龍神の記憶と目覚め  息長氏ゆかりの神社:山津照神社(滋賀) | 龍神の記憶と目覚め 

息長氏ゆかりの神社:山津照神社(滋賀)

山津照神社(滋賀)概要

滋賀県米原市能登瀬に鎮座する山津照神社は、『延喜式神名帳』に名を残す近江国坂田郡の式内社であり、古代豪族・息長氏の本拠地に深く関わる古社です。主祭神は天地開闢の根源神である 国常立尊 で、奈良時代にはすでに創建されていたと推測されます。境内には前方後円墳「山津照神社古墳」があり、神功皇后の父・息長宿禰王の陵墓候補地とも伝えられています。 平安期には朝廷から幣帛・神階を授けられ、鎌倉期には後鳥羽上皇や光厳院・光明天皇らが祈願を寄せるなど、歴代の皇室・武家から篤い崇敬を受けました。中世には青木家が別当として神仏習合の中心となり、青木宮とも称されました。明治の神仏分離後に旧社号へ復し、近郷二十数村の総社として現在も地域の信仰を支えています。例祭では「武家奴振り」や「奉納角力」が伝承され、古代から続く息長氏の文化的記憶を今に伝える神社です。

再生の神・大物主神から授かった静かな恩恵。
潜在意識の深いところでゆっくり息を吹き返す、やさしい再生ヒーリングです。
眠りと覚醒のあわいで「意識の置き換え」と「癒し」がそっと芽生え、
心の奥の記憶や不安に寄り添いながら、
日々のストレスやトラウマを静かにほどいていきます。

創建

・創建年代は不詳だが、奈良時代には存在したと推測される。
・息長氏が祖神・国常立尊を祀って創建したと伝わる。
・天武天皇期(673–686)に勧請されたとの伝承あり。
・平安期には神封六戸が与えられ、正六位・正四位下の神階を授与。
・延喜式坂田郡五座の式内社として記録。

山津照神社の創建は明確な年代が残されていませんが、複数の史料から奈良時代にはすでに確立した神社として機能していたことが推測されます。『神祇資料』には称徳天皇・天平神護2年(766)に近江地六戸が神封として充てられたと記され、これは国家が神社の祭祀維持のために戸数を割り当てたことを示す重要な史料です。 また『近江坂田郡志』には「宣化天皇三戌午年に影向勧請された」とあり、古代においてすでに神社としての格式が整っていたことがうかがえます。

さらに、当地が古代豪族・息長氏の本拠地であったことは、境内に存在する前方後円墳(山津照神社古墳)や周辺の古墳群からも裏付けられます。息長氏は大王家と深い関係を持ち、継体天皇の出身氏族とも考えられる大豪族であり、神功皇后の父・息長宿禰王の陵墓候補地が境内にあるという伝承は、氏族の祖霊祭祀と神社の成立が密接に結びついていたことを示します。

平安時代には朝廷からの崇敬が厚く、仁寿元年(851)に正六位、貞観8年(866)に正四位下の神階を授けられています。 これは地方神社としては高位であり、息長氏の政治的影響力と神社の重要性を示すものです。延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』にも式内社として記載され、近江国坂田郡五座の一社として国家祭祀体系に組み込まれました。

中世に入ると、藤原鎌足の後裔である青木家が当地に土着し、別当職を担って神仏習合の中心となりました。青木家の祖神五代が勧請され、神社は「青木宮」と称されるようになります。 この時期、境内は城郭として整備され、佐々木家に仕えた記録も残り、武家勢力との結びつきが強まりました。

鎌倉期には後鳥羽上皇が宝剣を奉納し、光厳院・光明天皇らが社殿修造や祈願を行うなど、皇室からの崇敬が続きます。 明治期の神仏分離令により旧社号へ復し、明治16年(1883)に現在地へ遷座。旧地には青木神社が創建され、別当家の祖神が分祀されました。滋賀県:歴史・観光・見所滋賀県:歴史・観光・見所. 山津照神社(米原市)

このように山津照神社は、古代豪族の祖霊祭祀から国家祭祀、武家の祈願所、近郷の総社へと役割を変えながら、千年以上にわたり地域の精神的中心として存続してきた神社です。

祭神

・主祭神:国常立尊(くにのとこたちのみこと)
・天地開闢の最初に出現した根源神で、国土生成の基礎を司る。
・息長氏の祖神として祀られたと伝わる。
・境内社に青木神社(青木氏祖神五代)、若宮八幡社、春日社、北野社。

山津照神社の主祭神である 国常立尊 は、『古事記』冒頭に登場する天地開闢の最初の神であり、宇宙の根源的秩序を象徴する存在です。国土生成の基礎を司る神として、国家鎮護・土地安定・万物調和の力を持つとされます。 この神を主祭神とする神社は全国的にも多くはなく、山津照神社が古代において特別な祭祀的役割を担っていたことがうかがえます。

