目次
後漢は、光武帝が戦乱を収めて漢室を再興した紀元25年に始まり、約二百年にわたって栄枯盛衰をたどった王朝です。前半は明帝・章帝のもとで儒教政治が成熟し、安定と文化の発展が続きました。しかし、幼帝の続出により外戚と宦官が権力を争い、政治は次第に腐敗します。士大夫の清廉な声は党錮の禁で封じられ、民の不満は黄巾の乱として爆発しました。鎮圧後は軍閥が台頭し、董卓の専横と洛陽炎上で帝国の中心は崩壊します。漂泊する献帝を曹操が擁し、名目だけの後漢は辛うじて存続しましたが、220年に曹丕が禅譲を受けて魏を建て、後漢は静かに幕を閉じました。

この時代,西方にはローマが存在しており,「パックス−ロマーナ」に象徴されるように東西両大国の成立によって東西交易が活性化しました。
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後漢の物語は、戦乱に裂かれた大地を静かに見つめる一人の青年から始まります。
劉秀は、名門・劉氏の血を引きながらも、豪奢とは無縁の質素な暮らしをしていました。
彼は剣よりも書を好み、武よりも民の暮らしを重んじる、柔らかな気質の持ち主でした。
しかし、王莽の新朝が揺らぎ、各地で反乱が起こると、劉秀は否応なく歴史の渦へと引き込まれていきます。
彼は兄・劉縯とともに挙兵し、戦場に立つことになりますが、その姿は他の豪胆な武将とは異なり、どこか静かで、風のように軽やかでした。
劉秀の名を天下に知らしめたのは「昆陽の戦い」でした。
新朝の大軍に包囲され、味方はわずか。
誰もが敗北を覚悟したそのとき、劉秀は夜陰に紛れて敵陣を突き破り、奇襲を成功させます。
この戦いは、後世「昆陽の奇跡」と呼ばれました。
兵たちは「天が劉秀を選んだ」と語り、民は彼の名を口々に唱えました。
劉秀自身は、勝利を誇ることなく、ただ静かに「民のために道を開く」と心に誓ったと伝えられます。
戦乱の中、劉秀は各地を巡りながら、荒れた村々を見ては税を軽くし、略奪を禁じ、民の生活を守ることを第一としました。
その姿勢は、疲れ果てた民の心に深く染み込み、彼が通るたびに人々は道に出て、涙を流して迎えたといいます。
劉秀の軍は、戦う軍勢でありながら、どこか“治める者”の気配をまとっていました。
それは、彼が武力ではなく、秩序と安寧を求めていたからです。
紀元25年、劉秀は洛陽に入り、ついに皇帝として即位します。
その儀式は華美ではなく、むしろ質素で、彼の人柄を映すような静けさに満ちていました。
「漢の灯を再びともす」
その言葉は、戦乱に疲れた人々の胸に深く響きました。
後漢という新たな王朝は、こうして静かに、しかし確かな力をもって始まったのです。
光武帝の治世は、戦乱で荒れた大地を耕し直すような、丁寧で粘り強い再建の時代でした。
税を軽くし、民の負担を減らす
無駄な戦を避け、兵を休ませる
豪族を抑えつつ、地方の秩序を整える
官僚制度を整え、儒学を重んじる
これらの政策は、後世「建武の治」と称えられます。
光武帝は、帝王でありながら、どこか“農夫”のように、国という畑を耕し、芽吹きを待つ姿勢を貫きました。

光武帝

後漢の支配領域
光武帝の治世には、彼を支えた多くの人物がいました。
中でも皇后となる陰麗華は、劉秀が若い頃から想いを寄せていた女性で、彼の心の支えでした。
また、雲台二十八将と呼ばれる功臣たちは、劉秀の人柄に惹かれ、命を賭して彼を支えました。
彼らの忠誠は、光武帝が“人を大切にする”政治を行った証でもあります。
晩年の光武帝は、戦乱のない日々を慈しむように過ごしました。
彼は「天下は民のもの」と語り、皇帝としての権威よりも、民の暮らしの安定を重んじ続けました。
紀元57年、光武帝は静かにその生涯を閉じます。
彼の死は、後漢という大河の源流が静かに山へ帰るような、穏やかな余韻を残しました。

光武帝が静かに世を去ったとき、帝国にはまだ再建の余韻が漂っていました。
