10代崇神(すじん)天皇の時代を物語としてまとめています。
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

磯城(しき)の地に、ひとつの宮がありました。
その名を、**水垣宮(みずかきのみや)**といいます。
ここにおられたのが、**御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)**です。
天皇はこの宮を中心として天下を治め、国々の様子を見つめておられました。
このころ、国は少しずつまとまりを見せていました。
天皇は、木国造(きのくにのみやつこ)・荒河刀弁(あらかわとべ)の娘である、**遠津年魚目目微比売(とおつあゆめまくはしひめ)**を皇后とされました。
やがて二人の間に、二柱の御子がお生まれになります。
第一の御子は、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)。
第二の御子は、**豊鉏入日売命(とよすきいりひめのみこと)**です。
さらに天皇は、尾張連(おわりのむらじ)の祖となる**意富阿麻比売(おほあまひめ)**を妃とされました。
二人の間にも、御子たちがお生まれになります。
大入杵命(おおいりきのみこと)、
八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)、
沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)、
そして、**十市之入日売命(とおちのいりひめのみこと)**です。
そしてもう一人、天皇の妃となったのが、大毘古命(おおびこのみこと)の娘、**御真津比売(みまつひめ)**でした。
御真津比売との間にも、六柱の御子がお生まれになりました。
伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)、
伊耶能真若命(いざのまわかのみこと)、
国片比売命(くにかたひめのみこと)、
千千都久和比売命(ちちつくわひめのみこと)、
伊賀比売命(いがひめ)、
そして、**倭日子命(やまとひこのみこと)**です。
こうして、御真木入日子印恵命の御子は、合わせて十二柱となりました。
皇子七柱、皇女五柱。
水垣宮には、たくさんの御子たちの姿がありました。
そして、この十二柱の御子の中から、やがて次の天皇となる御子が現れます。
その御名は――
伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)。
後の**垂仁天皇(すいにんてんのう)**です。

十二柱の御子の中に、**倭日子命(やまとひこのみこと)**がおられました。
倭日子命が亡くなられたとき、人々はその死を深く悲しみました。
そして、その御陵を築くことになりました。
ところが、そのとき――。
陵墓のまわりに、人を立たせるという風習が行われたと伝えられています。
これを**人垣(ひとがき)**といいます。
亡くなった大切な人物を守るため、またその霊に仕えるため、人々を陵墓の周囲に立たせたのです。
しかし、そこには大きな悲しみがありました。
人々は生きたまま陵墓のそばに置かれ、死者とともに命を終えることになったからです。
この風習は、のちに廃されていくことになります。
そして、人に代わって陵墓を守るものとして登場したのが、**埴輪(はにわ)**でした。
土で作られた人や馬、家などの形が、陵墓の周囲に並べられるようになります。
生きた人間ではなく、土で作られた像を置く。
そこには、古代の葬送のあり方が大きく変わっていく姿を見ることができます。
倭日子命の物語は、古代の陵墓文化が変化していく、その遠い始まりの物語として伝えられているのです。

さて、御真木入日子印恵命の御代に、大変な出来事が起こりました。
国中に、恐ろしい疫病が広がったのです。
人々は次々に病に倒れました。
村にも、町にも、悲しみが広がっていきます。
「なぜ、このようなことが起こるのでしょうか……」
「このままでは、国が滅んでしまう……」
人々は恐れました。
天皇も深く心を痛められました。
「どうすれば、この国を救うことができるのでしょうか」
天皇は神々の御心を知ろうと、神意を尋ね、祈りを続けました。
すると、ある夜――。
天皇の夢の中に、一柱の神が現れました。
その神こそ、三輪山に鎮まる**大物主大神(おおものぬしのおおかみ)**でした。
神は天皇に告げました。
「この疫病は、私の意志によるものです。
しかし、私を正しく祀る者を得れば、災いは止むでしょう。
**意富多々泥古(おほたたねこ)**という者に、私を祭らせなさい。
そうすれば、国は再び安らかになるでしょう」
天皇は夢から覚めると、すぐに命令を出しました。
