目次
欠史八代の内容を物語として章立てまとめています。
(欠史八代とは、『記紀』に記されているものの、具体的な事績(政治・出来事)がほとんど残っていない八代の天皇(二代~九代)を指す名称です。)
記紀の現代語訳を読みたい方は後半をご覧ください。

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神武天皇が天へ帰ったのち、大和の地には大きな余白が残りました。
その余白は、喪失の空洞ではなく、次の王が歩み出すための柔らかな道でした。
大和という土地そのものが、綏靖天皇の誕生を見守っているようでした。
綏靖は、父のように剣を振るうことよりも、
大地の声に耳を澄ませることを好む王でした。
彼の治世は、夜明け前の薄闇のように静かで、
大きな戦もなく、血の匂いもなく、
ただ、村々の灯がひとつ、またひとつと増えていくように、
人々の暮らしがゆっくりと整っていきました。
ある日、臣下のひとりが問いかけました。
「陛下、国を広げるために兵を動かされぬのですか?」
綏靖は遠くの山を見つめ、静かに微笑みました。
「国とは、剣で広げるものではない。
民が安心して眠り、明日を信じられる場所こそ、国の広がりだ。」
その言葉は、柔らかく、しかし深い力を帯びていました。
綏靖が祈りを捧げると、風はやわらかく吹き、
山の神々は木々を揺らして応えました。
春には田畑が静かに広がり、
夏には川の水が澄み、
秋には稲穂が黄金に揺れ、
冬には雪が音もなく積もる。
そのすべてが、綏靖の治める大和の呼吸でした。
大和王権の最初の芽は、
この静けさの中で、誰にも気づかれぬほど慎ましく、
しかし確かに息づき始めたのです。

綏靖の子、安寧天皇(あんねいてんのう)が即位すると、
大和の地には祈りの気配が満ちていきました。
彼は父以上に、神々との対話を重んじる王であり、
朝には太陽に、夕には祖霊に、
そして季節ごとには山川の神々に祈りを捧げました。
その祈りは、やがて村々の祭祀をひとつの流れへと束ね、
大和の地に「祈りの道」が生まれました。
人々はその道を通じて王へとつながり、
王はその道を通じて神々へとつながる――
そんな循環が、静かに形を帯びていったのです。
安寧の治世は、まるで春の雨のように穏やかで、
争いは遠く、作物はよく実り、
大和の地はゆっくりと、しかし確実に豊かさを増していきました。

安寧の子、懿徳天皇(いとくてんのう)が王となる頃、
大和盆地には多くの集落が生まれ、
人々は互いに道を行き交うようになっていました。
懿徳は、散らばる村々の声をひとつひとつ聞き、
それぞれの氏族が持つ神々の物語を尊重しながら、
ゆるやかな秩序を築いていきました。
彼の治世は、まるで大地に刻まれる最初の“線”のようで、
その線はやがて王権という大きな図を描くための基盤となりました。
大和の中心には、まだ小さな祭祀の場があり、
そこには神々の気配が濃く漂っていました。
懿徳はその場に立つたび、
自らが王である以前に「神々の子」であることを深く感じたといいます。

懿徳の子、孝昭天皇(こうしょうてんのう)の時代になると、
王家の血脈はひとつの“物語”として語られ始めました。
祖先神の名が唱えられ、
王の血が天へとつながることが、
人々の間で静かに、しかし確かに信じられていきました。
孝昭は、祖先の足跡をたどるように大和の地を巡り、
山の神、川の神、土地の神々へと祈りを捧げました。
その祈りは、王権の正統性を深めるだけでなく、
大和の地そのものをひとつの“聖なる場”へと変えていきました。
王の家は、まだ小さく、まだ脆い。
しかしその血脈は、神々の光を帯びながら、
確かな未来へと伸びていきました。

孝昭の子、孝安天皇(こうあんてんのう)の時代、
大和の山々は王の存在をより強く意識し始めました。
山の民、川の民が王のもとを訪れ、
それぞれの土地の神々の声を伝えました。
孝安はその声を丁寧に受け取り、
大和の地をひとつの“広がる世界”として捉え始めました。
まだ領土という概念は薄いものの、
山河の向こうに広がる土地が、
王の祈りによってひとつに結ばれていく気配がありました。
大和は、ゆっくりと、しかし確実に、
