龍神の記憶と目覚め  イランの文明― ①イラン高原― 文明の予兆 | 龍神の記憶と目覚め 

イランの文明― ①イラン高原― 文明の予兆

概要説明

現在のイランはイラン高原に住み着いたエラム人が最初の文明を起こすことで歴史に登場します。エラム人は後にメソポタミアの東平野「エラム(スーサとアンシャン)」に住みつき都市国家を建国します。 その後、ファールス地方(ペルシア)に住み着いたアーリア人からでたキュロス2世がアルメケス朝ペルシアを建国、エラムからペルシア人への支配がはじっていきます。ペルシア人はザウスシュトラによる世界最初の宗教ゾロアスター教(サーサーン朝ではズルワーン教)を信仰しオリエントに巨大帝国を築いていきます。 最後のペルシア帝国サーサーン朝を最後に、ペルシア、ゾロアスター教はイスラム勢力に押されて勢力を失っていくことになります。

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第一章 大地がまだ名を持たなかったころ
(紀元前10万年~紀元前5500年前)

イラン高原は、十万年前の風を今も胸に抱いています。ザグロス山脈は若い背骨のように天へと伸び、カスピ海の湿った風は谷を渡り、中央高原の乾いた大地は、まだ誰の足跡も知らぬまま眠っていました。その静寂の中に、ひとつの影が現れます。人類の祖先たちでした。

彼らは洞窟に身を寄せ、火を恐れ、同時に火を愛し、夜の闇を越えていきました。ザグロスの洞窟には、彼らが残した石器や骨が今も眠っています。しかし、この物語では、彼らの心の声を聞いてみたいと思います。

若い狩人アラフは、焚き火の前で星を見上げていました。星々はまだ神の名を持たず、ただ冷たい光として空に散らばっていました。しかしアラフには、その光が何かを語りかけているように思えたのです。

「なぜ、私たちはここにいるのだろう」

その問いは、十万年の時を越えて、後の文明へと続く最初の哲学でした。

イラン地方ではイラン高原で約10万年前(旧石器時代)中期以降に遺跡が確認され、人類の活動があったことがわかっています。
イラン高原への定住は約1万8000年前頃と考えられており、気候の変動によって居住地が移動しやがて麦を中心とした農耕も早く始まっていました。紀元前6000年頃には高度な農耕社会を形成し、最も初期のテぺ・シアルク遺跡からは先史時代を知る上で重要な遺物が多数みつかっています。

イラン高原

第二章 氷期の終わり──大地が目覚める
(紀元前6000年頃)

時が流れ、氷期が終わりを迎えると、イラン高原の気候は少しずつ穏やかになっていきました。
ザグロスの谷には雪解け水が流れ、野生の麦が黄金色に揺れ始めます。
人々はその変化に気づき、季節の巡りを読むようになりました。

アラフの子孫たちは、谷に繰り返し戻ってくる野生麦を見て、ひとつの気づきを得ます。

「大地は、私たちを育てようとしているのではないか」

その気づきは、農耕の始まりでした。
まだ畑という概念はありませんでしたが、種を落とせば芽が出ることを知り、人々は大地と対話するようになっていきます。

ザグロスの谷にあるガンジ・ダレアリ・コシュでは、やがて人々が定住し、小さな集落を築き始めました。焚き火の周りで語られる物語は、狩りの武勇伝から、季節の巡りや大地の恵みへと変わっていきます。

家畜のはじまり

ある日、若い女性ナラは、谷で弱った子ヤギを見つけました。
彼女はそのヤギを抱き上げ、集落へ連れ帰ります。
仲間たちは驚きましたが、ナラは言いました。

「この子は、私たちと同じように生きようとしているのです」

やがてヤギは群れをなし、人々のそばに留まるようになりました。
これが、イラン先史時代における家畜化の始まりでした。

人と動物が共に暮らすという新しい関係は、
人々の心に「守る」という感情を芽生えさせました。
それは、後の文明における「共同体」の原型となっていきます。

土器の制作がはじまる

紀元前6000年頃、イラン中央高原の乾いた大地に、ひとつの丘が築かれ始めます。
それが テペ・シアルク──後に文明の灯火となる場所でした。

最初は小さな集落でした。
しかし、ここに住んだ人々は、ザグロスの民とは異なる夢を抱いていました。

彼らは大地をただ耕すだけでなく、
「形」と「模様」に意味を与えようとしたのです。

シアルクの土器には、鳥、蛇、幾何学模様が描かれました。
それは単なる装飾ではなく、
大地の精霊、雨を呼ぶ祈り、太陽の巡りを象徴していました。

語り部サライは、シアルクの丘に立ち、こう語ったといいます。

「ここは、大地と天が出会う場所。
私たちの祈りは、模様となって残るでしょう」

シアルクの人々は、交易路を通じて遠くメソポタミアとつながり、
黒曜石、貝殻、彩色土器が行き交いました。
物だけでなく、物語、歌、祈り、技術、そして夢が運ばれていきました。