「意富多々泥古という者を、何としても探し出すのです」
使者たちは四方へ走りました。
そしてついに――。
河内国(かわちのくに)の美努村(みののむら)で、その人物を見つけたのです。
天皇の前に、一人の男が連れてこられました。
その名は、意富多々泥古(おほたたねこ)。

天皇は尋ねました。
「そなたは、いったい誰の子なのですか」
意富多々泥古は、静かに答えました。
「私は、**大物主大神(おおものぬしのおおかみ)**が、**活玉依毘売(いくたまよりびめ)**を妻としてお生みになった、**櫛御方命(くしみかたのみこと)**の子孫でございます」
その言葉を聞いた天皇は、大いに喜ばれました。
「ついに見つかった!」
これで国を救う道が開かれたのです。
天皇は意富多々泥古を神主とし、三輪山に鎮まる大物主大神を、丁重にお祀りしました。
さらに、宇陀(うだ)の墨坂(すみさか)の神には、赤い楯と矛を奉納しました。
大坂(おおさか)の神には、黒い楯と矛を奉りました。
そして、坂の上に鎮まる神、河の瀬に鎮まる神など、国中の神々にも幣帛(へいはく)を捧げました。
天皇は、国を救うために、心を尽くして神々に祈ったのです。
すると――。
不思議なことが起こりました。
あれほど猛威を振るっていた疫病が、次第におさまっていったのです。
人々の顔に、少しずつ笑顔が戻りました。
「神のお力によって、国が救われたのだ!」
国中から喜びの声が上がりました。
大物主大神と意富多々泥古のつながりには、さらに不思議な物語がありました。
昔、**活玉依毘売(いくたまよりびめ)**という、美しい娘がおりました。
ある夜のことです。
家の中に、見知らぬ男が現れました。
その男は、とても気高く、美しい姿をしていました。
どこから来たのかも分かりません。
男は夜になると現れ、朝になると姿を消しました。
そして、やがて活玉依毘売は身籠りました。
両親は驚きました。
「いったい、誰との間に子を授かったのですか?」
しかし、娘にも男の正体が分かりません。
そこで両親は考えました。
「ならば、その男の正体を確かめてみよう」
そして娘に、ある方法を教えました。
「床に赤土を撒きなさい。
そして麻糸を針に通し、その糸を男の衣に刺すのです」
その夜。
いつものように、男が現れました。
活玉依毘売は教えられた通り、男の衣に糸を刺しました。
翌朝。
男の姿はありません。
しかし、糸だけが残っていました。
その糸は、戸の鍵穴を通って外へ伸びています。
「これは、いったいどこへ続いているのでしょう?」
人々は糸をたどりました。
糸は野を越え、道を越え――。
やがて、三輪山の神の鎮まる場所へと続いていました。
そこで、人々はついに気づいたのです。
夜ごと活玉依毘売のもとを訪れていた男。
その正体は――。
三輪山に鎮まる**大物主神(おおものぬしのかみ)**だったのです。
人々は、三輪山にたどり着いた糸を見つめました。
「ここから神がおいでになっていたのだ……」
そして、糸にはまだ麻の部分が残っていました。
その長さは、わずかに**三勾(みわ)**ほどでした。
このことから、その地は「美和(みわ)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
こうして、三輪の地には大物主神への信仰が深く根づいていきました。
そして、意富多々泥古は、その神の子孫として、神を祀る重要な役割を担うことになります。
やがて意富多々泥古の子孫は、**三輪君(みわのきみ)や鴨君(かものきみ)**など、古代の重要な氏族へとつながっていきました。
三輪山。
そこには、目には見えない神の力が宿っている。
人々はそう考え、山そのものを神聖な存在として仰いだのです。
疫病が収まり、国が落ち着きを取り戻したころ――。
今度は、天皇の御身に危険が迫っていました。
天皇の異母兄にあたる**武波邇安王(たけはにやすのみこ)**が、反逆を企てていたのです。
そのころ、大毘古命(おおびこのみこと)は越国(こしのくに)へ向かっていました。
山城国(やましろのくに)の幣羅坂(へらさか)という場所に差しかかったときです。
道の先に、一人の少女が立っていました。
少女は腰裳をつけ、じっと大毘古命を見つめています。
そして、突然、不思議な歌を歌い始めました。
「御真木入日子は……。
御真木入日子は……。
命を狙う者が、前の戸から忍び寄り、
後ろの戸からも忍び寄る……」
大毘古命は、驚いて少女を見つめました。
「いったい、何を言っているのだ?」
しかし、少女はそれ以上何も語りません。
気がつくと――。
少女の姿は消えていました。
大毘古命は、これはただの歌ではないと感じました。
「天皇のお命に、何か危険が迫っているのかもしれない」
大毘古命は越国へ向かうのをいったんやめ、急いで宮へ戻りました。

