫を飼っていることで知られていました。
皇后は、その虫を見に来たのだと取り繕うことで、自らの逃避を隠そうとしていたのです。
奴理能美の家での皇后
奴理能美の家に着いた皇后は、静かな部屋に通されました。
灯火が揺れ、木の壁に淡い影を落としています。
奴理能美は深く頭を下げました。
「皇后様、どうぞお疲れをお癒やしください。
この虫は、朝は白く、昼は赤く、夜は黒く変わります。」
皇后は虫を見つめながら、かすかに微笑みました。
「……不思議なものですね。
まるで、人の心のようです。」
奴理能美はその言葉の意味を悟り、静かに頷きました。
「心は、光によっても影によっても変わります。
皇后様のお心も、きっと晴れる日が来ます。」
皇后は目を伏せ、胸の奥に沈む痛みを押し殺しました。
天皇、皇后の行方を追う
そのころ、天皇は皇后が山代にいると知り、すぐに向かいました。
道は険しく、雨上がりの土はぬかるんでいましたが、天皇は歩みを止めませんでした。
「石之日売……どうか、話をさせてほしい。」
胸の奥には、後悔と愛情が入り混じっていました。
八田若郎女との出来事が、皇后を深く傷つけたことを、天皇は痛いほど理解していたのです。
再会の刻
奴理能美の家に着いた天皇は、静かに戸を叩きました。
奴理能美が出迎え、深く頭を下げました。
「天皇様……皇后様は、こちらにおられます。」
天皇は頷き、部屋へと進みました。
灯火の前に座る皇后の姿が見えました。
その背中は、どこか小さく、寂しげでした。
「石之日売……。」
皇后は振り返り、驚いたように目を見開きました。
しかしすぐに視線をそらし、冷たい声で言いました。
「何の御用でしょうか。
私はただ、この虫を見に来ただけです。」
その言葉には、怒りと悲しみを隠すための強がりが滲んでいました。
天皇の歌
天皇は皇后の前に進み、静かに歌を詠みました。
山代の女が耕した大根のように白い腕、
その腕を枕にしなかったなら、
私を知らぬと言ってもよいだろう。(六二)
その歌には、皇后への深い愛情と、
「そなたを忘れたことなど一度もない」という想いが込められていました。
皇后はその歌を聞き、胸の奥が熱くなりました。
涙がこぼれそうになるのを必死にこらえながら、震える声で言いました。
「……天皇様は、私を……まだ想ってくださっていたのですか。」
天皇はそっと皇后の手を取ろうとしました。
「石之日売。
そなたは、私の正室だ。
そなたを失いたくはない。」
皇后の目から、静かに涙がこぼれました。
「……私も……天皇様をお慕いしております。」
その瞬間、二人の間に張りつめていた氷が溶けていきました。
灯火が揺れ、二人の影が寄り添うように重なりました。
和解の夜
その夜、皇后と天皇は長く語り合いました。
互いの誤解、痛み、そして愛情を確かめ合いながら、
ようやく心を通わせることができたのです。
奴理能美は静かにその様子を見守り、
「心は光によって変わる」という言葉の意味を、改めて噛みしめていました。

高津宮に夏の風が吹き抜けるころ、宮中にはひそやかな緊張が漂っていました。
仁徳天皇の胸には、ある想いが芽生えていたのです。
その想いの相手は、異母妹の女鳥王(めとりのおおきみ)。
清らかな心を持ち、歌に優れ、宮中でも評判の女性でした。
天皇の願いと速総別王
ある夕暮れ、天皇は弟の速総別王(はやぶさわけのみこ)を呼び寄せました。
高殿の窓からは、赤く染まる空が見えています。
「速総別よ。
そなたに頼みたいことがある。」
速総別王は静かに膝をつきました。
「兄上のお言葉なら、どのようなことでも。」
天皇は少し迷い、そして口を開きました。
「女鳥王を、私のもとへ迎えたい。
そなたから、私の想いを伝えてほしい。」
速総別王は驚き、目を伏せました。
胸の奥に、痛みのようなものが走ったのです。
(女鳥王……。
私は、あの方を……)
しかし、天皇の願いを拒むことはできませんでした。
「承知いたしました。
私が、女鳥王様にお伝えいたします。」
女鳥王の選んだ道
速総別王は女鳥王のもとを訪れました。
庭には夏草が揺れ、風が白い衣をそよがせています。
女鳥王は速総別王を見ると、柔らかく微笑みました。
「速総別様。
今日は、どのようなご用でしょうか。」
速総別王は胸の鼓動を抑えながら、天皇の想いを伝えました。
しかし、女鳥王は静かに首を振りました。
「私は……天皇様の妃にはなれません。」
「なぜですか。
天皇様は、そなたを深く想っておられる。」
女鳥王は速総別王をまっすぐ見つめました。
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていました。
「私は……あなたを選びました。」
速総別王は息を呑みました。
胸の奥に秘めていた想いが、言葉にならないまま溢れそうになります。
「女鳥王……。
私も……あなたを想っていました。」
二人はそっと手を取り合いました。
その瞬間、二人の運命は静かに結ばれたのです。
天皇の怒り
しかし、天皇の耳に届いたのは、
「女鳥王は速総別王と結ばれた」
という知らせでした。
天皇は深く息を吸い、拳を握りしめました。
「速総別……。
私の願いを裏切ったのか。」
胸の奥に、嫉妬と怒りが渦巻きました。
しかし、その奥には、
「愛する者を奪われた」という痛みが潜んでいました。
天皇は軍勢を差し向ける決断を下しました。
倉椅山への逃避
速総別王と女鳥王は、天皇の怒りを知り、倉椅山へ逃れました。
山道には霧が立ちこめ、木々がざわめいています。
女鳥王は不安げに速総別王の袖を握りました。
「速総別様……。
私たちは、どうなるのでしょう。」
速総別王は彼女の手を握り返し、静かに言いました。
「恐れることはありません。
私は、あなたを守ります。」
しかし、二人は知っていました。
天皇の怒りは深く、逃げ切ることは難しいということを。
女鳥王の歌
山の中腹で、女鳥王は立ち止まりました。
風が白い衣を揺らし、木々の間から光が差し込んでいます。
女鳥王は速総別王に向かって歌いました。
隼の名を持つ速総別よ、
あの大雀を討ち殺してしまいなさい。(六九)
その歌には、
「あなたを奪おうとする者に屈してはならない」
という強い想いが込められていました。
速総別王はその歌を聞き、胸が締めつけられました。
「女鳥王……。
私は、兄上を討つことはできません。
しかし、あなたを守るためなら、命を懸けます。」
二人は抱き合い、静かに目を閉じました。
悲劇の結末
やがて、天皇の軍勢が倉椅山に到着しました。
山の霧が晴れ、兵たちの影が迫ってきます。
速総別王は女鳥王の前に立ち、最後まで彼女を守ろうとしました。
女鳥王もまた、速総別王の手を離しませんでした。
二人は逃げず、互いの手を握ったまま、
静かに運命を受け入れました。
その姿は、愛と誇りを貫いた者の姿でした。
天皇の胸に残ったもの
悲劇の知らせが天皇に届いたとき、
天皇はしばらく言葉を失いました。
「速総別……。
女鳥王……。」
怒りは消え、胸に残ったのは深い後悔と哀しみでした。
天皇は静かに目を閉じ、二人の魂が安らかであることを祈りました。

日女島(ひめじま)の海辺には、春の光がやわらかく降りそそいでいました。
波は穏やかに寄せては返し、白い砂浜には海鳥の足跡が点々と続いています。
その静かな浜辺で、ひとつの不思議な出来事が起こりました。
それは、雁が卵を生んだという知らせでした。
不思議な知らせ
日女島の漁師たちは驚き、すぐに高津宮へ使者を送りました。
雁は渡り鳥であり、巣を作って卵を生むことは滅多にありません。
それが大和の地で起こったというのです。
使者は天皇の前にひざまずき、息を整えながら報告しました。
「天皇様……日女島で、雁が卵を生みました。」
天皇は目を細め、静かに問い返しました。
「雁が……卵を?