その後を継いだのが、聡明で知られた皇子・劉荘、のちの明帝です。
彼は幼い頃から学問を愛し、父の政治を間近で見て育ちました。
明帝は、父が築いた“民のための政治”をさらに深めるため、まず宮廷の規律を整え、官僚制度を安定させることに力を注ぎます。
その姿勢は、光武帝の静かな治世を受け継ぎつつ、より文化的で精神的な方向へと後漢を導くものでした。
明帝の治世で最も大きな特徴は、儒学を国家の中心に据えたことでした。
彼は学者を重んじ、太学を整備し、官吏登用においても儒学の素養を重視しました。
・仁義を重んじる政治
・官僚の清廉さ
・家族と社会の秩序
・天と人の調和
これらの理念が、後漢の精神的な骨格となっていきます。
儒学は単なる学問ではなく、国家の“呼吸”そのものとなり、後漢の政治に静かな安定をもたらしました。
明帝の時代には、仏教が正式に中国へ伝わったという有名な伝承があります。
明帝が夢で金色の神人を見たことから、西域へ使者を送り、経典と僧を招いたという物語です。
この出来事は、後漢の精神世界が東西の文化を受け入れる柔らかさを持っていたことを象徴しています。
儒学を中心に据えつつも、異文化を排除しない後漢の姿勢は、帝国の精神的な豊かさを育てました。
中国への仏教伝来は、最も早い説では紀元前2年、遅い説では67年とされ、時期には幅があります。当初は仏陀を音訳した「浮屠(ふと)」と呼ばれ、主に上流階級の間で知られる程度でした。しかし、後漢後期に社会不安が高まるにつれ、民衆の間にも信仰が広がり、やがて教団が形成されるまでになります。
仏教の「無」の概念を理解する際、中国人にとって重要な窓口となったのが老荘思想の「無為」でした。そのため、仏教は中国に受容される過程で老荘思想の影響を受けて変容し、同時に老荘思想の側も仏教から刺激を受け、後に道教教団が成立する流れへとつながっていきます。
後漢末期には、武将の笮融(さくゆう)が揚州に大寺院を建立したことが記録に残っており、仏教がすでに政治的・社会的影響力を持ち始めていたことを示しています
明帝の後を継いだ章帝は、温厚で慎み深い人物でした。
彼は父の政策を受け継ぎ、政治の安定を最優先に考えました。
章帝の治世は、後漢が最も調和に満ちた時代とされます。
・豪族と中央の均衡
・国境の安定
・文化の成熟
・民の生活の豊かさ
これらが重なり、後漢は“黄金の中期”と呼ばれる静かな繁栄を迎えます。
しかし、安定の裏側では、後に帝国を揺るがす影がゆっくりと育っていました。
章帝は温厚であったがゆえに、皇后の一族である外戚が政治に影響力を持ち始めます。
この時点ではまだ深刻な問題ではありませんでしたが、後漢の政治構造に“外戚の台頭”という種が植えられたのは、この章帝の時代でした。
後の混乱を思えば、この静かな芽生えは、物語の伏線のように見えます。
明帝・章帝の時代は、民の生活が安定し、文化が豊かに花開いた時代でもありました。
・農耕の発展
・都市の整備
・書物の編纂
・礼楽の復興
特に儒学の普及は、家庭の教育や地域社会の秩序にも影響を与え、後漢全体に“静かな倫理”が広がっていきました。
この時代の人々は、戦乱の記憶を持ちながらも、ようやく安定した日々を取り戻し、未来への希望を語り合ったといいます。
二人の皇帝が築いたのは、単なる政治の安定ではなく、後漢という国家の“精神の形”でした。
・光武帝の再興
・明帝の文化的深化
・章帝の調和と安定
この三つが重なり、後漢は一つの完成された文明として成熟していきます。
しかし同時に、外戚の台頭という小さな歪みが、後の大きな揺らぎへとつながっていくのです。

章帝の治世は穏やかで、民は豊かに暮らし、文化は成熟していました。
しかし、安定の裏側では、後漢の政治構造に小さな歪みが生まれ始めます。
それは、皇帝が幼いまま即位することが続いたため、皇后の一族である外戚が政務を代行するようになったことでした。
この時点では、外戚たちも国家のために尽くす者が多く、混乱は表面化していません。