大毘古命は天皇の前に戻ると、幣羅坂で起きた不思議な出来事をすべて報告しました。
天皇はじっと話を聞かれました。
そして、おっしゃいました。
「それは、武波邇安王の反逆を知らせる兆しでしょう」
すぐに軍勢が整えられました。
大毘古命には討伐の命が下されます。
さらに、**日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)**も軍を率いて出陣しました。
一方、武波邇安王も兵を集めていました。
両軍は、**和訶羅河(わからがわ)**で向かい合いました。
川を挟んで、緊張が高まります。
やがて戦いが始まりました。
矢が飛び交います。
武器がぶつかり合います。
そして――。
日子国夫玖命が放った矢が、武波邇安王を射抜きました。
反乱軍は崩れ去り、反逆は鎮圧されました。
国を揺るがしかねなかった危機は、こうして終わったのです。
戦いが終わると、人々はその出来事を忘れませんでした。
戦いを「挑み合った」ことから、その地は**伊抒美(いどみ)と呼ばれ、やがて泉(いずみ)**へと変化したと伝えられています。
さらに、逃げる兵たちが恐怖のあまり失禁してしまった場所は、
**屎褌(くそばかま)**と呼ばれ、
のちに**久須婆(くすば)**という名になったといわれます。
また、川に多くの死体が浮かんだ場所は、
鵜河(うかわ)
と呼ばれるようになりました。
古代の人々は、国で起こった大きな出来事を、地名の中に刻み込んでいったのです。
そこを通る人々は、その名を聞くたびに、遠い昔の戦いを思い出したことでしょう。
反乱が鎮まったあとも、天皇は国を一つにまとめる努力を続けられました。
大毘古命には、越国を平定する命が下されました。
大毘古命は兵を率いて北へ向かいます。
一方、**建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)**には、東方十二国を平定する命が下されました。
建沼河別命もまた、東へ向かいました。
それぞれの道を進んだ二人は、長い旅の末に――。
会津(あいづ)の地で出会いました。
「おお、ここで会えましたか!」
父と子が、遠く離れた土地で再会したのです。
このことから、その場所は、
会津――「相津(あいづ)」
と呼ばれるようになったと伝えられています。
こうして、各地をめぐる平定が進み、天下は次第に平らかになっていきました。

国が平らかになると、各地からさまざまな品々が天皇のもとへ届けられるようになりました。
弓矢によって得た獲物。
織物。
農産物。
そして、各地の人々が心を込めて作った品々。
これらは、国々からの**調(みつぎ)**として献上されました。
天皇のもとに、国々の産物が集まってきます。
人々は、こうして国と国とのつながりが強くなっていくのを感じました。
また、この御代には農業を支えるための池も築かれました。
依網池(よさみのいけ)。
酒折池(さかおりのいけ)。
こうした池によって水を確保し、田畑を潤すことができるようになりました。
人々は土地を耕し、米を育て、豊かな実りを得るようになります。
国が広がるだけではありません。
人々の暮らしそのものも、少しずつ豊かになっていったのです。
そのため、御真木入日子印恵命は後世、
「初国知らしし御真木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)」
と称えられました。
初めて国々を広く治め、国の形を整えた天皇――。
その功績は、長く語り継がれることとなったのです。
長い年月が流れました。
国を治め、神々を祀り、反乱を鎮め、各地を平定し、農業を盛んにした御真木入日子印恵命。
その御代は、こうして終わりを迎えようとしていました。
天皇は168歳で崩御されたと伝えられています。
人々は深い悲しみに包まれました。
そして、その御身は、山辺道(やまのべのみち)の勾(まがり)の岡に葬られました。
そこに大きな御陵が築かれました。
国をまとめた天皇の眠る場所です。
人々は御陵の前に立ち、長い年月を振り返ったことでしょう。
三輪山の大物主神。
国を襲った疫病。
意富多々泥古の発見。
武波邇安王の反逆。
大毘古命と建沼河別命による平定。
そして、国々から届けられる調の品々。
そのすべてが、御真木入日子印恵命の御代を形づくっていました。
やがて、水垣宮には次の時代を担う御子が立ちます。
その御名は――。
伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)。
父の跡を継ぎ、次の天皇となる御子です。
こうして、御真木入日子印恵命の時代から、次の時代へと、国の物語は受け継がれていくのでした。
■ 皇后と御子たち
御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)は、