そのようなことが、この国で起こるとは。」
側近たちもざわめきました。
天皇はすぐに、長年仕えてきた武内宿禰(たけのうちのすくね)を呼び寄せました。
天皇の問い
武内宿禰が進み出ると、天皇はゆっくりと口を開きました。
「宿禰よ。
大和で雁が卵を生むことを、そなたは聞いたことがあるか。」
その声には、ただの好奇心ではなく、
「これは何かの兆しではないか」という深い思いが込められていました。
武内宿禰は静かに頭を下げ、答えました。
「いいえ、聞いたことはありません。
しかし……これは吉兆と考えるべきでしょう。」
天皇は宿禰の言葉を待つように、黙って耳を傾けました。
武内宿禰の解釈
武内宿禰は、海風に揺れる松の音を聞きながら、ゆっくりと言葉を続けました。
「雁は、季節とともに空を渡る鳥です。
その雁がこの国で卵を生むというのは、
“留まる”という意味を持つのではないでしょうか。」
天皇は眉を上げました。
「留まる……?」
「はい。
これは、日の御子である天皇様が、
長く国を治められるという瑞祥だと考えられます。」
天皇はしばらく沈黙し、遠くの海を見つめました。
波が光を反射し、きらきらと揺れています。
「……そうか。
この国に、長く安らぎが続くという兆しか。」
武内宿禰は深く頷きました。
「民にとっても、心強い知らせとなりましょう。」
天皇の胸に宿る思い
天皇は静かに目を閉じ、胸の奥に湧き上がる思いを感じていました。
(この国を、もっと豊かにしたい。
民が笑って暮らせる世を、長く続けたい。)
雁の卵は、ただの自然の出来事ではなく、
天皇の心に新たな決意を灯す出来事となったのです。
日女島の風景
後日、天皇は日女島を訪れました。
海辺には、雁が残した巣が静かに佇んでいました。
卵はすでに孵り、雛は空へと旅立った後でしたが、
その場所には、どこか神聖な気配が漂っていました。
天皇はそっと手を合わせ、海に向かって祈りました。
「この国が、長く平和でありますように。」
海風が天皇の衣を揺らし、遠くで雁の声が響きました。
それはまるで、天皇の祈りに応えるかのようでした。

兔寸河(うさぎがわ)の西には、古くから「天の木」と呼ばれる一本の大木が立っていました。
朝日が射せばその影は淡路島に届き、夕日が射せば高安山を越えるほどの巨木です。
人々はその木を見上げるたびに、畏れと敬意を抱いていました。
仁徳天皇もまた、この木を特別な存在として見つめていました。
巨木との出会い
ある日、天皇は武内宿禰を伴い、兔寸河のほとりを歩いていました。
川面には光が揺れ、風が草をそよがせています。
天皇はふと足を止め、巨木を見上げました。
「宿禰よ……この木は、まるで天に届くかのようだな。」
武内宿禰は頷きました。
「はい。人々は、この木には神が宿ると申しております。」
天皇はしばらく木を見つめ、静かに言いました。
「この木で、船を作りたい。
民のために使う船を。」
宿禰は驚きながらも、天皇の意図を悟りました。
「天皇様のお心にかなう船となるでしょう。」
枯野の船、誕生
巨木は慎重に伐り倒され、職人たちの手によって船へと姿を変えていきました。
木の香りが漂い、削られた木肌は光を帯びていました。
完成した船は「枯野(かれの)」と名づけられました。
その名には、
「どんなに枯れた野にも、再び命が芽吹くように」
という願いが込められていました。
天皇は枯野を見つめ、静かに微笑みました。
「この船で、民の飲み水を運ぼう。
遠い村々にも、清らかな水を届けたい。」
枯野はすぐに働き始め、川を渡り、海を越え、各地へ水を運びました。
その姿は、まるで国を潤す白い鳥のようでした。
船の破損と新たな役目
しかし、長い年月のうちに、枯野は次第に傷み始めました。
ある日、船底が大きく割れ、ついに使えなくなってしまいました。
職人たちは天皇の前にひざまずきました。
「天皇様……枯野は、もう船としては使えません。」
天皇は静かに頷きました。
「ならば、この木を無駄にしてはならぬ。
別の形で、民の役に立てよう。」
枯野の材は集められ、まず塩を焼くための薪として使われました。
炎が木を包み、白い煙が空へ昇っていきます。
その煙は、まるで枯野が再び空へ帰っていくかのようでした。
枯野の琴
さらに残った材は、琴を作るために使われました。
職人たちは木の声を聴きながら、慎重に形を整えていきました。
完成した琴は、驚くほど澄んだ音色を響かせました。
天皇がその琴を奏でると、音は七つの村にまで届いたといいます。
その音色は、風に乗って山を越え、川を渡り、
人々の心に静かな喜びをもたらしました。
村の老人は空を見上げながら言いました。
「枯野の船が……今は琴となって、また私たちを励ましてくれている。」
子どもたちは耳を澄ませ、遠くから聞こえる音に胸を躍らせました。
天皇の思い
天皇は琴の音を聴きながら、静かに目を閉じました。
「枯野よ……そなたは船として国を潤し、
今は音として人々の心を満たしてくれるのだな。」
その声には、深い感謝と慈しみが込められていました。
枯野は形を変えながらも、
ずっと国と民を支え続けていたのです。

高津宮の空には、秋の気配が静かに満ちていました。
風は柔らかく、木々の葉は色づき始め、宮中にはどこか寂しさを含んだ空気が漂っていました。
仁徳天皇は長い御代を経て、ついに病を得て床に伏すようになっていました。
静かな病床
天皇の寝所には、灯火が静かに揺れていました。
その光は弱まりつつある天皇の顔を照らし、深い皺の間に刻まれた優しさを浮かび上がらせていました。
武内宿禰がそっと近づき、膝をつきました。
「天皇様……お加減はいかがでしょう。」
天皇はゆっくりと目を開け、宿禰を見つめました。
「宿禰よ……長い間、よく仕えてくれたな。」
その声は弱々しかったものの、確かな温かさを帯びていました。
宿禰は目を伏せ、震える声で答えました。
「私は……ただ、天皇様のおそばにいただけでございます。」
天皇は微笑み、静かに首を振りました。
「そなたがいたからこそ、私はこの国を治めることができた。
民のために働くことができたのだ。」
皇后との別れ
皇后・石之日売は、天皇の枕元に座り、そっと天皇の手を握っていました。
その手はかつて強く温かかったのに、今は細く、力が抜けていました。
「天皇様……どうか、まだ私のそばにいてくださいませ。」
皇后の声は震え、涙が頬を伝いました。
天皇はその涙を見て、静かに微笑みました。
「石之日売……そなたには、苦労ばかりかけたな。
それでも、ずっと私を支えてくれた。」
皇后は首を振り、涙を拭いました。
「私は……天皇様をお慕いしておりました。
それだけで、十分でございます。」
天皇はそっと皇后の手を握り返しました。
「そなたの愛は、私の力であった。」
その言葉に、皇后は声を上げずに泣き続けました。
御子たちの集い
天皇の御子たちも、静かに寝所へ集まりました。
大江之伊耶本和気、墨江之中津、蝮之水歯別、男浅津間若子宿禰、
そして髪長比売の子である大日下王と若日下部命。
天皇は一人ひとりの顔を見つめました。
「そなたたちは……皆、私の誇りだ。
互いに争わず、国を支え合ってほしい。」
御子たちは深く頭を下げ、涙をこらえながら誓いました。
「父上のお心を忘れず、国を守ってまいります。」
天皇は満足げに目を閉じました。
最後の言葉
夜が更け、虫の声が静かに響くころ、天皇は再び目を開きました。
その瞳は澄んでおり、まるで遠くの未来を見つめているようでした。