「王の地」としての姿を帯びていったのです。

孝安の子、孝霊天皇(こうれいてんのう)の時代になると、
大和の風に、かすかな“武”の匂いが混じり始めました。
吉備や出雲など、外の勢力が大和を意識し始め、
王権は初めて、自らを守るという意識を持つようになります。
しかし孝霊は、争いを望む王ではありませんでした。
彼は武を“備え”として整えつつも、
その根底には常に祈りと調和がありました。
この時代、後に名を残す氏族の祖たちが姿を現し、
大和の地には新たな息吹が満ちていきました。
それは、王権が次の段階へ進む前触れのようでもありました。

孝霊の子、孝元天皇(こうげんてんのう)の治世、
大和の地には多くの氏族が集まり、
それぞれが神々の名を背負いながら力を持つようになっていました。
孝元は、その力を争わせるのではなく、
ひとつの大きな流れへと束ねることを選びました。
彼は調停者としての王であり、
その姿は、まるで大河の源流をまとめる山のようでした。
この時代、大和王権の骨格が静かに形づくられ、
王の祈りは、氏族たちの祈りと重なり合い、
大和の地にひとつの“中心”が生まれました。

孝元の子、開化天皇(かいかてんのう)の時代、
大和王権はようやく、朝廷と呼べる姿に近づきました。
祭祀は整い、氏族はまとまり、
大和の中心には、神々と人々をつなぐ場が確かに存在していました。
開化は、その中心に立つ王として、
静かに、しかし揺るぎなく大和を見つめました。
彼の治世は、夜明け前の空が白み始めるような時代であり、
その光は、次の崇神天皇の時代へと確かに受け継がれていきます。
大和王権の黎明は、こうして静かに幕を開け、
やがて訪れる大いなる光の時代へとつながっていくのです。
二代天皇 綏靖(すいぜい)天皇の御代
綏靖天皇、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、葛城の高岡宮で国をお治めになりました。
天皇は磯城県主の祖先である川俣毘売(かわまたびめ)を后とし、師木津日子玉手(しきつひこたまで)命をお生みになります。
天皇は四十五歳で崩御され、御陵は衝田岡(つきたのおか)に築かれました。
三代天皇 安寧(あんねい)天皇の御代
師木津日子玉手命は、片塩の浮穴宮で天下を治められました。
后は川俣毘売の兄・県主波延(はえ)の娘、阿久斗比売(あくとひめ)で、三柱の皇子をお生みになります。
常根津日子伊呂泥(とこねつひこいろね)命
大倭日子鉏友(おおやまとひこすきとも)命
師木津日子(しきつひこ)命
このうち、大倭日子鉏友命が後に天下を継ぎます。
師木津日子命の子孫は伊賀・那婆理・三野の稲置の祖となり、もう一人の子・和知都美命は淡路へ渡り、その娘たちは後の皇統にも関わる縁を結びました。
天皇は四十九歳で崩御され、御陵は畝傍山の美富登(みほと)にあります。
四代天皇 懿徳(いとく)天皇の御代
大倭日子鉏友命は軽の境岡宮で国を治められました。
后は師木県主の祖・賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)で、二柱の皇子をお生みになります。
御真津日子訶恵志泥(みまつひこかえしね)命
多芸志比古(たぎしひこ)命
長子・御真津日子訶恵志泥命が皇位を継ぎ、弟の多芸志比古命は血沼之別や多遅麻の竹別などの祖となりました。
天皇は四十五歳で崩御され、御陵は畝傍山の真名子谷の近くにあります。
五代天皇 孝昭(こうしょう)天皇の御代
御真津日子訶恵志泥命は葛城の掖上宮で天下を治められました。
后は尾張連の祖・奥津余曾の妹、余曾多本毘売(よそたほびめ)命で、二柱の皇子をお生みになります。
天押帯日子(あめおしたらしひこ)命
大倭帯日子国押人(おおやまとたらしひこくにおしひと)命
弟の国押人命が皇位を継ぎ、兄の天押帯日子命は多くの氏族の祖となりました。
天皇は九十三歳で崩御され、御陵は掖上の博多山のほとりにあります。
六代天皇 孝安(こうあん)天皇の御代
大倭帯日子国押人命は葛城の室の秋津島宮で国を治められました。
后は姪の忍鹿比売(おしかひめ)命で、二柱の皇子をお生みになります。