磯城の 水垣宮(みずかきのみや) にて天下をお治めになりました。
天皇は、木国造・荒河刀弁の娘 遠津年魚目目微比売(とおつあゆめまくはしひめ) を皇后とされ、
お生まれになった御子は二柱。
豊木入日子命(とよきいりひこ)
豊鉏入日売命(とよすきいりひめ)
また、尾張連の祖・意富阿麻比売(おほあまひめ)を妃として、
四柱の御子をもうけられました。
大入杵命(おおいりき)
八坂之入日子命(やさかのいりひこ)
沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめ)
十市之入日売命(とおちのいりひめ)
さらに、大毘古命の娘 御真津比売(みまつひめ) を妃として、
六柱の御子をもうけられます。
伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさち)
伊耶能真若命(いざのまわか)
国片比売命(くにかたひめ)
千千都久和比売命(ちちつくわひめ)
伊賀比売命(いがひめ)
倭日子命(やまとひこ)
合わせて十二柱。
皇子七柱、皇女五柱という、豊かな御子の代でございました。
このうち 伊玖米入日子伊沙知命 が、次の天皇となられます。
倭日子命と陵墓の始まり
御子の一人、倭日子命(やまとひこ) の御代に、
初めて陵墓の周りに「人垣(ひとがき)」――生贄を立てる風習が始まったと伝えられます。
のちにこの風習は廃され、埴輪へと姿を変えていきますが、
その最初の影は、この時代に生まれたのでした。
三輪山の大物主神 ― 国を救う神の声
崇神天皇の御代、
国中に疫病が広がり、人々は次々と倒れ、
国が滅びるかと思われるほどの大災厄が訪れました。
天皇は深く心を痛め、
「いかにすれば、この国を救えるのか」
と神意を問うため、祈りの床にお入りになります。
その夜――
三輪山の大物主大神(おおものぬしのおおかみ) が夢に現れ、こう告げました。
「この疫病は、我が意志によるものだ。
意富多々泥古(おほたねこ)に我を祭らせよ。
そうすれば祟りは止み、国は安らかになる。」
天皇は急ぎ使者を四方に遣わし、
河内国・美努村にて 意富多々泥古(おほたねこ) を見いだします。
天皇が「そなたは誰の子か」と問うと、
おほたねこは静かに答えました。
「私は大物主大神が、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を妻として生まれた
櫛御方命(くしみかたのみこと)の子孫でございます。」
天皇は大いに喜び、
「これで国は救われる」とおおせになりました。
そしておほたねこを神主として、
三輪山に 意富美和之大神(おおみわのおおかみ) を丁重にお祀りになりました。
さらに、宇陀の墨坂の神には赤い楯と矛、
大坂の神には黒い楯と矛を奉り、
坂の上の神、河の瀬の神に至るまで、
すべての神々に幣帛を捧げて祈りを尽くされました。
その結果、
疫病はぴたりと止み、
国は再び平穏を取り戻したのです。
活玉依毘売と大物主神 ― 神の子の誕生
意富多々泥古が神の子孫であることは、
次のような不思議な出来事によって明らかになりました。
活玉依毘売は、光り輝くほど美しい娘でした。
ある夜、見知らぬ気高い男が訪れ、
やがて娘は身籠ります。
両親が不審に思い、
「赤土を床に撒き、麻糸を針に通して男の衣に刺しなさい」
と教えます。
翌朝、糸は戸の鍵穴を通って外へ伸び、
三輪山の神社で止まっていました。
こうして、
娘の夫が 三輪山の大物主神 であったことが明らかになったのです。
残った麻糸が「三勾(みわ)」であったことから、
その地は 美和(みわ) と呼ばれるようになりました。
意富多々泥古は、
三輪君・鴨君の祖となります。
武波邇安王(たけはにやす)の反逆
この御代には、
天皇の異母兄 武波邇安王(たけはにやす) が反逆を企てました。
越国へ向かう大毘古命が山城の幣羅坂を通ったとき、
腰裳をつけた少女が不思議な歌を詠みます。
「御真木入日子はまあ、御真木入日子はまあ……
命を狙う者が、前の戸、後ろの戸から忍び寄る……」
少女はすぐに姿を消し、
大毘古命は都へ戻って天皇に報告します。
天皇は
「これは武波邇安王の反逆の兆しであろう」
とおおせになり、
大毘古命と日子国夫玖命を討伐に遣わしました。
和訶羅河で両軍は対峙し、
日子国夫玖の放った矢が武波邇安王を射抜き、
反乱は鎮圧されました。
その地は 伊抒美(いどみ) → 伊豆美(いずみ) と呼ばれるようになります。
逃げる兵が恐怖のあまり失禁した地は 屎襌(くそばかま) → 久須婆(くすば)、
川に死体が浮かんだ地は 鵜河(うかわ) と名づけられました。
初国知らしし天皇
大毘古命は越国を、
建沼河別命は東方十二国を平定し、
会津で父子が合流したことから、
