目次
縄文時代は、日本列島で約1万年以上続いた独自の文化期で、紀元前1万4千年頃から紀元前1千年頃までを指します。旧石器時代の移動生活から一歩進み、狩猟・採集・漁労を基盤としながらも、定住化が進んだことが大きな特徴です。完新世の温暖化により森が広がり、豊かな自然環境の中で人々は四季の恵みを巧みに利用して暮らしました。縄文土器は世界最古級で、縄目の文様が時代名の由来となっています。
土器の発明により、木の実のアク抜きや煮炊きが可能となり、食生活は大きく変化しました。住まいは竪穴住居が一般的で、炉を中心に家族が生活し、集落は円形や環状に配置されました。貝塚は食生活や儀礼の痕跡を残し、黒曜石・ヒスイなどの広域交易も行われていたことがわかっています。縄文時代は6つの時期(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)に区分され、特に中期には三内丸山遺跡のような大規模集落が形成され、社会構造が複雑化しました。
精神文化も豊かで、土偶や装身具には生命・再生・祈りが込められ、自然と共生する独自の世界観が育まれました。縄文時代は、自然と調和しながら暮らす人々の知恵と感性が結晶した、きわめて長く豊かな文化の時代だったといえます。
蛇神大物主神より授かりし神秘の恩恵
史上初!潜在意識の深海で甦る ― 奇跡の再生ヒーリング
薬に頼らずメンタル不調を瞬時に解消

大地はまだ冷たく、風には氷の匂いが混じっていましたが、その奥ではすでに新しい季節の胎動が始まっていました。氷期がゆっくりと後退し、森が再び息を吹き返す時代に、人々はその変化を「大いなる目覚め」と感じ取っていたのです。
当時の人々は、空の色や風の湿り気、獣たちの移動、木々の芽吹きといった自然の変化を、ただの気候の揺らぎとは受け取りませんでした。
それらすべてを、大いなる存在の呼吸として感じていたのです。
夜の焚き火の前で、長老は静かに語ります。
「森は眠りから覚めつつある。
氷の時代は終わり、我らの旅は新しい道へ続いていくだろう。」
人々はその言葉を胸に刻み、季節の移ろいを注意深く見守りながら暮らしていました。
氷が後退すると、海は深く入り込み、入り江や湾が生まれました。
人々は海辺で貝を拾い、魚を捕り、山では木の実や獣を追い、川では季節ごとの恵みを受け取っていました。
春は山へ
夏は川へ
秋は森へ
冬は海辺へ
自然の巡りに合わせて移動する暮らしは、まるで自然とともに舞う舞踏のようでした。
人々は「生きる」というよりも、「自然と共に在る」ことを大切にしていたのです。
この時代、火は単なる道具ではなく、生命の象徴でした。
集落には「火守り」と呼ばれる者がいて、夜明け前に起き、灰の中に残る小さな赤い光を探し出します。
それを息で育て、木の皮で包み、再び炎を立ち上がらせるのです。
火が立ち上がる瞬間、火守りは必ず空を仰ぎ、静かに祈りました。
「今日も我らを照らし、温め、導いてください。」
火は家族をつなぎ、旅を支え、獣を遠ざけ、食を生み出します。
火がある限り、人々は安心して暮らすことができました。
集団の中には、森の気配を敏感に感じ取る者がいました。
彼らは木々のざわめき、鳥の飛び方、獣の足跡から、森が何を望んでいるのかを読み取ります。
ある春の日、巫はこう告げました。
「北の森が開けています。
新しい水の道が生まれ、獣たちがそこへ向かっています。
我らもその道を辿るべきです。」
人々がその言葉に従って森の奥へ進むと、雪解けの水が作り出した新しい湖が広がっていました。
湖面は朝日を受けて金色に輝き、まるで天から降りた鏡のように静かに光っていました。
更新世末に気候が温暖化した結果、海面が上昇し、約1万年前の完新世に入るころまでには日本は大陸と切り離されて日本列島となります。気候の変化は、また日本列島の動物相・植物相に大きな影響を与え、亜寒帯性・冷温帯性の針葉樹林にかわり、東日本にはブナ・ナラなどの落葉広葉樹林、西日本にはシイ・カシなどの照葉樹林(常緑広葉樹林)が植生します。縄文時代は、温暖な気候になって植物も多く自生するようになったことから、人々は旧石器時代と同じく食物やケモノを求めて移動を続けますが、その行動範囲も狭くてすむようになり、ついには一か所に定住し、ムラを営むようになります。

氷期の終わり、森がゆっくりと息を吹き返すころ、人々の暮らしにはまだ「器」という概念がありませんでした。食べ物は葉に包み、獣の皮に乗せ、必要なときに必要なだけ扱うという、自然とほとんど同じリズムで生きていたのです。
ある晩、集落の中央で焚かれた大きな火のそばに、湿った粘土の塊が置かれていました。
それは子どもたちが遊びでこねていたもので、誰も特別な意味を持たせていませんでした。
しかし翌朝、火の熱で偶然焼き締まったその塊は、これまで見たことのない硬さと形をしていました。
長老たちはそれを手に取り、叩き、耳に当て、慎重に観察します。
「これは火が生んだ子だ」と誰かがつぶやきました。
その言葉は集落に広がり、粘土を焼くという行為が、やがてひとつの試みとして始まっていきます。
人々は川辺で粘土を探し、手のひらで丸め、指で押し広げ、さまざまな形を作りました。
最初は不格好で、火に入れると割れてしまうものも多かったのですが、失敗のたびに人々は火の性質を学び、粘土の扱いを覚えていきました。
火が強すぎれば割れ、弱すぎれば固まらない。
その微妙な加減を読み取ることは、自然と対話することそのものでした。
やがて、粘土の表面に縄を押し当てて模様をつける者が現れます。
縄の跡は、まるで森の蔦や川の流れを写し取ったように見え、人々はその文様に意味を感じました。
「これは森の記憶だ」「これは水の道だ」
文様は単なる飾りではなく、自然の力を器に宿す祈りのようなものでした。
土器が使われ始めると、人々の暮らしは少しずつ変わっていきます。
木の実を煮て柔らかくし、魚を煮込んで出汁を取り、食べ物の幅が広がりました。
保存の方法も増え、季節の恵みをより長く味わえるようになります。
火と土が結びついたことで、人々は自然の恵みを「受け取る」だけでなく、「活かす」術を手にしたのです。
夜、火を囲んで土器を眺める人々の目には、ただの道具以上のものが映っていました。
それは火が生んだ命であり、森と川の記憶を刻んだ器であり、人々の暮らしを支える新しい仲間でもありました。
こうして土器は、縄文の長い物語の中で欠かせない存在となり、人々の精神世界にも深く根づいていきます。
縄文時代草創期に土器が利用されても,動植物を探して場所を変えながら移り住む旧石器時代の人とあまり変わらない生活をしていましたが,草創期も中ごろになると村を作り,ある場所に長く住みつく人が出てきたようです。
紀元前1万3000年 大平山元I遺跡(世界最古の土器)
大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町に位置する、旧石器時代終末期から縄文時代草創期にかけての重要な遺跡です。
この遺跡では、後期旧石器時代後半(約2万年前)から縄文時代草創期(約1万3千年前)に至るまでの文化の変遷を連続的にたどることができ、日本列島各地との交流関係を示す多様な石器が出土しています。

