龍神の記憶と目覚め  日本の歴史ー④弥生時代ー稲作の光が村を結び、女王の祈りが国を包む時代 (紀元前5世紀~3世紀) | 龍神の記憶と目覚め 

日本の歴史ー④弥生時代ー稲作の光が村を結び、女王の祈りが国を包む時代 (紀元前5世紀~3世紀)

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目次

概要説明

弥生時代は、日本列島が縄文の採集中心の暮らしから、水稲農耕を基盤とする生産社会へと大きく転換した時代です。紀元前5世紀頃に大陸から稲作や金属器が伝わると、列島各地で水田が広がり、定住化が進みました。稲作は安定した食料供給を可能にし、人口が増加、集落は拡大し、やがて複数の村が結びついて「クニ」と呼ばれる政治的まとまりが生まれていきます。青銅器や鉄器の使用も進み、農具や武器の性能が向上したことで、社会の階層化が進展しました。特に鉄器の普及は争いの激化を招き、環濠集落や高地性集落といった防御的な集落が各地に築かれました。弥生中期には墳丘墓が巨大化し、首長の権威が明確に示されるようになります。後期には倭国大乱と呼ばれる大規模な争いが起こり、さらに193年の寒冷化が社会不安を深めましたが、この混乱の中で卑弥呼が登場し、祈りと祭祀による統治で列島を束ねていきます。弥生時代は、農耕社会の成立、金属器文化の発展、クニの形成といった後の国家成立の基盤が形づくられた、日本史の大きな転換点となる時代でした。

「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町の貝塚で発見された土器の発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことが由来です。

最初に見つかった弥生式土器(東京大学総合研究博物館/重要文化財)

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第1章 海の彼方から新しい風が訪れる 
(紀元前5世紀~紀元前3世紀 弥生早期)

海の向こうから、新しい時代の気配がゆっくりと近づいていました。
九州北部の浜辺では、ある朝、見慣れぬ舟が波間に姿を現します。
舟の腹は深く、縄文の丸木舟とは異なる造りでした。
その舟から降り立った人々は、異国の衣をまとい、手には奇妙な形の土器や、光を放つ金属の道具を携えていました。

彼らは争いを求めて来たのではありません。
大陸の沿岸部で暮らしていた彼らは、気候の変化や土地の事情に押され、新たな生活の場を求めて海を渡ってきたのでした。

渡来人の遺跡が語るもの

後の世に残る遺跡は、この時期の静かな交流を物語っています。
九州北部の遺跡からは、大陸系の住居跡、独特の炉の跡、そして縄文には見られない形の土器が見つかっています。
それらは、渡来人が一時的に滞在したのではなく、定住し、村を築き、縄文の人々と共に暮らした証でした。

縄文の民は、森と海の恵みを知り尽くした人々でした。
彼らは最初こそ警戒しましたが、渡来人が火を囲んで語り合う姿、子どもたちが浜辺で遊ぶ姿を見て、次第に心を開いていきます。

弥生時代の幕開けは、大陸からきた渡来人のもってきた水稲技術、やがては青銅器、鉄器と深い関わりがあります。早期の時期は、九州北部で水稲が始まりますが、このときは渡来人との間に争いはなかったようです。