テぺ・シアルク 遺跡

テペ・シアルクは、イラン中央部に存在する原エラムによる紀元前5500–6000年頃の大規模な集落遺跡。「テペ」はペルシア語で「丘」または「塚」を意味します。 製陶技術も発達し、非常に精巧な文様や動物の図柄を用いた絵付き陶器類、彩文土器や紡錘車も発見されています。

紀元前4000年頃の陶器。

紀元前4000年頃の陶器の壺。

シアルクから出土した陶器。

第三章 原エラム時代──「スサの黎明と大地の書記たち」──
(紀元前3200~紀元前2700年)

紀元前3200年頃、イラン南西部のスサ平原には、まだ名も定まらぬ文明の息吹が漂っていました。ザグロス山脈から吹き降ろす風は、古い時代の記憶を運び、乾いた大地は、遠い祖先たちの足跡を静かに抱いていました。

その大地の上に、ひとつの都市がゆっくりと姿を現します。
後に「スサ」と呼ばれる場所──
エラム文明の最初の灯火がともる地でした。

スサの丘には、まだ粗削りながらも堂々とした建物が立ち並び、
その中心には、神々へ捧げる聖域が築かれていました。
人々はそこを「高き者の座」と呼び、
大地と天をつなぐ場所として敬っていました。

エラム文明時代の首都 スサ(スーサ)

スサは現在のイランの西南部に位置し、紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨がるエラム王国の首都。紀元前647年、アッシリアのアッシュールバニパルによって破壊された後(スーサの戦い)、紀元前540年、アケメネス朝ペルシャに占領されてからは王の道の起点として再び栄えました。
1218年モンゴルの侵略後、住民のほとんどは移動し現在は小さな集落のみとなっています。

大地の書記たち

この時代、スサの人々は新しい技術を手にしていました。
それは、粘土板に刻まれた記号──
後に「原エラム文字」と呼ばれるものです。
まだ言葉を完全に表すものではなく、
物や数量、祈りの象徴を刻むための記号でしたが、
それは確かに「記録」という概念の始まりでした。
若い書記「ニムル」は、粘土板を前にして深く息を吸いました。
彼はまだ見習いで、記号を刻む手は震えていましたが、
心の奥には強い確信がありました。
「これは……大地の声を残すための術だ」
彼の師である老書記「アラダ」は、静かに頷きました。
「そうだ、ニムル。
我らは神々の言葉を刻むのではない。
大地に生きる人々の歩みを刻むのだ。
それが、未来への贈り物となる」
ニムルは粘土板に記号を刻みながら、
遠い祖先たち──洞窟で火を囲んだアラフの記憶が、
自分の手を通して未来へ流れていくような感覚を覚えました。

メソポタミアで楔形文字が利用され始めた紀元前3000年頃、この地域でも最初のイラン固有の文字体(後にエラム文字となる)エラム文字が使用されていました。使われていた地理的な範囲は非常に広くインダス文字と似ているといった特徴があります。

スーサで出土したウルク期の粘土

原エラム文字

スサの女王と「大地の契約」

原エラム時代のスサには、
「大地の女王」と呼ばれる女性指導者がいました。
名を「キルア」といいます。
彼女は戦士ではなく、
大地の恵みと人々の調和を守る者として尊敬されていました。
キルアは毎年、収穫の季節になると、
神殿の前で大地に祈りを捧げました。
「大地よ、我らはあなたを傷つけず、
あなたの恵みを分かち合います。
どうか、来る年も命の流れを絶やさぬように」
その祈りは、スサの民の心をひとつにし、
共同体としての絆を強めていきました。
キルアはまた、交易にも力を入れました。
スサからは彩色土器、織物、金属製品が運び出され、
代わりに黒曜石、貝殻、宝石がもたらされました。
交易路は、物だけでなく、
物語、歌、祈り、そして夢を運びました。