津軽半島には、大平山元遺跡、縄文時代中頃の三内丸山遺跡、縄文時代晩期の亀ヶ岡遺跡があります。
紀元前1万3000年- 紀元前9500年 縄文草創期の土器
土器は底が丸く尖った形状をしているため、石で囲んだり、土に埋め固定し火を焚いて調理したものと考えられています。最古の土器は無文で、その後、隆起線文土器、爪形文土器と変遷し、約1万年前に縄目の模様がついた多縄文土器が登場します。

丸底深鉢形土器 縄文草創期 横浜市都筑区花見山遺跡出土
紀元前1万3000年- 紀元前9500年 縄文草創期の土偶(女神像)

日本列島では,25,000 年前の大分県岩戸で「こけし形の石偶」の後,長い空白期間をおいて、縄文草創期中頃,14,500 年前に愛媛県上黒岩に扁平な円礫に乳房と性的三角形を線刻した線刻女神像が現れます。
線刻女神像は長い髪・大きな乳房・こしみの・かすかにわかる逆三角形を、鋭い石器などで小さい緑泥片岩に描かれています。これは信仰の対象であっただろうといわれており、日本での出土は上黒岩岩陰遺跡が初めてで、南ヨーロッパにも類似のものが出土している貴重なものです。

紀元前1万1000年前後
三重県 粥見井尻(かゆみいじり)遺跡

1996年、三重県松阪市の粥見井尻遺跡で、女性の上半身(頭部・胸・腹部)をかたどった土偶が発見されました。
この土偶は、滋賀県の相谷熊原遺跡の土偶が見つかるまでは「日本最古級の土偶」とされてきた重要な資料です。
遺跡からは縄文時代草創期の竪穴式住居跡が確認されており、土偶はその住居跡から2点出土しました。
そのうち1点はほぼ完全な形で残っており、全高6.8cm、横幅4.2cm、厚さ2.6cmという小型のものです。
頭部や手足の表現はなく、逆三角形のシルエットを持つ独特の造形で、ヨーロッパの旧石器時代の女性像に見られるような、強い性的誇張表現は控えめです。

この土偶は、縄文草創期の精神文化を知るうえで極めて重要な資料であり、当時の人々がどのように生命や女性性を象徴化していたのかを示す貴重な手がかりとなっています。

2010年滋賀県東近江市集落遺跡の相谷熊原遺跡から、粥見井尻遺跡とほぼ同時代とみられる女神の土偶像が発見されました。高さ3.1㎝、重さ14.6gの指先サイズ。女性の丸みをおびた豊満な上半身部のみの形状で、乳房、腰のくびれが明瞭に表現され、底を平たく仕上げて自立できる造り方となっています。信仰や祭祀に関わる呪物とも考えられています。


朝の霧が森を包むころ、集落の人々は静かに目を覚まします。
竪穴住居の入口から差し込む淡い光が、夜の冷たさを少しずつ溶かしていきます。森はまだ眠っているように見えますが、鳥たちの声が響き始めると、世界がゆっくりと動き出す気配が広がります。
人々はまず風の向きや木々の揺れ方を読み取り、その日の行動を決めます。
森が静かにしている日は山菜を採り、ざわめく日は獣たちが動く合図と考えられていました。森は単なる資源ではなく、ひとつの大きな「いのち」として尊ばれていたのです。
春、雪が溶けると、山の斜面には柔らかな緑が芽吹きます。
人々は若い芽を摘む前に必ず手を合わせ、森の精霊に感謝を伝えました。採りすぎれば翌年の芽が減ることを知っており、自然の巡りを乱さないように心を配っていました。
夏になると、川は雪解け水で勢いを増し、魚たちがきらめくように泳ぎます。
人々は石を積んで魚を誘い込む仕掛けを作り、捕れた魚を燻して保存しました。川辺では火が焚かれ、長老たちが「川は天からの贈り物だ」と語り聞かせます。川の流れは命の巡りそのものとして尊ばれていました。
秋は森が最も豊かになる季節です。
クリの実が落ちる音が、森の太鼓のように響きます。
人々は木の実を集め、石で砕き、アクを抜き、団子のようにして食べました。夜になると火を囲み、長老が森の物語を語ります。「木々には魂が宿り、私たちを見守っている」という教えは、子どもたちの胸に深く刻まれていきました。
冬は厳しく、雪が深く積もります。
狩りに出た者たちは獣の足跡を追い、息を潜めて森を歩きました。獲物を仕留めたとき、人々は必ずその場で祈りを捧げます。命をいただくことへの感謝は、白い息となって空へ溶けていきました。
海辺に暮らす集落では、潮の満ち引きを読む技が受け継がれていました。
貝を採り、魚を捕り、海の向こうから流れ着く木や石を見つけると、遠い世界の気配を感じました。彼らは「海は大きな母だ」と語り、その言葉は波の音とともに人々の心に染み込んでいきました。
こうして、森と海とともに生きる日々は、季節の巡りと同じように静かに続いていきます。
自然と争うことなく、ただ寄り添い、受け取り、返す。
その暮らしの中で、人々は世界のすべてがつながっていることを深く感じていたのです。
紀元前7500年頃 上野原遺跡(国内最古、最大の集落跡)