渡来人の遺跡

水稲農耕の広まり ― 湿地に広がる黄金の夢

渡来人が最も大切にしていたのは、稲の種でした。
それは大陸の湿地で育てられてきた水稲で、縄文の人々が育てていた陸稲とはまったく異なるものでした。

「この土地にも、水を引けば稲は育つ」
渡来人の長老は、そう語りながら湿地に指を差しました。

縄文の民は半信半疑でしたが、試しに小さな田を作り、苗を植えてみると、
季節が巡るころには、青々とした稲が風に揺れていました。

稲が実ると、村は驚きと喜びに包まれます。
これまで森と海に頼ってきた生活に、新しい柱が生まれた瞬間でした。

水稲農耕は、やがて九州から瀬戸内へ、さらに東へと広がっていきます。
稲作は人々の暮らしを変え、村の形を変え、社会の仕組みそのものを変えていきました。

水稲農耕の広まり

縄文時代には、すでに 熱帯ジャポニカ米による陸稲農耕が行われていました。これは焼畑や畑作に適した稲で、縄文後期から晩期にかけて各地の遺跡からプラント・オパールや炭化米が確認されています。
一方で、日本列島における 本格的な水田農耕の始まりは、現在では 紀元前10〜9世紀の北部九州が最初と考えられています。菜畑遺跡や板付遺跡では初期水田跡が検出され、特に紀元前9世紀の板付遺跡では、すでに集落内に 階層差が存在していたことが確認されています。
かつては稲作が朝鮮半島を経由して伝わったとされていましたが、近年のDNA分析により、弥生時代の米には 朝鮮半島には存在しない品種が含まれていることが明らかになりました。これにより、稲作は 中国中南部(長江流域)から直接渡来したルートが有力視されています。

大陸から伝来した水稲農耕は、北部九州を起点として次第に列島へ広がりました。
紀元前8世紀:高知平野
紀元前7世紀:山陰・瀬戸内地域
紀元前6世紀:濃尾平野
紀元前3世紀:東北地方
このように、水田稲作は数世紀をかけて列島各地へ伝播していきました。
また、日本列島では 熱帯ジャポニカ米が完全に温帯ジャポニカ米へ置き換わったわけではなく、弥生時代以降も両者が併存して栽培され続けていたことが、DNA分析や炭化米の研究から示されています。

弥生式土器 ― 新しい暮らしの器

渡来人が持ち込んだ土器は、縄文土器とはまったく違うものでした。
縄文土器が火焔のような装飾を持つのに対し、弥生式土器は薄く、軽く、実用性に優れていました。

煮炊きに向き、保存にも適し、稲作の生活にぴったりの器でした。
縄文の民はその使いやすさに驚き、やがて自分たちでも弥生式土器を作り始めます。
土器の形は、生活の変化を映す鏡のようでした。

最古の弥生土器・・・ 板付遺跡

夜臼(ゆうす)式土器

板付式土器

画像:九州の古墳遺跡巡りさんのブログ

最古の弥生土器は、最古の水田遺跡でも知られる福岡県板付遺跡から出土しています。縄文時代晩期の「夜臼(ゆうす)式土器」と、弥生時代早期と言われる壺形の「板付式土器」が同時に出土したことから、最古の弥生遺跡であることが判明したようです。それ以前の縄文土器には壺形土器はほとんど用いられていないので、弥生土器の成立とともに、土器の利用法に変化が見られ壺形土器が重要な役割を担うようになったようです。

青銅器と鉄器 ― 光を放つ新しい力

渡来人が携えていた金属の道具は、縄文の人々にとって未知のものでした。

青銅器は祭祀の象徴として扱われ、鏡や剣、矛は神々と交わる道具とされました。
・鉄器は農具や武器としての力を持ち、土地を耕す速さを飛躍的に高めました。

鉄の斧で木を倒すと、縄文の石斧では考えられないほど簡単に倒れました。
その光景を見た縄文の若者は、思わず息を呑んだといいます。

金属器は、村の力を象徴する存在となり、やがて列島全体に広がっていきました。

青銅器の輸入

日本で最も古い青銅器は紀元前10世紀の青銅刀子が山形県の三崎山遺跡から出土しています。この時期は大陸との交易で入手したとみられており、製造技術などの移入は見られていません。弥生早期でも、輸入品が主で福岡県の今川遺跡では遼寧式銅剣(満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土している銅剣。)の鋒と茎を銅鏃と銅鑿に再加工したものが出土しています。

参考:青銅器文化をもたらしたのは誰か

日本で最も古い鉄器  石崎曲り田遺跡

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)

現在のところ、我が国で見つかっている最も古い鉄器は、縄文時代晩期(弥生時代早期)つまり紀元前10世紀(当初3-4世紀とされていた)のもので、福岡県の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期とほぼ合致することは世界的には珍しく,日本の弥生時代は世界的にも稀有な文化内容をもつ時代として認識されることになるきっかけとなりました。

参考:AMS-炭素14年代測定法が明らかにした日本の鉄の歴史

環濠集落の伝来 ― 村を守る知恵

稲作が広がるにつれ、村には守るべきものが増えていきました。
渡来人は大陸で培った知恵として、村の周囲に深い堀を巡らせる技術を伝えました。
これが 環濠集落 の始まりです。