「……民の笑う声が、聞こえるようだ。」
皇后がそっと問いかけました。
「天皇様……何が見えるのですか。」
天皇は微笑みました。
「豊かな国だ。
民が笑い、子どもたちが走り回り、
誰もが安心して暮らせる国だ。」
その声は、風に溶けるように静かでした。
「それが……私の願いだった。」
そして天皇は、静かに息を引き取りました。
その表情は穏やかで、まるで眠っているかのようでした。
毛受の耳原へ
仁徳天皇の御陵は、毛受(もず)の耳原に築かれました。
その地は広く、緑が豊かで、鳥の声が絶えません。
民は天皇の死を深く悲しみ、
「聖帝は、ついに天へ帰られた」と語り合いました。
皇后は御陵の前に立ち、そっと手を合わせました。
「天皇様……どうか安らかにお眠りください。
あなたが愛したこの国は、必ず守ってまいります。」
風が吹き、木々がざわめきました。
それはまるで、天皇が微笑みながら応えているかのようでした。
皇后と御子
大雀命おおさざきのみこと、後の仁徳天皇は、難波の高津宮たかつのみやにおいて天下を治められました。
高津宮は、河内の平野を見晴らす高台に築かれ、海風が吹き寄せる開けた土地で、天皇はここから国の繁栄を見渡しておられたと伝えられます。
天皇が最初に皇后として迎えられたのは、葛城の曽都毘古そつびこの娘、石之日売いわのひめ命でございました。
石之日売は、葛城の名家にふさわしい気品と強い意志を持つ女性で、天皇の正室として宮中を厳しく取り仕切っておられました。
この皇后との間にお生まれになった御子は四柱でございます。
大江之伊耶本和気命(おおえのいざほわけ)
墨江之中津王(すみのえのなかつ)
蝮之水歯別命(たじひのみつはわけ)
男浅津間若子宿禰命(おあさつまわくごのすくね)
いずれも後に名を残す皇子たちであり、天皇の御代の後継者として重要な役割を担うことになります。
髪長比売との出会い
仁徳天皇の御代を語るとき、必ず登場するのが 髪長比売かみながひめ でございます。
日向の諸県君もろあがたのきみ・牛諸うしもろの娘で、その名のとおり黒く長い髪を持つ、たいへん美しい姫でございました。
天皇はその美しさを聞き及び、宮中に召し寄せられました。
しかし、このことが後に皇后・石之日売の激しい嫉妬を招くことになります。
髪長比売との間にお生まれになった御子は二柱。
波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)=大日下王(おおくさか)
長目比売(ながめひめ)=若日下部命(わかくさかべ)
また、天皇は異母妹である八田若郎女やたのわきいらつめ、宇遅能若郎女うじのわきいらつめとも結婚されましたが、この二柱との間には御子はございませんでした。
こうして仁徳天皇の御子は、合わせて六柱。
皇子五柱、皇女一柱でございます。
聖帝の御世
仁徳天皇の御代は、後世「聖帝の世」と讃えられます。
その理由は、天皇が国民の生活を深く思いやられたからでございます。
ある日、天皇は高い山に登り、四方の国土を見渡されました。
すると、どの村里にも炊煙すいえんが立っていないことにお気づきになりました。
「国中に炊煙が立たぬ。
これは、民が貧しく、食を炊く余裕もないということだ。
これより三年、民の調と夫役をすべて免除せよ。」
こうして三年間、民は税も労役も免除されました。
その間、宮殿は修理されず、雨漏りがしても天皇は器で受けながら暮らされました。
三年後、再び山に登って国を見渡すと、今度はどの村にも炊煙が立ちのぼっていました。
民が豊かになったことを知り、天皇はようやく調と夫役を再開されたのでございます。
この慈しみ深い政治が、仁徳天皇を「聖帝」と呼ばしめたのでした。
皇后の嫉妬と黒日売
しかし、宮中では別の物語が進んでおりました。
皇后・石之日売は、たいへん嫉妬深い方で、天皇が他の妃に心を寄せることを許しませんでした。
そんな折、吉備の海部直の娘 黒日売くろひめ が、その美しさを聞きつけた天皇に召し寄せられました。
黒日売は皇后の嫉妬を恐れ、故郷の吉備へ逃げ帰ります。
天皇は高殿から黒日売の船を見送り、歌を詠まれました。
沖のほうには小舟が連なっている。
愛しい我が妻が、故郷へ下って行くことよ。(五三)
この歌を聞いた皇后は激怒し、黒日売を船から追い下し、陸路を歩かせて追い返しました。
天皇は黒日売を恋しく思い、皇后を欺いて淡路島へ向かうふりをし、島伝いに吉備へ向かわれました。
黒日売は天皇を山畑に案内し、青菜を摘んでお吸物を作りました。
天皇はその姿を見て歌われました。
山畑の青菜も、黒日売と摘めば楽しいことだ。(五五)
別れのとき、黒日売は涙ながらに歌いました。
大和へ向かう風が吹き、雲が離れるように、
私は離れていても、あなたを忘れません。(五六)
皇后の怒りと八田若郎女
皇后が紀伊国へ御綱柏を採りに出かけている間、天皇は八田若郎女と結婚されました。
このことが倉人女の口から皇后に伝わり、皇后は激怒して御綱柏を海に投げ捨て、宮中に戻らず山代へ向かってしまいます。
天皇は皇后を追って歌を贈られました。
山代で皇后に追いついてくれ、鳥山よ。
私の愛しい妻に追いついて会っておくれ。(六〇)
皇后は怒りを抑えられず、天皇の使者を避け続けました。
奴理能美の家での和解
皇后は奴理能美ぬりのみの家に身を寄せました。
奴理能美は三色に変化する不思議な虫を飼っており、皇后はそれを見に来たのだと取り繕って天皇に伝えました。
天皇は皇后のもとに赴き、歌を詠まれました。
山代の女が耕した大根のように白い腕、
その腕を枕にしなかったなら、
私を知らぬと言ってもよいだろう。(六二)
こうして天皇と皇后は、ようやく心を通わせたのでございます。
速総別王と女鳥王の悲劇
仁徳天皇の御代には、もう一つの悲劇がございます。
天皇は弟の速総別王を仲立ちとして、異母妹の女鳥王を求めました。
しかし女鳥王は速総別王と結ばれ、天皇の求婚を拒みました。
女鳥王は夫に歌います。
隼の名を持つ速総別よ、
あの大雀を討ち殺してしまいなさい。(六九)
この歌を聞いた天皇は激怒し、軍勢を差し向けました。
速総別王と女鳥王は倉椅山へ逃げますが、ついに討たれてしまいました。
雁の卵の瑞祥
あるとき、日女島で雁が卵を生みました。
天皇は武内宿禰に歌で尋ねられます。
大和で雁が卵を生むことを聞いたことがあるか。(七二)
武内宿禰は答えます。
これは、日の御子が長く国を治められる瑞祥でございましょう。(七四)
枯野の船
兔寸河の西に生えた一本の大木。
朝日が射せば影は淡路島に届き、夕日が射せば高安山を越えるほどでした。
この木で造られた船は「枯野」と名づけられ、天皇の飲料水を運ぶために使われました。
船が破損すると、その材で塩を焼き、さらに琴を作ると、七つの村に響き渡る音色を奏でました。
仁徳天皇の崩御
仁徳天皇は八十三歳で崩御されました。
御陵は毛受もずの耳原にございます。
菟道稚郎子の謙譲と死
大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)は応神天皇の第四子でいらっしゃいます。母は五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)の孫である仲姫命(なかつひめ)です。天皇は幼いころから聡明で、物事の道理に通じておられました。容貌も美しく、壮年に至ると心広く慈悲深いお方であられました。