しかし、権力は人の心を変え、静かな欲望はやがて大きな渦へと育っていきます。
後漢の皇帝たちは、幼くして帝位に就くことが多くなりました。
玉座に座る皇帝は、まだ政治の重みを知らぬ少年であり、国家の舵取りは周囲の大人たちに委ねられます。
・皇后の一族(外戚)が政治を補佐する
・宮廷の実務は宦官が担う
・皇帝は象徴としての存在に近づく
この構造は、後漢の政治をゆっくりと変質させていきました。
皇帝の“幼さ”は、帝国の中心にぽっかりと空白を生み、その空白を埋めようとする者たちが争い始めます。
外戚は、皇后の血縁という正統性を盾に、政治の中枢へと進出していきます。
彼らは皇帝を守るという名目で、官僚の任免に口を出し、軍事にも影響力を持つようになりました。
特に有名なのが、竇氏(とうし)や梁氏(りょうし)といった一族です。
彼らは一族の繁栄を願い、後漢の政治を自らの色に染めていきました。
しかし、外戚の力が強まるほど、宮廷の均衡は崩れ、官僚たちは萎縮し、政治は次第に私的な争いの場へと変わっていきます。
外戚の力が強まると、今度はそれに対抗する勢力として宦官が台頭します。
宦官は皇帝の身近に仕えるため、幼い皇帝にとっては“身内”のような存在でした。
・皇帝の信頼を得る
・外戚の横暴を抑える名目で権力を握る
・宮廷の情報を独占する
こうして、外戚と宦官は宮廷の奥深くで対立し、後漢の政治は二つの勢力が綱引きをする不安定な状態へと変わっていきます。
儒学を学び、清廉を重んじる士大夫たちは、この状況に深い苦悩を抱きました。
彼らは国家のために正しい政治を行いたいと願いながらも、外戚と宦官の争いに巻き込まれ、思うように働けません。
・正論を述べれば外戚に睨まれる
・宦官に近づけば清廉さを疑われる
・民のための政治が遠ざかる
この“理想と現実の断絶”は、後漢の精神を静かに蝕んでいきました。
中央が混乱する一方で、地方では豪族たちが力を蓄え始めます。
彼らは土地と民を抱え、独自の勢力を形成し、中央の命令に従わない者も現れました。
・中央の弱体化
・地方の自立
・豪族の軍事力の増大
この構造は、後に後漢が崩壊し、群雄割拠の時代へと進む“前兆”でした。
外戚と宦官の対立は、まだ大きな戦乱を生んでいません。
しかし、後漢という巨大な帝国の内部では、確実に“崩れの音”が響き始めていました。
・皇帝の権威の低下
・宮廷の腐敗
・官僚の無力化
・地方の独立性の増大
これらが重なり、後漢はゆっくりと、しかし確実に揺らぎ始めます。
この静かな揺らぎが、やがて「党錮の禁」や「黄巾の乱」といった大事件へとつながっていくのです。

後漢の中期、宮廷では外戚と宦官が権力を争い、政治は私欲に濁り始めていました。
その中で、儒学を学び、清廉を重んじる士大夫たちは、国家の未来を憂い、正しい政治を取り戻そうと声を上げます。
彼らは「清議」と呼ばれる議論を通じて、政治の腐敗を批判し、民のための政治を求めました。
その姿は、光武帝以来の“後漢の精神”を守ろうとする最後の灯火のようでした。
しかし、その灯火は、宮廷の奥に潜む暗い影にとって脅威となります。
宦官たちは、皇帝の身近に仕えることで権力を握っていました。
彼らにとって、士大夫の清廉な批判は、自らの地位を揺るがす危険な存在でした。
・正論は、権力者にとって最も恐ろしい刃
・清廉は、腐敗を照らす光
・民のための政治は、私欲を脅かす敵
宦官たちは、士大夫の“正しさ”そのものを恐れ、やがてそれを排除しようと動き始めます。
士大夫の中心にいたのが、清廉で知られた**李膺(りよう)**でした。
彼は民のために正論を述べ、宦官の腐敗を厳しく批判した人物です。
李膺の名は、清廉の象徴として若い学者たちの憧れとなり、彼の周囲には多くの志士が集まりました。
この集団は「党人」と呼ばれ、後漢の良心として広く支持されていきます。
しかし、宦官たちはこの“正義の輪”を危険視し、ついに弾圧を決意します。