堀は外敵から村を守るだけでなく、村の境界を示し、共同体の結束を強める役割も果たしました。
堀の内側には高床倉庫が建ち、収穫した稲が大切に保管されました。

環濠集落は、弥生の村の象徴となり、後のクニの形成へとつながっていきます。

環濠集落 の伝来

環濠集落とは、集落(ムラ)の周囲に堀をめぐらせた集落形態を指します。これは水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落構造で、堀の断面は深いV字形に掘られ、周囲には逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる先端を尖らせた杭が打ち込まれている例もあります。これらの構造から、環濠集落には外敵や害獣から集落を守る防御的機能が備わっていたと考えられています。

環濠集落は北部九州を起点として東へ広がったとされますが、2世紀後半から3世紀初頭には各地で環濠が消滅していきます。この変化は、弥生社会の政治的状況が大きく転換したことを示すものと考えられています。

弥生時代の環濠集落には、立地によって大きく二つのタイプがあります。
高地型:台地や丘陵などの高所に立地し、水のない「空壕」で囲まれる。弥生中期以降に増加し、瀬戸内・近畿を中心に発達。
低地型:沖積地の微高地に立地し、水をたたえた「水濠」で囲まれる。弥生前期から広く見られる主流の形態。

低地型は水田に近い平野部での生活に適し、農耕社会の発展とともに広がりました。一方、高地型は防御性の高さから「逃げ城」としての役割を持ったと考えられていますが、交易拠点であった可能性も指摘されています。
環濠集落の中には、吉野ヶ里遺跡や唐古・鍵遺跡のように大規模なものもあり、内部には住居のほか、祭祀施設、高床倉庫、工房、市場などが整備され、地域の政治・経済の中心として機能していました。

低地型

高地型

弥生時代早期の代表遺跡として、九州北部の江辻遺跡が知られています。

第2章 稲穂の金色が村々を結びはじめる 
(紀元前3世紀~紀元前1世紀 弥生前期)

農耕の技術革新は、縄文晩期の寒冷化によって生じた人口減少の危機を乗り越える大きな力となりました。水田稲作の導入によって安定した食料生産が可能となり、人口は再び増加し、集落の数も急速に増えていきました。しかし、この豊かさは新たな問題も生み出します。人口増加と集落の拡大は、土地や水利をめぐる権益争いを顕著にし、村同士の対立が激しくなっていったのです。

この時期、環濠集落を中心とした集落群の対立が各地で見られるようになります。堀や逆茂木を備えた環濠は、外敵から村を守るための防御施設として発達し、堀の規模は次第に大きく、構造も複雑になっていきました。争いが激化するにつれ、戦闘では鉄製の剣や槍が主要な武器として用いられ、戦闘による死者も急増していきます。

こうした状況の中で、戦闘を指揮する者が次第に集落の指導者として台頭し、やがて首長としての身分を確立していきました。首長は戦いの指揮だけでなく、祭祀や農耕の管理、水利の調整など、村の統合と運営を担う存在となり、社会には明確な身分階層が形成されていきます。

複数の集落を束ねる首長が現れると、地域ごとにいくつかの「クニ(王国)」が成立するようになります。これらのクニは、環濠集落を中心とした防御的な共同体を基盤とし、農耕生産力と武力を背景に勢力を拡大していきました。こうして弥生社会は、村からクニへと移行する政治的統合の時代へと進んでいきます。

稲穂の金色が村をつなぐころ

北部九州に芽生えた水田農耕は、季節の巡りとともに周囲の村々へと広がっていきました。
湿地に張り巡らされた水路は、村と村を結ぶ「命の道」となり、稲の苗が植えられるたびに、人々の暮らしは静かに、しかし確実に変わっていきました。

村の風景が変わり始める

弥生前期の村では、稲作を中心とした生活が形づくられ、村の中心には 高床倉庫 が建ち並びました。
倉庫は村の富と未来を象徴し、収穫された稲は家族のものではなく、村全体のものとして大切に保管されました。