四十一年春二月、応神天皇が崩御されました。太子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、皇位を大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に譲ろうとなさり、なお即位されませんでした。そして大鷦鷯尊に向かって次のように申されました。
「天下に君として万民を治める者は、民を覆うことは天のように、受け入れることは地のようでなければなりません。上に民を喜ばせる心があって国民を使えば、国民は欣然として天下は安らかになります。私は弟であり、また過去の例にも兄を越えて位を継いだ例はありません。どうして兄を差し置いて天業を統べることができましょうか。大王はご容姿も立派で、仁孝の徳も備え、年も上でいらっしゃいます。天下の君となられるに十分なお方です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからではなく、ただ愛されたからにすぎません。宗廟社稷(そうびょうしゃしょく)に仕えることは重大な務めです。私は不肖でとても及びません。兄は上に、弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは古今の通則です。どうか王は疑われず、帝位につかれてください。私は臣下としてお助けするばかりです」
これに対し、大鷦鷯尊は次のようにお答えになりました。
「先帝も『皇位は一日たりとも空しくしてはならぬ』とおっしゃった。それゆえ前もって明徳の人を選び、王を皇太子として立てられた。天皇の嗣として幸いあらしめ、万民をこれに授けられた。寵愛のしるしを尊び、国中にそれが聞こえるようにされた。私は不肖で、どうして先帝の命に背き、たやすく弟王の願いに従うことができましょうか」
こうして互いに固く辞退し合い、譲り合われました。
屯田をめぐる争いと大山守皇子の謀反
このころ、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が倭(やまと)の屯田(みた)・屯倉(みやけ)を支配しようとして、屯田司である出雲臣(いずものおみ)の先祖・淤宇宿禰(おうのすくね)に言いました。
「この屯田は元から山守りの司る地である。だから今は自分が治めるので、お前の務めはない」
淤宇宿禰はこれを太子に申し上げました。太子は、
「大鷦鷯尊に申し上げよ」
とお答えになりました。
淤宇宿禰が大鷦鷯尊に訴えると、天皇は倭直(やまとのあたい)の先祖・麻呂(まろ)に尋ねられました。麻呂は、
「私には分かりません。弟の吾子籠(あごこ)が知っております」
と答えました。しかし吾子籠は韓国(からくに)に遣わされてまだ帰っていませんでした。
そこで大鷦鷯尊は淤宇宿禰に、
「お前が自ら韓国に行き、吾子籠を連れて来なさい。昼夜兼行で行け」
と命じ、淡路の海人八十人を水手として同行させました。
淤宇宿禰は韓国に赴き、吾子籠を連れて帰りました。屯田について尋ねられた吾子籠は次のように答えました。
「伝え聞くところでは、垂仁天皇の御世に、御子の景行天皇に仰せられて倭の屯田を定められたといいます。そのときの勅旨は『倭の屯田は時の天皇のものである。帝の御子といえども、天皇の位にないならば司ることはできない』というものでした。これを山守りの地というのは誤りです」
大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わし、この事実を伝えました。皇子は言うべき言葉がなく、その非を悟られましたが、罰することはありませんでした。
しかし、大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、先帝が自分を太子にしなかったことを恨み、さらにこの屯田の件で怨みを深め、ついに陰謀を企てました。
「太子を殺して帝位を取ろう」
大鷦鷯尊はこの謀反を知り、密かに太子に知らせて兵を備えさせました。
大山守皇子の最期
大山守皇子は備えがあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発しました。明け方、菟道(うじ)に着いて川を渡ろうとしたとき、太子は粗末な麻の服を着て渡し守にまぎれ、大山守皇子を船に乗せて漕ぎ出しました。
川の中ほどに至ると、渡し守に船を転覆させられ、大山守皇子は水に落ちました。流されながら次の歌を詠みました。
チハヤヒト、ウチノワタリニ、サヲトリニ、ハヤケムヒトシ、ワガモコニコム。
(菟道の渡で巧みに船を操る人よ、私を救いに早く来ておくれ)
しかし伏兵が多く、岸に着くことはできず、ついに水死されました。屍を探すと、考羅済(かわらのわたり)に浮かびました。
太子はその屍を見て、次の歌を詠まれました。
チハヤヒ卜、ウチノワタリニ、ワタリデニ、タテル、アヅサユミ、マユミ……
(長歌のため省略せず全文を保持しています)
大山守皇子は奈良山に葬られました。
菟道稚郎子の自死
太子は菟道に宮室を建ててお住まいになりましたが、位を大鷦鷯尊に譲っておられたため、長く即位されませんでした。皇位は空位のまま三年が過ぎました。
あるとき、漁師が鮮魚を菟道宮に献上しました。太子は、
「自分は天皇ではない」
と言って返し、難波に奉らせました。大鷦鷯尊はそれをまた菟道に返されました。
献上品は往復のうちに古くなり腐ってしまいました。漁師は度重なる往来に苦しみ、魚を捨てて泣きました。このことから、
「海人でもないのに、自分のしたことで自分が泣く」
という諺が生まれました。
太子は、
「兄の志を変えられないことを知った。長く生きて天下を煩わせるのは忍びない」
と言い、ついに自ら命を絶たれました。
大鷦鷯尊の慟哭
大鷦鷯尊は太子の死を聞き、驚いて難波宮から急ぎ菟道宮に向かわれました。太子の死後三日目のことでした。
天皇は胸を打ち、泣き叫び、髪を解いて屍にまたがり、
「弟の皇子よ」
と三度呼ばれました。すると太子は俄かに息を吹き返しました。
天皇が、
「悲しいことよ、惜しいことよ。なぜ自ら命を絶たれたのですか。もし先帝が知れば、私をどう思われましょうか」
と問われると、太子は、
「天命なのです。誰も止めることはできません。もし先帝のもとに参ることがあれば、兄王が聖であり、度々辞退されたことを詳しく申し上げましょう。あなたは我が死を聞いて遠路を駆けつけてくださいました。お礼を申し上げねばなりません」
と言い、同母妹の八田皇女(やたのひめみこ)を後宮に奉りたいと願われました。
「お引き取りいただくのも迷惑でしょうが、もし後宮の数に入れていただけるならば」
そう言い終えると、太子は再び棺に伏し、ついに息を引き取られました。
大鷦鷯尊は麻の白服を着て深く悲しみ、慟哭されました。太子の骸は菟道の山の上に葬られました。
即位と高津宮の造営
元年春一月三日、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は即位されました。
応神天皇の皇后を尊んで皇太后と申し上げました。
天皇は難波に宮を造られ、これを高津宮(たかつのみや)と名づけられました。
宮殿は上塗りをせず、垂木や柱に飾りを付けず、屋根の茅も切り揃えませんでした。
これは「自分のためだけに人民の耕作や機織りの時間を奪ってはならない」という天皇のお考えによるものでした。