鹿児島県霧島市の高台にある縄文時代から弥生時代を中心とした複合遺跡。約9,500年前(縄文時代早期前葉)の竪穴式住居跡などが発見された「国内最古、最大級の定住化した集落跡」

鹿児島県霧島市
縄文早期の土器は、深鉢形が中心で、厚手で丈夫でした。
文様はまだ素朴で、指で押した跡や縄を転がした跡が残り、
それは単なる器ではなく、火と大地の力を宿した「生活の守り手」でした。
火にかけられた土器の内側では、
木の実が柔らかくなり、海の幸が煮え、
その湯気は、森と海の恵みが混ざり合う香りを集落に満たしました。
土器は、
「火と大地をつなぐ器」
として、人々の暮らしを支え続けました。

尖底深鉢形土器 縄文早期 千葉県香取市城ノ台貝塚出土
縄文早期の土偶はまだ小さく、素朴で、
丸みを帯びた身体や、妊娠した女性の姿を思わせる形が多く見られます。
それは、命が芽吹き、育ち、また大地へ還るという
「循環の物語」を象徴していました。
土偶が壊れた状態で見つかることが多いのは、
祈りを天へ返すための儀式だったと考えられています。
願いが叶うように、災いが遠ざかるように、
人々は土偶をそっと割り、その破片を森や川へ返しました。
それは、
「見えない存在と対話するための静かな行為」
でした。
紀元前7500年頃 打越岱遺跡 (早期の女神像)

参照:縄文早期土偶(袖ヶ浦市打越岱遺跡)の3Dモデル作成と観察
袖ケ浦市上泉の打越岱(うちこしだい)遺跡の縄文早期土偶は、縄文早期中葉(沈線文期・約9,500年前)のものとしては全国的にも極めて貴重で、ほぼ完全な形で出土した希少例です。
袖ケ浦市公式サイトでも「全国的に見ても沈線文期の土偶の出土例は非常に少なく、完全に近い形での発見は他に例がない」と評価されています。
長さ6センチ、最大幅3センチ、厚さ1センチ、重さ15・5グラムの平らな形で、両腕の先部分が欠損

やがて、南の海の底で眠っていた巨大な力が目を覚まします。
鬼界カルデラの大噴火――
日本列島の歴史上、最大級の噴火でした。
火砕流は海を越えて九州南部に達し、
厚い火山灰は本州・四国・北海道にまで降り注ぎました。
空は灰色に閉ざされ、太陽の光は弱まり、
季節は乱れ、森は沈黙し、海の恵みも減りました。
南九州の縄文文化は一時的に姿を消し、
人々は北へ、東へと移動していきました。
自然の大きな揺らぎは、
人々の心に深い問いを残しました。
「大地はなぜ怒ったのか」
「空はなぜ光を失ったのか」
その問いは、やがて祈りの形へと変わっていきます。
紀元前5300年頃(4300年?)鬼界カルデラ噴火

鬼界カルデラは、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラ。先史時代以前に複数回の超巨大噴火を起こし、約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模のものでした。火砕流は九州南部にも到達し、九州南部の縄文人を絶滅、その影響は西日本全土に影響したと推測されています。


縄文時代の人口も東日本の方が多かった
噴火から数百年が過ぎるころ、
灰に覆われた大地にも草が芽吹き、
森はゆっくりと再生を始めました。
人々は慎重に、しかし確かな足取りで、
かつての土地へ戻り始めます。
焼けた森の跡に新しい住居を建て、
海と森の恵みが戻るのを待ちながら、
静かに暮らしを紡いでいきました。
この再生の時代に、
人々の精神世界は大きく深まりました。

鬼界カルデラの大噴火からしばらく経ち、空と森の色がようやく落ち着きを取り戻すころ、人々の心には「見えない世界へのまなざし」がいっそう深く根づいていきました。
自然の大きな揺らぎを経験したことで、人々は命の循環や大地の力を、以前よりも強く意識するようになったのです。
そのころ、集落では土偶づくりが盛んになっていきました。
土偶は単なる飾りではなく、祈りの形そのものでした。
妊娠した女性の姿、祈るように腕を広げた姿、豊穣を象徴する丸みを帯びた形。
それぞれの土偶には、命が芽吹き、育ち、また大地へと還っていくという「循環の物語」が込められていました。
土偶が壊れた状態で見つかることが多いのは、祈りを天へ返すための儀式だったと考えられています。
人々は願いが叶うように、あるいは災いが遠ざかるように、土偶を意図的に割り、その破片を森や川へそっと返しました。
それは、目に見えない存在と対話するための静かな行為でした。
縄文時代前期は、現代よりも気温が約2度高く、冬も夏も温暖な時期でした。
千葉県の貝塚からは珊瑚が見つかっており、東京近辺にもサンゴ礁が広がるほどの暖かさだったことがうかがえます。
海面は現在より4〜5メートル高く、当時の海辺の村は、今では海から離れた内陸部で発見されています。
温暖化によって動植物の種類が増え、食料は豊富になり、人口もゆっくりと増加していきました。
特に重要なのは、この時期に「栽培技術」が始まったことです。
日本各地の遺跡からは、クリ・エゴマ・ヒョウタン・アサ(大麻)・陸稲など、さまざまな栽培植物の種子や花粉が発見されています。
森の恵みを採るだけでなく、必要な植物を選び、育て、管理するという新しい暮らしが芽生え始めていたのです。
また、耳飾り・勾玉・管玉などの装身具もこの時期に作られはじめました。
それらは身を飾るだけでなく、祈りや身分、共同体の絆を象徴する大切な品として扱われました。
人々は自然の中に宿る力を形にし、それを身につけることで、見えない世界とのつながりを感じ取っていたのです。
この時代、人々の祈りは森や空だけでなく、「海の向こう」へも広がっていきました。
縄文人は高度な外洋航海技術を身につけており、丸木舟で島々を行き来していたことが、各地の遺跡から明らかになっています。
・伊豆諸島の南端・八丈島には縄文中期の住居跡や墓が残り、
・鹿児島から沖縄へと続く小島には、九州と同じ土器をもつ遺跡が点々と存在し、
・日本全体では約200例の丸木舟が発見され、特に関東地方に多く分布しています。
人々は丸木舟に乗り、星の位置、潮の流れ、風の匂いを読み取りながら外洋を渡りました。
海は危険であると同時に、遠い土地とつながる道でもありました。
航海に出る者たちは、出発前に土偶を手に取り、海の神々に祈りを捧げました。
「どうか波を鎮め、無事に帰らせてください。」
祈りは土偶に宿り、舟に乗る者たちの心を支えました。
海を越えて運ばれた黒曜石や貝は、遠い土地の物語を集落にもたらし、人々の世界観をさらに広げていきました。
紀元前5500年頃 雷下遺跡(日本最古の丸木船)