その地は 会津(あいづ) と呼ばれるようになりました。
こうして天下は平らぎ、
国は豊かになりました。
この御代に初めて、
弓矢の獲物や織物などの 調(みつぎ) が献上され、
天皇は「初めて国を知らしめした天皇」
すなわち 初国知らしし御真木天皇 と称えられます。
また、
依網池(よさみのいけ)や酒折池(さかおりのいけ)など、
灌漑のための池が築かれ、
農業が大きく発展しました。
天皇は 168歳 で崩御され、
御陵は 山辺道の勾の岡 にあります。
天皇即位
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)は、開化天皇(かいかてんのう)の第二子でございます。
母は 伊香色謎命(いかがしこめのみこと) といい、物部氏(もののべのうじ)の先祖である 大綜麻杵(おおへそき) の娘です。
天皇は十九歳で皇太子となられました。
善悪を識別する力に優れ、早くから大きな策謀を好まれました。
壮年には心広く慎み深く、天神地祇(てんじんちぎ)をあがめられ、常に帝王としての大業を治めようとする志をお持ちでした。
六十年夏四月、開化天皇(かいかてんのう)が崩御されました。
元年春一月十三日、皇太子が皇位につかれました。
皇后を尊んで皇太后と呼ばれました。
二月十六日、御間城姫(みまきひめ) を立てて皇后とされました。
この皇后は、のちに
活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと:垂仁天皇)
彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)
国方姫命(くにかたひめのみこと)
千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
倭彦命(やまとひこのみこと)
五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)
をお生みになりました。
次の妃である紀伊国(きいのくに)の 荒河戸畔(あらかわとべ) の娘 遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ) は、
豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)
を生みました。
さらに妃である 尾張大海媛(おわりおおしあまひめ) は、
八坂入彦命(やさかいりびこのみこと)
渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)
十市瓊入姫命(とおちにいりびめのみこと)
を生みました。
この年、太歳は 甲申(きのえさる) でした。
瑞籬宮(みずかきのみや)への遷都
三年秋九月、都を 磯城(しき) に移し、これを 瑞籬宮(みずかきのみや) と呼びました。
四年冬十月二十三日、天皇は詔して言われました。
「我が皇祖の諸天皇がその位に臨まれたのは、一身のためではない。
神と人を整え、天下を治めるためである。
代々、良い政治を広め、徳を布かれた。
今、私は大業を承り、国民を恵み養うこととなった。
どのようにして皇祖の跡を継ぎ、無窮の位を保とうか。
群卿百僚(まちきみたち)よ、汝らの忠貞の心を尽くして共に天下を安ずることは、また良いことではないか。」
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る
五年、国内に疫病が多く、民の死亡者は半数以上に及びました。
六年、百姓の流離する者、反逆する者があり、徳をもって治めようとしても難しい状況でした。
天皇は一日中、天神地祇に祈られました。
その後、天照大神(あまてらすおおみかみ) と 倭大国魂(やまとのおおくにたま) の二神を御殿の内に祀りました。
しかし神威を畏れ、共に住むことに不安がありました。
そこで天照大神(あまてらすおおみかみ)を 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと) に託し、
大和(やまと)の 笠縫邑(かさぬいのむら) に祀りました。
また日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は 淳名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと) に預けて祀らせましたが、
姫は髪が落ち、体が痩せて祀ることができませんでした。
大物主神(おおものぬしのかみ)の神託
七年春二月十五日、天皇は詔して言われました。
「昔、皇祖が大業を開き、歴代の御徳は高く王風は盛んであった。
ところが今の世になって災害が続く。
朝廷に善政がなく、神が咎を与えているのではないかと恐れる。