誕生の瑞兆
天皇が生まれられた日に、ミミズクが産殿に飛び込んできました。
翌朝、応神天皇は武内宿禰(たけのうちのすくね)を呼び、
「これは何のしるしであろうか」
と問われました。宿禰は、
「めでたいしるしでございます。昨日、私の妻が出産した際、ミソサザイが産屋に飛び込んでまいりました。これも不思議なことでございます」
と申し上げました。
そこで応神天皇は、
「我が子と宿禰の子は同じ日に生まれ、共に瑞兆があった。これは天のお示しである。その鳥の名をとって互いに交換し、子に名づけ、後のしるしとしよう」
とおっしゃいました。
こうして「サザキ」の名を太子に与えられ、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)となり、「ツク」の名を大臣の子に与えて木菟宿禰(つくのすくね)と名づけました。
これが平群臣(へぐりのおみ)の祖となります。
この年は太歳癸酉(みずのとり)でした。
皇后と皇子たち
二年春三月八日、磐之姫命(いわのひめのみこと)を皇后とされました。
皇后は以下の皇子をお生みになりました。
大兄去来穂別天皇(おおえのいざほわけのすめらみこと/履中天皇)
住吉中皇子(すみのえのなかつみこ)
瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと/反正天皇)
雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと/允恭天皇)
また、妃・日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)は、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたひのひめみこ)を生みました。
民の竈の煙 ― 仁徳天皇の仁政
四年春二月六日、天皇は群臣に詔しておっしゃいました。
「高殿に登って眺めると、人家の煙がほとんど見えない。これは人民が貧しく、炊ぐこともできないからであろう。昔の聖王の御世には、人民は君の徳を讃え、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。私は政につき三年になるが、褒め讃える声もなく、炊煙もまばらである。これは五穀が実らず、百姓が窮乏しているためである。都ですらこの有様であるなら、遠国はどうであろうか」
三月二十一日、さらに詔して、
「今後三年間、すべての課税をやめ、人民の苦しみを和らげよう」
とおっしゃいました。
この日から、天皇は御衣や履物を破れるまで使い、御食物も腐らなければ捨てず、心を慎ましく保ち、民の負担を減らされました。
宮殿の垣が壊れても修理せず、屋根の茅が崩れても葺かず、雨風が漏れて御衣が濡れ、星影が室内から見えるほどでした。
しかしその後、天候は穏やかとなり五穀豊穣が続き、三年のうちに人民は潤い、徳を讃える声が起こり、炊煙も賑やかになりました。
皇后との対話 ― 「民の富こそ、君の富」
七年夏四月一日、天皇が高殿に登って眺めると、人家の煙が盛んに立ち上っていました。
天皇は皇后に、
「私はこのように富んできた。もう心配はない」
とおっしゃいました。
皇后が、
「宮の垣は崩れ、殿舎は破れ、御衣は濡れる有様で、どうして富んでいると言えるのでしょう」
と問われると、天皇は次のように答えました。
「天が人君を立てるのは人民のためである。人民こそ根本である。古の聖王は、一人でも飢えや寒さに苦しむ者があれば、自らを責めた。人民が貧しいのは、君が貧しいのと同じである。人民が富めば、君も富むのである。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはない」
この言葉こそ、仁徳天皇が「聖帝」と称えられるゆえんです。
課役免除の終わりと宮室の再建
秋八月九日、大兄去来穂別皇子(履中天皇)のために壬生部(みぶべ)を定め、皇后のために葛城部(かずらきべ)を定められました。
九月、諸国の者が奏請して申し上げました。
「課役が免除されて三年になります。そのため宮殿は壊れ、倉は空になりました。今、人民は豊かになり、道に落ちている物も拾いません。家々には蓄えができ、困窮する者もありません。このような時に税を納めず宮室を修理しなければ、天の罰を受けるでしょう」
しかし天皇はまだ許されませんでした。
十年冬十月、ようやく初めて課役を命じ、宮室を造られました。
人民は促されずとも老を助け、幼い者も連れ、材を運び土籠を背負い、昼夜を分けず働きました。
そのため短期間で宮室は整いました。
これにより天皇は「聖帝」と称えられるようになりました。
池堤の構築と河川整備
十一年夏四月十七日、天皇は群臣に詔しておっしゃいました。
「この国を眺めると土地は広いが田は少ない。また河の水は氾濫し、長雨には潮が陸に上り、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣はよく見て、溢れた水を海に通じさせ、逆流を防ぎ、田や家を浸さぬようにせよ」
冬十月、宮の北の野を掘り、南の水を導いて西の海(大阪湾)に入れました。
これを堀江(ほりえ)と名づけました。
また北の河の塵芥を防ぐため、茨田(まんだ)の堤を築きました。
しかし二ヶ所だけどうしても壊れやすく、防ぎにくい場所がありました。
天皇が夢を見ると、神が現れて告げました。
「武蔵の強頸(こわくび)と、河内の茨田連杉子(まんだのむらじころものこ)の二人を河伯に奉れば、堤は必ず完成する」
二人は探し出され、強頸は泣き悲しみながら水に入れられました。
その堤は完成しました。
しかし杉子は瓢(ひさご)二つを水に投げ入れ、
「これを沈められるなら神意と認めて水に入りましょう。沈まぬなら偽りの神であり、無駄に死ぬことはありません」
と言いました。
旋風が起こり瓢を沈めようとしましたが、瓢は沈まず流れ去りました。
杉子は死を免れ、堤は完成しました。
この二ヶ所は「強頸の断間」「衫子の断間」と呼ばれました。
この年、新羅人が朝貢し、この工事に従事しました。
高麗の献物と弓試し
十二年秋七月三日、高麗国が鉄の盾と鉄の的を奉りました。
八月十日、高麗の客を朝廷で饗し、群臣百寮を集めて鉄の的を試しました。
多くの者が射通せませんでしたが、的臣(いくはのおみ)の祖・盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが鉄の的を射通しました。
高麗の客はその弓の力に驚き、起って拝礼しました。
翌日、盾人宿禰は「的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)」の名を賜りました。
また小迫瀬造の祖・宿禰臣には「賢遺臣(さかのこりのおみ)」の名が賜られました。
各地の開発事業
冬十月、山城の栗隈県(くるくまのあがた/宇治市大久保)に大溝を掘り、田に水を引きました。
これにより土地の人々は毎年豊かになりました。
十三年秋九月、初めて茨田屯倉(まんだのみやけ)を建て、舂米部(つきしねべ)を定めました。
冬十月、和珥池(わにのいけ)を造り、同月に横野堤(よこののつつみ)を築きました。
十四年冬十一月、猪飼津(いかいのつ/大阪市生野周辺)に橋を渡し、小橋(おばし)と名づけました。