宦官たちは、李膺ら党人を「国家を乱す者」として告発し、彼らを投獄・追放しました。
これが第一次党錮の禁(紀元166年)です。
・清廉な者が罪に問われる
・正論が封じられる
・学問が疑われる
・民のための政治が遠ざかる
この出来事は、後漢の精神に深い傷を残しました。
民は「正しい者が罰せられる世になった」と嘆き、帝国の道徳的な柱が折れた瞬間でした。
一時、外戚の勢力が宦官を抑え、党人たちは赦免されます。
しかし、これは嵐の前の静けさにすぎませんでした。
党人たちは再び学問と政治に戻りますが、宮廷の空気はすでに変わっていました。
正しさを語ることが恐れられ、学者たちは心に影を落としながら筆を取るようになります。
宦官たちは再び権力を握ると、今度はより大規模な弾圧を行います。
これが第二次党錮の禁です。
多くの学者を投獄
官職への道を閉ざす
学問の自由が奪われる
清廉な者が沈黙を強いられる
この弾圧は、後漢の精神的支柱であった“儒学の理想”を根本から破壊しました。
国家の魂が折れた瞬間であり、後漢の崩壊はここから加速度的に進んでいきます。
党錮の禁は、単なる政治事件ではありませんでした。
それは、民の心に深い絶望をもたらす“精神の崩壊”でした。
正しい者が罰せられる
清廉が嘲られる
権力者が私欲をむさぼる
民の声が届かない
この空気は、社会全体に広がり、やがて大地の底から不満が噴き出すことになります。
その象徴が、次章で描かれる黄巾の乱です。
党錮の禁は、後漢の政治的・精神的な転換点でした。
国家の道徳が崩れた
宮廷の腐敗が極まった
民の不満が蓄積した
社会の秩序が揺らいだ
この章は、後漢が“滅びへ向かう道”に足を踏み入れた瞬間を描いています。
光武帝が築いた理想は、ここで大きく傷つき、帝国はもはや元の姿には戻れなくなりました。

党錮の禁によって後漢の精神が折れたあと、帝国の大地には重い空気が広がっていました。
外戚と宦官の争いは続き、政治は腐敗し、税は重く、地方の豪族は勝手に振る舞い、民の暮らしは日に日に苦しくなっていきます。
・干ばつと洪水が繰り返される
・疫病が村々を襲う
・豪族の圧政に苦しむ
・中央の救済は届かない
民は「天が怒っている」と語り合い、後漢という巨大な秩序が、もはや民を守れなくなっていることを肌で感じていました。
この“静かな絶望”が、やがて大きな炎となって燃え上がります。
この混乱の中で現れたのが、太平道の指導者・張角(ちょうかく)でした。
彼は医術と祈祷を学び、病に苦しむ民を救う旅を続けていました。
張角のもとには、病を癒された者、救われた者が次々と集まり、やがて彼は“民の心の拠り所”となっていきます。
張角は、後漢の腐敗を見てこう語ったと伝えられます。
「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。」
これは、古い秩序(蒼天)が終わり、新しい時代(黄天)が始まるという宣言でした。
民はこの言葉に、絶望の中の一筋の光を見たのです。
張角の教えは、瞬く間に各地へ広がりました。
太平道は単なる宗教ではなく、民の苦しみを癒し、希望を与える“救済の運動”でした。
病を治す
食を分け合う
互いを助ける
新しい秩序を語る
この共同体的な力は、疲れ切った民にとって大きな支えとなり、太平道は後漢全土に根を張っていきます。
しかし、これを危険視したのが後漢政府でした。
彼らは太平道を“反乱の芽”として弾圧しようとします。
道教と太平道
道教は後漢末に萌芽し、魏晋南北朝を経て成熟し、隋唐から宋代にかけて最盛期を迎えます。
一般には、老子の思想を根本としつつ、不老長生を求める神仙術、符籙(おふだを用いた呪術)、斎醮(亡魂の救済や災厄の除去)、さらに仏教の影響を受けて成立した経典や儀礼など、さまざまな要素が時代とともに積み重なって形成された宗教とされています。