倉庫の前では、収穫祭が行われ、太鼓の音と踊りが夜空に響きました。
火の粉が舞い上がるその光景は、村がひとつにまとまる象徴でした。

共同作業が生む新しい絆

稲作は、ひとりではできない仕事でした。
田を耕し、水を引き、苗を植え、草を取り、収穫する。
そのすべてに多くの手が必要でした。

共同作業は村の結束を強め、さらに村同士の交流を生み出しました。
水路を共有する村は互いに協力しなければ水を保てず、
こうして村々はゆるやかに連合し、やがて「小さなクニ」の萌芽が生まれていきました。

争いの影 ― 境界をめぐる緊張

豊かさは影も生みます。
稲は貴重であり、守るべきものであり、奪われる危険もありました。

ある年、水路の分配をめぐって隣村との争いが起こりました。
鉄器を持つ戦士が現れ、村の威信を象徴する存在となります。

争いは長く続きませんでしたが、
「稲を守るためには力も必要だ」という意識が芽生え、
村の周囲には柵が立てられ、やがて 環濠集落 へと発展していきました。

環濠集落の拡大 ― 村を守る知恵が広がる

弥生前期になると、北部九州を中心に環濠集落が急速に広がりました。
深いV字の堀が村を囲み、堀の周囲には逆茂木が打ち込まれ、
外敵や害獣から村を守る防御機能を備えていました。

環濠は単なる防御ではなく、
「この内側は私たちの村である」という境界の象徴でもありました。

環濠集落は九州から瀬戸内へ、さらに東へと広がり、
弥生社会の新しい村の姿として定着していきます。

環濠集落の拡大

弥生早期に近畿では環濠集落はありませんでしたが、神戸市大開遺跡、四条シナノ遺跡(橿原市)や川西根成柿遺跡(同市、大和高田市)のように西日本全体の範囲まで広がりをみせてきます。
また、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺墓地」も見られます。集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。

墳丘墓の出現 ― 村の長の力が形になる

弥生前期の後半になると、村の長を葬るための 墳丘墓(ふんきゅうぼ) が現れ始めました。
それは土を高く盛り上げた墓で、
村の中心に位置し、長の権威と村の結束を象徴していました。

墳丘墓には、青銅器や装飾品、武器などが副葬され、
長が生前に担っていた役割――
祈りを司り、村を導き、外敵から守る存在――が
死後も村を守るように祈りが込められていました。

墳丘墓の出現は、
「村の長が特別な存在として認識され始めた」
という社会の変化を示すものでした。

墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、遺体埋葬地に土で塚を築いた墓。弥生時代前期から比較的小規模なものがみられ、弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなります。方形周溝墓、方形台状墓、円形周溝墓の3形式が基本で、後期に円形台状墓が加わる。これらはやがて古墳へとつながっていきます。

発掘中の方形周溝墓

日本最古の王国「早良王国」の胎動 ― 村からクニへ(紀元前2世紀

北部九州の中でも、福岡平野の西側に位置する地域では、
複数の環濠集落が連合し、やがて 早良王国(さわらおうこく) と呼ばれる勢力が形成されていきました。

早良の地は、海と川に恵まれ、
大陸との交流が盛んで、青銅器や鉄器が多くもたらされました。

その豊かさは、周囲の村々を引き寄せ、
やがて早良の長は、周辺の集落を束ねる「王」としての地位を確立していきます。

早良王国の中心には大規模な環濠集落が築かれ、
周囲には墳丘墓が並び、
その姿は後の「クニ」の原型となりました。

3種の神器

福岡県西部相良平野の扇状地に広がる弥生前期末の吉武遺跡群から、天皇の証とされる「3種の神器」に相当する剣、鏡、勾玉の副葬品を持つ木棺墓が発掘され話題を呼びました。紀元前2世紀のものとみられ、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印で知られる奴国や卑弥呼の邪馬台国よりも以前にクニが存在していたことを示しており、「相良王国」と呼ばれています。紀元前後に王国は隆盛し、やがて伊都国か奴国に滅ぼされたと考えられています(元大阪市立大学名誉教授鳥越憲三郎氏等)。また、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見されています。出土品や建物跡から見てこの地の被葬者達が朝鮮半島と強いつながりを持った人々であった事は間違いないようです。