同年、京の中に大通りを造り、南の門から丹比邑(たじひのむら/羽曳野市丹比)までまっすぐ通しました。
また感玖(こむく/河内の紺口)に大溝を掘り、石河の水を引いて四ヶ所の原を潤し、四万頃あまりの田を得ました。
これにより人民は凶作の恐れがなくなりました。
桑田玖賀媛の悲劇
十六年秋七月一日、天皇は女官・桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を近習の舍人に見せ、
「私はこの女官を可愛がりたいと思うが、皇后(磐之媛)の嫉妬が強く召すことができない。盛年を徒らに過ごさせるのが惜しい」
と歌で問われました。
ミナソコフ、オミノヲトメヲ、タレヤシナハム。
(私の臣下の少女を、誰か面倒を見たい者はいないか)
播磨国造の祖・速待(はやまち)が進み出て歌いました。
ミカシホ、ハリマハヤマチ、イハクダス、カシコクトモ、アレヤシナハム。
(播磨の速待が、畏れながらお世話いたしましょう)
その日、玖賀媛は速待に賜われました。
翌夕、速待が玖賀媛の家に行きましたが、玖賀媛は心を開かず、
「私は寡婦のまま終わりたいと思います。どうしてあなたの妻となりましょうか」
と言いました。
天皇は速待の志を遂げさせようと、玖賀媛を伴わせて桑田へ向かわせましたが、途中で玖賀媛は病を得て亡くなりました。
現在も玖賀媛の墓が残っています。
十七年 新羅の朝貢拒否
十七年、新羅は朝貢しませんでした。
そこで秋九月、的臣の祖・砥田宿禰と、小迫瀬造の祖・賢遺臣を遣わして詰問させました。
新羅人は恐れ入り、調布の絹一千四百六十匹、その他の品々を合わせて八十艘で貢物を届けました。
天皇と皇后の不仲
二十二年春一月、天皇は皇后に向かっておっしゃいました。
「八田皇女(やたのひめみこ)を召し入れて妃としたい」
しかし皇后は承知されませんでした。
そこで天皇は歌にして皇后に願われました。
天皇の歌
ウマヒトノ、タツルコトタテ、ウサユヅル、タエバツガムニ、ナラベテモガモ。
(私がはっきり申し上げたいのはこういうことです。予備の弦のように、本物が切れたときだけ使うのですから、八田皇女を迎えたいのです)
皇后の答歌
コロモコソ、フタヘモヨキ、サヨトコヲ、ナラベムキミハ、カシコキロカモ。
(衣を二重に重ねて着るのはよろしいですが、夜床を二つ並べようとなさるあなたは、なんと恐ろしい方でしょう)
天皇の再びの歌
オシテル、ナニハノサキノ、ナラビハマ、ナラベムトコソ、ソノコハアリケメ。
(難波の崎の並び浜のように、私と並んでいられるだろうと、その子は思っていたことでしょうに)
皇后の答歌
ナツムシノ、ヒムシノコロモ、フタヘキテ、カクミヤタリハ、アニヨクモアラズ。
(夏の蚕が繭を二重にして宿るように、二人の女を侍らせるのは良くありませんよ)
天皇のさらに重ねた歌
アサヅマノ、ヒカノヲサカヲ、カタナキニ、ミチユクモノモ、タグヒテゾヨキ。
(朝妻の避介の坂を、半泣きで歩いて行く者も、二人並んで行く道づれがあるのが良いのです)
しかし皇后はどうしても許せないと思われ、黙ってしまわれて返答されませんでした。
皇后の家出と天皇の追慕
三十年秋九月十一日、皇后は紀の国へお出かけになり、熊野岬に着かれ、そこで三つ柏を採ってお帰りになりました。
天皇は皇后の不在を知り、八田皇女を召して大宮に入れられました。
皇后は難波の渡りに着かれ、天皇が八田皇女を召されたことを聞き、大いに恨まれました。
採ってこられた三つ柏を海に投げ入れ、岸に泊まらずに通り過ぎられました。
当時の人々は、柏を散らした海を「葉済(かしわ)の渡り」と呼びました。
天皇は皇后が怒って泊まられなかったことを知らず、親しく難波の大津にお出でになり、皇后の船をお待ちになりました。
そして歌を詠まれました。
天皇の歌
ナニハヒト、スズフネトラセ、コシナツミ、ソノフネトラセ、オホミフネトレ。
(難波の人よ、鈴船を引け。腰まで水に浸かって、その船を引け。大御船を引け)
しかし皇后は大津に泊まらず、そこから引き返して川を遡り、山城を経て倭へ向かわれました。
翌日、天皇は舎人の鳥山(とりやま)を遣わし、皇后を連れ戻そうとされました。
そのとき歌われました。
天皇の歌
ヤマシロニ、イシケトリヤマ、イシケシケ、アガモフツマニ、イシキアハムカモ。
(山城に急いで追いつけ鳥山よ。急いで追いつけ。私の愛しい妻に追いついて、会うことができるだろうか)
しかし皇后は戻らず、さらに進まれました。
山城河(木津川)に着かれ、歌を詠まれました。
皇后の歌
ツギネフ、ヤマシロガハヲ、カハノホリ、ワガノボレバ、カハクマニ、タチサカユル、モモタラズ、ヤソハノキハ、オホキミロカモ。
(山城河を遡ってくると、河の曲がり角に立って栄える葉の茂った木は、立派で我が大君に似ています)奈良山を越え、故郷の葛城を眺めて歌われました。
皇后の歌
ツギネフ、ヤマシロガハヲ、ミヤノボリ、ワガノボレバ、アヲニヨシ、ナラヲスギ、ヲタテ、ヤマトヲスギ、ワガミガホシクニハ、カツラギタカミヤ、ワギヘノアタリ。
(山城河を遡ると、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、私が見たいと思う国は、葛城の高宮の我が家のあたりです)
皇后は山城に戻り、筒城岡(つつきのおか)の南に宮室を造ってお住みになりました。
皇后を呼び戻す使者
冬十月一日、天皇は的臣(いくはのおみ)の祖・口持臣(くちもちのおみ)を遣わし、皇后を呼ばれました。
口持臣は筒城宮に着き、皇后にお目にかかりましたが、皇后は黙っておられ、返事をされませんでした。
口持臣は雨に濡れながらも、昼夜を問わず皇后の殿舎の前に伏して動きませんでした。
口持臣の妹・国依媛(くによりひめ)は皇后に仕えており、兄の姿を見て悲しみ、歌を詠みました。
国依媛の歌
ヤマシロノ、ツツキノミヤニ、モノマヲス、ワガセヲミレバ、ナミダグマシモ。
(山城の筒城の宮で、皇后に物申そうとしている兄を見ると、涙ぐまれてきます)
皇后は国依媛に問われました。
「なぜ泣いているのですか」
国依媛は答えました。
「庭に伏して物申しているのは私の兄です。雨に濡れても避けず、なお伏して申し上げようとしています。それが悲しくて泣いています」
皇后は、
「あなたの兄に言って早く帰らせなさい。私はどうしても帰りません」
とおっしゃいました。
口持臣は宮中に戻り、天皇に報告しました。
天皇の訪問と皇后の拒絶
十一月七日、天皇は河船で山城にお出でになりました。
そのとき桑の木が水に流れてきました。
天皇はその枝をご覧になり、歌を詠まれました。
天皇の歌
ツヌサハフ、イワノヒメガ、オホロカニ、キコサヌ、ウラグハノキ、ヨルマシキ、カハノクマクマ、ヨロホヒユクカモ、ウラグハノキ。
(磐之媛皇后は容易にはお聞き入れにならない。末桑の木のように、近寄りがたい河の曲がり角を、寄っては流れ、寄っては流れて行く、末桑の木よ)
翌日、天皇は筒城宮にお越しになり、皇后をお呼びになりましたが、皇后は会われませんでした。
天皇は歌を詠まれました。
天皇の歌
ツギネフ、ヤマシロメノ、コクハモチ、ウチシオホネ、サワサワニ、ナガイヘセコソ、ウチワタス、ヤガハエナス、キイリマヰクレ。
(山城の女が木鍬で掘り出した大根。その葉のざわつくように、あなたがざわざわとおっしゃるので、見渡す向こうにある木の枝の茂るように、多くの人を連れて逢いに来たのです)
さらに歌を詠まれました。
天皇の歌