丸木船
現在確認されている最古の丸木舟は、縄文早期に属する千葉県市川市の雷下遺跡のものです。発掘された丸木舟はムクノキをくりぬいたもので、長さ約7・2メートル、幅約0・5メートルの丸木舟としては大型のものになります。

縄文前期には、のちの時代へと受け継がれる勾玉の原型が姿を見せ始めます。
石や骨を磨き、しずくのような形に整えた小さな装身具は、祈りの象徴でした。
・命の循環を表す曲線
・身を守る護符
・共同体の絆の印
火の前で揺れる勾玉は、森と海の精霊の気配を宿すものとして大切に扱われました。
紀元前5000年頃 長者ヶ原遺跡 (装身具の使用 ヒスイの勾玉)

長者ヶ原遺跡 の勾玉
参考:勾玉の考古学的な考察
遅くとも紀元前5000年ごろには翡翠製勾玉が作られていたことが判明しており、北海道の美々4号遺跡・ヲフキ遺跡、青森県の三内丸山遺跡・亀ヶ岡遺跡、新潟県の糸魚川の長者ヶ原遺跡・寺地遺跡、長野県の離山遺跡などから出土しています。特に長者ケ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともに翡翠の工房が発見されています。三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが新潟県の糸魚川産であることから、縄文人が広い範囲で交易していたことを示しています。

北の大集落・三内丸山では、玦状耳飾りが特別な人々の耳を飾っていました。
C字形に切れ込みを入れた独特の形は、滑石や蛇紋岩を磨き上げて作られた精巧な装身具です。
・円形に近いもの
・楕円形
・三角形に近いもの
儀式の際、族長や巫女が耳に装着すると、火の明かりに照らされて星の欠片のように輝きました。
その光は、森と海の精霊を呼び寄せる“祈りの印”と考えられていました。
三内丸山遺跡(紀元前3900年〜紀元前2200年頃)
三内丸山遺跡は、青森県青森市に位置する日本最大級の縄文集落です。
これは、縄文文化がもっとも豊かに発展した時期と重なります。
1500年にわたる長い期間、三内丸山は北東北の中心的な拠点集落として繁栄し、
竪穴住居、大型掘立柱建物、盛土、墓域、道路などが計画的に配置された“縄文都市”とも呼べる規模を持っていました。
ここからは黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土しており、600キロ以上も離れた新潟産のヒスイや、長野や新潟産の黒曜石などが発掘されており、交易に当たっては、日本海を通じた海運ルートがすでに存在していたようです。
出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われ、土器、石器が中心ですが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土しています。また平底の円筒土器や玦(けつ)状耳飾りなどは、中国大陸の遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されています。

県青森市大字三内字丸山

大型竪穴住居もこの頃にすでに建造されていた

板状土偶

玦(けつ)状耳飾り
興隆窪文化(紀元前6000-5000年あたり)
と類似した遺物
狩猟採集が中心でありながら、縄文前期には陸稲(畑で育てる稲)が試みられ始めました。
湿地ではなく、森を切り開いた小さな畑で育てられた稲は、まだ収量も少なく、試験的なものでしたが、
人々は新しい作物の可能性を感じ取っていました。
・焼畑で土壌を整え
・陽当たりの良い斜面に種をまき
・雨と風の巡りを読み
・小さな穂を大切に収穫する
陸稲は、森と海の恵みに加えて、
「自ら育てる食べ物」という新しい感覚を人々にもたらしました。
紀元前4500年頃 朝寝鼻貝塚 (日本最古の陸稲栽培遺跡)

様々なプラントオパール
a:イネ b:ヨシ(葦)c:タケ亜科、d:ウシクサ族(ススキなど)
岡山県・朝寝鼻貝塚から6500年前のイネのプラント・オパール(植物の細胞組織にできるガラス質の結晶)が検出されていることからイネの畑作がこの時期から行われていたようです。また南溝手遺跡からは約3500年前の籾(もみ)の痕がついた土器がみつかっています。

イネの栽培種にはアフリカイネ 、アジアイネ があり、アジアイネにはインディカ (タイ米) 及びジャポニカ (日本米) の2種類があります。また、ジャポニカ米は熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカに分かれます。イネと稲作は 縄文時代前期の終わり頃はじめて日本列島に渡来し、このときは熱帯ジャポニカと言われる陸稲でした。 ジャポニカ米の起源は中国の「福建米(ふっけんまい)」だったと考えられおり、中国の「長江」の中〜下流域で栽培されていたものが、縄文時代に日本に持ち込まれたとされています。

縄文前期には、陸稲だけでなく、野菜、ヒエ・アワ・クリ・エゴマ・ヒョウタン・アサ(大麻)・サトイモなど穀物の食物栽培も始まっていました。
これらは森の恵みを補い、生活をより豊かにする作物でした。
森は単なる採集の場から、
「育てる場所」へと変わり始めたのです。
人々は森の木々を選び、間伐し、光を入れ、
クリの木がよく育つように手を加えました。
これは、縄文人が自然と対立するのではなく、
自然と共に育てる農耕の原型でした。

イネ(稲)
水稲は弥生時代に伝わってきますが、縄文時代にもイネは作られていました.そのころのイネは今のイネとちがい,赤米(あかまい)といわれる赤いお米や,黒米(くろまい)とよばれる黒いお米などいろいろな種類が混ざりあって作られていたようです.

ひえ(稗)
イネ科の作物で、アワと並んで古くから食べられてきました。稲や麦が不作のときに代用される救荒作物(きゅうこうさくもつ)としても利用される重要な穀物。

アワ(粟)
アワもヒエと同じように「から」をとって,おかゆやお団子にして食べていたと考えられています。

ソバ
現代の人がふつうに食べている「おそば」は「そば切り」といって江戸時代に広まったものです.それまではおかゆにしたり,粉にしてからねったり,お団子にして食べていました.