高殿

吉武遺跡群 の場所

参考:日本最古「三種の神器」が出土。弥生時代の早良平野に繁栄した王国があった  

   紀元前2世紀、 福岡市西区早良平野にあった、 弥生初期の早良王国

村の成長と新しい社会の胎動

弥生前期の村は、もはや縄文の村ではありませんでした。
稲を中心に暮らしが組み立てられ、
倉庫が建ち、共同作業が生まれ、
祭祀が社会の中心となり、
争いの影が村を取り巻くようになりました。

そして、環濠集落が広がり、墳丘墓が築かれ、
早良王国のような地域勢力が生まれたことで、
列島はゆっくりと「クニの時代」へと歩み始めていきます。

稲穂が揺れるたびに、村は少しずつ大きくなり、
その先には、より大きな共同体と、新しい時代の光が待っていました。

第3章 祖霊と戦の神がクニを導く 
(紀元前1世紀~1世紀 弥生中期)

弥生中期になると、環濠に守られた大きな集落の中心に、祖霊を祀る墳丘墓と祭殿が並び立つようになりました。夜になると祭殿の火が揺れ、首長は祖霊に稲の実りとクニの安寧を祈ります。その周囲には住居や工房が集まり、青銅器を鋳造する火の音が絶えず響いていました。

鉄器が普及し始めると、青銅の剣や矛は実用品としての役目を終え、より大きく、より華やかな祭器へと姿を変えていきます。戦いの象徴であった武器が神々に捧げる道具となったことは、戦神への祈りと祖霊祭祀が結びつき、クニをまとめる力として働き始めたことを示していました。

やがて争いは村同士の小競り合いではなく、領土をめぐる戦略的な戦いへと変わり、首長は戦を指揮する者としての権威を強めていきます。墳丘墓はさらに巨大化し、首長の力とクニの結束を大地に刻む象徴となりました。こうして祈りと武力が交差する時代の中で、列島にはいくつものクニが生まれ、互いに競い合いながら新しい秩序を形づくっていったのです。

高地性集落のはじまり ― 山の上に築かれた“見張りの村”

弥生中期になると、これまで平野部に築かれていた環濠集落とは異なる、
山頂や丘陵の尾根に築かれた集落――高地性集落 が現れ始めます。

高地性集落は、平野や海を一望できる高所にあり、
外敵の動きをいち早く察知できる場所に築かれました。
その性格については、軍事的・防御的な目的が強かったと考えられています 。

山上の集落には、焼け土や大きな石鏃が見つかることも多く、
争いの激しさを物語っていました。

しかし、そこは単なる「逃げ城」ではありませんでした。
住居跡や土器が多く見つかり、
人々が一定期間、生活の拠点としていたことがわかっています。

山の上に火が灯り、のろしが上がると、
平野の村々は緊張し、戦士たちは武器を手に集まりました。
列島は、静かに、しかし確実に戦乱の時代へと向かっていたのです。

環濠集落の拡大と高地性集落のはじまり

香川 紫雲出山高地性集落

中期には関東地域まで環濠集落が広まる一方で、瀬戸内沿岸から大阪湾を中心に高地性集落が形成されてきます。高地性集落は、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50〜300メートル以上)に営まれている集落のことで、紀元50年~250年の年代範囲で盛んにつくられていました。

環濠集落の分布

高地性集落の分布

環濠集落

高地性集落

鉄器の利用拡大 ― 武器と農具が社会を変える

弥生中期は、鉄器の利用が一気に拡大した時代でした。
鉄の斧は木を倒し、鉄の鍬は固い土を砕き、
農耕の効率は飛躍的に高まりました。

しかし、鉄器の真価は武器として発揮されました。
鉄の剣、鉄の槍、鉄の矢尻――
それらは青銅の武器とは比べものにならないほど強力で、
争いの規模と激しさを増大させました。

鉄器の普及には地域差があり、
特に北部九州では圧倒的な量の鉄器が出土しています 。
この地域が列島の政治的中心へと成長していく背景には、
鉄の力が大きく関わっていました。