後漢第11代の桓帝は道教に深く傾倒したことで知られ、老子を祀る祭祀を繰り返し行いました。こうした皇帝の後押しに加え、社会不安が高まるにつれて道教の信者は増え、やがて太平道と五斗米道という二つの大きな教団が生まれました。これらの教団は、民衆の救済と新しい秩序を求める運動として広がり、後の中国宗教史に大きな影響を与えることになります。
紀元184年、ついに張角は蜂起を決意します。
太平道の信徒たちは黄色い頭巾を巻き、各地で一斉に立ち上がりました。
「蒼天すでに死す」
「黄天まさに立つべし」
「歳は甲子に在り」
この叫びは、後漢という巨大な秩序に対する“民の反逆”であり、同時に“新しい時代の予兆”でもありました。
黄巾の軍勢は瞬く間に広がり、後漢の地方官は次々と敗れ、帝国は大きく揺らぎます。
後漢政府は、名将・皇甫嵩や盧植を派遣し、さらに地方の豪族や軍閥にも討伐を命じました。
この中で頭角を現したのが、後に三国時代を彩る武将たちです。
曹操
劉備
孫堅
そして地方の軍閥たち
彼らは黄巾軍を各地で破り、反乱は次第に鎮圧されていきます。
しかし、黄巾の乱が残した傷は深く、後漢の秩序はもはや元には戻りませんでした。
黄巾の乱を鎮圧するために動員された地方の軍閥たちは、戦いの中で力を蓄え、独自の勢力を形成していきます。
・地方の軍閥が兵を握る
・中央の命令が届かない
・豪族が独立勢力化する
・帝国の統一が崩れる
黄巾の乱は、後漢の“終わりの始まり”であり、三国時代への扉を開く大事件でした。
黄巾の乱は、単なる反乱ではありませんでした。
それは、後漢という巨大な秩序が民を守れなくなったとき、民が自ら新しい秩序を求めて立ち上がった“時代の叫び”でした。
・民の苦しみが限界に達した
・政治の腐敗が極まった
・社会の倫理が崩れた
・新しい時代を求める声が生まれた
この反乱は、後漢の精神的な崩壊を象徴し、帝国の終焉を決定づけた出来事でした。

黄巾の乱が鎮まった後も、後漢の宮廷は腐敗と争いに満ちていました。
その最中、幼い霊帝が崩御し、後継をめぐって外戚と宦官が激しく争います。
・皇帝の座は空白
・宮廷は陰謀と裏切りの渦
・宦官は自らの命を守るために暴走
・外戚は皇帝を操ろうと画策
この混乱は、後漢の中心がすでに“空洞化”していたことを示していました。
帝国の心臓は、もはや自らの鼓動を保てなくなっていたのです。
この混乱の中、洛陽へと呼び寄せられたのが、西方の武将・董卓(とうたく)でした。
彼は涼州の荒々しい風土で育ち、戦場で名を上げた豪胆な武人でしたが、同時に残忍さと猜疑心を併せ持つ人物でした。
董卓は洛陽に入るや否や、宮廷の混乱を見抜き、こう考えます。
「この帝国は、もはや誰のものでもない。力ある者が握ればよい。」
この瞬間、後漢の“正統性”は大きく揺らぎ、帝国は暴力の支配へと傾き始めます。
董卓は、幼い皇帝・少帝を「無能」として廃し、弟の献帝を即位させます。
これは、後漢の歴史において最も象徴的な“玉座の冒涜”でした。
皇帝は天命の象徴
その皇帝を廃することは、天命を踏みにじる行為
後漢の精神的支柱が崩れる瞬間
民は恐れ、官僚は沈黙し、宮廷は完全に董卓の支配下に置かれました。
董卓は、自らの権力を守るために暴政を敷きます。
・反対者を容赦なく処刑
・財産を没収し、豪族を脅迫
・軍を増強し、洛陽を軍事都市化
・宮廷の官僚を従わせ、反抗を許さない
洛陽の街には、常に兵の足音と悲鳴が響き、民は夜ごとに怯えながら眠りにつきました。
後漢の都は、もはや“文明の中心”ではなく、“恐怖の城”へと変わっていきます。
董卓は、諸侯が自分を討とうとしていることを知ると、驚くべき決断を下します。
「洛陽を捨てよ。長安へ移る。
この都は、敵に渡すには惜しい。」
そして、洛陽に火が放たれました。
宮殿が炎に包まれ、
書庫が焼け落ち、歴史が灰となる
民家が崩れ、街が赤い海に沈み
帝国の象徴が、夜空を焦がす炎となる
この光景は、後漢という文明の“心臓”が焼け落ちる瞬間でした。
民は泣き叫び、官僚は絶望し、帝国の魂は深い傷を負いました。
董卓は献帝を連れ、長安へと移ります。