国常立尊が祀られた背景には、当地を本拠とした古代豪族・息長氏の祖霊信仰が深く関わっています。息長氏は大王家と密接な関係を持ち、継体天皇の出身氏族とも考えられる大豪族であり、神功皇后の父・息長宿禰王の陵墓候補地が境内にあるという伝承は、氏族の祖霊祭祀と神社の成立が密接に結びついていたことを示します。

中世には青木家が別当として神仏習合を推進し、青木家の祖神五代(藤原鎌足の後裔)が勧請され、青木宮と称されるようになりました。青木神社には青木武蔵守時長・利仁・某・吉信・伊傳の五代が祀られています。 このように山津照神社は、主祭神の国常立尊に加え、地域の豪族・武家の祖霊を祀る複合的な祭祀空間として発展しました。

境内には若宮八幡社、春日社、北野社などの摂末社があり、八幡信仰・春日信仰・天神信仰など、平安期以降の多様な神祇体系が取り込まれています。 これらの摂末社は、地域の人々が生活の中で必要とした多様な神徳を補完する役割を果たし、山津照神社が総社として機能してきた歴史を物語っています。

社殿構造

・本殿:三間社流造、間口4間・奥行3間3尺。
・拝殿:入母屋造、間口4間・奥行3間。
・明治15〜18年に旧地から現在地へ移転新築。
・境内に前方後円墳(山津照神社古墳)が存在。

山津照神社の社殿は、明治期に旧地から現在地へ移転新築されたもので、伝統的な近江地方の神社建築の特徴をよく残しています。明治15年(1882)に旧境内から移転新築が開始され、同18年(1885)に完成・遷宮が行われました。旧社殿は現在の青木神社付近に位置していました。

本殿は 三間社流造 で、間口4間・奥行3間3尺という堂々たる規模を持ちます。 流造は日本の神社建築で最も一般的な形式ですが、三間社という規模は地方社としては大きく、式内社としての格式を示しています。檜皮葺の屋根が美しく、周囲の老樹と調和して荘厳な雰囲気を醸し出しています。

拝殿は 入母屋造 で、間口4間・奥行3間。 入母屋造は寺院建築にも用いられる格式の高い形式で、山津照神社が中世以降、神仏習合の中心として機能していた歴史を反映しています。拝殿前には広い境内が広がり、祭礼時には武家奴振りや奉納角力が行われ、地域の人々が集う場となります。

境内には前方後円墳「山津照神社古墳」があり、東側に後円部(径26.4m)、西側に前方部(39.6m)を持つ全長46.2mの大規模古墳です。 明治15年の参道拡張工事で石室が発見され、獣文鏡・五鈴鏡・金銅製冠・馬具・須恵器など多様な副葬品が出土しました。これらは息長氏が渡来系文化と深い関わりを持っていたことを示し、古代豪族の墳墓として極めて重要な考古資料となっています。

参拝作法

・一の鳥居 → 参道 → 二の鳥居 → 拝殿の順に進む。
・拝殿前で二拝二拍手一拝。
・境内社(青木神社・若宮八幡社など)も順に参拝。
・古墳は史跡のため立ち入りは案内に従う。

山津照神社の参拝は、古社らしい落ち着いた参道を進むところから始まります。まず石段を登ると「一の鳥居」が現れ、ここで軽く一礼して境内へ入ります。 鳥居は俗界と神域を分ける結界であり、姿勢を正して進むことが大切です。

参道を進むと左手に青木神社があり、これは中世に神仏習合の中心となった青木家の祖神を祀る社です。青木家は藤原鎌足の後裔であり、山津照神社の歴史に深く関わるため、主社とともに参拝することで神社の歴史的連続性を体感できます。

さらに進むと祭器庫や古墳案内があり、山津照神社古墳の歴史を知ることができます。古墳は国指定史跡であり、内部は埋め戻されていますが、案内板を読みながら息長氏の歴史に思いを馳せることができます。

二の鳥居をくぐると正面に拝殿が見えます。拝殿前で軽く一礼し、賽銭を納め、二拝二拍手一拝の作法で参拝します。国常立尊は天地開闢の根源神であるため、心を静めて祈ると、土地の安定や心身の調和を祈願するのにふさわしいとされています。

参拝後は中門を通して本殿を拝し、境内の若宮八幡社・春日社・北野社などの摂末社も順に参拝します。 これらの社は地域の生活に密着した神徳を持ち、総社としての山津照神社の性格を補完しています。

祭礼時には武家奴振りや奉納角力が行われ、古代から続く息長氏の文化的記憶を体感できます。参拝の際には祭礼日を確認し、地域の伝統行事に触れるのも良いでしょう。

その他伝説

・境内古墳は神功皇后の父・息長宿禰王の陵墓候補地。
・後鳥羽上皇が宝剣を奉納。
・武家奴振りは江戸期の道中奴を起源とし、昭和に復活。
・奉納角力は後烏羽上皇参拝に由来。