さといも
サトイモはゆでたり,やいたりして食べていました.くさりやすい性質なので発掘で見つかることはありませんが,縄文人達はかなりたくさん作っていたようです.
栽培技術の存在(三内丸山遺跡:紀元前3900年ー2200年頃)
青森県の三内丸山遺跡の遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡遺跡。集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されています。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かりました。その他、多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土しています。






前期には各地で大きな貝塚が築かれました。
それは単なるゴミ捨て場ではなく、共同体の記憶が積み重なる場所でした。
貝殻、折れた石器、動物の骨、時には人の骨――
それらは暮らしと祈りの痕跡であり、
火を囲んで語られた物語が静かに積み重なっていきました。
縄文前期の土器は、深鉢を中心に発達し、煮炊きや保存に適した形へと進化しました。
火に強く、厚手で丈夫な器は、海と森の恵みを調理し、共同体の食卓を支えました。
火の明かりに照らされた土器の影は、夜の住居の壁に揺れ、
人々の暮らしを温かく包み込んでいました。
縄文時代前期の土器は底が平らで,把手(とって)のついたものも出始めます。

円筒形土器 縄文前期 青森県八戸市是川一王寺貝塚出土
集落では、季節の節目ごとに土偶を囲んで祈りが行われました。
春には豊かな芽吹きを願い、夏には川の恵みに感謝し、秋には収穫を祝い、冬には命を守る火の力を祈りました。
土偶はその中心に置かれ、人々の願いを受け止める存在として扱われました。
火の明かりに照らされた土偶の影は、壁に揺れながら、まるで生きているかのように見えました。
子どもたちはその姿を見て、森や海の精霊がそばにいると感じ、安心して眠りについたといいます。
土偶は時代とともに姿を変え、地域ごとに独自の形が生まれました。
それは、祈りが土地の自然や暮らしと深く結びついていた証です。
しかしどの土偶にも共通していたのは、「命をつなぐ」という願いでした。
鬼界カルデラの噴火という大きな揺らぎを経験した人々は、
自然の力を畏れながらも、森と海と共に生きる道を選び続けました。
土偶はその選択の象徴であり、祈りの形として、縄文の精神世界を支え続けたのです。
測量技術の存在
縄文前期から中期(約5900〜4200年前)にかけて、すでに人々が太陽の動きを読み取り、季節を把握するための高度な観測と測量を行っていたことが明らかになっています。
三内丸山遺跡の巨大な木柱列はその代表例で、直径・深さともに約2メートルの柱穴が等間隔に並び、夏至や冬至、春分や秋分の太陽の位置を知るための「日時計」として機能していたと考えられています。縄文人の測量は、現代のような器具を用いた数学的測量ではありません。しかし、太陽の影の動きや地形の特徴を読み取り、等間隔の柱列を築き、巨大な構造物を正確に配置する技術は、当時としては驚くほど高度なものでした。自然と天体を読み解く力が、縄文人の測量技術の基盤となっていたのです。
六本柱建物跡は、その柱の大きさで評価されていますが、それ以上に注目すべきは柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されている点で、これはその当時既に測量技術が存在していたことを示すものです。また、柱は2度ほど内側に傾けて立てられる現代の内転(うちころび)と同じ技法が利用されています。

六本柱建物跡
ストーンサークル
三内丸山遺跡だけでなく、各地の環状列石(ストーンサークル)もまた、太陽の出没位置を観測するための基準点として機能していたと考えられています。これらの遺構は、単なる祭祀の場ではなく、天体観測と測量の場でもありました。太陽がどこから昇り、どこへ沈むのかを正確に知ることは、季節の把握と生活の安定に欠かせない知恵だったのです。

ストーンサークル(環状列石)は、石を環状に配置した古代の遺跡です。イギリスのストーンヘッジのようなもので、世界に共通してみられ日本でも確認されています。大きさは直径30メートル以上のものと直径10メートル以下のものがあり、大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い傾向にあるようです。東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られていきますが、現在までのところ最も古いと考えられているのは縄文時代前期の長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡とされています。

出典:星降る中部高地の縄文世界 https://jomon.co/point/detail/95/

森が濃い緑に包まれ、海が静かに光を返すころ、日本列島はかつてない豊かさに満ちていました。
紀元前3500年ごろ、気候は温暖で安定し、森は深く、川は澄み、海は豊かな魚を育て、人々の暮らしは自然の恵みに支えられていました。
植林農法もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化していきます。
有名な火焔式土器や立体的な大型の土偶も出現し最も栄えた時期といわれています。
縄文中期は、縄文文化が最も輝いた時代といえるほど、生活も精神も豊かに成熟していきました。
森は、ただの資源ではなく、ひとつの大きな「いのち」として人々の前に広がっていました。
木の実は豊かに実り、山菜は季節ごとに芽吹き、獣たちは森の奥から姿を見せました。
春には山菜が芽吹き
夏には川が魚で満ち
秋にはクリやドングリが地面を覆い
冬には獣の足跡が雪に刻まれました
人々は森の声を聞き、風の向きや鳥の鳴き方から季節の巡りを読み取り、自然と調和しながら暮らしていました。
この時代、集落はかつてない規模へと成長します。
竪穴住居が幾重にも並び、中央には大きな共同住居が建てられ、火を囲んで話し合いが行われました。
人々は食料を分け合い、森の管理を相談し、季節の祭りを共に祝いました。
共同体の絆は強く、火の明かりは夜の闇をやわらかく照らし、人々の心をひとつに結びつけました。
縄文中期の土器は、縄文文化の象徴ともいえるほど華やかで、力強い造形をしています。
炎のように立ち上がる文様、渦巻く線、複雑に組み合わされた突起。
それらは単なる器ではなく、祈りの形であり、自然の力を宿す象徴でした。
火を囲む祭りの夜、土器の影は揺れ、まるで生きているかのように見えました。
人々はその姿に、森や海の精霊を感じ、祈りを捧げました。
この時期は縄文土器でも国宝に指定されている、芸術性に富んだ「 火焔型土器 」が登場します。胴体の表面は粘土のひもを貼り付けたような隆線(りゅうせん)や隆帯(りゅうたい)と渦巻き文で埋め尽くされています。「トサカとノコギリはあるが縄目はない」のが火焰型土器のスタイルです。