大吉備諸進(おおきびもろすすみ)命
大倭根子日子賦斗邇(おおやまとねこひこふとに)命
後に大倭根子日子賦斗邇命が皇位を継ぎました。
天皇は百二十三歳で崩御され、御陵は玉手岡の上にあります。
七代天皇 孝霊(こうれい)天皇の御代
大倭根子日子賦斗邇命は黒田の廬戸宮で天下を治められました。
天皇は多くの后を迎え、八柱の皇子女をお生みになります。
その中でも、大倭根子日子国玖琉(おおやまとねこひこくにくる)命が皇位を継ぎました。
また、大吉備津日子命と若建吉備津日子命は播磨から吉備を平定し、それぞれ吉備上道臣・下道臣の祖となります。
天皇は百六歳で崩御され、御陵は片岡の馬坂の上にあります。
八代天皇 孝元(こうげん)天皇の御代
大倭根子日子国玖琉命は軽の堺原宮で国を治められました。
后は内色許売(うつしこめ)命で、三柱の皇子をお生みになります。
さらに別の后との間にも皇子が生まれ、合わせて五柱となりました。
その中で若倭根子日子大毘々(わかやまとねこひこおおびび)命が皇位を継ぎます。
兄弟やその子孫は阿倍臣、膳臣、蘇我臣、平群臣など、後の大氏族の祖となりました。
天皇は五十七歳で崩御され、御陵は剣池の中の岡にあります。
九代天皇 開化(かいか)天皇の御代
若倭根子日子大毘々命は春日の伊耶河宮で天下を治められました。
天皇は多くの后を迎え、五柱の皇子女をお生みになります。
その中で御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ)命が皇位を継ぎました。
兄弟やその子孫は、丹波・山代・近江・若狭・三河など、広い地域の国造や豪族の祖となり、後の日本各地の氏族形成に深く関わっていきます。
天皇は六十三歳で崩御され、御陵は伊耶河の坂の上にあります。
二代天皇 綏靖天皇(すいぜいてんのう)
神淳名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)は、神武天皇の第三子としてお生まれになりました。母は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、事代主神の長女にあたります。天皇は幼いころから風采が整い、気性は雄々しく、壮年になるとその容貌はいっそう優れ、堂々たる威厳を備えておられました。武芸にも秀で、志は高く、常に厳粛な心を忘れない方であったと伝えられています。
やがて四十八歳のとき、父である神武天皇が崩御されました。神淳名川耳尊は深い孝心を抱き、悲しみは尽きることがありませんでした。特に葬儀には心を尽くされ、父への敬慕の念は人一倍であったといいます。しかしその頃、腹違いの兄・手研耳命(たぎしみみのみこと)は、長く朝政に携わっていたことを理由に権勢をほしいままにし、仁義に背く振る舞いを重ねていました。ついには服喪のさなかに邪心を抱き、弟たちを暗殺しようと企てたのです。
その密謀を知った神淳名川耳尊は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共にこれを防ぐ決意を固められました。先帝の山陵が完成すると、弓部雅彦に弓を作らせ、倭鍛部天津真浦には鹿を射る鏃を鍛えさせ、矢部には矢を整えさせて、着々と準備を進められました。
すべてが整ったある日、手研耳命が片丘の大室にひとりで伏していると聞き、ついに行動を起こされます。神淳名川耳尊は神八井耳命に向かって、「今こそ好機である。密事は密かに行うものだ。今日のことは私とお前だけでやろう。私が戸を開けるから、お前はすぐに射よ」と告げられました。
二人は静かに大室へ入り、神淳名川耳尊が戸を押し開けました。しかし神八井耳命は恐れに震え、矢を放つことができませんでした。そのため神淳名川耳尊は兄の手から弓矢を取り、みずから手研耳命を射抜かれました。一矢は胸に、二矢目は背に命中し、ついに手研耳命は討たれました。
この出来事を恥じた神八井耳命は、弟に従うことを誓い、「私は兄ではあるが気が弱く、このような大事は成し得ない。お前こそ武勇に優れ、仇を討った。天位につき、皇祖の業を継ぐのがふさわしい。私はお前を助け、神々のお祀りを受け持とう」と述べました。これが多臣(おおのおみ)の始まりとされています。