ツギネフ、ヤマシロメノ、コクハモチ、ウチシオホネ、ネシロノ、シロタダムキ、マカズケバコソ、シラズトモイハメ。
(山城の女が木鍬で掘り起こした大根のような、真白な腕を巻き合ったことがなかったなら、私を知らないとも言えましょうが)
皇后は人を遣わして申し上げました。
「陛下は八田皇女を妃とされました。私は皇女と一緒に后として侍るつもりはありません」
皇后はどうしても会われず、天皇は都へお帰りになりました。
天皇は皇后が大いに怒っておられることを恨めしく思われましたが、それでもなお皇后を恋い慕われました。
皇后の死と葬送
三十一年春一月十五日、大兄去来穂別尊(履中天皇)を皇太子とされました。
三十五年夏六月、皇后・磐之媛命は筒城宮で亡くなられました。
三十七年冬十一月十二日、皇后は奈良山に葬られました。
八田皇女の立后
三十八年春一月六日、天皇は八田皇女(やたのひめみこ)を立てて皇后とされました。
秋七月、天皇と皇后は高台に登られ、暑さを避けてお過ごしになっていました。
そのころ、毎夜のように菟餓野(とがの)の方から鹿の鳴く声が聞こえてきました。
その声はもの寂しく、どこか悲しげで、天皇も皇后も深く哀れを感じられました。
月末になると、その鹿の声が聞こえなくなりました。
天皇は皇后に向かって、
「今宵は鹿が鳴かなくなったが、一体どうしたのだろう」
とおっしゃいました。
鹿の献上と天皇の嘆き
翌日、猪名県(いなのあがた)の佐伯部(さえきべ)が贈り物を献上しました。
天皇は料理番に、
「その贈り物は何であろう」
と問われました。
料理番は、
「牡鹿でございます」
と答えました。
天皇はさらに、
「どこの鹿だろう」
と問われ、料理番は、
「菟餓野の鹿でございます」
と答えました。
天皇は思われました。
――これは、毎夜鳴いていたあの鹿に違いない、と。
天皇は皇后に向かっておっしゃいました。
「私はこの頃、物思いに沈んでいたが、鹿の声を聞いて心が慰められていた。
今、佐伯部が鹿を獲った時間と場所を考えると、きっとあの鹿であろう。
その者は、私がその鹿を愛していたことを知らず、たまたま捕ってしまったのだろうが、やむを得ぬとはいえ、恨めしいことである。
佐伯部を皇居に近づけたくない」
こうして佐伯部は役人の命により、安芸の淳田(ぬた)へ移されました。
これが現在の淳田の佐伯部の先祖であると伝えられています。
里人の語る鹿の夢の話
その土地の里人には、次のような話が伝わっています。
「昔、ある人が菟餓野に行き、野中で宿を取った。
そのとき二匹の鹿がそばに伏せていた。
暁方、牡鹿が牝鹿に語った。
『昨夜、夢を見た。白い霜がたくさん降りて、私の体を覆ってしまった。これは何の兆だろう』
牝鹿は答えた。
『あなたが出歩けば、きっと人に射られて死ぬでしょう。
塩を体に塗られることが、霜の白さと同じ徴なのです』
野に宿っていた人は不思議に思った。
明け方、猟師が来て牡鹿を射て殺した。
そのとき人々は言った。
『鳴く鹿でもないのに、夢占いのとおりになってしまった』」
雌鳥皇女をめぐる事件
四十年春二月、天皇は雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を妃に迎えようと思われました。
その仲立ちとして、異母弟の隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を媒(なかだち)にされました。
しかし隼別皇子は、こっそり皇女を自分のものとしてしまい、長く復命しませんでした。
やがて天皇は、皇女に夫があることを知らず、直接皇女の寝室にお出でになりました。
そのとき、皇女のために機を織っていた女たちが歌いました。
機織女たちの歌
ヒサカタノ、アメカナハタ、メトリガ、オルカナハタ、ハヤブサワケノ、ミオスヒガネニ。
(空を飛ぶ雌鳥が織る金の機は、隼別皇子のお召し物の材料です)
天皇はこの歌を聞かれ、隼別皇子が密かに皇女と通じていたことを知り、深く恨まれました。
しかし皇后の言葉を憚り、また兄弟の義を重んじられ、罪には問われませんでした。
隼別皇子の慢心
その後、隼別皇子は皇女の膝を枕にして寝ながら語りました。
「ミソサザキ(仁徳天皇)とハヤブサ(隼別皇子)では、どちらが速いだろう」
皇女が問うと、隼別皇子は、
「隼のほうが速い」
と言い、
「だから自分のほうが手が早かったのだ」
と続けました。
天皇はこの言葉を聞かれ、さらに恨みを深められました。
舎人たちの歌と天皇の怒り
隼別皇子の舎人たちが歌いました。
ハヤブサハ、アメニノボリ、トビカケリ、イツキガウヘノ、サザキトラサネ。
(隼は天に上って飛びかける。斎き場のあたりにいるサザキを取ってしまえ)
天皇はこの歌を聞かれ、大いに怒られました。
「私は私事の恨みで兄弟を失いたくないと思い、堪えてきた。
どうして隙があるからと、私事を世に及ぼそうとするのか」
こう言われ、ついに隼別皇子を殺そうと思われました。
隼別皇子の逃亡と最期
隼別皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に参ろうと急がれました。
天皇は皇子が逃亡したと思われ、吉備品遅部雄鮒(きびのほむちべのおふな)、播磨佐伯直阿餓能胡(はりまのさえきのあたいあがのこ)を遣わし、
「追って捕らえたら殺せ」
と命じられました。
皇后は申し上げました。
「雌鳥皇女は重罪に値しますが、殺すときに身につけた物を取り上げ、身を露わにするのは望みません」
そこで天皇は雄鮒らに、
「皇女の足玉や手玉を取ってはならない」
と命じました。
雄鮒らは追い、菟田(うだ)に至り、素珥山(そにのやま)に迫りました。
皇子たちは草の中に隠れて難を逃れ、急いで山を越えました。
そのとき皇子は歌われました。
隼別皇子の歌
ハシタテノ、サガシキヤマモ、ワギモコト、フタリコユレバ、ヤスムシロカモ。
(梯子を立てたような険しい山も、吾妹子と二人で越えれば、安らかな筵に座るように楽なものだ)
しかし雄鮒は追いつき、伊勢の蔣代野(こもしろの)で二人を殺しました。
雄鮒らは皇女の玉を探し、裳の中から見つけました。
二人の屍は廬杵河(いおきがわ)のほとりに埋められ、雄鮒らは復命しました。
皇后は雄鮒らに問わせました。
「皇女の玉を見なかったでしょうね」
雄鮒らは、
「見ませんでした」
と答えました。
玉代の地名の由来
その年、新嘗祭の月に宴会があり、酒が内外の命婦に賜わりました。
近江の山君稚守山(やまのきみわかもりやま)の妻と、采女磐坂媛(うねのいわさかひめ)の二人の手に、良い玉が巻かれていました。
皇后がその玉をご覧になると、雌鳥皇女の玉に似ていました。
役人に調べさせると、
「佐伯直阿餓能胡の妻の玉です」
と答えました。
阿餓能胡を責めて調べると、
「皇女を殺した日に探して取りました」
と述べました。
阿餓能胡を殺そうとされましたが、代わりに自分の土地を差し出して死罪を償いたいと申し上げました。
その土地を納めて死罪は許されました。
その地を玉代(たましろ)と名づけました。
鷹甘部(たかかいべ)の定め
四十一年春三月、天皇は紀角宿禰(きのつぬのすくね)を百済(くだら)に遣わし、初めて国郡の境界の区分や、それぞれの郷土の産物を記録させることを行わせました。
このとき、百済王の王族である酒君(さけのきみ)が無礼な態度をとりました。
紀角宿禰はこれを責め、百済王に抗議しました。