テペ・シアルクとのつながり

スサの北方、乾いた高原にあるテペ・シアルクでは、
すでに長い歴史を持つ集落が栄えていました。
シアルクの人々は、独自の模様を持つ土器を作り、
鳥や蛇、幾何学模様を描いていました。
ある日、シアルクからひとりの旅人がスサを訪れます。
名を「ミナ」といい、
彼女はシアルクの丘で育った語り部でした。
ミナはスサの神殿を見上げ、
その壮麗さに息を呑みました。
「ここは……大地の記憶が形になった場所なのですね」
キルア女王は微笑み、ミナを迎え入れました。
「あなたたちシアルクの民が描く模様は、
大地の精霊の声だと聞いています。
どうか、我らにもその声を教えてください」
ミナは語りました。
鳥の模様は天の使い、
蛇の模様は大地の循環、
幾何学模様は宇宙の秩序を表すことを。
スサの書記たちはその言葉に耳を傾け、
新しい記号や祈りの形を生み出していきました。

こうして、シアルクの精神文化はスサへと流れ込み、
原エラム文明の基盤となっていきます。

段模様の衣装をまとい、注ぎ口のある器を掲げるこの小さな雄牛の像は、人間と動物の特徴をあわせ持っています。人間のしぐさをする動物の作品は、初期イラン美術に多く見られ、自然の力の象徴、または神話や寓話の主 人公を表していると考えられています。中空の胴の中に小石が入っているこの像は、儀式において鳴物として使われた可能性もあります。発掘された時に布地の破片が付着していたことから、儀式の一環で意図的に埋められたのではないかと思われます。引用元

片口の器を持つひざまずく雄牛
紀元前3011–2900年頃

都市の誕生と、文明の胎動

紀元前3000年頃、スサはさらに発展し、
都市としての姿を明確にしていきました。

神殿は拡張され、
倉庫には穀物が積み上げられ、
職人たちは金属を鍛え、
書記たちは記録を残し、
人々は大地と天の秩序を理解しようとしました。

ニムルは成長し、
スサを代表する書記となっていました。

ある夜、彼は神殿の階段に座り、
星空を見上げながら呟きました。

「アラフよ……
あなたが見上げた星は、今もここにあります。
あなたの問いは、今も私たちの胸にあります。
私たちは、あなたの夢の続きを生きているのでしょうか」

風が静かに吹き、
ザグロスの山々から古い記憶が運ばれてきました。

それは、文明の始まりを祝福するような、
優しい風でした。

紀元前2700年──エラムの夜明けへ

原エラム時代の終わりが近づく頃、
スサはすでに強大な都市国家へと成長していました。

キルア女王の後継者たちは、
大地の契約を守りながら、
新しい時代へと歩みを進めていきます。

ニムルは最後の粘土板にこう刻みました。

「我らは大地の子であり、
大地の記憶を継ぐ者である。
この記録が、未来の民へ届くことを願う」

その粘土板は、
数千年後の人々によって発見され、
原エラム文明の証として語られることになります。

こうして、
アラフの問いから始まった長い旅は、
スサの黎明として結実し、
エラム文明という大河へと流れ込んでいきました。

スサの出土物

スフィンクスの像

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愛媛県松山市出身。 国立理系大学院卒の元大手半導体材料研究開発エンジニア。(CPU基盤材料、太陽電池材料の研究開発に関わる) 関西在住時にうつ病療養のため何度か尋ねた蛇神大物主神を祀る奈良大神神社で不思議な体験を経験。それをきっかけに記紀を読むこと十年後、祖先は宇佐八幡初代神官大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)といった蛇神族の血流(神官系)につながることをつきとめます。 また、20年間あらゆる療法を試しても治らなかった難治性うつ病も瞑想と催眠の研究を続けていくことで奇跡的に解消し、人間に備わる自然治癒力発動法を発見します。独自のヒーリング法を確立し5年間精神疾患者への対面施術指導を行った後コロナ禍以降は引退。現在はサイトを立ち上げオンラインでHSP向けセルフヒーリングを提供しています。 自身の経験をもとに、「この世界には、時に説明のつかない出来事が起こり奇跡が起こる」ということを伝えていきたいと考えています。 「引き寄せの法則」などのスピリチュアル、宗教団体とは関係ありません。
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