こうして元年の春一月八日、神淳名川耳尊は即位され、葛城に都を築かれました。これを高丘宮(たかおかのみや)といいます。先の皇后を尊んで皇太后とし、この年は太歳庚辰でありました。
翌二年の春一月には、五十鈴依姫(いすずよりひめ)を皇后とされました。皇后は天皇の母の姨にあたり、のちに磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと、安寧天皇)をお生みになりました。
四年の夏四月には、兄であった神八井耳命が亡くなり、畝傍山の北に葬られました。二十五年の春一月七日には、皇子である磯城津彦玉手看尊を皇太子とされました。
そして三十三年の夏五月、天皇は病に伏され、癸酉の日に崩御されました。御年八十四歳であったと伝えられています。
三代天皇 安寧天皇(あんねいてんのう)
磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)は、綏靖天皇の嫡子としてお生まれになりました。母は事代主神の次女である五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)で、神々の血脈を受け継ぐ高貴な方でした。
天皇は綏靖天皇二十五年のとき、わずか二十一歳で皇太子となられました。若くして立太子されたことからも、父帝の信任が厚く、その品格と才覚が早くから認められていたことがうかがえます。
やがて三十三年の夏五月、綏靖天皇が崩御されました。深い悲しみの中にあっても、皇太子は国の安寧を第一に考え、同年七月三日に皇位を継がれました。こうして磯城津彦玉手看天皇の御代が始まります。
即位元年の冬十月十一日には、綏靖天皇を倭の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に丁重に葬られました。先の皇后を尊んで皇太后と申し上げ、この年は太歳癸丑であったと記されています。
二年になると、天皇は都を片塩(かたしお)に移されました。新たな都は浮孔宮(うきあなのみや)と呼ばれ、天皇の治世にふさわしい清らかな地として整えられていきました。
三年の春一月五日には、淳名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を皇后とされました。皇后はすでに二人の皇子をお生みになっており、第一皇子を息石耳命(おきそみみのみこと)、第二皇子を大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと、のちの懿徳天皇)といいます。
十一年の春一月一日には、第二皇子である大日本彦耜友尊を皇太子と定められました。弟の磯城津彦命(しきつひこのみこと)は、のちに猪使連(いつかいのむらじ)の始祖となり、皇統を支える一族の源流となりました。
そして三十八年の冬十二月六日、天皇は静かにお隠れになりました。御年五十七歳であったと伝えられています。若くして皇太子となり、父帝の後を継いで国を治めたその生涯は、穏やかでありながらも確かな足跡を残すものでした。
四代天皇 懿徳天皇(いとくてんのう)
大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)は、安寧天皇の第二子としてお生まれになりました。母は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)で、事代主神の孫にあたる鴨王の娘と伝えられています。神々の血脈を受け継ぐ家系に育った天皇は、幼いころから品格があり、落ち着いた気性を備えておられたのでしょう。
安寧天皇十一年の春一月一日、天皇は十六歳で皇太子となられました。若くして皇位継承者に定められたことは、その聡明さと人望が早くから認められていた証でもあります。
やがて三十八年の冬十二月、父である安寧天皇が崩御されました。深い悲しみの中、皇太子は国の安寧を守るため、翌年の春二月四日に皇位につかれました。こうして大日本彦耜友天皇の御代が始まります。