鉄器の利用拡大

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器が急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
日本に輸入されてきた鉄器は 銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器品でした。これは炭素濃度が高く硬いもののもろい特性をもっていたため衝撃に弱く、武器としての使用には不向きでした。やがて、中国では鉄中の炭素濃度を減じる脱炭技術が開発され、武器に適した「鋼」が製造することが可能になります。日本の弥生時代中期ごろになると、このような「鋼」で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ、再利用されたのです。
この時期にあたる福岡県の赤井手遺跡は、日本最古の鉄関連遺跡ですが、製鉄を行ったものではなく、鉄素材を加工し鉄器を制作していました。弥生時代に製鉄されていた遺跡は確認されておらず、製鉄開始は5~6世紀あたりに始まったと考えられています。

青銅器の国産化 ― 祭祀の道具が列島で作られるようになる

弥生中期になると、青銅器の多くが列島で鋳造されるようになります。
銅鐸、銅剣、銅矛――
それらは武器としてよりも、
祭祀の象徴 としての役割が強まりました。

青銅器を鋳造する工房が各地に現れ、
クニの長は青銅器を用いて神々に祈り、
その権威を示しました。

青銅器は、クニの力を象徴する「宝物」となり、
その所有は政治的な影響力を意味しました。

青銅器の国産化

弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国内で生産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。青銅製の小さな鐘が朝鮮半島から伝わってきますが、弥生人がそれ独自改良して制作したのが「銅鐸」です。この時期最大都市、佐賀県吉野ヶ里遺跡では、坩堝(るつぼ-溶解壺)や鞴(ふいご-送風装置)の羽口(送風口)などの精錬装置や、青銅器製作過程で出る銅滓(どうし-残りかす)や鋳バリが発掘されています。鉄は青銅よりも強度が強いため、鉄が武器や農具として普及すると青銅は主に祭祀用として利用されていくようになります。銅剣や銅矛などはもっぱら祭器として使われました。

墳丘墓の巨大化 ― 首長の力が“形”になる

弥生前期に姿を見せ始めた墳丘墓は、
中期になると急速に巨大化していきます。

土を高く盛り上げた墓は、
首長の権威と、クニの結束を象徴するものでした。

墳丘墓の周囲には、
青銅器や鉄器、装飾品が副葬され、
首長が生前に担った役割――
祈り、統治し、戦いを指揮した存在であったことを示しています。

巨大な墳丘墓は、
やがて古墳時代へとつながる「王墓」の原型となりました。

佐賀県 吉野ケ里遺跡・・・弥生中期の大型墳墓

佐賀県吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は、南北約46メートル、東西約27メートルで長方形に近く、高さ4.5メートル以上あったと推定されています。甕棺は弥生時代中期のもので、この時期に何故大型墳丘墓が出現したのかについてはまだ明確に分かっていません。

福岡県  三雲南小路遺跡 ・・日本最古の王墓

弥生中期後半になると、王墓が出現します。福岡県三雲南小路遺跡は溝で囲まれた一辺30メートル以上の墳丘で、日本最古の王墓と推定されています。2基の甕棺から57枚の以上の中国鏡が出土しています。

漢委奴国王 ― 海の向こうから届いた“金印”(57年)

1世紀、北部九州のあるクニは、
海を越えて中国の後漢王朝へ使者を送りました。

その帰り、使者は一つの金印を携えて戻ります。
印にはこう刻まれていました。

「漢委奴国王」

これは、後漢が倭の一勢力を「王」として認めた証でした。
金印を受けたクニは、
周囲のクニより一歩抜きん出た存在となり、
列島の政治地図は大きく動き始めます。

海の向こうの大国が倭を認めたという事実は、
列島のクニグニに強い衝撃を与えました。

「王」とは何か。
「国」とは何か。
その問いが、列島の人々の心に芽生え始めたのです。

建武中元2年(57年)に後漢の光武帝が奴国からの朝賀使へ金印「漢委奴国王」を賜った記録があり、その金印が福岡県志賀島で発見されています。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」

第4章 争いの世が静まり女王の祈りが国を包む 
(1世紀~3世紀 弥生後期)