占いによって災いの理由を究めよう。」
天皇は 神浅茅原(かむあさじがはら) に出向き、八十万の神々を招いて占いをされました。
このとき、神は 倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと) に憑りつき、
「天皇よ、国が治まらないのを憂えるな。
よく私を敬い祀れば、自然に安定する。」
と告げました。
天皇が神名を問うと、
「私は倭国の域の内にいる神、大物主神(おおものぬしのかみ)である。」
と答えました。
大田田根子(おおたたねこ)の登場
天皇は夢で神から、
「我が子 大田田根子(おおたたねこ) に私を祀らせれば、国は安定する」
と告げられました。
さらに 倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまくわしひめ) ら三人も同じ夢を見て報告しました。
天皇は大田田根子(おおたたねこ)を探し、
茅淳県(ちぬのあがた)の 陶邑(すえむら) に彼を見つけ、宮中に連れてきました。
天皇が尋ねられました。
「お前は誰の子か。」
大田田根子は答えました。
「父は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、母は活玉依姫(いくたまよりひめ)です。」
天皇は喜ばれ、
「ああ、私はきっと発展するだろう。」
と言われました。
大物主神の祭祀と平定
十一月十三日、天皇は 伊香色雄(いかがしこお) に命じて平瓮(ひらか)を供えさせ、
大田田根子(おおたたねこ)を大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の祭主としました。
これにより疫病は収まり、国内は鎮まり、五穀は実り、民は豊かになりました。
四道将軍(しどうしょうぐん)の派遣
十年秋七月二十四日、天皇は言われました。
「民を導く根本は教化にある。
遠国の人々はまだ王化に預かっていない。
四方に将軍を遣わして教化を広めよう。」
九月九日、
大彦命(おおひこのみこと) を北陸道へ
武淳川別(たけぬなかわわけ) を東海道へ
吉備津彦(きびつひこ) を西海道へ
丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと) を丹波へ遣わしました。
武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱
大彦命(おおひこのみこと)が和珥の坂で少女の不吉な歌を聞き、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)がこれを占って反乱を察知しました。
武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻 吾田媛(あたひめ) が挙兵し、
天皇は 五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと:吉備津彦) を遣わして討たせました。
吾田媛は大坂で討たれ、
武埴安彦は 彦国葺(ひこくにぶく) に射られて討たれました。
箸墓(はしはか)の由来
倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となりましたが、
神の正体を見てしまい、恥じた神が去り、姫は悲しみのあまり箸で陰部を突いて亡くなりました。
その墓が 箸墓(はしはか) であり、
昼は人が、夜は神が造ったと伝えられます。
御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)
十二年、天皇は戸口を調べ、課役を定め、
天下は平穏となりました。
この功績により、天皇を 御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと) と称えました。
後継者の決定
四十八年、天皇は二人の皇子に夢占いをさせ、
弟の 活目尊(いくめのみこと:のちの垂仁天皇) を皇太子とし、
兄の 豊城命(とよきのみこと) を東国に遣わしました。
出雲神宝の事件
六十年、天皇は出雲大神(いずものおおかみ)の神宝を見たいと望まれ、
これをめぐって 出雲振根(いずものふるね) と 飯入根(いいいりね) の兄弟が争い、
飯入根が殺されました。
朝廷は吉備津彦(きびつひこ)らを遣わして出雲振根を討ちました。
治水と池の建設
六十二年、天皇は農業のために池を造るよう命じ、
依網池(よさみのいけ)
荊坂池(かりさかのいけ)
反折池(さかおりのいけ)
を造らせました。
天皇の崩御
天皇は即位から六十八年、
冬十二月五日に崩御されました。
御年 百二十歳 でした。
翌年八月十一日、山辺道上陵(やまのへのみちのえのみささぎ) に葬られました。