深鉢形土器(火焔型土器)
伝新潟県長岡市関原町馬高遺跡出土

深鉢形土器(火焔型土器)
新潟県十日町市笹山遺跡出土

深鉢形土器
東京都あきる野市草花出土

把手付甕形土器
長野県伊那市宮ノ前出土
この時代、丸木舟による航海はさらに発展し、海は人々をつなぐ道となりました。
これらは海と川の道を通って交換され、遠い土地の物語や祈りも一緒に運ばれていきました。
伊豆諸島の八丈島には中期の住居跡が残り、
鹿児島から沖縄へと続く島々には九州と同じ土器が見つかれています。
人々は星の位置、潮の流れ、風の匂いを読み取り、外洋を渡る高度な航海技術を身につけていました。
航海に出る前、人々は火の前に集まり、海の神々に祈りを捧げました。
「どうか波を鎮め、無事に帰らせてください。」
その祈りは、海を越える者たちの心を支える灯でした。
縄文中期は、祈りと祭りが最も豊かに行われた時代でもあります。
土偶はまだ素朴な形を保ちながらも、命の循環や豊穣を象徴する存在として大切に扱われました。
季節の節目には、森の恵みを祝う祭りが行われ、
火の明かりの中で歌や踊りが響き、人々は自然とともに生きる喜びを分かち合いました。
人々の生活は、いつも自然の脅威と向き合っていたため、人々はあらゆる自然物や自然現象の中に霊威の存在を認めていました。原始社会に特徴的なこのような信仰をアニミズムといいます。呪術の力で病気や災難を取り除こうとし、霊に祈りを捧げることで獲物の増加を願っていました。
このような習俗を示す呪術的遺物に、女性をかたどっだ土偶、男性を象徴的に表現した石棒があります。さらに、人生の通過儀礼、つまり成人式、結婚、近親者の死などの際に行われた抜歯の風習もこの頃はじまります。
縄文のビーナス (長野県茅野市 棚畑遺跡)
縄文時代中期初頭になると土偶は立体的になり、頭部と四肢の表現が明瞭化すると共に、土偶自体が自立できるようになってきます。黄金比を満たす渦巻模様なども施されたこの造形変化は、縄文時代の全期を通じて最も大きなものでした。
縄文人が製作した土偶は、縄文時代を通して日本列島のどこでも一様に使われていたわけではなく、時期と地域の両面で限定された存在でした。
まず、縄文早期の前半には関東地方東部で集中的に使用されましたが、縄文中期になると土偶の使用は一旦姿を消します。
その後、縄文後期の前半になると、東日本で再び土偶が盛んに作られるようになります。
一方、それまで土偶の使用がほとんど見られなかった九州では、縄文後期に入ってから北部および中部地域で土偶が登場し始めます。
このように、土偶の分布と使用は、縄文文化の変化や地域ごとの精神世界の違いを反映していると考えられています。

1986年(昭和61年)、長野県茅野市の「棚畑遺跡」から高さ27cmの縄文時代中期の女神像が発見され、「縄文のビーナス」と名付けられました。頭部は頂部が平らに作られ、円形の渦巻き文が施されており、耳にはイヤリングをつけていた可能性を示す小さな穴が開けられています。

腕は左右に大きく広げられ、手の表現は省略されています。胸は小さくつまみ出すように付けられているだけですが、その下に続く腹部と臀部は大きく張り出し、妊娠した女性の姿を力強く表現しています。
縄文の女神 (山形県 西ノ前遺跡)

山形県の西ノ前遺跡では、地下約1mの範囲から左足、腰、頭、胴、右足といった5つに割れた土偶が次々と出土しました。これらは後に復元され、高さ45cmに達することが判明し、日本で発掘された土偶の中でも最大級のものとされています。
均整のとれた八頭身の美しい造形は、縄文人が理想とした人体表現の極致ともいえるもので、その完成度の高さから「縄文の女神」と呼ばれています。

日本初の「子抱き土偶」 東京八王子 宮田遺跡
八王子市川口町の宮田遺跡から発掘された「子抱き土偶」は、乳児を抱いた姿を表した土偶としては初めて確認された例です。高さは71mmと小型で、頭部は欠損していますが、母親が横座りの姿勢で乳児を抱きかかえ、授乳しているような情景が丁寧に表現されています。

母親の身体には沈線による多様な文様が施されており、特に膝部分の渦巻き文様が印象的です。乳児の方には、目や口の表現に加えて、縄文時代中期前半の土偶に特徴的なカモメ状文様が、眉間に刺突文で描かれています。
参考
・歴史系総合誌「歴博」第179号
・南高生が発掘した「子抱き土偶」
・石棒
石棒(せきぼう)は縄文時代の磨製石器の一つで、男根を象った形状をもつことから、子孫繁栄に関わる儀礼や呪術・祭祀に用いられた特殊な道具と考えられています。住居内の炉のそばから出土する例が多く、火熱による損壊や変色が見られることから、石棒は火と関連する祭祀に使用された祭祀具であった可能性が高いとされています。
石棒は縄文時代中期から後期にかけて盛んに作られ、弥生時代前半まで使用が続きました。分布の中心は東日本であり、西日本からの出土例は比較的少ないことが知られています。

石棒

日本最大の石棒・北沢大石棒
長さは223cm、直径は25cm
・抜歯の風習
縄文時代の土坑墓や貝塚から出土する人骨の頭部には、健康な歯を意図的に抜いている例が多く確認されており、抜歯が広く通過儀礼として行われていたことが明らかになっています。
この風習は縄文中期末に仙台湾岸で発生し、関東地方へ南下しながら広まり、縄文後期には九州地方の一部にも伝播していたことが確認されています。
また、中国でも紀元前5000年頃の遺跡から抜歯の痕跡が見つかっており、この風習が大陸から伝来した可能性も指摘されています。