同じ年の秋八月一日には、安寧天皇を畝傍山の南にある御蔭井上陵(みほとのいのえのみささぎ)に丁重に葬られました。九月には先の皇后を尊んで皇太后と申し上げ、この年は太歳辛卯であったと記されています。
二年の春一月五日、天皇は都を軽(かる)の地に移されました。新しい都は曲峡宮(まがりおのみや)と呼ばれ、清らかな水と緑に囲まれた地であったと伝えられています。天皇の治世にふさわしい、穏やかで整った都であったのでしょう。
その後、二月十一日には天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)を皇后とされました。皇后はのちに観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと、孝昭天皇)をお生みになり、皇統をつなぐ大切な役割を果たされました。
二十二年の春二月十二日には、観松彦香殖稲尊を皇太子とされました。皇太子は十八歳であり、若々しくも気品ある人物であったと想像されます。
そして三十四年の秋九月八日、大日本彦耜友天皇は静かに崩御されました。穏やかで安定した治世を築き、皇統を確かに次代へとつないだ天皇の御代は、後世に静かな光を残しています。
五代天皇 孝昭天皇(こうしょうてんのう)
観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)は、懿徳天皇の皇太子としてお育ちになりました。母の皇后・天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)は、息石耳命(おきそみみのみこと)の娘であり、神々の血脈を受け継ぐ高貴な家柄の方でした。
天皇は懿徳天皇二十二年の春二月十二日に皇太子となられました。若くして皇位継承者に定められたことは、その品格と聡明さが早くから認められていた証といえます。
やがて三十四年の秋九月、父である懿徳天皇が崩御されました。深い悲しみの中、翌年の冬十月十三日には、懿徳天皇を畝傍山の南にある繊沙谿上陵(まなごのたにのかみのみささぎ)に丁重に葬られました。
そして元年の春一月九日、皇太子は天皇として即位されました。夏四月五日には、先の皇后を尊んで皇太后と申し上げ、父帝の御代を静かに継承していかれます。
その年の秋七月には、都を掖上(わきのかみ)に移されました。新しい都は池心宮(いけごころのみや)と呼ばれ、清らかな水と緑に囲まれた、心安らぐ地であったと伝えられています。この年は太歳丙寅であり、天皇の治世の始まりを象徴するような瑞々しい空気が満ちていたのでしょう。
二十九年の春一月三日には、世襲足媛(よそたらしひめ)を皇后とされました。皇后は二人の皇子をお生みになり、第一皇子を天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)、第二皇子を日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと、のちの孝安天皇)といいます。
六十八年の春一月十四日には、日本足彦国押人尊を皇太子とされました。皇太子は二十歳であり、若々しくも気品ある人物であったと想像されます。また、兄の天足彦国押人命は、のちに和珥臣(わにのおみ)の祖となり、皇統を支える一族の源流となりました。
そして八十三年の秋八月五日、観松彦香殖稲天皇は静かに崩御されました。長きにわたる治世は穏やかで安定しており、皇統を確かに次代へとつないだ天皇として、その名は静かに後世へと伝えられています。
六代天皇 孝安天皇(こうあんてんのう)
日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)は、孝昭天皇の第二子としてお生まれになりました。母は尾張連の祖である瀛津世襲(おきつよそ)の妹、世襲足媛(よそたらしひめ)で、由緒ある家柄の女性でした。天皇はその豊かな血筋を受け継ぎ、幼いころから品格と落ち着きを備えておられたのでしょう。
孝昭天皇六十八年の春一月、日本足彦国押人命は皇太子となられました。皇太子として父帝の治世を支え、国の安寧を守る務めを静かに果たしていかれます。