その行軍は、まるで“亡国の旅”のようでした。
皇帝は囚われ、民は強制的に移住させられる
道中で飢えと病が広がり、帝国の象徴が、荒野をさまよう影となる
献帝は、玉座に座りながらも、もはや何も決められない“漂泊の皇帝”となっていました。
董卓の暴政に耐えかねた諸侯たちは、ついに挙兵します。
これが「反董卓連合」です。
袁紹
曹操
孫堅
劉備をはじめとする地方勢力
彼らは「後漢を救う」という名目で集まりましたが、その胸の内にはそれぞれの野心が渦巻いていました。
後漢は、もはや“救われるべき帝国”ではなく、“奪い合われる象徴”へと変わっていたのです。
董卓は、側近の呂布と王允の謀略によって討たれます。
暴君は倒れましたが、後漢が受けた傷は深く、もはや癒えることはありませんでした。
都は焼け落ち
皇帝は漂泊し
諸侯は割拠し
帝国の中心は空洞のまま
董卓の死は、後漢の再生ではなく、“本格的な崩壊の始まり”を意味していました。

洛陽が炎に包まれ、董卓が長安へと皇帝を連れ去ったあと、献帝は名ばかりの皇帝として荒野をさまよう存在となりました。
彼は玉座に座っていても、政治を動かす力はなく、周囲の権力者たちの思惑に翻弄されるだけの“影の皇帝”でした。
宮廷は崩壊
官僚は散り散り
民は飢えと戦乱に苦しむ
皇帝は守られる存在ではなく、利用される存在へ
献帝の心には、帝国の滅びを前にした深い孤独が広がっていました。
諸侯たちは董卓を討つために集まりましたが、その連合は長く続きませんでした。
彼らは董卓が倒れた後、すぐに互いの領土と権力を巡って争い始めます。
袁紹は北方で覇権を狙い
袁術は皇帝を僭称し
孫堅は江東で勢力を築き
劉備は流浪しながら義を貫き
曹操は中原を掌握し始める
後漢の名のもとに集まった諸侯は、後漢を守るためではなく、自らの未来のために動いていました。
献帝は、彼らの争いの中で“象徴としての価値”だけを残され、漂泊を続けることになります。
そんな献帝を保護したのが、曹操でした。
曹操は、戦乱の中で頭角を現し、卓越した政治力と軍事力で中原を掌握していきます。
曹操は献帝を迎え入れ、こう語ったと伝えられます。
「陛下をお守りし、天下を安んじましょう。」
しかし、その言葉の裏には、献帝を利用して自らの正統性を高めるという明確な意図がありました。
皇帝を擁することで、諸侯より一歩上に立つ
後漢の名を借りて天下統一の大義名分を得る
宮廷を再建し、政治の実権を握る
曹操は、後漢を救う者ではなく、後漢を“利用する者”として歴史に登場したのです。
曹操は献帝を許都に迎え、形式上の宮廷を再建しました。
しかし、その宮廷はかつてのような威厳も力もなく、ただ“後漢の名を保つための舞台”にすぎませんでした。
・政治は曹操が行う
・皇帝は儀式だけを担う
・官僚は曹操の配下
・民は曹操の支配下に置かれる
献帝は、玉座に座りながらも、もはや帝国を動かす力を持たない“象徴の影”となっていました。
献帝は、曹操の庇護のもとで生きながら、心の中では深い葛藤を抱えていました。
自分は皇帝なのか
後漢はまだ存在しているのか
民は救われるのか
自分は歴史に何を残せるのか
彼は、後漢という大河の終わりを見届ける“最後の証人”として、静かに滅びを受け入れていきます。
曹操の死後、その子・曹丕が献帝に迫り、ついに禅譲を受けて魏を建てます。
献帝は皇帝の位を退き、一人の人間として静かに生きる道を選びました。
後漢は正式に滅亡
曹丕が魏を建国
三国時代が幕を開ける
献帝は歴史の舞台から姿を消す
後漢という二百年の大河は、ここで静かに終わりを迎えました。
後漢は滅びましたが、その精神は完全には消えませんでした。
光武帝の“民のための政治”
明帝・章帝の“調和の理想”
士大夫の“清廉の精神”
民の“新しい時代を求める声”
これらは、魏・呉・蜀の三国へと受け継がれ、中国史の深い層に静かに息づいていきます。
献帝の漂泊は、後漢の滅びの象徴であると同時に、次の時代への橋渡しでもありました。