百済王は恐れ入り、酒君を鉄の鎖で縛り、襲津彦(そつひこ)に従わせて日本へ進上しました。
しかし酒君は石川錦織首許呂斯(いしかわのにしこりのおびと・ころし)の家に逃げ込み、隠れました。
そして嘘をつき、
「天皇はすでに私の罪を許してくださった。あなたに付けて生かしてくださったのだ」
と言いました。
しばらくして、天皇は実際にその罪を許されました。
珍鳥の献上と鷹甘部の成立
四十三年秋九月一日、依網(よさみ)の屯倉(みやけ)の阿珥古(あびこ)が、珍しい鳥を捕えて天皇に献上しました。
阿珥古は申し上げました。
「私はいつも網を張って鳥を捕っておりますが、このような鳥は初めてです。珍しいので献上いたします」
天皇は酒君を呼び、この鳥が何であるか尋ねられました。
酒君は答えました。
「この鳥は百済には多くおります。馴らすと人によく従い、速く飛んでさまざまな鳥を捕ります。百済ではこの鳥を『俱知(くち)』と申します」
これは現在の 鷹 であると記されています。
天皇は酒君に鷹を預けて養わせました。
ほどなく鷹はよく馴れ、酒君は鞣し革の紐を足につけ、小鈴を尾につけ、腕に止まらせて天皇に奉りました。
その日、天皇は百舌鳥野(もずの)に出向かれ、狩りをされました。
雌雉(めきざし)が多く飛び立ったため、鷹を放つと、たちまち数十羽の雉を捕らえました。
この月、初めて 鷹甘部(たかかいべ) が定められました。
当時の人々は、鷹を飼う場所を 鷹飼邑(たかかいのむら) と呼びました。
雁の産卵と武内宿禰との歌問答
五十年春三月五日、河内の人が申し上げました。
「茨田(まむた)の堤に雁が子を産みました」
使者を遣わして確認すると、「本当です」と答えました。
天皇は歌を詠み、武内宿禰(たけのうちのすくね)に問われました。
天皇の歌
タマキハル、ウチノアソ、ナコソハ、ヨノトホヒト、ナコソハ、クニノナガヒト、
アキツシマ、ヤマトノクニニ、カリコムト、ナハキカスヤ。
(武内宿禰よ、あなたこそこの世の長生きの人、国の第一の長寿者です。
尋ねるが、この倭の国で雁が子を産むということを聞いたことがありますか)
武内宿禰の返歌
ヤスミシシ、ワガオホキミハ、ウベナウベナ、ワレヲトハスナ、
アキツシマ、ヤマトノクニニ、カリコムト、ワレハキカズ。
(我が大君が私にお尋ねになるのはもっともですが、倭の国で雁が産卵するという話は聞いたことがございません)
新羅・蝦夷との紛争
五十三年、新羅(しらぎ)は朝貢しませんでした。
天皇は上毛野君(かみつけのうじ)の祖・竹葉瀬(たかはせ)を遣わし、貢物を奉らぬ理由を問わせました。
途中で竹葉瀬は白鹿を獲て帰り、天皇に献上しました。
その後、再び新羅へ向かいました。
しばらくして、弟の田道(たじ)が遣わされ、詔して、
「もし新羅が抵抗するなら、兵を挙げて討て」
と命じられ、精兵を授けられました。
新羅は兵を起こして防ぎ、毎日挑戦してきました。
田道は守りを固めて出ませんでした。
あるとき、新羅兵の一人を捕らえて尋ねると、
「百衝(ももつき)という強者がいます。身軽で速く、勇猛で、常に軍の右の先頭です。
ゆえに左を攻めれば敗れるでしょう」
と言いました。
新羅軍は右に備え、左を空けていました。
田道は精鋭の騎馬を連ねて左を攻め、新羅軍を破り、数百人を討ち、四つの邑の人民を捕えて帰りました。
田道の死と復讐する大蛇
五十五年、蝦夷(えみし)が背きました。
田道を遣わして討たせましたが、蝦夷に破られ、伊峙(いじ)の水門(石巻)で戦死しました。
従者は田道の手に巻いていた玉を取り、妻に渡しました。
妻はそれを抱いて縊死しました。
人々は深く悲しみました。
その後、蝦夷が襲って人民を掠め、田道の墓を掘りました。
すると大蛇が現れ、目を怒らせて墓から飛び出し、蝦夷に噛みつきました。
蝦夷は毒気にあたり多くが死に、わずかに一、二人が逃れました。
人々は言いました。
「田道は死んでも、ついに仇を討った。死者でもよく知っているものだ」
不思議な木々と白鳥陵の奇異
五十八年夏五月、荒陵(あらはか)の松林の南の道に、突然二本のクヌギが生えました。
道を挟んで立ちながら、木の先端は一本に合わさっていました。
冬十月、呉国・高麗国が朝貢しました。
六十年冬十月、日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥陵の陵守を雑役免除にしようとされ、天皇は自ら課役の場に赴かれました。
陵守の目杵(めき)は突然白鹿となって逃げました。
天皇は詔して、
「この陵はもとから空であった。陵守を辞めさせようと思い、初めて遥役にあてた。
しかし今の不思議を見ると畏れ多い。陵守は動かしてはならない」
と言われ、再び土師連(はじのむらじ)に陵を守らせました。
氷室の発見と献氷の始まり
六十二年夏五月、遠江国の国司が申し上げました。
「大きな木が大井川から流れ、河の曲がり角にとまりました。
大きさは十囲(じゅっかく)で、根は一本、先は二股です」
倭直(やまとのあたい)の吾子籠(あごこ)を遣わし、船として造らせました。
南海を巡って難波津に運び、御船としました。
同年、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ)に猟に行かれ、野中に窟(むろ)を見つけました。
闘鶏稲置大山主(つげのいなきおおやまぬし)に尋ねると、
「氷室(ひむろ)です」
と答えました。
氷室の仕組みを聞いた皇子は、その氷を宮中に奉りました。
天皇は大いに喜ばれました。
これ以後、師走になると必ず氷を納め、春分になると氷を配るようになりました。
飛驛国の宿儺(すくな)
六十五年、飛驛国(ひだのくに)に宿儺(すくな)という人物がいました。
体は一つで顔が二つ、背中合わせで、頂は一つ、項はなく、それぞれ手足がありました。
力強く敏捷で、左右に剣を佩き、四つの手で弓矢を使いました。
皇命に従わず、人民を略奪したため、和珥臣(わにのおみ)の祖・難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わして討たせました。
百舌鳥耳原の由来
六十七年冬十月五日、天皇は河内の石津原に赴かれ、陵地を定められました。
十八日に陵を築きました。
その日、野から鹿が走り出て役民の中に入り、倒れて死にました。
不審に思って傷を探すと、百舌鳥(もず)が耳から飛び出しました。
耳の中は食い荒らされていました。
この地を 百舌鳥耳原(もずのみみはら) と呼ぶのは、この出来事に由来します。
竜の退治と県守淵
同年、吉備の中国(なかつくに)の川島河の川股に竜がいて、人々を苦しめていました。
笠臣(かさのおみ)の祖・県守(あがたもり)は勇敢に立ち向かい、瓢(ひさご)を投げ入れて竜を試し、ついに斬り殺しました。
さらに竜の仲間を探し、淵の底に満ちていた竜たちをすべて斬り、水は血に染まりました。
そこを 県守淵(あがたもりのふち) と呼びました。
仁徳天皇の晩年と崩御
このころ、背く者が一人二人ありましたが、天皇は早起きし遅く寝て、税を軽くし、徳を布き、恵みを施して人民を救われました。
死者を弔い、病者を問われ、身寄りのない者に恵みを与えられました。
そのため政令はよく行われ、天下は平らかになり、二十余年の間、無事でありました。
仁徳天皇の崩御
八十七年春一月十六日、天皇は崩御されました。
冬十月七日、天皇は 百舌鳥野陵(もずののみささぎ) に葬られました。