大規模環濠集落の静かな終焉

弥生後期になると、かつて列島の各地にそびえていた大規模な環濠集落は、ゆっくりとその役割を終えつつありました。深い堀と高い柵は長い争乱の時代を象徴していましたが、1世紀の終わりごろから堀は少しずつ土に埋まり、柵は朽ち、かつての緊張は静かに薄れていきます。争いが消えたわけではありませんが、村々は武力を競う余裕を失い、別の危機に向き合わざるを得なくなっていました。

後期になると、前期から存続してきた集落も大規模化し北部九州では佐賀県吉野ヶ里遺跡、近畿では大阪府の安満遺跡や池上・曽根遺跡、奈良県の唐古・鍵遺跡などの大規模環濠集落がみられるようになります。堀は二重・三重の多重環濠となることもあり、長大な環濠帯を形成して防御力が強化され、首長の居宅や祭祀用の大型掘っ立て柱の建物、金属器生産施設も行われていました。しかし、「倭国大乱」が終焉し卑弥呼統治下の2世紀後半から環濠集落はしだいに姿を消していきます。

北九州:佐賀県 吉野ケ里遺跡・・最大規模環濠集落

弥生時代最大規模環濠集落。最大の特徴とされるのが防御に関連した遺構です。弥生時代後期には V字型に深く掘られた2.5キロメートル におよぶ大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられ、さらに壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていました。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていました。また、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造跡なども発掘されています。

山陰:鳥取県 妻木晩田遺跡・・弥生最大規模高地性集落

鳥取県の妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は標高90-120メートル前後の尾根を中心に立地した高地性集落で、面積が吉野ケ里遺跡の約3倍ある170ヘクタールにもおよびます。調査までに17.2ヘクタールが調査され、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されています。弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められています。集落は紀元前1世紀から形成され始め次第に拡大し、2世紀後半に最盛期を迎え、古墳時代前期初頭(3世紀後半)までの約300~350年間にわたって営まれていました。

妻木晩田遺跡

近畿:奈良県 唐古・鍵遺跡・・近畿最大級環濠集落

奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地に位置する約30万平方メートル規模の吉野ケ里遺跡に匹敵する弥生時代前期から後期まで栄えた環濠集落。規模の大きさだけでなく、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見されています。全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られています。楼閣などの建物・動物・人物の絵画を土器に描く風習があったことも確認されています。

唐子・鍵遺跡

楼閣の描かれた土器の破片

楼閣復元

東日本:静岡県 登呂遺跡・・環濠のない水田集落

登呂遺跡は洪水による被害を受けながらも、弥生時代後期から古墳時代(1世紀~5世紀)まで続いた遺跡です。住居や高床倉庫の他に祭殿が建てられていたこと、住まいの区域と水田の区域の境に水路がつくられていたこと、水田の大区画の中を小区画に分けていたことなど、新しい事実が明らかになりました。登呂遺跡には外敵から守る環濠がないのが大きな特徴で、東日本領域では争いもなく平和が続いていたようです。

登呂遺跡の場所

倭国大乱 ― クニが裂け、争いが燃え広がる

環濠が静まりつつあった一方で、列島の内部では新たな火種が生まれていました。
クニ同士の対立は次第に激しさを増し、やがて「倭国大乱」と呼ばれる大規模な争いへと発展していきます。
水田をめぐる争い、鉄器の流通をめぐる争い、祭祀の主導権をめぐる争い――
それらが複雑に絡み合い、列島は再び混乱の渦に飲み込まれていきました。

戦士たちは鉄の剣を手に山野を駆け、集落は焼かれ、逃げ惑う人々の声が谷に響きました。
環濠集落が衰退していったのは、争いが終わったからではなく、
争いがあまりにも広がりすぎ、もはや一つの村では守りきれなくなったからでした。
倭国大乱は、列島のクニグニが「誰を王とするのか」という問いに直面した時代でもあったのです。

108年 倭国は100余国に分かれていた
『漢書』地理志
「楽浪」とは、前漢の武帝が紀元前108年に設置した「朝鮮4郡」の一つ「楽浪郡」のことで、今の北朝鮮・平壌の付近。漢時代の日本は 百余国に分かれていたことが記されています。
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