やがて八十三年の秋八月、孝昭天皇が崩御されました。深い悲しみの中、元年の春一月二十七日、皇太子は天皇として即位されました。こうして日本足彦国押人天皇の御代が始まります。
同じ年の秋八月一日には、先の皇后を尊んで皇太后と申し上げ、この年は太歳己丑であったと記されています。父帝の御代を静かに継ぎ、国の秩序を整えていく姿が目に浮かぶようです。
二年の冬十月には、都を室(むろ)の地に移されました。新しい都は秋津嶋宮(あきつしまのみや)と呼ばれ、清らかな水と豊かな自然に囲まれた地であったと伝えられています。天皇はこの地に新たな政治の基盤を築き、穏やかな治世を進めていかれました。
二十六年の春二月十四日には、姪押媛(めいのおしひめ)を皇后とされました。皇后はのちに大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと、孝霊天皇)をお生みになり、皇統を確かに次代へとつないでいきます。
三十八年の秋八月十四日には、孝昭天皇を掖上博多山上陵(わきのかみはかたやまのかみのみささぎ)に丁重に葬られました。父帝への敬意を忘れず、静かに弔いを尽くされたことが伝わってきます。
七十六年の春一月五日には、大日本根子彦太瓊尊を皇太子とされました。皇太子は二十六歳であり、若々しくも気品ある人物であったと想像されます。また、兄の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)は、のちに和珥臣(わにのおみ)の祖となり、皇統を支える一族の源流となりました。
そして百二年の春一月九日、日本足彦国押人天皇は静かに崩御されました。百年を超える長い御代は穏やかで安定した時代であり、皇統を確かに次代へとつないだ天皇として、その名は静かに後世へ伝えられています。
七代天皇 孝霊天皇(こうれいてんのう)
大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)は、孝安天皇の皇太子としてお育ちになりました。母は押媛(おしひめ)といい、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の娘と伝えられています。天皇はその高貴な血筋を受け継ぎ、幼いころから落ち着きと品位を備えた人物であったのでしょう。
孝安天皇七十六年の春一月、大日本根子彦太瓊尊は皇太子となられました。父帝の治世を支えながら、静かに皇位継承の務めを果たしていかれます。
やがて百二年の春一月、孝安天皇が崩御されました。深い悲しみの中、同年の秋九月十三日には、孝安天皇を玉手丘上陵(たまてのおかのうえのみささぎ)に丁重に葬られました。父帝への敬意を尽くす姿が、静かな情景とともに伝わってきます。
その冬十二月四日、皇太子は都を黒田へ移されました。新しい都は廬戸宮(いおとのみや)と呼ばれ、山の気配と水の清らかさに包まれた地であったと想像されます。
そして元年の春一月十二日、皇太子は天皇として即位されました。先の皇后を尊んで皇太后と申し上げ、この年は太歳辛未であったと記されています。新たな御代の始まりを告げる、静かで厳かな空気が漂っていたことでしょう。
二年の春二月十一日には、細媛命(ほそひめのみこと)を皇后とされました。皇后はのちに大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと、孝元天皇)をお生みになり、皇統を確かに次代へとつないでいきます。
また、妃である倭国香媛(やまとのくにかひめ)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)、倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)をお生みになりました。さらに別の妃・絚某弟(はえいろど)は、彦狭島命(ひこさしまのみこと)と稚武彦命(わかたけひこのみこと)をお生みになり、稚武彦命は吉備臣(きびのおみ)の祖となりました。天皇の御代には、多くの皇子皇女が生まれ、のちの国の基盤を形づくる一族が育っていったのです。