犬歯や下の前歯が抜歯してある人骨

犬歯や下の前歯が抜歯してある人骨

叉状研歯
焼畑農業の開始

焼畑農業とは、作物を栽培した後に農地を焼き払って地力を回復させる農法で、熱帯から温帯にかけて古くから伝統的に行われてきました。森林や原野に火を入れて草木を焼き払い、その焼け残った草木や灰を肥料として利用しながら作物を栽培し、地力が低下すると別の場所へ移動するという循環的な農耕形態です。これは施肥を行わず、焼却灰と休耕によって土壌の力を回復させる点に特徴があります 。
日本では、焼畑農業は縄文時代中期にはすでに行われていたとされ、特に水田耕作が困難な山間部で発達しました。栽培された作物はアワ・ダイズ・アズキなどの雑穀類が中心で、地域によってはソバやイモ類なども加わっていたと考えられています。こうした焼畑は、近代に入っても高知・熊本・愛媛・山形などの山間地域で昭和中頃まで続けられていました。

森が深い緑に包まれ、海が静かに光を返すころ、日本列島はゆっくりと変化の時代へと入っていきました。
紀元前2400年ごろ、気候は再び冷え込み、海はわずかに後退し、かつて豊かだった湿地や入り江が姿を変え始めます。
縄文後期は、自然の揺らぎとともに、人々の暮らしが静かに再編されていく時代でした。
海水面の低下
縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきます。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていきます。
一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していきます。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化し、その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっています。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じていきます。


クリやドングリの実りは年によって大きく変わり、
川の魚の動きも以前より不安定になりました。
人々は森の奥へ入り、より多くの木の実を探し、
川では新しい漁法を試し、海辺では潮の満ち引きを細かく読み取るようになりました。
大きな集落は次第に縮小し、
代わりに小規模な集落が点々と生まれ、
人々は季節ごとに移動しながら、柔軟に暮らしを組み立てていきました。
この時代、丸木舟による航海はさらに重要な役割を果たします。
気候の揺らぎによって資源が偏ると、
人々は海や川を通じて互いに助け合うようになりました。
これらは海と川の道を通って交換され、
遠い土地の物語や祈りも一緒に運ばれていきました。
外洋航海の技術は、縄文中期から受け継がれた高度なもので、
星の位置、風の匂い、波の形を読む力は、
航海に出る者たちの誇りでもありました。
航海に出る前、人々は必ず火の前に集まり、
土偶や石の護符を手に取り、海の神々に祈りを捧げました。
「どうか波を鎮め、無事に帰らせてください。」
その祈りは、海を越える者たちの心を支える灯でした。
縄文後期の土偶は、以前よりも抽象的で、
どこか神秘的な形を帯びるようになります。
それは、自然の変化を前にした人々の祈りが、
より深く、より切実なものになっていった証でした。
壊された状態で見つかる土偶は、
願いを天へ返すための儀式の名残と考えられています。
人々は土偶を割り、その破片を森や川へ返し、
見えない世界とのつながりを確かめていました。
紀元前2400-1200年 縄文後期土器
これまで深鉢型が一般的であった土器もこの時期になると、壺型や注口のついたバラエティーに富んだ器種が登場します。文様は複雑になり、縄文を磨り消して磨き、光沢を出す技法が盛んに用いられます。生活の多様化に伴って、目的ごとに土器が作られたと考えられます。

人形装飾付壺形土器
青森県弘前市十腰内出土

注口土器
青森県十和田市米田出土
紀元前2400年頃 長野県茅野市 中ッ原(なかっぱら)遺跡 仮面土偶

長野県茅野市湖東(こひがし)の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶です。高さは34センチメートル、重さは2.7キログラムあります。顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。
「仮面の女神」の顔面は逆三角形の仮面がつけられた表現になっています。細い粘土紐でV字形に描かれているのは、眉毛を表現しているのでしょうか。その下には鼻の穴や口が小さな穴で表現されています。体には渦巻きや同心円、たすきを掛けたような文様が描かれています。足には文様はなく、よく磨かれています。この土偶は、土器と同じように粘土紐を積み上げて作っているため、中が空洞になっています。こうした土偶は中空土偶と呼ばれ、大形の土偶によく見られる形態です。

紀元前2000~1000年頃 郷原(ごうばら)遺跡 ハート形土偶

縄文時代後期の作と思われる土偶。高さは約30.5cm。頭がハート型をしているのが特徴。乳房、妊娠線・産道が表現されており女性像であるといわれています。また、体には線や渦巻模様が描かれています。

紀元前1500年頃 製塩のはじまり
この時期になると土器(製塩土器)に塩分濃度の高い海水を火で煮つめて塩をつくる製塩方法がはじまります。製塩土器を使った塩づくりは,東日本では縄文時代後期(今から約3,500年前)に始まり東北地方へ広がり、西日本では弥生時代中期(今から約2,000年前)に始まったとされています。製塩土器がみつかるのは海辺の遺跡ばかりだけではありません。中国山地の庄原市の和田原D地点遺跡や三次市の松ヶ迫遺跡群,東広島市の助平3号遺跡など海辺から遠く離れた遺跡からも出土しています。 しかし,こうした製塩土器による塩づくりは,瀬戸内を中心とした西日本では,古墳時代の終わりから奈良時代にかけて衰退していき,平安時代にはほとんどみられなくなりました。その理由としては,塩の需要の増加とともに,土器製塩法に代わって,海辺に広い砂地の塩浜をつくり,そこで大量の鹹水を採り,それを釜によって煮つめる方法が開発されたからです。

宮城県里浜貝塚出土製塩土器
文様などは施されない。内側は水もれを防ぐために丁寧に磨かれているのが特徴

製塩土器の時代別地域別一覧
国内最大、最古級の「水銀朱」(徳島阿南市加茂宮ノ前遺跡)

徳島県加茂宮ノ前遺跡から、赤色顔料である水銀朱の付着した石杵(いしきね)、石臼(いしうす)が300点以上、原料となった辰砂原石が多量に出土し、「縄文時代後期の水銀朱関連遺物の出土数としては国内最多。顔料の一大産地、生産拠点としては国内最大、最古級」であることが明らかになっています。