146年ー189年の間 倭国大乱卑弥呼の養生
2世紀中~後期にかけて倭国が乱れて騒乱がおこります。争乱は長く続いたものの邪馬台国の一人の女子卑弥呼を王とすることで国中が治まったとされています。

『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。

『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

193年、空が変わり大地が揺らぐ(寒冷化)

193年、空気は急に冷たくなり、季節は乱れ、稲は実らず、列島全体が飢えの影に覆われていきます。寒冷化は、豊かさを誇ったクニグニでさえ揺るがし、人々は再び祈りと協力を求めるようになりました。かつて争いの象徴であった環濠は、もはや守りの意味を失い、村々は生き残るために互いに手を取り合う必要に迫られていきます。

2世紀後半から寒冷化が始まり土地収奪争いにあったとする説があります。
『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」
と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったと記録されています。

卑弥呼という名の光が立ちのぼる

そんな混乱のただ中で、ひとりの女王が立ちました。名を卑弥呼といい、彼女は剣を振るうことも、軍を率いることもありませんでした。代わりに、天と祖霊に祈りを捧げ、言葉少なに人々の心を結びつけていきました。寒冷化による不作、長く続いた争いの疲れ、そして倭国大乱による混乱が、列島の人々を彼女のもとへと向かわせたのです。

卑弥呼の居館には遠く離れたクニからの使者が列をなし、争いの仲裁を求め、豊穣の祈りを願いました。彼女が祈りを捧げると風は静まり、雨はほどよく降り、稲は再び実りを取り戻すと信じられました。やがて卑弥呼の名は海の向こうの大国にも届き、倭国はひとつの「王」を持つ国として認められていきます

3世紀~3世紀半 卑弥呼の統治 文化情勢の変化
倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる。近畿地方・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっている点、環濠集落も消滅していくなどの動きから倭国大乱と3世紀前半の卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性があると考えられています。

卑弥呼の邪馬台国統治

景初二年(238年)12月 – 卑弥呼、初めて難升米らをに派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた[1]
正始元年(240年) – 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)12月 – 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) – 難升米に黄幢を授与。
正始八年(247年) – 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。

倭国の新羅攻略
『三国史記』新羅本紀によると、卑弥呼の時代に新羅を数度攻略していた記録も残されている。
173年 – 倭の女王卑彌乎[4]が新羅に使者を派遣した。
193年 – 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った。
208年 – 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。
232年 –倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。

247年~248年 卑弥呼死去
卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

祭器が語るクニの絆

このころ、青銅製の祭器は列島各地に広く分布し、銅鏡・銅矛・銅剣は単なる宝物ではなく、クニの威信と祭祀の力を象徴する存在となっていました。特に銅鏡は、卑弥呼の霊威を支える象徴として重要視され、彼女のもとに集まった祭器は、倭国の統合を示すかのように輝いていたと考えられます。祭器の分布は、どのクニがどれほどの力を持ち、どれほど卑弥呼の統治に参加していたかを物語る地図のようでもありました。

祭器の分布と戦乱の関係
青銅器は主に祭器として利用されていましたが、銅矛は九州北部、四国西部での出土が多く、銅鐸は関西圏、四国東部など東部圏で出土数が多い傾向がみられます。銅矛の出土が多い領域では戦闘崇拝的傾向が強く、鉄器使用量、損傷した人骨が多数発見され争いが多かった跡がみられます。一方東になるほど鉄器の量、争いの跡も少なく平和的であったようです。

銅矛・銅鐸分布

鉄器分布

参考:古代日本の歴史を謎解きさんのブログ

祈りが国を包み、次の時代が息づきはじめる

大規模環濠集落が終焉を迎えたのは、争いが消えたからではなく、争いを超える新しい結びつきが生まれたからでした。倭国大乱の混乱を鎮めたのは、武力ではなく、卑弥呼の祈りでした。堀が埋まり、柵が倒れたあとに残ったのは、女王を中心とした協調の時代です。寒冷の風が吹きつけるなか、人々は火を囲み、卑弥呼の祈りに耳を澄ませながら、次に訪れる時代――古墳の王たちが大地に巨大な墓を築く新たな世界の幕開けを、静かに待っていたのです。

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愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
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