山津照神社には、古代豪族・息長氏の歴史と深く結びついた多くの伝承が残されています。最も重要なものは、境内に存在する前方後円墳「山津照神社古墳」にまつわる伝説です。この古墳は全長46.2mの大規模な前方後円墳で、後円部の径は26.4m、前方部は39.6mに及びます。明治15年の参道拡張工事の際に石室が発見され、獣文鏡・五鈴鏡・金銅製冠・馬具・須恵器など多様な副葬品が出土しました。これらは息長氏が渡来系文化と深い関わりを持っていたことを示し、古代豪族の墳墓として極めて重要な考古資料となっています。

この古墳は、神功皇后の父である 息長宿禰王の陵墓候補地 と伝えられています。息長氏は大王家と深い関係を持ち、継体天皇の出身氏族とも考えられるため、息長宿禰王の陵墓がこの地にあるという伝承は、氏族の祖霊祭祀と神社の成立が密接に結びついていたことを示します。古墳が神社境内に取り込まれている構造は、古代の祖霊祭祀と神社祭祀が連続していることを象徴しており、山津照神社の歴史的価値を高めています。

中世には、後鳥羽上皇が山津照神社へ宝剣を奉納したという記録が残っています。後鳥羽上皇は武芸を重んじた人物であり、宝剣奉納は神社への深い崇敬を示すものです。この奉納を契機として、山津照神社では武家文化が強く根付くようになり、祭礼において「武家奴振り」や「奉納角力」が行われるようになりました。武家奴振りは江戸時代の道中奴を起源とし、昭和期に地域の有志によって復活され、現在も例祭で披露されています。奉納角力は後鳥羽上皇の参拝に由来すると伝えられ、武家文化と神社祭祀が融合した独特の伝統行事として継承されています。

また、山津照神社は中世に「青木宮」と称された時代があります。これは藤原鎌足の後裔である青木家が当地に土着し、別当として神仏習合の中心となったためです。青木家の祖神五代が勧請され、神社は神仏習合の複合的な祭祀空間として発展しました。青木家は佐々木家に仕えた武家でもあり、山津照神社は武家の祈願所としても機能しました。青木家の祖神を祀る青木神社が現在も境内に残り、山津照神社の歴史的連続性を象徴しています。

このように山津照神社には、古代豪族・息長氏の祖霊祭祀、中世武家文化、神仏習合の歴史が複雑に重なり合い、独自の文化的層を形成しています。祭礼や伝承は単なる地域行事ではなく、千年以上にわたる歴史の記憶を今に伝える重要な文化遺産であり、山津照神社を訪れる際にはこれらの伝承を知ることで、より深い理解と感慨を得ることができます。

アクセス

山津照神社へのアクセスは以下のとおりです。

所在地:滋賀県米原市能登瀬
最寄駅:JR東海道本線「坂田駅」 駅から徒歩約20〜25分ほどで到着します。
坂田駅周辺は静かな田園地帯で、古代豪族・息長氏の本拠地らしい落ち着いた雰囲気が漂います。

車の場合は、名神高速道路「米原IC」から約10分ほどで到着します。 境内には参拝者用の駐車スペースがあり、車での参拝も容易です。

周辺には息長氏ゆかりの史跡が点在しているため、山津照神社を中心に歴史散策を行うと、古代近江の文化を立体的に体感できます。

再生の神・大物主神から授かった静かな恩恵。
潜在意識の深いところでゆっくり息を吹き返す、やさしい再生ヒーリングです。
眠りと覚醒のあわいで「意識の置き換え」と「癒し」がそっと芽生え、
心の奥の記憶や不安に寄り添いながら、
日々のストレスやトラウマを静かにほどいていきます。

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空海が育った善通寺の近くで生まれ、愛媛県で育ちました。 国立理系大学院を修了後は、大手半導体メーカーで研究開発エンジニアとして勤務し、CPU基盤材料や太陽電池材料の研究に携わっていました。 関西在住時、うつ病療養のために何度か訪れた奈良・大神神社(大物主神を祀る古社)で、不思議な体験をしたことが転機となります。 その出来事をきっかけに記紀を読み始め、十年後、自身の祖先が宇佐八幡初代神官・大神比義、さらには大神神社(地祇系三輪・大神氏)へと連なる「蛇神族の神官系の血流」であることを突きとめました。 また、20年間どの療法でも改善しなかった難治性うつ病が、瞑想と催眠の研究を続ける中で奇跡的に解消し、人間に本来備わる自然治癒力の発動法を見出しました。 その後、独自のヒーリング法を確立し、5年間にわたり精神疾患を抱える方々への対面施術・指導を行いましたが、コロナ禍を機に現場を引退。現在はサイトを立ち上げ、HSP向けのセルフヒーリングをオンラインで提供しています。 自身の経験から、 「この世界では、時に説明のつかない出来事が起こり、奇跡が起こることがある」 というメッセージを蛇神の血筋として伝えていきたいと考えています。 なお、宗教団体とは一切関係ありません。
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