後漢書東夷伝の記述で知られるように、この時代(日本では弥生時代)には日本列島の人々が中国の王朝と直接交渉していることが知られ、福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」金印がこれを裏付けています。(三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。)また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。一方、中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。

漢委奴国王
中国の史書に倭国が初めて登場するのは、『後漢書』安帝紀・永初元年(107年)の記事とされています。そこには次のように記されています。
「冬十月,倭國遣使奉獻。」
(冬十月、倭国が使者を遣わして貢ぎ物を奉じました。)
この記録は、倭国が後漢王朝と正式に交流した最初の確実な例として重視されています。
『論衡』に見える倭人の記事
『論衡』は後漢1世紀に王充が著した書物で、周代の出来事として倭人に関する記述が複数見られます。周代は日本の縄文晩期〜弥生前期に相当しますが、記述自体は後世の視点から書かれたものです。
引用される三つの記述
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第18)
周の時、天下が太平で、倭人が鬯草(ちょうそう)を献じました。
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第58)
成王の時、越裳が雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぎました。
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第26)
周の時、天下が太平で、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぎました。白雉を食し鬯草を服しても、凶事を除くことはできませんでした。
ここに見える「鬯草」は、霊芝・ウコン・香花草など諸説があります。
『漢書』地理志
「楽浪」とは、前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島北部に設置した四郡の一つで、現在の北朝鮮・平壌付近に置かれていました。『漢書』地理志には、この楽浪郡の記録の中に倭人についての記述が見えます。
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。」
(楽浪郡の海の向こうには倭人が住み、百余りの国に分かれている。彼らは定期的に楽浪郡へ来て、貢ぎ物を献じ、謁見するといわれています。)
この記述から、漢代の日本列島には多数の小国が存在し、楽浪郡を通じて中国王朝と交流していたことがわかります。
『後漢書』東夷伝
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。
使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武賜うに印綬を以てす。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲 王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)、倭国は大いに乱れ(5-6年間)、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
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