三十六年の春一月一日には、彦国牽尊(ひこくにくるのみこと)を皇太子とされました。皇太子は次代を担うにふさわしい人物であり、天皇の治世は静かに安定して続いていきました。
そして七十六年の春二月八日、大日本根子彦太瓊天皇は静かに崩御されました。長きにわたる御代は穏やかで、皇統を確かに次代へとつないだ天皇として、その名は静かに後世へと伝えられています。
八代天皇 孝元天皇(こうげんてんのう)
大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)は、孝霊天皇の皇太子としてお育ちになりました。母は磯城県主大目(しきのあがたぬしおおめ)の娘である細媛命(ほそひめのみこと)で、由緒ある家柄に生まれた気品ある女性でした。天皇はその血筋を受け継ぎ、若いころから落ち着きと聡明さを備えた人物であったと伝えられています。
孝霊天皇三十六年の春一月、大日本根子彦国牽尊は十九歳で皇太子となられました。父帝の治世を支えながら、静かに皇位継承の務めを果たしていかれます。
やがて七十六年の春二月、孝霊天皇が崩御されました。深い悲しみの中、元年の春一月十四日、皇太子は天皇として即位されました。先の皇后を尊んで皇太后と申し上げ、この年は太歳丁亥であったと記されています。新たな御代の始まりは、静かで厳かな空気に包まれていたことでしょう。
四年の春三月十一日には、都を軽(かる)の地に移されました。新しい都は境原宮(さかいはらのみや)と呼ばれ、山の気配と清らかな水に恵まれた地であったと伝えられています。天皇はこの地で新たな政治の基盤を築き、穏やかな治世を進めていかれました。
六年の秋九月六日には、孝霊天皇を片丘馬坂陵(かたおかうまさかのみささぎ)に丁重に葬られました。父帝への敬意を忘れず、静かに弔いを尽くされたことが伝わってきます。
七年の春二月二日には、欝色謎命(うつしこめのみこと)を皇后とされました。皇后は二男一女をお生みになり、第一皇子を大彦命(おおひこのみこと)、第二皇子を稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと、のちの開化天皇)、第三皇女を倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)といいます。
また、妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をお生みになり、さらに河内青玉繫(かわちのあおたまかけ)の娘である埴安媛(はにやすひめ)は武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)をお生みになりました。
大彦命は、阿倍臣(あべのおみ)・膳臣(かしわでのおみ)・阿閉臣(あへのおみ)・狭狭城山君(ささきのやまのきみ)・筑紫国造・越国造・伊賀臣といった七族の祖となり、のちの国の基盤を支える一族を生み出しました。また、彦太忍信命は武内宿禰(たけのうちのすくね)の祖父にあたり、こちらも後世に大きな影響を残しています。
二十二年の春一月十四日には、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)が十六歳で皇太子とされました。若々しくも気品ある皇子であり、次代を担うにふさわしい人物であったと想像されます。
そして五十七年の秋九月二日、大日本根子彦国牽天皇は静かに崩御されました。長きにわたる治世は穏やかで、皇統を確かに次代へとつないだ天皇として、その名は静かに後世へと伝えられています。
九代天皇 開化天皇(かいかてんのう)
若倭根子日子大毘々命は、春日の 伊耶河宮(いざかわのみや) にて天下を治められました。
皇后・竹野比売をはじめ、多くの妃を迎えられ、
五柱の御子をもうけられます。
その中で皇位を継いだのは、
御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)。
この時代、皇子たちは大和・丹波・近江・吉備など各地へ広がり、
地方豪族と結びつきながら、
後の大和王権の基盤を静かに形づくっていきました。
天皇は六十三歳で崩御され、御陵は 伊耶河の坂の上 にあります。