参考:忌部文化研究所通信

森の葉が少しずつ色を変え、海の潮の満ち引きがわずかに変調を見せるころ、日本列島は新しい時代の気配を帯び始めていました。
縄文晩期は、長く続いた縄文の暮らしが静かに形を変え、未来へと橋渡しされていく時代でした。
紀元前1200年ごろ、気候は再び冷え込み、海はさらに後退しました。
かつて豊かだった入り江は干上がり、湿地は広がり、川の流れはゆっくりと姿を変えていきます。
人々は森の変化を敏感に感じ取り、
新しい採集地を探し、季節ごとの移動を増やしながら暮らしを再編していきました。
大きな集落はさらに縮小し、
家族単位の小さな住居が点々と並ぶようになります。
しかし、祭りや祈りの場では人々が集まり、
火を囲んで物語を語り合う時間は変わらず続きました。
気候が揺らぐほどに、人々は海へと目を向けました。
丸木舟による航海は、晩期になっても衰えるどころか、
むしろ重要性を増していきます。
海は、遠い土地とつながる道であり、
不足した資源を補い合うための生命線でもありました。
これらは海と川の道を通って交換され、
遠い土地の祈りや物語も一緒に運ばれていきました。
航海に出る者たちは、
星の位置、風の匂い、波の形を読み取り、
夜の海を静かに進んでいきました。
出発前、人々は火の前に集まり、
土偶や護符を手に取り、海の神々に祈りを捧げました。
「どうか波を鎮め、無事に帰らせてください。」
その祈りは、晩期の人々の心を支える灯でした。
縄文晩期の土偶は、これまで以上に抽象的で、
どこか異界の存在を思わせる形をしています。
遮光器土偶のように大きな目を持つもの、
身体の線が極端に簡略化されたものなど、
その姿は地域ごとに多様でありながら、
共通して「見えない世界へのまなざし」を宿していました。
自然の変化が大きいほど、
人々の祈りは深く、静かで、切実なものになっていきました。
土偶を割り、その破片を森や川へ返す儀式は、
晩期になっても続けられ、
祈りは土地とともに息づいていました。
晩期になると、文様はさらに流麗になります。東北地方に広く分布するこの時期の土器を亀ヶ岡式土器とも呼んでいますが、最近では土器の移り替わりが明らかになった大船渡市の大洞貝塚にちなみ大洞式と呼ぶことが多くなってきました。
黒光りする土器、複雑な文様を浮き彫りや透かし彫りにした土器など高い技術でつくられるものが増えます。また、皿や高坏など盛りつけ用の土器も発達します。

鉢
萪内遺跡(盛岡市)

壺
曲田I遺跡

鉢
長倉I遺跡
参考:岩手の縄文土器
紀元前1200~400年頃 縄文晩期女神像
縄文晩期の土偶(女神像)は、遮光器土偶に代表されるような非常にユニークな造形をもつものが、東北地方を中心に多数出土しています。遮光器土偶がゴーグルのような遮光器をつけ、さらに衣服をまとっているように表現されている点は、この時期の寒冷な気候に適応した生活が反映されたものと考えられています。
青森県 亀ヶ岡遺跡 遮光器土偶

亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき)は、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡。遺跡は、1622年に津軽藩2代目藩主の津軽信枚がこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際、土偶や土器が出土したことから発見されました。遮光器は1886年(明治19年)に発見され、先進性(黒光りするまで磨き上げたものや、弁柄(べんがら)を混ぜた漆で赤く塗られたものまである)も認められるもので、縄文土器の最高傑作といわれています。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられています。遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い傾向にあります。

埼玉県 真福寺貝塚 ミミズク土偶

縄文時代後期から晩期の集落跡。真福寺貝塚は大正時代に発掘が始まり、一九二六年ごろ、「みみずく土偶」が発見され、その後重要文化財(重文)に指定されました。

紀元前1000年ごろから、
大陸から伝わる稲作や金属器が、
ゆっくりと列島へ広がり始めます。
最初は小さな集落で試される程度でしたが、
やがて湿地を利用した稲作が、
季節の巡りに新しいリズムをもたらしました。
稲作は、森と海の恵みに頼る暮らしとは異なる、
「計画的な生産」を必要としました。
人々は戸惑いながらも、その新しい技術を受け入れ、
森の恵みと稲作を組み合わせた暮らしを模索していきます。
こうして縄文晩期は、
縄文の精神を保ちながらも、
新しい時代への静かな橋渡しを担う時代となりました。
人口の変化
縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していた時期がありました。
この時期は、日本を含んだ世界的な寒冷化で気温が下がっており、食料供給の減少が人口減少につながったものと考えられています。またすでに中国との交易記録も残されています。中国から水稲技術が九州に伝来、弥生時代になる頃にはほぼ日本全土に水稲が広まって生産効率が高まっていきました。その結果、食糧難を切り抜けて人口減少に歯止めをかけていったものと考えられています。

縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
紀元前 1000年頃 中国(周)との交流
「論衡」という中国の歴史書(編者:王充)に
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯(成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)」
(恢国篇第五八) と記録されています。
周の成王の在位期間は紀元前1043年 から 紀元前 1020年であることから、この時期以前には中国と日本で交流があったことが分かります。
紀元前900年頃 水稲伝来

かつて、弥生時代のスタートは、「稲作が始まった時期」とされ、紀元前4世紀ごろと考えられてきました。しかし現在は縄文時代前期からすでに陸稲が行われ、縄文時代晩期の紀元前10世紀には中国大陸長江流域で生まれたであろう水稲(温帯ジャポニカ)と水田技術が伝わり、九州の北部で水稲が始まっていることがわかってきています。 そのため弥生時代のスタートは紀元前10世紀ごろだとする説も登場してきています。
縄文時代晩期に水田稲作 を行っていたことを示す遺跡としては、福岡県の板付遺跡、 佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡 が有名です。遺跡からは水田跡や竪穴式住居などの他に、 炭化米や土器に付着したモミの圧痕、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見され、 周囲に堀を張り巡らせた日本最古の「環濠集落」になります。この頃は米を煮て調理していて、今で言う「お粥」が食べられていたようです。
大陸から伝来してきた稲作は、九州北部に伝わり、紀元前8世紀頃に高知平野、紀元前7世紀に山陰、瀬戸内地域、 紀元前6世紀には濃尾平野、紀元前3世紀に東北地方に伝わります。こうして最大の問題だった深刻な食糧不足が解消されていくことになります。
板付遺跡

水田跡

紀元前400年頃 織物機の登場

機織りが登場するまで、木や麻などの植物の繊維から糸をとって、手編みで布を織っていました。機織りの登場は縄文晩期頃で、この頃はまだ機織り台がないものでした。たて糸を一斉に上下に分け横糸を通る道をつくる「綜絖」があることで、作業効率を高めることができました。
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